22 屍山血河 その2-5
22 屍山血河 その2-5
「な、何だ!?」
1里も行かぬ間に、突然、姜は矢よる攻撃を受けた。
雨霰と降り注ぐ矢を剣で叩き落としながら、姜は叫ぶ。
だが、何だも糞もない。
答えなど解りきっている。
敵国――備国か、剛国か、露国か、燕国かは定かでは無い。
が、自分たちの存在に気が付いた何れかの国がとうとう牙を剥いて襲い掛かって来たのだ!
「えぇい、糞!」
剣で矢を払うといっても限界がある。早々に、ぶつっ、と肉を断つ音が鈍く響き渡った。
首筋に幾本も矢を受けた愛馬は落雷の如き嘶き、いや悲鳴を上げて棒立ちになった。地面に投げ出された姜は、咄嗟に受け身を取って己への被害を最小限にする。そして、倒れた馬の影に倒れ伏して身を潜める。角度によれば、自分も矢を受けて更に馬の下敷きになったように見えるだろう。
姜の図に当たったのか、やがて矢の攻撃は止んだ。続いて、青草を踏み締める重い足音が幾つも此方に向かって近づいて来る。気配を忍ばせる気もないのだから、十中八九、此方は死んだもの、若しくは重傷を負い身動きできぬものと決めて掛かっているのだろう。
逸る気持ちを抑え、姜は俯せに倒れたまま、敵が剣の攻撃能力の範囲内にまで踏み込んで来るのを人数を数えながら待った。
ゆっくりと深呼吸をするように、敵の数を確かめていく。
矢の勢いに惑わされたが、思っていたよりも相手は多くはない。其れでも単騎の相手に20騎近い兵を差し向けて来ているのだ、油断はならない。
――出来るのか。
知らぬ間に、喉がからからに乾いていた。
しかし直ぐに、何を弱気な、と剣を握り直す。
出来るのか、ではない、やるのだ。
やらねば未来にあるのは死、のみ。
流石に全員が近寄ってくる訳もなく、5~6人が此方の剣の攻撃距離内に入り、後は周辺をぐるりと囲んで様子を窺う形を取った。
射程内のうちの一人が、ざしざしと草をを踏み潰し青臭い臭気を振りまきながら近付いて来る。
手にした剣で姜の肩を軽く刺すと、ごろり、と仰向けなるように転がした。
されるがままになった姜の顔を、男たちが覗き込んで来る。
顔に襲撃者たちの影が掛かるのを感じた姜は、閉じていた眸を、カッ! と見開いた。姜は跳ね起きざまに剣を握り直すと、動揺を見せて固まる男たちの脛を横薙ぎに斬った。
血飛沫と悲鳴が上がる。
一気に5人の男の動きを封じた姜は、再び攻撃態勢に入った襲撃者たちに先制攻撃を喰らわせるべく、自ら飛び込んで行った。
★★★
敵から奇跡的に馬を奪い取った姜は、一瞬迷った。
此の襲撃者たちは、自分だけ発見したのだろうか?
もしそうであるならば、引き返しては王妃たち一行の場所を無駄に教えてしまう事になる。
其の場合は、敢えて戻らず祭国を目指した方が良い。敵の目眩ましになるし、何よりも一刻を争う事態だ。
だが、王妃一行の元にも同時に仕掛けていたとしら?
指揮を任せてきた部下が頼りないという訳ではない。
だがしかし、己一人に対してあの大人数を動員してきたのだ。
王妃が居る、と知っていたならば最低でも将軍格の指揮者に百騎は率いさせて差し向けるだろう。
戻るか否か、と天秤に掛けた姜は、馬上で一瞬、固く目を閉じた。
開いた瞬間には、もと来た道を辿るように馬の腹に蹴りを入れて指示をしていた。
戦で培った勘の命じるままに王妃の元に戻った姜は、己の判断の正しさを見た。
そして、手遅れであった事も。
小高い丘に鬱蒼と茂る森の出口附近に居た王妃一行は、まるで山津波に飲み込まれるように露国軍の包囲を受けていた。そして、凄まじくも容赦のない猛攻の最中、殆どの兵が地面に赤い海を作って倒れている。
王妃を乗せた馬車も当然ながら、兵士たちに襲われていた。まるで餌と定めた虫の死骸に蟻が群がるように兵が殺到している。王妃も、後宮たちも王子たちも姫君たちも、姿はない。既に何処かに連れ去られてしまった後だ。
馬は横倒しになり、口から赤い泡を噴いて身悶えしている。馬車は破壊され、王妃の世話していた女官たちの姿も周辺にない。ただ、最後の抵抗を試みていいる自軍の兵たちが、断末魔の悲鳴を上げながら、一人、また一人と生命の炎を消していっているだけだ。
「おのれ!」
雄叫びを上げて、姜は敵陣に猪突した。
襲撃している側が襲われる形となる姜の襲来に、敵は戸惑いの声を上げた。
僅かな心の隙を突いて、姜は一人でも多くの敵を屠らんと剣を振るう。赤い潮が幾本も上げる姜の姿に、残り僅かとなった味方の兵も力を取りもどし始めた。
「妃殿下!」
と叫び掛けて、姜は危うく声を飲み込んだ。
馬車の中に居た女性が王妃であると知れ渡っているという確証は、まだ無いのだ。己の声で、縫が王妃と知ってしまった場合、敵は虜とした彼女に何をするか判らない。
「糞ぉ!」
叫びながら戦う姜は其の時、何かが深く喰い込む音が体内で響くのを感じた。
鏃だ。
放たれた矢が、愛馬を横倒しにした時のように己の体内奥深くに突き立ったのだ。
「おのれぇぇぇっ!」
矢を背中に突き立たせたまま剣を振るう。
が、先程までの勢いがないのは自覚していた。
鏃を体内に受けて一気に身体が重たくなったのかと思ったのは錯覚で、実は切掛に過ぎなかったのだ。
もう既に、姜が全身に負った切り傷から流れる血の量は相当量に達しており、何時気を失ってもおかしくない状態だったのである。
矢を背で受けた時、興奮作用によりぎりぎりで保っていた精神が、肉と共に断たれたのだ。
孤軍奮闘する姜の視界と聴覚を、ちらり、と掠めるものがあった。
何とか眼前の敵を捻じ伏せて身体ごと視線を向けると、薄れていく視界の中に悲鳴を上げる女子供の集団がある。王妃たちが一箇所に集められていたのだ。
「妃殿下!」
最早、構ってなどいられなかった。
姜は叫びざま、馬首を巡らせる。
剣を握り直して疾駆するが、幾重にも敵が立ちはだかってくる。
道を阻まれた姜の眼前で、王妃と後宮たちはまるで罪人のように檻に無理矢理押し込められて、連れ去れられて行った。
「妃殿下ぁっ!」
剣を持った腕がどんどんと重くなり、息が苦しくなり、視界が霞んで薄らいでいく。
「待て! 待たんか貴様ら! 許さん! 許さんぞ!」
が、姜は内側から己を叱咤し続け、戦いを止めなかった。
「待て! 貴様ら、妃殿下をどうするつもりだ! おのれ許さぬ! 決して許さぬぞ!」
しかし姜が群がる敵を全て叩き伏せている間に、王妃たちを虜とした一軍は風のように去って姿を消していた。
★★★
「仲間も、何時の間にか全滅致しておりました。只一人となりました私は、最後に託されし御璽を守らんと決死行を行うと心に決め、敵中に飛び込んだのです。何とか、血路を開いて敵陣突破に成功致しました。が、追手は当然御座います。山野に身を潜め祭国に至るまで逆に日数を稼いで敵の目を欺きました。血の臭いを辿り生命を狙う猛獣の追跡も在りました故、先ずは猛獣を一匹仕留め、其の毛皮を被って逃れました。木の皮と草を喰らい、泥を啜って生命を繋ぎ合わせ、地を這いずる虫のように身を隠して進みました。漸う、見覚えのある祭国の地に踏み入った途端に気が抜け、意識を失ったのです……」
姜が口を噤む。
辺りは、しん……と水を打った様に静まり返っていた。
其の中で、姜に寄り添うように聴き入っていた筈なのに、知らぬ間に彼の膝を枕にして寝入っていた星と、先に昼寝に入っていた輪の健やかな規則正しい生活息遣いだけが聞こえていた。
気持ちだけは一人前のつもりで大人に混じって話を聞いていたいのに、身体がついていかずに眠ってしまった星を、椿姫が片腕で抱き上げる。両の腕に一人づつ我が子を抱き上げた椿姫を見て、細い御身体の何処にこんな力が、と姜は驚きを隠せない。
女官を呼んで息子たちを子供部屋で休ませるように、と命じる椿姫の横顔が、慈愛に満ちている。
手渡された女官たちの腕の中で、すやすやと眠る息子たちの額に口づけを落とす椿姫の姿を見ながら、此れが母親になられる、という事なのだろうか、と姜の胸が熱く疼く。
――我が妃殿下も、平和な世が続けば……続いておれば。
女々しい、泣くな、と己を鼓舞してもどうしても視界が潤んで行く。
ぐず、と鼻の奥が湿っぽく鳴り、姜は慌てて手の甲で目元と鼻筋を拭った。そんな彼の背中を、優しく撫でる手が現れた。
はっとなって顔を上げると、銀月の光を浴びた月の精霊に例えられる美しい笑みを惜しげも無く披露している椿姫の姿がある。添えられた手が、責め続ける自分に許しを与えて呉れている――と姜は感じた。
涙を拭いとった姜は、椿姫に全霊を掛けて最礼拝を捧げた。
敬愛する主人である国王・玖、王妃・縫、そして生まれ出づればきっと己が師匠となり武辺の鍛錬の一旦を担っていたであろう御子の為に捧げられた其れを、椿姫は彼らに成り代わり、静かに受け入れる。
「妃殿下――此れまで犯して参りました無礼と非礼を数々重ねておきながら、願い奉るなど烏滸がましい身であると承知しております。ですがどうか何卒、我が願いをお聞き届け頂きたく」
言ってご覧なさい、と椿姫が促すと姜は深呼吸を繰り返した。息が整うと、姜は椿姫の足元に平伏する。
「祭国郡王妃・椿妃殿下。何卒、祭国郡王・戰陛下にお取り次ぎを。私めを句国へ遣わす軍の一員に、して頂きたいのです」
決意を込めた姜の声音は、固く、そして熱かった。
★★★
気を利かせた女官が虚海と那谷を呼び寄せて呉れたお陰で、其の後、姜は再び診察を受ける事になった。
部屋から出された椿姫が心配そうに薬師たちの背中を伺っていると、何もかも御見通しなのだろう、心配せんでええて、お姫さん、と虚海が笑顔でふり返った。
「こないに糞面倒臭い患者さんを、素直に出来ただけでも偉いもんやで、本当凄いもんやで、お姫さん」
早よ、坊っちゃんらの処に行ったりぃ、と虚海は笑顔で瓢箪型の徳利を振り、椿姫を追い出した。
椿姫が星と輪の部屋に戻ろうとすると、廊下の途中で戰と学、そして蔦と竹が待ち構えていた。
殿侍たちから連絡を受けた折に、大凡の話は耳にしたのだろう、彼らの顔には緊張が浮かんでいる。
「椿、出来れば今、話がしたい。少しでもいい。……良いかい?」
「はい」
椿姫は良人に素直に頷いた。
戰と肩を並べて、椿姫は子供たち部屋の手前の間に入った。
身重の椿姫を気遣い、戰は手を引いて誘い、椅子に座らせる。懐妊後、椿姫は益々美しさに磨きをかけ、輝きを増していた。指の先まで美しい妻の手の上に、自らの武骨な其れを重ねて戰は問う。
「椿、姜殿とどの様な話をしていたのか、包み隠さず話して呉れるかい?」
「はい」
素直に返事をした椿姫は、姜から聞かされた話しを細大漏らさず全て戰たちに語って聞かせた。
聞き終えて後、暫くの間、皆、一様に押し黙る。言葉が出て来ないのだ。
「露国が動かれましたぞえ、陛下。姜殿を射った、鏃という証拠も此方の手にあらしゃりますのえ。相手方が如何にのらくら躱されようと、言い逃れ出来ませぬ」
「分かっている」
蔦の口調は普段の彼からは想像できぬ程に険しく、そして興奮に滾っている。
珍しい事であるが、其れだけの事態であるのだ。
――とうとう、露国が、表だって敵に回ったか。
何れはそうなるだろうと予測し覚悟もしていた。
だが、いざとなると、思っていたよりも事実が重く伸し掛かる。
戰は腕を組むように見せかけながら、ちらり、と椿姫を盗み見た。彼の妃は、飽くまでも静かに淑やかに座っており、動揺を見せていない。
だが、表面上の姿を信じて良いのであろうか?
彼女はどんなに非道を行った父王ですら見捨てられなかった、優しい心映の女性なのだ。戰の耳に、くすり……と小さな笑い声が届いた。
「そんな、探るような眸をしなくても良いのよ、戰。気になるのでしょう? 露国が、何処まで備国と通じているのか。備国とだけ手を組んでいるのか、其れとも剛国と、いえ燕国とも、と手を広げだしているのかどうか」
「椿……」
「ですが私の名にて露国王に親書を出した処で、彼の王はのらりくらりと話を外して来るでしょう。でも、一つだけ私に云える事があります。露国は此の動乱が鎮まるまで動きません」
「何故、分かる?」
露国王は、と言いながら椿姫は戰の手を押し退けて背筋を伸ばす。
「そう云う御方だからです。他国の乱を、高みから嫣然一笑しつつ見詰めるのみ。此処でほんの僅かに手を伸ばし背中を押せば、漁夫の利を得られると分かっていてもなお、相手が完全に自滅したと判明するまでは手出しをしようとしない。露国王とは、そう云う御方です」
竹と蔦、そして学は顔を見合わせた。
彼女は、露国王をこんな風に評するとは予想外だったからだ。
しかし戰は、彼女の中で3年前に父親を亡くした時とは違う、成長の証として見ていた。
椿姫は幼き頃、露国王・静を『露国のお兄様』と呼び慕っていた。
女王となって此の祭国に戻っても、彼女の中では露国王・静は実兄・覺と並ぶ『お兄様』だったのだ。
だが今、椿姫の中に嘗ての『お兄様』はいない。
暗躍し、祭国を窮地に陥いらせようとする、危険な敵国の王――露国王・静だ。
「私たち祭国の民は、何れ何事かあれば天涯の主である天帝さまの御加護があると信じている、閑静なる民と露国王は侮っておいででしょう。もしも付け入るとするのであれば、其処であると思います」
「……」
毅然とした椿姫の物言いに、其の場にいた全員が気圧されていた。
確かに、露国王が星と輪の祝の席に己の妃である梔姫を立てた事からも、彼は椿姫を見誤っている。
――私も椿を見誤っていた。
妻は何処までも心映が優しく、初めての冬を迎えた若木のように頼りなく、か弱き女性であるものだ、と思っていた。
いや、思い込んでいた。
何時の間に、こんなに強くなっていたのか。
戰の疑問を読み取ったのか、やっと椿姫は彼女らしく、静かに微笑んだ。
「戰。母親はね、子を宿した瞬間から母となるけれど、子供を育てていくうちに自分も母親として大きく、変わっていくものなのよ?」
「……そうか」
そうよ、と椿姫は何故か勝ち誇ったように笑う。
其の笑みに、以前に見た覚えのある義理の母・蓮才人の笑顔が不意に重なった。
確かに子供と一緒に何処までも何時までも大きくなられていては、息子は永久に母親に敵う筈がないではないか、と矢張り蓮才人に云われた事を思い出した戰は、苦笑するしかなかった。
★★★
戦の準備は騒然とした中で進んでいく。
そんな中、竹が率いる軍の一員として、句国大将軍・姜が忽然と姿を現した。
竹は余計な事は何も口にはしなかったが、皆、粗方の事情は共有している。
其の為、姜に対して余計な興味本位からくる嘴を挟む者は居なかった。そもそも一刻の猶予もなく、そして一つのしくじりも許されない緊張感の只中で、姜に不必要に関わっている心の余裕の在る者など此の場に居なかった、という方が正しかった。
何時、敵になるか解らぬそして味方に鳴るのかも解らぬ剛国に行き、備国と戦うという恐怖心の中、句国の地理に明るい姜の存在は一筋の光明であり拠り所でもあるのだが、如何せん、皆の心にゆとりというものがないのだ。
唯一、あっけらかんとしているというか変わらないのが陸だった。
自発的に陸少年は、姜の世話係となっていた。
口も態度も篦棒に悪いが、何故だか自然と、人の気持ちと場の雰囲気を明るく軽くさせる才能が陸少年にはあった。
事情を竹から聞いた戰と那谷の推挙により、改めて命令を受けて以後、姜の周りをぐるぐるちょろちょろと鼠のように忙しなく動き続ける陸少年の姿が見られるようになった。
姜の方は当初、陸の底抜けの明るさと屈託の無さ、と云えば聞こえがいいが、全く遠慮をしないというか度を越した明けっ広げな態度に辟易していたようだった。しかし可愛い気のある図々しさというか、おっちゃんおっちゃん、と裏表なく懐いて来られると仏頂面をしている自分が悪人のように思えてくるし、何よりも悪い気はしない。
時折、母親の手元から飛び出て覗きに来ては世話を焼きたがる星と、そして陸少年の底抜けの明るさに救われて、顰面ばかりだった姜にも僅かばかりであるが人間らしい表情というものが戻り始めていた。
★★★
そしていよいよ、竹が率いる剛国行きの軍が出立する日取りが決定した。
3日後に、と言い渡された兵たちは其々思いを胸に抱いて、出立の為の別れの儀式を親しい人々と行いに兵舎を離れて行く。残されたのは、姜と陸少年くらいなものだった。
「……お前は親元に帰らなくていいのか?」
なるべく、ぶすっとした口調にならないようにと気を遣いながら、姜は陸に声を掛けた。
此の数日の間に、布団から離れて身体を動かせるようにまで回復した。手に、戰から賜ったばかりの剣を持って具合を確かめている姜に、へへへっ、と笑い掛けながら、陸少年は腕で鼻の下を擦る。そしてちょこん、と姜の傍に座った。胡座をかき、足首を手で掴んで、ゆっさゆっさと左右に身体を揺らす。
「いいよ、別に。そんな態々、帰んなくっても」
「……しかし……」
「大体さ、下手に帰ったりなんかしたらよ、戦なんかに行かなくていいっつって、父ちゃんにとっ捕まって柱に括り付けられちまわぁ」
「……」
「俺、此処に居たいから居んだからさ、何も気にしなくっていいよ、おっちゃん」
ケラケラ笑いながら、ひらひらと手を振る陸は、何処までも明るい。俺、今の内に飯貰って来らぁ、と陸は蛙が飛び跳ねるようにして、ぴょんぴょんと兵舎を出ていった。
陸の背中を見送りつつ、其れが正しい親の反応だろう、と溜息と共に言葉にし掛けて、姜は慌てて口を噤んだ。
実際の処、祭国が句国の為に備国を事を構えんと打って出る必要性は全くないのだ。
幾ら同盟の友であろうと、其れは国が存続してこその事だ。
あれから、戰と学と、一度だけ正式に面会した。
国を亡くした漢の言葉を聞き届けて呉れた椿姫と、そして郡王と少年王の前に、姜は平伏した。
まだ体調が思わしくない時期だったので枯れ木のような身体つきをした薬師も同席していたが、其処で姜は、祖国がどの様な最後を迎えたのかを知った。
悲惨、という言葉などでは到底言い表せぬ惨劇の場と化した王都、そして城に未だに備国王・弋が我が物顔で居座っているのかと思うと、全身の血が沸騰して霧散するのではないかという熱い怒りに支配される。
「我々、祭国としては西天に平穏を取り戻すべく微力ではあるが彼の地に兵を出すつもりです」
「姜殿。句国の将軍としてでは無くなってしまうが、祭国軍と共に彼の地に向かう気はあるか?」
少年王と郡王にそう持ち掛けられた時、姜に否やがある筈もなかった。
平伏したまま、只の一兵士としてで良いから従軍させて欲しい、と懇願した程だ。
二人の王は姜の肩を抱いて起こすと、剛国に向かう軍に入る条件として騎馬に乗れるまで回復するように、という条件を出した。
其れ以後、姜はどんな治療も拒まず、身体を健やかな状態に戻す為だと云われれば無茶苦茶だと思われる療法にも耐えた。
その間、見舞いに訪れては武具を用意しただの、馬を選んだだの、と郡王も少年王も他愛も無い話をしていくだけだった。
国王である玖も王妃である縫も、後宮の妃たちが産んだ多くの王子や姫たちまでも失われた今、句国は天涯の主である天帝に見放された国として、見向きもしなくなって当然の国だ。
其の家臣であった姜も、礼儀礼節を施す必要など何処にもない。
寧ろ、天帝に見放された国の臣など、不吉な予兆として追い出されても文句など言えない。
――なのに、動いて下さるのだ。
備国を討つという戰の決断に、下心がないのは姜にも分かる。
何しろ、ついうっかりと椿姫に、自分が六撰の御璽を王妃・縫より託されていたと話してしまった。
――璽綬を質として渡すのであれば祭国も兵を出そう、と持ち掛けられるのが普通だろう。
失われた国の尊厳を回復してやろう、というのだ。
国の根幹を対価に求めて来られても、抗う術は姜にはない。
だが、郡王陛下も少年王も、いや其の他の誰一人として六撰の御璽を話題にしない。
箝口令が敷かれているという訳でも無さそうなのは、兵たちの雰囲気で伝わって来る。
つまり、戰も学も椿姫も、飽くまでも六撰の御璽は句国大将軍として姜が預かり、そしてその行く末は彼が決定するものである、として国王・玖と王妃・縫を尊んで呉れているのだ。
此の待遇を、どう捉えるべきなのだろう。
自分は、何をしたいのか、何をすべきなのか。
「……彼らのようになりたいのだ……」
姜は、嘗て玖が口にした言葉を、剣の上に漏らしてみる。
剣は答えない。
ただ、あの日の王の尊顔と同じく、眩しく輝くばかりだった。




