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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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22 屍山血河 その2-2

22 屍山血河 2-2



 ――此のままでは、契国到着前に兵糧を喰い潰してしまう。

 優は野獣のように唸った。


 何処をどう節約しようもなかった。

 人の5倍は糧と水を必要とする馬を、何万と揃えるのだ。其の軍馬を満足させてやり、尚且つ人間も飢えさせぬだけでなく、行軍日数分に更に何ヶ月単位での余裕を持たせて揃えるのは常識中の常識だ。

 戦をするとは正しく互いの国庫の持久力の見せ付けあい、金による殴り合いなのだ。

 真は幼い頃から、優が勝利した戦をつぶさに解析し、金の重要性を充分過ぎる程に理解していた。だからこそ、戰の初陣と河国との水上戦でのあの奇策が閃いたのである。

 忠義や恩情、敬慕の念から自然と規律が生まれ、統率される。

 其れが軍隊の理想的な姿だ。

 優も、部下たちに事ある毎に説いてきた。

 然し乍ら、優本人が、空腹時には其れら全てが吹き飛び、土塊以下の値打ちしかないのだと身に沁みている。

 本能で動けば人間とて野獣とさして変わり無い。

 たがが外れた獣と化した兵の群れを、どう統制しろというのか?

 出来る訳が無い。


 ――戦場で人を確実に統率しうる力を発揮しうるのは義理人情だが、其れを確実性を与えられるのは食料と金のみだ。

 最期、人間が浅ましくも惨めな場に放り投げられた時、手を伸ばすのは其れまで恩恵を与えて呉れていた人物ではない。

 目の前に生き延びる物品をぶら下げて呉れる手だ。

 死んでたまるか、生き延びるのだ、という剥き出しの本能を満たして呉れる食物と金を前に抗える者の方が稀なのだ。

 何万という従軍者全員に、生粋の武人集団である兵部の其れを求める方がおかしいのだ。


 ――此の程度の端金はしたがねでどうしろと。

 どう足掻こうとも穴埋めなぞ出来ん穴ではないか。

 私財を投げ打ってみた処で、兵部尚書に成り上がってから築いた身代などたかが知れている。

 正室・妙は何かと言うと、優が目を掛けてやっていた若者たち、軒並み貧しい家柄である彼らの身辺雑事の世話もしてやっているのを事ある毎に責め立てていたが、実際に身上を喰い物にしていたのは彼女の実家のたかりの方だ。群がりようは其れは其れは凄まじく、目ぼしい物が無いとなれば下男が纏めておいた籾殻まで持って帰るような凄まじいまでの強欲さだった。

 ともあれ、優も兵部尚書として卑しまれぬ程度の生活は送ってはいる。

 が、彼も元来は身分が低い一門の出だ。己の親戚筋を頼ろうにも、迂闊に踏み込みでもすれば、此方が縋られて逃れられない藪蛇になりかねない。なけなしの財産と云えば家財の他には家付きとなってくれた奉公人たちになるが、彼らを売物として競人に渡すなど己の挟持に掛けて許せはしない。

 こうなると残りの頼みの綱と成りうるのは、商人・時だけだ。

 だが商人・時も、戰の戦に掛り切りになるだろう。

 甘える余地は何処にも無い。


 ――我が軍は、進軍中に敵地より搾取するしかなくなる。

 いや、搾取などと言葉を濁しても仕方無い。

 強奪であり略奪である。

 何年も何年も、息子に手を掛けてやれぬ分、力を注いで育てた上げた軍だ。彼らに野盗や山賊の如き所業を強いて挟持や自尊心を傷つけるなど、あってはならない。


 ――其れに何よりも、我らの不品行が将来、陛下が皇帝の座に就かれた時の足枷となる。

 そんな事があってたまるか。

 許せるものではない。


 

 ★★★



 ぎろぎろと見開いたの眼力で潰すつもりであるかのように、優は受を睨む。

 伸し掛かってくる圧力に、だが受は平然と、何をしておるかというまるで堪えていない涼し気な顔付きをして崩そうとしない。

 悪戯に刺激を深くすると分かって居ながら此の態度を取り続けるのであるから、まあよく其処までやる気になられるものですよ、と真をして云わしめるだけの事はある、と優は奇妙であるが感心する。


 微妙な空気の密度の違いから、優の感情の振れを機敏に察知したのだろう、す、と受は身体を引いて覆い被さる優から逃れた。つんのめる優の背に、やれやれ、と言いたげな受の吐息が刺さる。

「嘗て禍国に武人・優、此の人在りと恐れられていたが、どうやら今は昔らしいな。年は取りたくないものだ」

「何だと!?」

 流石に声を怒らせる優を前に、受は麻痺したかのように眉一つ動かさない。

「若き頃の兵部尚書は柔軟性のある策を用いる事で有名だった。時に突飛で不可解であるとされようが、面白き案を捻り出す頭を持ち合わせていたものだが。どうやら、其の霊力は息子に全て吸い取られ枯れ果てたようだな」

「貴様、言わせておけば……!」

 受の肩を鷲掴みにせんと迫る優の前に、……ひゅ、と空を切る短な音がした。

 瞬間的に優は、音に込められた凄まじい殺気を感じ取り本能的に飛び跳ねて後退り受と距離を置く。

 と同時に、優の鼻先を何かきらめくものが掠めて行った。


「やめよ」

 自身も予想外だったのだろうか、呆れたような声を受があげる。

 距離を開けた優の目には、鼻を空気圧で擦っていった物の正体が見えていた。其れは、細縄状の鞭の先に括り付けられていたひょうだった。

 まだ昼日中の、而も城の中で暗器を振るう輩が居ようとは思いもしなかったが、相手は何を仕出かすか解らないという点で息子と良い勝負の男だ。優は、直様腰に帯びている剣に手を伸ばして身構える。

「やめよ、兵部尚書。私に手出しせねば、あれ・・は其の方に危害を加えるような無駄な事はせん」

「……」

 何処か誂うような口調は、優をというよりは寧ろ、暗器を振るった相手に掛けてやっているようだった。暫し、沈黙が優と受、そして暗器が消えた先に澱む殺気の三点の間で流れた。

 が、優が肩を固く持ち上げながらも剣から手を離すと、すぅ……と殺気が霧散した。今度は口に出して、愚かしい……、と呟きつつ肩を上下させる。

 優に対してなのか、其れとも許しもなく暗器を振るった草に対してなのか測りかねる処だが、実際に冷や汗をかいているのは優の方だった。


 ――鏢を放つ瞬間まで全く気配を感じさせなかった、だと……?

 そして今は、まるで気配を感じさせない。鏢が消えた先には空々しい風に乗って木の葉が舞っているのが見える位だ。

 空恐ろしい、と身震いする。

 今も何処に潜んでいるのか、受にぴたりと影のように従っているのだろう。

 草が本気であれば優は今、こうして身体を震わせてはいない。

 いや、断末魔の筋肉の緊張から意味もない動きをさせられているかもしなかった。


 優が暗器を放った者への警戒を解かずにいると、何時まで肩肘を張っておる、言いたげに受が流し目をしてきた。

「金が無いならば捻り出せは良い、と其の方の息子であれば口にする処であろうがな」

「……もう良い。恥を忍び、貴殿に頭を下げれば何とかなろうと安易に考えていた自分が阿呆だったのだ」

 感情を全く見せぬ受を相手に、此方だけ気を爆発させ続けている事が急に阿呆らしくなった優は、ぐるり、と踵を返した。

 其れに確かに真ならば、薬湯をすすりつつ、父上はそんな瑣末な事で悩んでおられたのですか? と呆れながら答えるだろう。

 ――同じ我慢を強いられるのであれば、まだ馬鹿息子の方にしておくのだった。

 無駄な時間をお取らせし、申し訳なかった、とまるで何も気が咎めていなさそうな、むっつりとした不機嫌を隠しもしない声音で言い残し、優は受の前を去って行った。


 優の背中が角を曲がり見えなくなると受は一つ首を振り、城門に向かって何時もよりも幾分、早歩きで歩き出した。

 既に時を告げる鐘の音は、すっかり消えていたからだ。



 ★★★



 国王・学の名で家臣が集められ、朝議が行われる。

 そして此の朝議の場で、正式に禍国からの使者から齎された禍国皇帝・建の勅命が明らかにされた。


「で、坊っちゃんはどうするつもりなんや?」

 最近は相談にはのっても、是非にと朝議の場に誘われると、あれやこれやと理由を付けては正式な場には姿を見せようとしなかった。

 一つには、戰と学に従う若者たちにきちんと意見を戦わせてやり、彼らのみで結論を導き出す力を付けて貰わねばという思いからだった。そんな虚海であったが、今回ばかりは流石に迎えに来た竹に素直に背負われてやって来た。

 床の上に特別に設えられた虚海専用の敷物の上に横になりながら、虚海は冗談めかした普段の口調や態度をすっかり消して、学を見上げている。

 最も貴い座に戰と並んで座っている学は、ちらり、と其の戰の顔を伺うように覗き込んだ。戰が後押しをするように頷くと、学も頷き返した。

 虚海を見据える。

 其の視線に迷いはあるが、然し気弱さは無いのを感じ取った虚海は、嬉しそうに緩めた口元を瓢箪型の影に隠した。


「で? 坊っちゃんは? どないしなはるおつもりなんやな?」

「私は此処に残ります。露国と東燕の動きを抑えねばなりません」

「師匠に来て頂く前に改めて皆で協議したのですが、祭国王・学は動かしません」

「ほ~ん?」

「御使には既に祭国王・学の名にて作成した親書を渡し、送り返しています」

 戰と学と同時に答えられた虚海は、は~ん? と唸ると徳利の影で口元を持ち上げた。学がはっきりと己の意思を表明したのが満足そうだ。

「えらい手際がええやないか。ほんなら、皇子さんも坊っちゃんも、やる気、なんやな?」

 今度は徳利に隠さず、にや、と虚海は笑ってみせる。学が返答に窮していると、横にいた戰が身を乗り出すように進み出て、はい、と答えた。

「但し私は、禍国の命に従い、那国に向かいます」

「ほうか、ま、そらそうなるわな」

 先に薔姫に決意を語ったように、戰は那国に居る廃皇子・乱を此の機を逃さず討ち取る気でいる。

 珍しくぎらぎらとした決意を溢れさせる強い眼光に、虚海は戰の本気を見た気がした。


「禍国には、句国に居座る備国に向かう途中、剛国が祭国を越えて攻め込む恐れがある、故に動けぬ、と伝えてあります」

 戰の答えに、けっけっけ、そらええわ、と虚海は腹を抱えて笑った。

「せやけど、遠慮したる事あらへんかったんやで? もっと脅しといたったら、ええんや。あの糞皇帝相手に、ちぃっとばかし苦労したったらええんや、大保はんも」

 学からの親書を目にした皇帝・建が大保に向かって喚き散らす姿が目に浮かぶようだ。

 しかし実際の処、露国、東燕、剛国、そして備国からの攻撃を受ける恐れがあるのは事実だ。

 戰が居ない祭国を、学は一人で背負う事になる。

 而も、何時まで、という確証がまるで無い。

 下手をすれば1年を軽く超える事になるだろう。

 学にとっては此れが、国王として初めて担う真実の重責と云えた。


「お師様、どうか私をお導き下さい」

 学が立ち上がり、丁寧に虚海に礼を捧げる。

 幼さの残る面持ちには、極度の緊張がある。

 初めて、たった一人で全てを成さねばならない重圧に、圧し潰されそうなのだ。

 坊っちゃん、止めてくれんかいな、と虚海は簾のような傷だらけの顔を顰めて、慌てて手を振った。


「そんな事、改めて頼まれるまでもあらへんわい。皇子さんと坊っちゃんが大事にしてきた祭国の為やったら、なんぼでも苦労したるでぇ」

 虚海が胸を張ると、はい、と学が頬の強張りを解いて笑みを見せた。

「坊っちゃん、そんで早速なんやがな」

「は、はい」

「儂はな、坊っちゃんや皇子さんらよりゃ、大保はんのを知っとる。あん御人の事やでな、此れで終わりやと思っとったらあかんでぇ」

「師匠、と、云うと?」

「多分やけどな、大保はんのこっちゃ。今頃、真さんの親父さんに契国を討って来い、ちゅう命令出しとると思うで?」

 ガタ! と音を立てて、竹が椅子から飛び上がった。


「兵部尚書さまに、ですと!? まさか!?」

「いや、考えられない事ではない。大保は今、大司馬を兼任しているからね」

 目の剥き唾を飛ばして怒鳴る竹の姿は、克を彷彿とさせる。戰は落ち着くようにと手で宥めつつ、苦笑いする。赤面しつつ、竹は椅子に座り直した。

 だが今、禍国全軍の指揮権を手にしているのは、戰が云ったように兵部尚書・優ではない。

 大保にして大司馬・受だ。

 優が那国に出陣すべしと兵部で決したとしても、覆す力が大司馬にはある。


「しかし、契国とは……」

 那国を攻めるとなれば、河国王となった灼の協力も得られる。

 歩兵などは河国に頼り、先の戦でも見せ付けた騎馬隊だけでの参戦となれば禍国本土の負担は軽くなる。

 西方の警戒を怠る訳にはいかない現状で、何処まで兵を割くつもりなのだろうか。


 禍国の懐事情を知らない戰たちは、純粋に国防と侵攻に割く兵馬の比重についてのみ案じていたが、此の頃の優は火の車の国庫を前にして、怒り狂っていた処だった。



 ★★★



「兵部尚書さまに契国進撃を命じられては、いざという時に誰が禍国を護るというのですか?」

 寄り目になった竹を、かっさんに似てきたなあ、と虚海は誂いながら徳利の蓋を開ける。


「そんなもん、決まっとるがな」

「だ、誰だと云うのですか?」

「坊っちゃんやがな」

「へ、陛下が!?」

 いちいちくっそ五月蝿うるそうて面倒臭めんどいのも、なんやかっさんに似てきよったなあ、気色わりい位やで、とぼそぼそ口の中でぼやきつつ虚海は徳利を傾けた。

 しかし、興奮が脳天の先まで駆け登っている竹の耳には届いていない。

「こ、此の上に更に国王陛下に其のような重責を押し付けようというのか、大保の奴!」

 相手が目の前に居ないというのに、剣に手を掛け、カッ! と頬に血の気を登らせた竹がまた椅子を蹴立てて立ち上がって叫ぶ。

 竹はん、そらちゃうがな、と虚海が呆れて頭を振り振りしゃがれ・・・・声を零した。


「まぁちっと、落ち着きぃな、竹はん。よう考えてみ? 逆やがな、逆」

「――は?」

「坊っちゃんが動けぇへん理由付けを、大保はんが頭捻って呉れたんやがな」

 云われてやっと竹は、への字口になってブツブツ言いつつ何やら思案し始めた。そして何かを思い付いたのだろう、あっ!? となる。

 そんな竹に、ええ子や、と虚海は片目を閉じながら徳利を傾けた。

「た、確かに、虚海殿の云う通りかもしれん」

 ごく、と竹が喉を鳴らした。

 同時期に戰が那国に出兵し、更に優が契国に出陣したと知れば、与し易しとばかりに備国と剛国が攻め入って来る可能性が高まる。

「両国の脅威を、学陛下が盾となり防ぐ所存である、と。そ、そう云う事だな?」

「ま、言い方は色々やが、簡単に要約してまえばそんな処になるやろな」

 合格や、と笑うと、ぐびぐびと音をたて、虚海は酒を飲み下した。


 ぷはっ! と小気味の良い音をたてて呑口から口を離すと、ぐ、と手の甲で口角の端から落ちかけた酒の滴を拭い取る虚海の目に、どうだと言わんばかりの自慢げな竹のてかてかした笑顔が映る。

 いい笑顔だと云うのに、ちく、と皺くちゃの腹の奥に、何か棘が刺さったように虚海は感じていた。

 


 ★★★



「師匠、禍国の事は兵部尚書に任せよう。今此処で気を揉んでいても仕方無い」

「ほやな、そらそうや」

「私が那国に出陣するとして、どの位の兵を割くのが妥当であると思われますか?」

「剛国に残っとる、真さんとかっさんの助太刀に送ったらなあかん兵隊さんのも考えとくとやな……そやな、いっても2万がええとこやないかな」

「……そうか、そうですね……」


 明らかに落胆の色を見せて戰は肩を落とす。

 幾ら屯田兵の充実と共に祭国軍も力を蓄えてきたとはいえ、那国と剛国と露国、三方向に向けて其々に対応しうる備えをしろと言ってもどだい無理がある。其れは強国で知られる禍国ですら同様なのだから、そんな卑下する事はない。

 皇子さん、そらしゃあないこったで? と虚海は慰めの声を掛けた。

「河国王さんも、手伝てつどうて呉れるんやろ? ほんなら、そう、うだうだ悩まんときぃ。な、皇子さん」

「そうですね。……では編成は? どの様にすべきであるかと、策はお持ちですか?」

 ほやなぁ、と虚海は腕を組む。


かっさんが率いとる騎馬隊は、竹はんに剛国まで持ってって貰うとしてやな」

「そうなると、剛国には1万騎を派遣する、と?」

 やる気満々で身を乗り出してきた竹に、いや、と虚海と戰は同時に首を振る。

「阿呆ぉ言いな、竹はん。かっさんの部隊、全部持ってってまったら、其れこそ本気で備国や燕国に攻めて来られた時にどうするつもりなんや。ちっと考えたら分かるやろが」

「――あ? ……あ、あぁ!? そ、そうか、言われてみりゃ、そりゃそうですよ……ね、はい……」

 ははは、と乾いた笑い声を上げる竹に、全く、しょうむないやっちゃな、と虚海は顔を顰める。


「真さん処に報せが届いたら、真さんのこっちゃでな。備国が祭国に来んように云うて、剛国を巻き込んで句国に向かうように仕向けるに決まっとる。其れは確実や。それにやな、剛国王さんかて真さんをあんだけ取り込みたがっとるんや。真さんとかっさんだけを、備国と戦わせるつもりはさらさらあらへんやろ。やで、剛国がこっちゃ来る心配はせんでもええ」

「となると警戒すべきは、矢張り露国と東燕、ですか?」

「そやなぁ、そうなるわなあ」

「しかし、露国は心配ではありますが、此れまでの露国王を見ている限り、確率的には動かぬような気がします」

「やな、露国王さんはどう見ても漁夫の利をねろうとるでな。一気に大軍を動かして来る、ちゅう気はせんな」

 露国王・静が動くとしたら、内々に椿姫を狙って来るだろう。


「では、東燕側の警戒を主にして?」

 東燕は、真に対して璃燕の縁続きの姫を側室に上げようとまでしたのだ。

 問題を放置しては沽券に関わるであろうし、何がしかの動きを見せるとしたら東燕が先だろう。

「そうなるが、だがだからと言って、露国に対して気を抜いて良い話にはならん」

「ほやで、竹はん。ええか? 攻め続けるよりゃ、護り切る方が戦、ちゅうもんは難しいんやで?」

 はい、と竹は表情を引き締めて頷く。

 判りゃええのや、と虚海も渋面を解き、そして学に向き直った。

「そんでもやな、坊っちゃん。祭国は皇子さんに負けてまった事があるやろ?」

「は? はい、其れが……」

「祭国の兵隊さんはな、なまじ負け戦に悪い印象もっとらへん。其処がやな、ちぃっとばかし厄介なんや」

「……」

 虚海の言わんとする処は、学も分かる。


 祭国は嘗て、椿姫の実兄にして学の実父である亡き王太子であった覺と、当時の王にして椿姫と覺の父であった順の弟王子・便との間で、国を二分する大乱に巻き込まれた。

 この内乱は、明晰な頭脳と先見の識を持つ太子・覺と果断にして勇猛であり常に精進を怠らなかった便という祭国にとっては最も優秀な人材を同時に無くす事で集結した。

 未だに人々の心に、恐怖体験として根強く染み付いている大規模な内乱だ。

 そして実は此の内乱は、国王・順の優柔不断さが引き起こしたものだった。


 戰の妃となった順の娘である椿姫の心情を慮って誰も口にはしないが、あの愚かな内乱ははっきりと人災であった。

 寧ろ、覺と便が共に手を携えて順を討ち果たして呉れたならば、と良心ある者ほど歯噛みしたものだ。

 其れに引き換え、続いて経験した超大国・禍国との戦はどうだ。

 戰の初陣となった戦いにおいて、祭国は敗戦国であったにも関わらず誰も傷付かなかった。

 戦があったのかと疑いたくなるような静けさの中で収束してしまい、包囲網を受けた王都ならいざ知らず、句国や露国などとの国境附近に在る遠方の邑ともなれば戦が終わったという報せを邑令が受けて初めて知る有様だったのだ。

 おまけに禍国に質として捕らえられはしたが、後に椿の女王即位に至って後、今日迄の5年間は祭国が産声を上げてより最も豊穣なる時代を送っているではないか。


 ――国が燃えるという哀しみが如何に魂を抉るものであるかを、戦に負けるという悲惨さを、祭国の民は知らない。

 戦により、家族を失い土地と財産を奪われ、生きていく気力を無くし尊厳も失くし、霊鬼のように彷徨うしか術がなくなる悍ましさを知らない。

 戰も学も虚海も、其処を憂慮しているのだ。


 戰たちが目指すのは確かに、此の中華平原に生きる全ての人々が等しく安んじられる生活くらしを得る事だ。

 其の為に、酸鼻な戦場に無残に転がる遺体が辿った惨憺たる経緯を経験しておけ、などとは言わない。

 しかし、悪夢として一生引き摺るような、魂が空になるような此の世の生き地獄を体験していない者は、どうしても自分の経験に基づいて甘い判断を下し易くなる。


 そして最も重要なのは、戰自身も、戦に討って出る経験はあっても攻め入られる経験はない、という事だった。

 祭国が今最もおそれを抱かねばならないのは、其れは攻めて来るであろう諸国の脅威ではなかった。

 戰が施いてきた善政だった。



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