22 屍山血河 その2-3
22 屍山血河 その2-3
祭国の王都が、此れほど熱狂と狂乱に沸いた事があっただろうか?
敢えて上げるとしたならば、3年前の『赤斑瘡』の克服と『堤切り』以来であろう。
しかし、戦による高揚感というのものを祭事国家である祭国が味わった事は、歴史を有して以来ない事であった。
郡王として赴任している戰の出陣を控えて、王都と王城は今、異様な興奮の坩堝と化していた。
軍備増強に向けて、類と通は祭国に入国した時以来の目紛るしさに追われていた。
救いと云えば、類の息子たちがものの役に立つ年齢に達し、父親共々怒涛の潮の如き仕事量の一端を担えるようになった事だろう。決済するのは変わらず類と通の役目であるが、下の人材が育ってきたという実感を、膨大な仕事の海の只中で二人は感じていた。
「書類の作成は迅速に正確に的確に、そして何よりもひと目で分かるよう簡潔明瞭に。でなくては幾ら通殿であろうと、可及的速やかに計算が出来んからな」
親父ぶりたい気持ちと上司面したい気持ち半々の類が、珍しく胸を張る。
普段は重い身体を持て余し気味に丸めて、ふぅふぅと汗をかいているのに、と手伝っている者が書簡に笑いを堪えた奇妙な顔を隠している。普段は余り表情を動かさない通にまで吹き出されて、やっと類はいやその、と自分が格好を取りすぎていたと反省して何時ものように背中を丸めた。
「克殿の元に送る騎馬は五千騎で宜しいのですな?」
「うむ、そう聞き及んでおります。陛下が率いられる騎馬は1万、杢殿の騎馬も克殿と同じく5千」
「精鋭より1万騎も国防の為に残すのか」
書簡から目を離さず、一定の速度を崩さず十露盤をぱちぱちと弾きながら通が問うと、類は汗を拭き拭き頷いた。
1万騎も、としたが剛国が真と共に動くという保証もなければ、露国と東燕が手を組まぬと確実に裏付ける情報もない。不確かな思惑と『だろう』という希望的観測を担保にして策を立てる愚は冒せない。
「郡王陛下が率いられるは御自身の旗印に集わせる騎馬1万、杢殿の部隊が5千、密集方陣を描ける歩兵が1万。計2万5千。剛国へは克殿の部隊より5千のみ。但し、此方は河国との連携が見込めぬ分、兵糧と武器は5割増しで見ておいた方が良いと虚海様の御言葉だ」
ふむふむ、と通は変わらず十露盤を弾き続ける。
「国防に回す屯田兵の騎馬隊は杢殿と克殿より5千づつ借り受けて都合、1万。歩兵は屯田兵ではなく祭国の領民より新たに兵役を科す御積りだ」
戰が祭国に郡王としてやって来て5年。
貧しい貧しいと明白に揶揄されてきた祭国が、大戦の準備を整えられるまでに成長したのだ。
随分豊かになったものだと類も通もしみじみと思う。
大体からして、8年前の戦からしておかしいではないか。幾ら祭国が弱小国家であっり、禍国が超大国であったとは云え、戰も真もまだ10代の少年だったのだ。
而も初陣の、である。
そんな彼らが率いていたのは高々2万程度の軍勢であり、其れも歩兵中心だったのだ。
兵部尚書として優が影で都合をつけようと四方八方奔走せねば軍も武器も更に減らされていた恐れがある。そんな、皇子としてぎりぎりの体裁を整えられる手勢程度で王都が数ヶ月封鎖出来てしまったのだがら、幾ら内乱の後であったとはいえ祭国の軍備の頼りなさが解ろうというものだ。
「しかし斯様に書簡に迫られて仕事をするのは久しぶりですな」
「そうですなあ、確かに」
類と通は急に感傷的になった。
互いに顔を寄せ合って口を曲げ、ふ~む、と唸りあう。
「入国した当時、皆で握飯を頬張りながら書類の山に埋もれて仕事をしたものですが」
「そうそう、真殿がこう、額でゆで卵を割る癖があると、あの時に知りました」
「しかもほぼ丸飲みでしたな」
類が手を卵型に握って汗の浮いた額をぺちぺちと叩いて見せると、通は握り拳を口元に持って行く素振りを見せる。
類の息子たちは、無駄口を叩きながらも仕事の手は全く止まらない親世代の仕事ぶりを驚きの目で見つつ、与えられた分量を必死でこなしていた。
軽口を叩いて乾いた喉を傍に置いておいた麦湯で潤すと、類と通は気合を入れ直して書簡に向かう。
「では一万騎の兵を指揮する者として、学陛下の御下に従われるのは? やはり竹殿が?」
通の疑問は誰もが抱くものだが、当然誰もが竹が居残るものだと思っていた。
克が句国に向かってから彼が率いてきた部隊を引き継いでいるが、竹も良くやっていると皆認めている。常日頃、隊長補佐役として克と行動を共にしている女房役を務め続けただけの事はあり、仲間も竹の指示で動き易い、というのが何よりも良い。
そういう理由から、竹もとうとう万騎将軍の仲間入りか、と戰と学からの内示をわくわくしながら待っていた処だった。
「それですがね、通殿。どうも、そうではなさそうでして」
「何っ!?」
「竹殿は剛国に向かわれるそうですぞ?」
十露盤から視線を上げずにした通だったが、珍しく手元を狂わせ、此れまで計算を崩して頓狂な声を上げる。
「家によく遊びに来る陸がな、おやつを強請りに来た時にそんな話をしていた、と豊が言っておったんですよ」
「ほう」
「竹殿と一緒に剛国に向かう部隊に組み入れて貰えた、真殿と克殿の役に絶対にたってみせる、手柄をたてて帰ってくる、ってまあ、仔犬のように飛び跳ねてましたが」
其のような国家の大事を、遊びに来たついでに、而もおやつを食いながらするような事か、と通は呆れる。
が、類の奥方である豊は、こうした胸の内側に貯めておけず、むずむずとムズ痒くなる何かを吐き出したくなる包容力があるというか、要するにどんな無茶苦茶でもどやしけながらも甘えさせてくれる『肝っ玉母ちゃん』なのだ。
親元を離れて寂しい陸が、入り浸っている類の家で母親代わりにべったり甘えている豊に洗い浚い話してしまっていても仕方無いというか当然かもしれなかった。
「確かに、克殿と竹殿のお二人に率いて頂ければ、5千の騎馬は万騎以上の働きを致しましょうが……しかし竹殿が剛国にまで兵を率いて行かれては、では一体誰が残る1万の兵を率いると?」
いやそれがですな……、と更に大量の汗をかきかき、類が通に耳打ちする。
「どうやら、その、蔦殿……だ、そうですぞ?」
「何ぃっ!?」
生命よりも大切にしている十露盤を床の上に落としてしまったのにも気付かずに、通は叫んでいた。
★★★
出立前のごった返した熱気に当てられる事なく、陸少年は怒号と罵声が飛び交う兵舎の中を泳ぐようにすいすいと移動していく。
目指す竹青年を見付けると、おーい、竹兄ぃ! と手を振りつつ声を掛けながら走り寄った。
当の竹は、仲間に分配した甲冑の点検を命じながら自らの武具も広げている処だった。
「おう、どうした、陸。もう、用意は出来たのか?」
「何言ってんだよ。用意も糞も、おいらみたいな下っ端がな~にを用意する物があるってんだよ」
「お、おぅ、そ、そうか」
「手が空いたし、ぶらぶらしてんのもなんだし、で、竹兄ぃを手伝いに来てやったんだよ」
にかっ、と陸は屈託なく笑い、竹も釣られて、おお済まんな、と笑い返す。
幾ら下っ端兵とはいえ、初陣で気持ちも昂ぶっているのだろう。一箇所にじっとしていると彼是と要らぬ心配で気が漫ろになって落ち着かないのは竹も経験している。誰でもいいから誰かと話しをして一緒にいたいという陸の不安さは、竹や彼の仲間にも分かる。
竹はちら、と仲間に目配せをしてから、ちょいちょい、と陸少年を手招きした。
「それじゃあまあ、御言葉に甘えて、早速扱き使わせて貰うとするか?」
「ほいよ、任しといてくれよぅ」
「あっちに置いてある、あの行李に入っている縄と紐の数を数えて呉れるか? 縄と紐2本で一括りにしてある」
「がってん承知! 任せとけって!」
竹が指を指した先には、陸がすっぽり入ってしまいそうな大き目の柳行李が幾つも用意していある。
軽く力瘤を作って見せながら、陸が張りっきて腕まくりをしながら行李に飛び付いた。
「後はな、縄も紐も、状態を一本一本、確かめて呉れ。数を数えながらでいいから」
「ほいきた」
「行李全部を合わせて、千括り入っている筈だからな、大変だぞ?」
「え、ええっ!? せ、千括り!?」
「おう、だから頑張って呉れよ?」
目を丸くしながら、陸は埃臭い行李の蓋を開ける。
周囲に明るい笑い声が響く。行李に収められていたのは、行李のぼろぼろの見た目とは裏腹に、用意されたばかりと思しき新品の縄と紐だ。相当に太く、そして独特の綯い方がしてある太縄と、平べったい厚みのある披帛のような紐が整然と並んでいる。
分かり易いように、一括り分は白、五括りで更に赤の組紐でまとめられており、十括り分でまた黒い組紐で組んであり、更に五十括りで緑、百括りで黄色、と止めてある組紐の色で求めている数量を取り出し易くしてある。
一から十までくらいなら数を数えられても、其れ以上は無理、という農民は多い。
実際に、陸の父親である重もそうだ。納める租税は十以上になると『十が何個』という数え方をしている。子供の年齢も、十歳を越えたら『もう餓鬼じゃねえ年』で誤魔化してしまうか、知りたけりゃ邑令さまの処に行って聞いて来い、で済ませてしまう。
だが此れなら、いざという時に『黄色の括り一つと緑の括りを一つ、黒い括りを三つ持って来い』でも充分通用する。
「こりゃ、こんな細けえ気の使い方すんのは、真さんと通のおっちゃんの遣り方だな」
ぼそ、と呟きながら、竹は先ず緑の組紐で括られた五十括り分を取り出した。
胡座を掻いた上に5括り分を乗せ、一本一本、丁寧にとりだして縄目や帛に解れや傷みはないか、鼠に噛じられて出来た切れ目はないかを確かめていく。夢中になって作業に没頭していたが、ふと陸は、甲冑の点検に余念が無い竹の背中に声を掛けた。
「竹兄ぃ。なあ、兄ぃ、此れ、一体何に使うんだ?」
ん? と甲冑の手入れを終え、馬着に手を伸ばしかけていた竹は顔を上げた。
「なぁに、ちょっと説明しにくい物なんだがな、……いや実際に必要になるかどうか、俺にも分からんのさ」
「へ?」
ぽかん、と陸は口を開ける。
そんな使うかどうか分からないような物を持って行って、荷物を増やしてどうする気なのだろうか。
「俺にも分からんが、虚海さまが持っていけ、としつこく言われるんだよ」
「爺ちゃんが?」
「おう。竹はん、ない脳みそ使うて余計な事考えんでもええわい、真さんが欲しゅうなるかもしれへん、ゆうて、此の虚海さまが云うとんのや、四の五の云うとらんと、とっとと持っていかんかい、ってな」
竹が瓢箪型の徳利に見立てた馬具を振り振りの、虚海の声真似をしてみせると、陸と周りに居た仲間たちが、どっと一斉に吹き出して笑い転げる。
余りにも似すぎていたからだった。
★★★
少女特有の高い叫び声が周辺に響き渡った。
追いかけるように、何かが床に叩き付けられ転がったり割れたりする音が続いていく。
部屋を二つ三つ隔てても聞こえる大音量に椿姫は、何事ですか、とは口にしなかった。
部屋の主である男の意識が回復してから此の数日間、同じ行為が繰り返されてきたからだ。
礼節を叩き込まれている宮女や女童たちが我慢の限界を越えて、泣き付いてきたからこそ、椿姫は王妃として捨て置けずこうして出向いて来たのだった。
が、椿姫は裳を握ってついて来ている星と、抱き上げている輪とお腹を無意識に庇いながら顔を顰めた。
良人である戰も、任せて欲しい、と懇願しにきた彼女に良い顔をしなかった。
妃である彼女の体調は、何よりも優先されねばならない。
其処で椿姫は、良人たちが戦の準備で目紛るしく動いている隙を突き、子供たちとの気晴らしの散歩に託つけて様子を伺いに来たのだ。
きゅ、と唇を引き締めた椿姫と、部屋から飛び出してきた女童と女官たちが危うくぶつかり合う処だった。泣き腫らした目で、其れでも女童と女官は、椿姫に気が付くや否や礼拝の姿勢をとった。
「礼拝などいいのよ、楽にしておいでなさい……皆、大変だったわね」
優しく微笑みながら椿姫が声をかけると余程嬉しかったのだろう、女童が大きな瞳から、ぼろ、と涙を零した。しゃくりあげる女童を女官が抱き寄せると、部屋の奥から熊の咆哮に似た唸り声が響いて来た。
すると、女童も女官たちも、びく、と反射的に身を竦めた。見逃さなかった椿姫は、眉根を寄せる。
「皆、此処は私に任せてお下がりなさい」
学と輪を連れて部屋に入ろうする椿姫に、女官たちがぎょっとなった。
彼女の身にもしもの事があったら、国王である学と郡王である戰、二人の王からどのような叱責を喰らうか。
いや、そんなものでは済まされまい。
祭国の至宝とも讃えられた嘗ての女王であり王女であり王妃である彼女を傷付けるような事態となれば、自ら死を選ぶという罰を己に課したとしても耐えられぬ。
横暴な態度を取り続ける男に我慢ならず、椿姫に泣き付いたはよいが此れでは何の解決にもならない。
涙目になりながら、肩を寄せ合う女官と女童たちに、椿姫はもう一度微笑み掛ける。
「大丈夫です。彼の御人も句国に此の人ありと謳われた武人の御一人。よもや、同盟国の妃に対して、礼節を忘れるような愚かな真似はしないでしょう」
神々しい笑みに、魂を吸い取られて、ぼう、と見惚れる女童と女官たちの脇を、するり、と通り過ぎて、椿姫は例の部屋の中に踏み込む。
「入りますよ」
と一声掛けた彼女の声に、女官たちも一斉に、ハッと我を取り戻した。
「御妃様、危のう御座います、お控え下さりませ!」
「お待ち下さい、御妃様!」
「何卒、妃殿下御留まり下さりませ! 妃殿下、どうか何卒!」
慌てて後に続こうとする彼女たちに椿姫は、肩越しに目配せをして留まるように、と命じた。
普段の、微風の如き彼女からは想像も付かない強い意思を秘めた眸の輝きに、女官たちは気圧されて動きを封じられる。
にこり、と笑みを零すと、椿姫は茫然自失となっている女官たちに、くるりと背を向けて部屋の中に踏み入った。
★★★
部屋の惨状に言葉を失い、椿姫の脚が止まった。想像を遥かに越えていたからだ。
――なんて事……。
用意された食事が乗っていた盆は丸ごとひっくり返されており、入り口近くまで飛んでいた。
持ち手が砕けて、反対側の壁まで滑って行って居るから、容赦なく腕を振り上げたのだろう。
蕎麦粉を湯で練った物を蒸し上げ、更に擦り潰して滑らかにしてから団子状にしたものを鶏肉と蔬菜の汁物に落としたものを温めた土鍋も、床の上で見事に真っ二つに割れている。
擦り下ろした薯蕷と米の粉を混ぜて蒸し上げたものに蜂蜜をかけたお菓子も、床の上で甘い香りを漂わせて潰れていた。
干し魚と共にゆっくりと蒸した蕪に煮汁に葛でとろみを付けてかけたものも、卵の黄身だけを使った贅沢な粥も、薄く伸ばして焼いた蕎麦皮と卵の薄皮と胡瓜を短冊状にした物を甘味噌と胡麻で和えた物であった筈の食べ物も、塵屑のように散らばっているではないか。
其の、惨劇の後の部屋の隅に置かれた寝台の上で、俯せになって呻いている男がいた。
句国王・玖の一の忠臣として名高く、大将軍として其の存在を近隣諸国に知らしめていた――
姜である。
此の男こそが、この惨状を作り出した現況である。
だが、其れにしても何という荒れ方であろうか。
我儘放題の子供の癇癪の方が、まだ可愛げがあろう。
椿姫は、眉根を寄せた。
――姜殿……。
なんて哀れで惨めな姿。
誇り高い武人が、己の無力さが招いた悲劇を耳にして此の世の全てに絶望し捨て鉢に走るしかなくなった姿は、侘しさしかない悲壮感に溢れている。
哀惜に呉れるしかなくなった背中を他者に晒しているのを目の当たりするのは、何という遣る瀬無さか。彼の闇を作り出した者とは全く無関係な、其れも弱者に当たり散らす事でしか己を保っていられないとは。
彼の御仁こそは、真の武人、勇者不懼を体現されておられると讃えられた武骨な一徹者からは想像もつかない哀愁漂う凋落ぶりを目の当たりにして、胸が潰れる思いになるのは当然と云えた。
しかし此の場にて自分までもが姜に対する憐憫の情に浸ってばかりては、抜け出せずにいる彼に引き摺られてはいられない。
椿姫は大きく深く、深呼吸をすると椿姫は進み出た。じゃり、と足元で砕けた茶碗の屑が鳴る。
「姜殿」
胡乱げな、と言うよりも貶みを込めた視線が向けられる。数年前の彼女であれば、抑えられぬ恐怖心に身体を震わせ、肌を泡立たせていただろう。
椿姫は、キッ、と表情を強くして姜の視線を撥ね付けようとした。
が、出来なかった。
改めて彼の蕭索とした姜の眸の色を前にして、椿姫は思わず微笑み掛けていた。
男が、姜が息を呑む男が、椿姫の耳にまで届いた。
「おお――……妃殿下…………!」
★★★
椿姫の自愛溢れる笑み前に姜の口から漏れた妃殿下とは、彼女自身に向けられたものではなく彼が仕えていた句国王・玖の王妃・縫であろうことは、誰よりも椿姫本人が察していた。
おおっ……と戦慄きながら、姜はふらふらと寝台の上から降りる。
いや降りると言うよりは転がり落ちたと表現するべきだろう。
ごとり、と床を鳴らした姜は、四つん這いの格好でずりずりと椿姫の元に迫ってくる。
女官たちに呼ばれたのだろう、殿侍たちが沓音も高らかに部屋に押し寄せてきた。
妃殿下! と緊張の面持ちで間に割って入ろうとした彼らを、椿姫は手を振って制した。
思わぬ制止に、殿侍たちが一斉に固まる。互いの顔を見合わせてから椿姫の顔色を伺うようにしてきた彼らに、心配は要りませんから下がっておいでなさい、と椿姫は命じた。
殿侍たちに気が付いていないのか、這いずって来た姜は椿姫の裳に縋る。ぎゅ、と固く布を掴むと憚りもなく、おうおうと子供のように声を張り上げて泣き崩れた。
「……妃殿下、おぉ、殿下、妃殿下っ……!」
まさに、慟哭だった。
彼がまともな精神状態で無いのは、椿姫と彼の主君である王妃と間違えており、そして気が付けない、気が付こうとしない事からも明白である。
が、椿姫は姜の好きな様にさせた。
姜は、まるで渓流の途中にある滝壺のような唸り声を上げて泣き続ける。
どの位経ったであろうか。
丸めた背中をぶるぶると震わせて、妃殿下、妃殿下、と泣き崩れままの姜の髪を、くしゃ、と鷲掴むようにして撫でる手が現れた。ずるずると涙と涎と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れた顔を姜が上げると、幼いながらも貴人の相を見せる顔ばせをした子供の姿が目に入る。
やっと姜は、魂も精神も現実に戻ってきた。
――此の御方は……確か、郡王陛下の第一王子であらせられる、星王子……。
幼児ではあるが、堂々とした態度は両親の貴い血筋と周囲に在る者の教育の賜物、そして何よりも深い愛情があればこそ、大の大人に怯まず立ち向かおうとする王子に育っているのだろう。
そう云えば、祝の席でも未だ歩けぬ弟御子の為に自然な気遣いをしてみせた。
誰からも尊ばれ、誰よりも期待され、誰からも愛されている王子。
刮目されながらも其の柵に憎しみも畏れも抱かない度量の深さと器量の大きさの片鱗を今から見せている、素晴らしいとしか言い様が無い。
――だが、其れがどうした。
何だというのだ。
己の主君は、あれ程待ち望んでおられた御子さまを失ってしまわれた。
健やかな子を抱いておられる方々に、私の気持ちが分かってたまるか。
「食べなきゃ駄目」
星は、姜の内心で轟音を立てている葛藤などものともせず、なおも頭をぐりぐりと撫でながら云う。諭す、というよりは怒ったような口調だ。
姜は床に視線を落とした。
成程、折角、容易された食事をぶちまけて無駄にしてしまった事実が、広がっている。
「食べなきゃ駄目」
もう一度、星は云った。
今度ははっきりと、怒りを込めている。姜がわざと凄みを効かせて、ぎろりと睨んでみても星は堪えない。
「食べなきゃ駄目」
三度目は、更に続けて云った。
「此のお蕎麦と蜂蜜は、父様と母様が、一生懸命育てたんだ。大事にしなかったら、星が許さない」
目の縁を赤くしながら、星は一歩も引かなかった。
 




