22 屍山血河 その3-1
22 屍山血河 その3-1
那国に向かう戰が率いる軍、其の数2万五千余。
剛国に向かう竹が率いる軍、其の数5千余。
祭国の軍備が万全整ったのは、既に夏の盛りを過ぎた頃合いだった。
夏の盛り、そう確かに季節は夏だというのに、未だ5月初頭の爽やかさと其れを一気に飛び越えての9月末の小肌寒さが順に来ているような錯覚を覚える。
暑くならない要因の一つとして、陽射しがほぼないのだ。
雨が振るという訳でもないのに、厚い雲がもうもうと空を覆って離れない。時折、申し訳程度に陽が差して来るがそれも1時辰も続けば良い方だ。直ぐにまた、昏い雲に支配される。
群青色の抜けるような夏特有の生命力という熱気を含んだ青空を、今年は数える程しか眸にしていない。此処まで来ると、今年は冷夏である、という真の予想は逃れられない現実となる、と誰もが感じている。
そんな中での大軍を押しての出兵だ。
旅立つ者も、また残る者も、不安の色を隠せない。
先ずは先陣として、竹が率いる5千騎が剛国に向かう。
見送った後、其のまま、戰たちは出陣前の祓いと筮いの儀式に入り、筮いにより吉日良辰を得て出立する手筈となる。
祓いと筮いの場は祭国においては祭事だ。
潔斎して此れに挑まねばならない為、昨晩が戰と椿姫、星と輪、家族最後で過ごせる夜だったのである。
★★★
今回の戰の出陣は、禍国の皇子として大将軍となり禍国軍を率いるのではなく、祭国郡王軍としてのものだ。
大戦を仕掛けるとなれば、軍備から何から、国中の釜の底が抜けるのではという恐れを抱く程の金品を揃えねばならなかった。
此の事実に、学は改めて震え上がった。
戰が郡王として屯田兵を引き連れて来てからの5年の間に、国は豊かになった。
其れら全ては泡沫夢幻であったのではないかと、目を擦って確かめねばならなかった。
其れ程の勢いで、金と品が瞬く間に消えて行く。
今迄であれば、投資した金はやがて手元に姿を換えて戻って来てくれるのだ、という希望があり、希望を現実にしてみせるのだ、という気合と遣り甲斐が生まれていた。
しかし、戦は違う。
翼を生やして飛んでいった金品は決して帰らない。
そして恐ろしいのは、戦に赴く兵馬を『人』と『人の財産』ではなく、金品と同じく『数』や『数値』として認識しだしてしまう事だった。
「……戦は、起こした方が負けなのです、とお師様が何度も何度も、口を酸っぱくさせて仰られていた意味が、今、漸く分かりました……」
ぽろりと零す学に、甲冑を纏いながら戰が笑う。
「ならば学。君が正式に王として独り立ちした暁には、戦を起こさぬようにせねばな」
すらりと戰に口にされて、どきり、と学の胸は高鳴った。
自分が王として独り立ちする。
其れはつまり、戰が郡王ではなくなると云う事――そう、禍国皇帝として彼が即位する、という意味が含まれているからだった。
学と話を続ける戰の身支度は、椿姫が行っていた。
黄金の刺繍で魔除を施してある胡服をまず身に纏う。勿論、椿姫の手による刺繍だ。此の刺繍糸を紙縒る際に、一本一本に咒いを掛けていたらしい。身重の身体で根を詰めては毒である、と皆が止めようとした矢先に、星も手伝いたい、と幼い王子に手を挙げられてしまい、結局、見守るしかなかったという曰く付きを戰は先程、蔦からこっそり聞いたばかりだった。
胡服の帯を締めると、今度は手を叩いて甲冑を持ってこさせる。磨き上げられた甲冑は、白銀の輝きを放っていた。
「竹たちを見送った後、また直ぐに脱ぐ事になるのにな」
「潔斎は祭国の祭事の基本よ? 此れまでの戦と違って、此の国から出立するのですもの。きちんと倣って貰うわよ?」
「また、ならない、ならない、ならない、責めか」
苦笑する戰を、言わないの、と椿姫も笑いながら窘める。
しかし、戰の身支度を整えていく手の動きは止めない。此の辺りのやり取りは、流石に夫婦となって5年を数えるだけの余裕のようなものを感じさせる。
――昨晩はどの様な別れの儀式を行ったのだろう……?
ふと、学は思った。
父親である覺が戦場に向かう時、母である苑は彼らのように過ごせなかった。
今更もう、流石に苑も嘆き悲しみはしない。
が、自分が経験した道を戰と椿姫が行こうとしているのかも知れない、と二人を見ているのだろうか?
「わぁ、父様、すごい! 格好いい!」
星が足元をちょろちょろと動き回りながら、戰を見上げて顔を真っ赤にして興奮している。女官に抱かれた輪も、あー! おー! と星に負けじと声を上げている。
「そうか? 星、父様は格好良いか?」
「うん!」
「では、此の父の姿を良く覚えておくといい。輪にも、そして母上のお腹の子にも、余さず伝えてやれるように」
「はい、父様」
息子二人に羨望の眼差しで見上げられている戰は、誇らしげに笑った。
纓に手を伸ばしながら、子供じみた自慢げな表情をしてみせる良人を、もう……と零す椿姫も微笑みながらも、声音には何処か湿っぽさが漂っていた。
――戰……。
貴方の此の誇らしそうな態度の奥に、どれだけの苦悩が隠されているのかしら……。
完全なる勝利を信じて戦いに行くが、戦に絶対はない。
其れに戰は、初めて真を手元に置かずに戦う事になる。
行くぞ、と云う彼に、はい、と答える男が居ないまま、良人はどう戦うつもりでいるのだろうか?
そう思うだけで、胸が張り裂けそうになる。
だが、昨晩の別れの儀式は、星と輪を同席させた御蔭で和やか笑い声が溢れる間に終える事が出来た。
此れまでは、切なさに身を切られる思いと涙で魂が溺れてしまうのでは、と錯覚するほどの哀しみに暮れたものだ。しかし、まだものの分別がついていない星と輪は普段と変わり無く、初めての儀式にやる気満々であり、此れを終えたら遠くに行くという戰を、逆に抱きしめて励ますという一面も見せて呉れた。
――あんなに、明るく別れの儀式が出来たなんて、初めて、ね……。
折角、禁物である涙と離れた別れが出来そうなのだ。
胸の痛みを堪えながら、椿姫は戰の顎の下に結び目を作り上げた。
★★★
「もう、5年も前になるか……」
「え?」
「椿に、最初に纓を結んで貰ってからだ」
……そうね、と椿姫は軽く目を伏せる。
即位戴冠式の時、戰の纓を父帝・景は結ぼうとしなかった。
有り得ぬ事態に、場が騒然としかけた。
纓を結わえてこそ、晴れて認められた証となるというのに、あろうことか皇帝・景は、ぼう、と上の空で放置したままだったのだから当然だった。
ざわめきとどよめき、そして悪意と邪心が入り乱れて戰を襲おうとした正に其の時、椿姫の機転が救ったのだ。
細く白い指で、優雅に淀み無く纓を結わえ付けたのである。
あの日の椿姫の姿を、戰は忘れた事はない。
郡王となったあの日から5年。
様々な事が起こった。
幾度も戦に出た。
そして勝利を収めてきた。
国を揺るがす難事も乗り越え、子供にも恵まれた。
一方で、取り返しがつかないと未だに己を責め続ける事件も起こった。
だが、元に戻らずとも徐々にではあるが穴を埋めているのだと、大切な人々に笑みが戻っているのを見て、実感を持てていた。充実した日々を送っていた、と思っていた。
――いや、確かに、充足感はあった。だが、其処で満足してしまっていただけだ。
まだ自分は、歩むべき道の半ば処か其の入口にも立ててもいないと、気付こうとしていなかった。
目の前の豊かさに目を眩まされていた。
本当ならば、かけがえのない人々の為に自ら気が付かねばならなかった。
いや、率先して気が付こうとせねばならなかった。
喩え其れで深く傷付いたとしても、自らの力で得ねばならぬと努力奮励せねばならなかった。
――知らぬ間に自分を甘やかしてきたつけが、今、噴出したのだ。
人と共にと望み、人の為にと願い、人の上に立とうと志した者が、何という為体か。
しかしこうして過ちに目を向けられたのだ。まだ、遅くはない。
――やらねば、いや。
やり遂げる。
誰の為でもない。
自分の為に。
自分を信じて呉れている人が居る限り、共に歩もうとしてくれる人が居る限り、自分を信じて行かねばならない。
「椿」
「はい」
綺羅びやかな武具に身を包んだ戰が、椿姫を掻き抱く。
「ずるい! 母様だけなんて、星と輪も!」
手を伸ばしてくる息子たちを戰は笑い声を立てながら両手に抱き上げた。
「星」
「はい、父様」
「竹たちの一軍の見送りが終われば、父様は潔斎の場に赴かねばならない。星、此処で父様とはお別れになる。本出陣の場において、ちらりとなら顔を合わせられようが、父様とこうして触れ合うのは暫くお預けだ、よいな?」
「はい、父様!」
「輪と共に、母様とお腹の子を頼むぞ」
「はい!」
戰の首に腕を絡めて赤い頬を寄せてくる二人の息子の温もりから、愛おしさが身体中に伝わって満ちる。
輪を椿姫の腕に手渡し、星は下ろしてやる。
順に子らの前髪を撫でてやると、子供特有の柔らかく細くしなやかな髪が、さらり、と指に纏わり付く。白い歯を見せて笑う星と輪への愛情が、止め処なく溢れてくる。
戰はもう一度、椿姫と星と輪を抱き締めた。
「戰、もういい加減にしなくては。貴方が遅れてしまったら、皆、どうしたら良いの?」
苦笑交じりに椿姫に咎められて、そうだな、と戰が照れ笑いで答えると、父様が母様に怒られてる、と星が誂った。控えていた内官や女官たちが、袖を使ったりして泣き笑いの顔を必死で隠し出した。
「では、行ってくる」
「はい、貴方」
最後に万感の想いを込めて、戰と椿姫は口付けを交わした。
★★★
――此の俺が5千騎を率いる将軍さまってか……。
「夢じゃあ、ねえんだよな、此れ……」
ごくっ、と竹は盛大に生唾を飲み込んだ。
無作法な音が響こうがかまっていられなかった。
膝ががくがくと笑っているのを止められないでいた竹は、ありとあらゆる方法を試して身体の震えを落ち着かせようとしていた。
が、其れら全てが無駄な試みとなっていた。
生まれて初めて軍の先頭に立ち、率いていく立場になったのだ。
無論、此れは剛国に到着するまでの暫定的なものだ。
彼の地に逗留している克に引き継げば、竹は晴れて御役目御免となる。
とは云うものの、克が万騎長として立てば、彼の幕僚監部の一員として、そして千騎を率いる千騎長の一人として、竹も責任の一端を担う立場となるのは変わり無い。
「兄ぃ、竹兄ぃ! ……じゃ、ねぇや、竹隊長さまったらよぅ! なあ、さっきから尻っぺたがふらふらしてんぜ? 大丈夫なんかよぅ」
「喧しい、黙ってろ!」
竹に背後からにやけた口調で誂われた竹は、かっとなって怒鳴り返した。
しかし、其の途端にどっと周囲に沸かれて、肩が背中が、へしゃげていく。隣に連れている愛馬の嘶きまでもが、自分の意気地の無さを突付いているように思えて仕方が無い。
――ああ、畜生。
こんなに緊張するもんだったなんて知らなかったよ、こん畜生!
何かというと、隊長どの、隊長どの、と仲間と克を囃し立てたり誂って来た。
禍国の千人隊長の時代から女房役宜しくというか、腐れ縁的に続いてきた一軍だ。
何時の間にか、克は千人隊長から、千騎長となり、将軍を名乗る万騎長となった。
今にして思えば、克は何だかんだと云いつつも胸を張って堂々とした処を見せていた。其れを珊と絡めて、やいのやいのと突っ付いて来た自分が、今はもうやたらと恥ずかしい、兎に角恥ずかしい。
――すんませんでした、隊長! 俺の方こそ、糞馬鹿野郎でした!
今迄、隊長を散々っぱら誂ってきて、すんませんでした!
腹の底で剛国の方向に向かって、只管に手を合わせて拝み倒す。
竹も漢だ。
一旗上げるつもりがなければ、克について祭国くんだりまで来はしない。
出世したいという欲は大いにある。
あるにはあるが、欲を現実のものとした時の責任から来る重圧感が此処まで大きなものだとは、予想外だった。
――俺ぁ此の先、隊長の女房役っていうか、二番手でいいっす!
もう贅沢も文句も何も言わねぇから、此の独特の無茶苦茶な重圧から逃げてぇ!
兎に角逃げてぇっ!
口でどうこう言いながらも、克はいざとなると肝が据わり、普段の彼からは想像もつかない底力を発揮するというか、まるで別の人間になったかと見紛う程の奮迅ぶりを見せる。
見ていて清々しいというか、一種の感銘に仲間を引きずり込むと云うのだろうか。つまりは、克も万の兵を率いるだけの将軍の器を持っていた、そう云う事だろう。
「俺にゃ出来ねえっすよ~……隊長ぉ~……助けて下さいよ~頼んます~……」
独り言ちながら、ちらり、と背後を振り返る。
先導役として控えている句国大将軍・姜の姿があった。
病み上がりとは思えない、正に威風堂々とした出で立ちだ。
急場に掻き集めた使い古しの武具ばかりであり、唯一まともなのは剣くらいなものだというのに、彼が纏っていると長年の激戦をくぐり抜けて来たかのような趣がある。流石に歴戦の猛者だけが醸し出せる貫禄たっぷりだ。
背中を丸めて、はあ、と竹は深い溜息を吐きかけて、慌てて飲み込んだ。
どぉ! と兵が吼え、空気が一気に熱くなる。
戰が、陽光の綺羅を集結させた煌きを放つ鎧に身を固めて、現れたのだ。
用意された壇上に一段一段、ゆっくりと時間を掛けて上がっている。
些か芝居じみてはいるが、こうした行為の効果というのを、戰は此の祭国に来てから幾度も実感しており、口でなんとぼやこうともいざとなれば気持ちを切り替えて率先して行う。
「郡王陛下、万歳!」
本来なら克の役目である号令を、竹が行う。
声が裏返らなくて良かった、と心底ほっとししながら、万歳! と腕を上げる。
仲間や陸少年が、顔を興奮に赤くして万歳! と倣っている中、姜は只一人、うっそうとした表情で身動ぎ一つしない。そんな彼の姿を、皆が掠めるように見ている。
――御主君を亡くしたばかりで、万歳は出来んよな。
竹も、勿論、誰も姜を咎めない。
寧ろ気の毒そうな顔付きをして、ちらちらと盗み見ていた。
号令が切掛になった事もあり、自分が彼を晒し者にしたような罰の悪さというか腹の其処が落ち着かない奇妙な焦燥感に苛まれてた竹は、普段、克が指揮をしている時よりも早めに腕を振って仲間の万歳を終えさせた。
竹たちの真正面に立った戰に、一歩遅れて壇上の人となった学が独特の形状をした剣を煌めかせた。
七支刀だ。
3年前の未曾有の国難を乗り越えた時、学の手の内で共に国が靖んじていく様子を具に見守った、あの七支刀だ。
学の出で立ちは物々しくも美々しい戰とは打って変わり、真っ白な浄衣を纏っており、肩には二幅の帛巾を掛けている。
学が手にした七支刀を学が大きく掲げると、戰も腰に帯びた剣を抜いて交差させる。
2つの剣が交わる処に、綺羅と音をたてんばかりに眩い光が散った。
右手で剣を掲げたまま、学が左腕を大きく振るって帛巾を波打たせる。
巫たちのような舞うような、楚々とした動きではない。
ぶわっ! と帛巾で空気の塊を叩いたのだ。
「天涯の主たる天帝に成り代わり、我・祭国王・学の名にていざ戦場に行かんとする我らが同胞に光を与えんと欲するものなり」
一斉に感謝の礼を捧げた竹たちに向かい、学が再び帛巾を振るう。
「戦神を呼び、畏れを払い給え!」
ぱしり、ぴしり、と空が鳴る。七支刀の切っ先が放つ輝きは、まるで炉の中心部のように白々と熱く耀いている。
「先陣をきりし勇者の前に、戦塵よ消えよ、戦刃よ折れよ!」
びしぃっ! と空気が裂ける。
学と戰が剣の先を鳴らして更に高々と掲げた。
「今こそ勇気を震わせよ! 並居る敵を薙ぎ払え!」
薄曇りの空の下と云えども、まるで太陽を眸にしているかのような赫赫たる瞬きが、集結した兵士たちの頭上を駆けていく。
どぉん! と銅鑼の音が鳴り響いた。亀卜により出立に最もよいと卜われた刻限がきたのだ。
竹は背筋を伸ばして、大声を張り上げた。
「馬ぁ引けぇっ!」
怒号か罵声か判別付きかねる竹の命令に、部下たちがおう! と呼応する。
「全員、騎乗っ!」
ザァッ! と波が岩を飲み込む時に似た音が、広がる。一糸乱れぬ動きで5千の部下が騎乗する様は正に壮観だ。
戰と学の剣が、カッ! と星の瞬きを棚引かせて離れる。
「出陣せよ!」
「出陣を!」
二人が同時に命じると竹が腰に帯びた剣を抜いて掲げてみせた。
「国王陛下、万歳! 郡王陛下、万歳! 我が祭国に勝利を!」
竹が命じると部下たちは、うおお! という掛け声と共に剣や槍など、己の武器を二人の王に掲げてみせる。
其の中には陸少年と並んだ姜の姿もあった。
が、姜は馬乗にて手綱を握り締めるばかりで、微動だにしなかった。
★★★
王城の正門が大きく開け放たれた。
竹を先頭とした5千騎の兵が、西の空を目指して出立した。
剛国に到着した時に速やかに指揮権を譲渡出来るようにとの配慮から、克の軍旗が翻っている。
其の隣には、急場拵えであるが竹の軍旗も上がり、風に棚引いている。
薄雲よ切れろとばかりに旗手が殊更に天に向かって軍旗を突いている。
尻穴がこそばゆくなる時に似た落ち着かなさを感じつつも、こうなると竹も出立前の愚痴も何処へやら、満更ではなくなるから現金なものだ。
馬に揺られながら、頭上を舞う鳥の群れに視線を移した。
王都の中央道を行く間は、ゆったりとした行軍を行う手筈となっている。悪戯に領民たちを刺激してはならないという判断からであるが、未曾有の国難が迫っている、此の切羽詰まった状況は、竹たちの勇ましい行軍に安堵しつつも其の領民たちこそが最も強く肌で感じ取っていた。
王都を貫く中央道を行く竹は、ふと、自分の名前を呼ぶ声を聞いたような気がした。
――……気の所為、か?
首を捻りながら周囲に視線を走らせてみるが、如何せん、沿道沿いに並んで出立を見送る人々は皆、力の限りに手を振っている。
而も、少しでも前に前に、との思いが重なっており、暴動でも起きるのではないかという勢いだ。
下手をすると行軍中の騎馬隊よりも、血気に逸っているかもしれなかった。
「竹! 竹! ね、ねぇってば! 何処見てんだよぅ! こっち、こっちだってば!」
矢張り、聞き間違いではなかった。
沿道の人垣の中から、女性が一人大きく身を乗り出して手を振っている。
「珊!?」
緊張の色を濃くしていた兵たちの顔が、一気に和む。
克の奥方として竹たち、長屋住まいの仲間たちの世話を一手に引き受けて呉れていた珊だった。
すっかり『姐さん』が身についている珊が、僅かに目立ち始めたお腹を擦り擦り、手を振っているのだ。
「竹! 陸! 馬鹿克の奴にさ! 赤ん坊が産まれるまでにちゃんと帰って来い! 何時までも待たせたりなんかしたら、許さないから! って言っといて!」
「おう!」
「姉ちゃん、任せとけって!」
「後ね! とっとと帰って来なかったら、真の親父さんに名付け親になって貰うから覚えとけ、って!」
手の平を口元に当てて、珊が叫ぶ。
「お、おうぅっ!? さ、珊……そ、そりゃまた……」
「えっ……いやちょっと、姉ちゃんよぅ……そしたら俺らも、凄え責任重大って事じゃねえかよぅ!」
「そだよ! みんな! ちゃんと克を連れて帰って来なかったから、承知しないんだからね!」
どっと大きな笑い声が上がる。
何しろ、娃の名付け騒動は未だに祭国では語り草なのだ。
「そりゃ怖ぇっ!」
「ちゃんと云う事聞くから、勘弁願うぜ、姉ちゃん!」
「頼んだよ~う! それから、本当に気を付けて行きなよぅ!」
珊の口調は、まるで、ちょっと先の邑に子供だけで遣いに出す時の母親の其れのようだ。
場違いな、明るい笑い声が騎馬隊を包み込む。
よく見れば、珊を庇うようにして豊も居る。
大や丸と手を繋いだ類や通、那谷に福、施薬院で働く皆が居てくれる。
ぎゅうぎゅう詰めの押し合いへし合いをしながら、笑顔で手を振っている。
いや、笑顔を失わないようにとの心遣いがひしひしと伝わって来る。
「しっかりなあ!」
「ちゃんと帰って来るんだぞ!」
「手柄なんかいいから、怪我してくるなよ!」
仲間たちが、力の限りに叫んで呉れている。
竹は、はふっ、と潤んだ息を吐いた。
出立前からがちがちに緊張しまくっていた気持ちが、すっと楽になった。
いやまだ、戦場に向かう緊張其の物は残っている。
だが、要らぬ世話を思い描いて愚痴愚痴と思い悩んでいたのが嘘のように消え、真と克が待つ剛国に行く、ただ其れのみに自然に意識を集中出来ているのに気が付いた。
そして、今迄見えていなかった景色に気付かされた。
克と千騎の仲間ともに句国へ戦に出た時には、見えなかった心の中の風景だ。
――此の人たちの笑顔を守る為に、必ず勝つ。
そして必ず帰って来るぞ。
言葉にすれば同じ気持ちでも、克の背中だけを見ていた時には無かった感情が湧き上がってくる。
――珊と皆の御蔭だ。
あらん限りの感謝の気持ちを込めて、竹は珊に向かって大きく腕を振った。
陸も部下たちも、竹に倣って手を振る。
「行ってくる!」
「待ってろよ!」
「見てろよ! 凄ぇ手柄を立てて帰って来るからよ!」
竹を先頭とした騎馬隊は、皆の声を受けつつ、中央道を規律正しく進んでいった。




