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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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22 屍山血河 その2-4

22 屍山血河 その2-4



 母親の裳を握っていた手を姜の頭上に移した星は、隣国の大将軍を睨み付けたままだ。

 見ようによっては、幼子に頭を押さえ付けられて這い蹲る格好を取らされているようにも取れる姜もまた、年甲斐も無くと云うべきなのであろうか、星を睨んでいる。


 椿姫は、眠気に襲われ始めたらしい腕の中の二人目の王子・輪の背中を優しく撫でてやりながら、息子・星を、じっと見守った。

 最初、姜の髪を撫でた時、彼を哀れんで慰める為であるのかと思った。元気が過ぎるきらいは多分にあるが、優しさにも溢れた子に育って呉れた我が子が、姜の扠さくれた心を癒そうとしているのかと思ったのである。

 しかし、我が子の口から飛び出してきたのは、父と母が努力してきた賜物である食物を無駄にする行いをした姜に対する怒りだった。

 見も知らぬ大男に、母の影に隠れもせずに真っ向から立ち向かおうとしている星を見た時、椿姫は、姜への対応を我が子に託してみよう、と思ったのだ。

 何故かは分からない。

 ただ、姜の中の、頑迷な殻の内側で荒れ狂っている暴風怒濤の感情を、星ならば慣らしてやれるのではないか、と思ったのだ。

 対峙する星と姜を、殿侍たちと女官たちがはらはらしながら見守る。

 すわ、と駆け付けたいのを堪えている彼らのぎくしゃくとした動きは、大真面目であるが故にいっそ滑稽ですらあった。



 ぎろ、と姜は星を容赦無く見据えてくる。

 異臭を放つ身体は痩せて筋張っており、其の分、起こすと異様な圧迫感を周辺に放った。

 だが星は、姜を見上げたまま後退りも身震いもしない。

 顔色一つ変えず、汗も流さない。

 こんな子供を相手に何を、と思いつつも姜はいよいよ癪に障ってきた。

「星王子様、貴方は私の主人あるじではない。貴方に、許しを得る必要はありません」

「じゃあなぜ、許して欲しそうに、母様に抱き付いて泣いていたの?」

 星の鋭い質問返しに、大人気無い対応をした姜の言葉が、うぐ、と言葉に詰まる。

 ずい、と星は一歩踏み出して胸を張る。


「このお蕎麦はね、父様だけじゃない、学陛下の父様から、ずっとずっと受け継がれてきた、大事な大事な、ものなんだよ?」

 一つ一つ、言葉が姜に届くようにと選んでいるのだろう。

 短く区切って考え考えしながら話す星には、だが自分の気持ちを相手に伝えようとする真摯な意思が見て取れた。とても、4つか其処らの子供の態度ではない。

「蜂蜜はね、父様を助けたいって、思った母様たちが、一生懸命集めたのが、最初」

「……」

 ……殿下、教えて頂かなくとも私は殿下がお生まれになる前より、存じ上げております、と姜は胸の内で呟いた。

 遠路を物ともせず、祭国から蕎麦と蜂蜜を笑顔で運んできた克と珊の姿を姜は思い出していた。

 彼らが交わる姿を見て、玖は父王と対決し句国王として立ち上がろうという決意を固めたのだ。

 其の決意を一番に、自分に語って呉れたのだ。


 姜、と玖陛下は、はっきり呼んで下さった。

 ――姜よ、私は、『陛下』と呼ばれる未来を、望んでもよいか? 

 彼らにように、なりたいのだ。

 お前と。

 この、句国の為に。

 陛下の御尊顔を湧き上がる感動と感激を抑えながら仰ぎ、涙が溢れて来るのを必死で耐えながら、はい、と答えたあの日あの時を、忘れる筈が、忘れられる訳がないではないか。

 目の前が、じくじくと潤んで滲み出す。

 幼子の表情が混濁していく中、それにね、と星は言葉を続ける。


「もうすぐ、大きな戦が、幾つも始まるんだって」

「……大きな……戦が……幾つも……?」

「だから、此れまで以上に、食べ物も、物も、人も、みんな大事にしなくちゃ駄目、って母様が仰ってた」

 各国の思惑や事情を知らぬ星は、ただ、耳にした事実を其のまま口にしただけだ。

 しかし、姜は戦が始まる、という言葉に反応した。

「戦が……始まる」

「うん、そう、そうなの、だからね、みんなね、一生けんめい、用意してるの、ねえ――ねえ、叔父さん」

 拙いながらも必死で丁寧な話し言葉を続けていたのに、突然、幼児の口調になってしまった。

 思わず知らず、姜の頬が緩む。

 しかし、星が次の言葉を続けて発した途端、彼の頬に再び熱いものが流れ始めた。



「なのに、叔父さんは、此処で、いったい、なにをしているの?」

 頭を鈍器で殴り倒された時よりも強い衝撃が、姜の脳天を襲った。

 ――此処で一体、何を?

 何を?

 私は……私は、一体何をしているのだ?


「……私は……」

「みんなね、自分にできることしようって、頑張ってるの。ねえ、叔父さん、叔父さんには、何かしたいことはないの? 何もないの?」

「……わたし……私は……私は……」

 ――私は、私は何がしたいのか?

 したかったのか?

 此処で……情けを掛け、生命を助けて下さった人々への恩を仇で返す事で内に溜まる鬱憤晴らしをして日々を喰い潰して行く事が、私の望みであるのか?


「……ちがう……」

 ぼそり、と姜は呟いた。

 何時の間にか、握り拳を作っている。

 指が白くなるまで硬く握り締められている其れは、ぶるぶると震えていた。

「何が違うの? 何もしたくないの?」

「……違うっ!」


 姜は叫ぶなり、星に向かって腕を突き出した。

 殿侍たちが、眼尻を釣り上げて剣と槍を構えて一斉に部屋の中に踏み入る。

 其の前に、輪を抱いた椿姫が立ちはだかった。



 ★★★1



 星は戰の第一王子だ。

 郡王の子という身分ではあるが、戰が禍国の皇子の位を有している為、太子としての扱いを受けている。

 つまり星は戰に継ぐ玉体であり、此の幼児の身に何が禍事があれば、例え其れが母后である椿姫であろうとも罪に問われかねないのである。

 殿侍たちが流石に椿姫に非難めいた視線を向け、女官たちが眉根を寄せてはらはらと見守る中、伸びた姜の腕は星の肩をがっしりと抱いていた。


「星殿下……!」

 星の名を呼びながら、姜が泣いた。大の男が、人目も憚らず泣いている。

 しかし同じ滂沱の涙であっても、椿姫に縋っていた時は慟哭であり、星を抱いて流す涙は感動が呼び覚ました、さめざめとしたものだった。星を泣きながら抱く姜の心の内側の螺子が、くきり、と音を立てて回転し、何かが入れ替わったのだ。

「叔父さん、そんなにしたら、僕、痛いよ?」

 急に泣き付い来られて戸惑っている星は、もごもごと不満を口にした。

 言われてやっと、姜は星から身体を離す。そして明白あからさまにほっとした様子をみせる星を前に、姜は丁寧に膝を揃えて平伏した。

 きょとん、とした顔付きで小首を傾げる星の肩を、椿姫は優しく抱き寄せた。

 姜は平伏しながらも、手の甲で何度も目元を拭っている。まだ、涙が止まってくれないらしい。椿姫はそんな姜を優しく見守り続ける。やがて、姜の手の動きが止まった。


「醜態を晒しました。許しを得られるような立場ではありませぬが、郡王陛下を盟友と慕いし我が御主君の名を覚えていて下されるのであれば、何卒、生命ばかりは」

 姜殿、表をお上げ下さい、と椿姫は輪を抱き直しながら声を掛けた。

「少しはお気持ちが、此の世に戻って来られましたか?」

「は、はい……星殿下のお陰を持ちまして……」

 声音には生気が宿り、そして同時に照れの成分が僅かに含まれていた。

「己の無力さと腑甲斐なさ、そして意気地の無さを棚上げして、剰え、其れを隠し逃れようと、助けて頂いた御恩を何と無様で浅ましき行為で返しておりました。恥ずかしく見苦しき振る舞いに言い逃れは効きませぬが、何卒、御許し下さい」

「何を云うのです」

 椿姫は軽く膝を曲げながら、頭を振った。


「さあ、許して欲しいのであれば、顔を上げて。句国の大将軍らしく、胸を張りなさい。貴方の主君が、最も好いていた貴方でいなさい」

「――はい」

 長い髪が、さらりと流れて姜の額を撫でていく。

 先程の星の小さな手と違い、それはさらりと良い香りを放っていた。何故か頬や胸の奥、臍の辺りがむず痒くなる、懐かしくも温もりのある甘い感情を呼び起こす香りであった。

 姜は、ぐ、と両手を握って身体を起こして立ち上がった。

 乱れていた衿元や袖、帯を正す。最後に、髪を撫で付けて解れ毛を直す。そして大きく深呼吸をして、武人らしく大きな身振りで椿姫と星、抱かれている輪に次々に最礼拝を捧げた。


「何があったのか、そして姜殿、貴方は何を成したいのか。話してくれますね?」

「はい、妃殿下」

 後悔に打ちのめされて、敗北感と罪悪感と云う底無しの沼に嵌って藻掻き苦しんでいた男は、もう居なかった。

 句国王・玖が最も愛し、信頼を寄せていた大将軍・姜という漢が、帰って来た。


 

 ★★★



 椿姫に勧められるままに、姜は寝台に横たわった。

 怪我は兎も角として、長い間まともに食事をとっていなかった彼の身体は衰弱しきっていたからだ。

 姜自身も、今は己の限界を良く悟っている。椿姫たちにこれ以上迷惑を掛けぬようにするのであれば、素直に臥床し安静にしておくべきだとして従ったのだ。

 暫くすると、新しく用意された食事が運ばれてきた。

 湯気と、優しい気遣いの香りが、ふわりと姜の鼻腔を擽る。

 星が真面目くさった一人前の顔付きで、姜の手の平には小さめの碗に卵粥をよそい始めていた。


「はい」

 小さな盆に乗せて差し出された卵粥を、有難く頂戴致します、殿下、と姜は笑顔で受け取る。

 やはり、姜の手に掛かると子供用に見えてしまうさじを使って、卵粥を食べ始める。遠巻きに見守っていた女官たちの間から、ほぉっ……と感嘆の溜息が漏れた。

「叔父さん、美味しい?」

「はい。実に旨い、旨いです。斯様に旨い食べ物は生まれて始めて口に致します。身体中に滋養と、そして皆様のお心使いが染み渡って、生き返って行く実感が胃袋から感じられます」

「美味しいのは当たり前だよ。父様と母様が、一生懸命、頑張って育てたんだもん」

「然様に御座いましたな、然らば、旨いのは当然に御座いますな」

「僕もお手伝いしたんだよ?」

「其れは素晴らしき事に御座います。殿下、殿下の手による粥は、臣下わたしを生き返らせて下さいました。有難う御座います」

「うん!」


 初めて軽口めいた、というよりも楽しそうに星と話しをしている姜に、女官たちは今度は目を丸くして顔を見合わせあったり肩を叩きあった。

 星はすっかり姜に懐いた様子を見せており、驚きを隠せない女官たちの前で満面の笑みを作っている。

 意識を取り戻してから長らく、誰もまともに食事を取らせられなかった相手が、自分が饗した粥を美味そうに食し、そして愉快そうに話しているのだ。当然だろう。

 椿姫も、すっかり寝入った輪を抱きながら、そんな星を見詰めている。


 小ぶりの土鍋いっぱいの卵粥を平らげてしまうと、姜はやっと、ぽつりぽつりと、己が身に降り掛かった出来事を語り始めた。



 ★★★



 王妃・縫と多くの後宮と御子たちを連れて王都を脱出した姜は、当然の事ながら祭国を目指した。

 同盟国であり、其れ以上に盟友として、此の数年間を過ごして来たのだ。

 句国の未曾有の危機、此の窮地を救わんと郡王・戰が必ずや手を差し伸べて呉れる筈、という目算の元だった。幾台かの馬車に分散して後宮と御子たちを乗せるように指示を出し、馬車の点検をし直し食料等の準備を終える頃、急に王妃・縫が姜の元にやって来た。


「此れは、妃殿下」

 跪こうとする姜を、縫は手を振って止めさせる。

「火急の時です。礼を施す暇も惜しいでしょう」

 恐縮しつつも、姜は礼を止める。確かに今は寸暇を惜しむべきだった。

 立ち上がった姜を前に、縫は背後に控えていた女官を手招いた。


「此れを」

「……妃殿下?」

 首を捻り掛けて、何という不遜で不敬な、と姜が畏まる。こんな時でも礼節を忘れない狭義の人である姜に、ふ……と縫は目を細めた。

「此れを、陛下への忠節篤き其の方に、預けておきたいのです」

 恐れ多い、と慄いている女官が差し出してきたは、此の国の根幹を示す六撰の御璽が収められている宝物箱であった。

 流石の姜も仰天して飛あがらんばかりとなる。


「ひ、妃殿下!?」

「此の先、何があるか分かりません。祭国までの道程。御璽は、大将軍、其方が護りなさい」

「何を仰られるのですか、妃殿下! 滅相も御座いません!」

 分厚い甲冑に宝物箱を押し付けてくる縫の足元に、姜は平伏した。

「御璽とは玉体であり我が国! つまりは、国王陛下其の物! 私如きが無頼の者が尊き陛下を預かるなど!」

 動揺して視線が揺らぐ姜と違い、縫は冷静そのものだ。

「祭国へ向かう途中、他国の追手に掛からぬという保証は何処にもありませぬ」

「妃殿下、しかし……!」

「大将軍、今は押し問答をしている場合ではありませぬ。一刻の猶予もない。速やかに此の句国から落ち延びねばなりませぬ。しかし、守らねばならぬものとして最も優先されるべきは、私どもではありませぬ。此の句国の名を中華平原に刻む存在である六撰の御璽です」

「恐れ乍ら! 妃殿下に於かれましては、陛下の御印を宿しておいでに御座います!」


 優先されるのであれば、太子を宿しているかも知れない王妃の身体であろう。

 後宮たちも、遠慮がちに姜に同調して小さく頷きあっている。

 が、縫は、いいえ、と短く頭を振る。

「陛下が私どもを逃して下さったのは、私どもを守る其の方の力を信じての事。私どもと子らが生き延びたとしても、玉璽を奪われては国の再興は成しえませぬ」

「妃殿下……」

「我らは人質としての価値がある。早々容易く生命までは奪われまい。しかし、六撰の御璽は違う。此れさえ奪えば句国を陛下より譲り受けたも同じ。敵は血眼となり、奪いに来るであろう」

「……妃殿下……」


 縫の論法には決定的な欠落がある。

 確かに彼女たち一行が御璽を手にしていると敵に知られれば、どの様な手段を講じようとも備国は奪いにくるだろう。

 此の時、彼女たちを質として捕えられ、生命と引き換えに御璽を差し出せと脅されでもしたならば、耳も貸さず従わず、敵陣に背を向けて去るだけの胆力を有している者など限られている。

 つまり縫は姜に、いざという瞬間が訪れた場合に、逆臣の汚名被ってでも女子供を見捨てても、玖が愛した国を護れ、と命じているのである。

 ただ嫋やかに微笑む縫を前に、姜は、王妃は此のように強く、そして凄まじい御人柄であっただろうか、と啼きながら自問した。

 答えを出す前に、縫は腰を折って硬く握り締められていた姜の手を取った。

 そして、一本一本、ゆっくりと指を開かせると、御璽が収められている宝物箱を取らせる。


「祭国まで、私どもが無事に辿り着けば今の私の話しは只の戯言で終わります。御叱りを受けるにしても、私一人」

「妃殿下……」

「祭国に、辿り着けば良いのです。さすれば、其の方が今流している涙も、笑い話として陛下に御披露目できる日が来ましょう」

 姜は、眼前の縫に玖を重ねて礼拝を捧げた。

 そして、涙を拭いながら宝物箱を胸に固く抱いて立ち上がる。

「承知致しました。妃殿下、参りましょう。祭国に。恐れ乍ら、此の姜の生命に変えましても妃殿下をお守り致します」


 何と頼もしい、と縫は珍しく少女のように歯を見せて笑い、姜も釣られて笑う。

 僅かであるが、穏やかな和みの時間が皆の緊張を程よく解いた。

 しかし姜にとって、此の日此の瞬間こそが、生きた王妃・縫の笑みを見た、最後となった。



 ★★★



 身を隠しながらの祭国への逃避行は、困難を極めた。

 女子供ばかりの大所帯であり、而も王妃の縫は身重であり、他にも赤子を連れた後宮もいる。

 夜駆け朝駆けが出来れば良いが、漸く念願叶って和子を宿したの王妃の身体を第一と思えば強行軍は避けねばならなかった。

 だが、どうしても時間は徒に過ぎていく。

 時間が掛かれば其れだけ、危険度は増して行くし、何よりも皆の間に恐怖からくる疲労が蓄積していく。

 馬の脚を早めても遅めても、王妃の心身に負担が掛かる。

 姜たち護衛の兵士たちを深く悩ませる要因の一つであった。


 領内を駆けている途中までは領民たちが時折自発的に見張り等を買って出て呉れていたが、其れもやがて無くなった。

 つまり、王都近くでの戦が激戦となったのだとみるしかなかった。

 こうなるともう、悩んでいられない。

 姜は独断で、行軍の速度を早めた。

 大きく上下左右に揺れる馬車の中で、王妃は青い顔をしながらも泣き言一つ言わずに堪えていると女官たちに聞く度に、姜は申し訳無さと腑甲斐なさで、打ち首にして欲しいと申し出たくなるのを必死でこらえた。

 王妃だけでなく、王子や姫たちも、ほぼ生まれて初めてとなる危険な道中を半泣きの顔で母親の袖や帯にしがみついて耐えていた。

 其れでも、あと12~13里も行けば祭国との国境の目印が見えて来ようという地点までやって来た。

 姜と共に一同をまもってきた兵も、そして護れてきた女も子供たちも、一様にほっと安堵の表情を見せた。しかし、姜は眼光を鋭くして部下たちを戒める。


「此処から先こそが、最も危険な地域となる。見張りを抜かるな。郡王陛下の尊顔を仰ぐまで、決して気を抜くな」

 祭国との国境が近い。

 という事は剛国とも、そして露国とも近い。

 姜の厳しい眼光を前に、部下たちが身を引き締める。

 しかし、と姜は厳しい眼光のまま、先行きを案じた。

 此処から暫くの間は、ほぼ平原地帯となる。

 気配を押し殺しつつ山岳地帯や森林に身を潜めての行軍は容易ではなかったが、其れでも安全を感じられた。

 平野部は一気に突っ切るには良いであろうが、発見され易い。

 そして一度勘付かれしまったが最後、逃げ場は無い。


 祭国の屯田兵たちが植林を行ったカ所まで、一気に馬を進めるべきだが、其れには幼い王子や姫たちを思うと、姜は二の足を踏んだ。

 珍しく即断即決出来ずにいる姜の元に、部下が青い顔をしてやって来た。

「どうした?」

 王妃が乗る馬車を警護する兵であった為、姜の顔もさっと青褪める。


「直ぐにお越し下さい。妃殿下が体調を崩されておられるとの事で……」

「何っ!?」

 叫ぶなり、迎えに来た部下を跳ね飛ばして姜は駆け出していた。


 

 ★★★



 縫の乗る馬車の周辺には、小さな人集りが出来ていた。

 出産経験のある後宮たちが、女官と共に縫の為に手を尽くしているのだ。

 流石にそんな彼女たちを押し退ける不敬は、姜には働けない。

 お妃様方、と姜が声を掛けると、縫に仕えている最も古い女官が進み出て来た。

 手招きされた姜が身を屈めると、女官は手で口元を隠して、……此処だけの話です……、と囁いた。縫には聞かせたくないのであろう、視線はちらちらと馬車の方を伺っている。


「如何された……まさか?」

 同じく潜めた声であるが語気を強める姜を、これ……静まらぬか……、と女官は窘める。

「……其の……まさか、なのです……王妃様は……此のままでは……流産の可能性が……」

 姜は、ぐ、と喉を鳴らして天を仰いだ。

 身体の弱い縫にとっては、矢張り、耐えられるような行軍ではなかったのだ。

「可能性、という事は、大事を取られれば妃殿下と御子様は助かるのだな?」

「……はい……」

 遠慮がちに、女官が頷くを見て、姜は決心を固めた。馬車の戸口の前に跪く。


「妃殿下、姜に御座います。只今、女官より妃殿下の体調が思わしくないと聞き及び、参上致した次第に御座います」

「……」

 馬車の中から返事はない。

 ただ、苦しげな息遣いと重苦しい空気が一層濃くなったように感じられた。

 姜は迷いを棄てた。

 今、王妃を動かせば玖の跡目を継ぐべき御子の生命が脅かされる。

 玖の御子を、こんな事で失う訳にはいかない。


「妃殿下。此れより私め、姜は単騎にて祭国に向かいます。祭国郡王陛下に句国の急変を告げ、救援を求めに参ります」

「……」

 矢張り縫からの返事はないが、姜は構わずに続けた。

「妃殿下、何卒、御心と御尊体を大事になさって其れまでの間、お休み下さいますよう。陛下の跡を継ぎ、句国を靖んじ給う御子様を宿せし大事な御身体に御座います」

「……」

「妃殿下はどうか此処で気持ちを穏やかにされ、お腹の御子様とお待ち下さい。此の姜、必ずや、郡王陛下より援軍を賜り、戻って参ります」


 許しを与えようとせず押し黙ったままの馬車の戸口に、姜は最礼拝を捧げる。

 そして、身を揉むようにして見守っていた女官と部下に、妃殿下をくれぐれも頼む、と言付けると愛馬に向かって駆け出した。

 愛馬に飛び乗りざま部下に、後は頼むぞ! と叫び姜は鞭を入れて駆けさせた。


「……しかし、私が妃殿下の御下を離れた正にその瞬間に……妃殿下の御一行は、露国軍からの強襲を受けたのです……」



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