22 屍山血河 その2-1
22 屍山血河 その2-1
皇帝・建からの呼び出しを受けた受は、手にしていた木簡から、ぎろ、と視線を上げた。
不遜とも思っていないのだろう、明白に顔を顰める受に、使いの資人は、びくりと身を引いた。後退りする資人を更に情けなくも頼りなし、と思うのか、……ふん、と鼻を鳴らした受は再び木簡に視線を落として答える。
「放っておけ」
「――は、は?」
「聞こえなかったのか? 奴の戯言なぞいちいち取り次ぐ必要はない。二度とは云わぬ、放っておけ」
「は、あの、大保さま、ですが、その」
仮にも皇帝を捕まえて『奴』などと、我が主人ながら何という恐れ知らずな、と師事は半泣きになる。
皇帝の御意を得て此方に来た内官は此の執務室の声が届かない別室に待機させてはいるが、きょろきょろと周辺を探って、戸口や壁に眼や耳が隠れていないか慎重に気配を探りを入れる。誰かの耳に入りでもしたら、そして悪意ある歪曲とこじつけで話を5割増し以上にして皇帝・建の耳にいれられでもしたら、と主人思いの資人は哀れな程に青褪める。
そんな折角の主人への忠義を、受は、まるでなっていない道化の滑稽踊りを見ているかのような目をして見ている。
「大保さま、皇帝陛下の仰言に御座いますれば……」
「あれの何処が皇帝だ。美味珍味佳肴を喰らい倒し、豪奢の限りを尽くし、放蕩を極め、後宮どもの腹の上で忙しなく尻を振るのが役目と勘違いしておるような輩だぞ」
から、から、かたん、と乾いた音を立てて木簡を捲る受は、微塵も表情を変えない。
対して資人は、此れはもう死人のように蒼白になった。
其れだけでなく、粘っこい汗をだらだらと全身から流し出す。主人の口の悪さは今に始まった事ではないが、それにしても今日の大保は痛罵が過ぎる。
そろそろ、時辰を知らせる鐘を鳴らしに来る頃だ。
以前、受は皇太后・合の鳴り物入りで職を与えられた彼らの存在を皇帝の門前で否定し、扱き下ろした。そんな彼らに聞かれでもしていたら、そして其れを密告されでもしたら身の破滅ではないか。
資人は己の命運の行く先を思い、がくがくと膝を震わせ始める。受は、ガチガチと歯まで鳴らし出した資人を煩わしそうな眸で見上げる。
「何をしておるか。下がるがよい」
「は、はい、然し恐れながら大保さま、皇帝陛下の仰言を携えし内官さまに何と答えれば」
「放っておけ。そのうち諦めて帰る」
平然と答えつつ、受は手にしていた木簡を脇に置いて別の木簡を取り上げる。
いやしかし大保さま……! とまだ喰い下がる資人を、大保・受は其れ以後まるで空気のように居ないもの、として扱った。
★★★
皇帝の名で命じたというのに、何時まで経っても大保・受がやって来ない。
待てども待てども姿を見せぬ受に苛々を募らせながら、皇帝・建は玉座に腰を据えたままの姿勢で膝を揺すり続ける。母親である皇太后・合からは威厳を損なう、と此の膝揺すりを何時も眉を顰めては忌々しげに顔を背けられてしまうのだが、建は止められなかった。
そして、一体どれ程待ったであろうか。
腹もすき、ぐう、と鳴いて不平を洩らし始めるだんになって漸く、内官が大保・受が御意を得て拝謁の栄誉と御許を求めてきたと告げてきた。
「よくも今頃のこのこと……!」
チッ、と舌打ちしつつも、通せ、と建は許しを与えて謁見を許す。
せめて、畏怖の念を持たれようと貫禄があるように胸を張る。
しかし現れた大保・受は、そんな建を全く無視した。
滑稽な独り芝居を演じた形となった建は、近頃更に丸くなり二重どころか三重になりだした顎の皺まで赤くして怒りを露わにする。
「大保よ」
「はい」
「何故、呼び出しに直様従わなかった。不逞の輩として罰せられても良いのか?」
何かというと、受は此方の品位を貶めてくる。
まるで皇帝と認めず、其れ処か、同等以下の者に対応しているかのような口調を改めようともしない大保に思い知らせてやらねばならぬ、とばかりに建は偉容ある皇帝を見せ付けんと踏ん反り返る。
だが大保は形ばかりの礼拝を建に捧げると、阿呆め、と言いたげに目を眇めた。
「罰したいのであれば罰せよ。此方も、其の方の気まぐれに呼び出される度に応じていては、大保と大司馬、背負う二つの大役を全う出来ぬ」
淡々と答える大保の口調は、毛筋ほども堪えていない。
嘆息を堪えてやるだけ感謝しろと言いたげな大保の冷たい視線を前にして、再び道化を演じてしまったと感じた建は、ふぬぬ、と鼻を膨らませた。
「な、何が大司馬だ! 軍部を仕切っておるのは実質は兵部尚書ではないか!」
「其の兵部尚書に勝って貰わねばならぬから多忙を極めておるのだ、分からんのか」
激昂した建は唾を飛ばして捲し立てたが、受は微動だにしない。
ぐ、ぎ、ぐぅ、と呻りながら奥歯を噛み締めつつも、建の心胆は逆に、ざぁっ、と音を立てて引いて行く。
こんな状況下で普段と寸分違わぬ態度を取り続けられる受が、いよいよ以て人の顔の皮を被った化け物のように見えてきたのである。
――気色の悪い奴め!
貴様など、親兄弟が自滅したが故に権力を手に入れられのではないか!
吃持ちの障碍者が雲上するなど!
だが、頭にこようが気色が悪かろうが、大保に頼らねば物事は進んで行かない。
禍国帝室の国庫を預かる司農寺と官職への俸給を整える太府寺に話を付けるには、腹立たしい事にこの辛気臭い面付きをした男の許しが必要なのだ。
「……まあ良い。其の方の尽力が多岐に渡っておるのは私も理解しておる」
「ならば良い」
「……大保よ、他でもない。其の方に頼み事があるのだ」
突然平身低頭気味になった建に、来たか、とでも言いたそうな胡乱げな一瞥を受は投げ掛ける。
一瞬身を引きそうになったが、此処でうろうろしている訳にはいかない。
「実はな、其の方に都合を付けて貰いたい儀があるのだ」
「またか」
へこへこと頭を下げんばかりの建に、受は平然と言い放つ。
「そう云うな。私とて、いちいち其の方を呼び出したくなどないわ。だが、お前が九寺の機能を牛耳るようになってしまったのだから仕方があるまい」
「今度は何処の女だ」
大保の方から懸案事項を切り出されて、建は其れまでの媚び諂った態度から一気に喜色満面となる。
「うむ、実は一介の女官なのだが、でかした事に私の子を孕んでおってな」
「女官なれば後宮の官位は采女が順当だが、御子様を腹に宿しておられるとなればそうはいくまいが」
「そうだろう、そうであるな、当然だ。この皇帝の血を継ぐ御子なのだからな。――で」
「で、とは?」
「それで、という意味だ」
この期に及んで焦らしに掛かる受に、建はむすっとしつつも勢い込んで肩を掴む。
「どの位の品位を与えてやれるか?」
「御女が妥当であろう」
喜び勇んでいた建は、受が提案した御女という位に一気に不満げな表情になった。
而も、恐れながらという態度ではなく、阿呆めが、と言いたげに横目で、それも真冬の氷柱よりも冷ややかな目付きをされたのだから堪らない。脳天を突き抜ける怒りに駆られた建は、遂に受の胸倉を掴んで揺さぶった。
「も、もそっと位を上げてはやれぬのか? み、御子だぞ? 帝室に安寧を齎す御子を宿したのだぞ!? せめて才人程度の位を授けてやれんのか?」
「止めておけ。下手に下品の女に権勢を与えるとどうなるか。郡王の実母を見ておれば分かろう」
ふぎ、と建は奇妙な声を上げる。
戰の実母、麗美人は皇帝・景から過ぎる寵愛を得た為に後宮の妃たちの壮絶な虐めにあい、神経を衰弱させ、出産と共に儚い存在となった。麗美人を虐め抜く急先鋒に、彼の母、当時淑妃であった合も加わっていたのだから、当然建も余さず目にしている。
女官や内人に皇帝の手が着いて後宮に入った場合は、先ずは8品の采女となる。
御子を宿して出産し、其の子が皇子であり、より寵愛が深まれば徐々に出世していくのが通例だ。
其れにどうせ、此度手を付けた女官が後宮にて御子を出産する頃には皇帝の方で既に飽きている。そして彼女と同じような立場の新たな御手付きが、ごろごろ誕生しているのが関の山だ。
だからという訳でもないが、元は平民の女官に手が着いたとしても、いちいち誰も肩入れしない。其の後も変わらぬ寵を受けたとしても精々が5品の寶林まで登れば上等であるし、受が示した内示案は此れらから鑑みて至極当然なのである。
しかし建はまだ諦めきれぬらしい。
愛でている女官に、相当に気前の良い夢を生温い声で耳に吹き込みつつ褥に押し倒したのだろうか。。今回はまた何時もと違い、やたらと喰い下がってくる。
「ど、どうしても駄目か?」
「どうしてもというのであれば、皇太后陛下にでも相談されよ。新たな役職を用意して下されるだろう」
出来るか! と建は激昂して叫ぶ。
「私は皇帝だぞ!? 平原一の帝国を統べる皇帝だぞ!? その皇帝の思い通りにならぬ事があって良いのか!? 許されるのか!?」
「ならば勝手にするがいい」
喚く建に、受はくるりと背中を見せる。
政務の終了を知らせる鐘の音が、かあんかあん、と大仰に響き始めていた。
★★★
普段と変わらぬ無表情と歩幅で城の門を目指して回廊を歩いていた受は、横手から呼び止められた。
ぴたり、と脚を止めると同時に、巌のような体躯の男に行く手を遮られる。じと、と上目遣いで睨め付けながらも、受は落ち着き払った声音で立ち塞がる男の名を呼んだ。
「兵部尚書か、何用だ」
平然と問われて、相手の優の方が鼻白む。
む、と小鼻を膨らませつつも優はずい、と一歩踏み出して更に受の動きを封じ込める。
「大司馬殿の御存念をお聞きしたく、罷り越した」
大保ではなく大司馬とした処に、優の意図が見て取れる。
今度は受の方が、ふむ? よ口を曲げて唸ってみせた。しかし其れは、些か失望落胆を感じさせる。
真も事ある時には似たような態度を取るのを思い出して、優は胃の腑辺りにムカムカとするものがこみ上げて来る。
「存念とはまた穏やかではないが、斯様な場所での立ち話で良いのか」
「構わん。聞かれて困るような後ろ暗さは持ち合わせておらん」
「大層な自信だ。――で、何だ」
不快感を必死で飲み下し、腕を取り捻り上げたくなるのに耐える。
「大司馬殿におかれては、此度の出兵に際して割く臨時の金をどの様に思っておられるのだ」
「何事かと思えば」
肩を揺らして、実に下らぬ、と受は斬って落とす。
ふ……、と短く鼻で笑う受を前に、優は衿を掴んで放り上げて気合を入れ直してやろうか、と腹の底で唸った。
しかしその殺気をも堪えきる。身体だけでなく、気力ででも壁のようにはだかる優だったが、受の方は一向に堪えていない。何処吹く風といった風情であるのが、益々もって優の癪に障る。
「何事かとは我ら兵部の言い分だ。此度、契国を攻めよと兵部に命じておきながら、あれは何だ!?」
「兵部には説明をした」
「其れで通ると思うのか!」
戦に出た経験もない尻の痣も消えぬ青二才が! とまで続けなかったのは、優の我慢が奇跡的に働いたからだ。
「そもそも、どういう計算をしたのだ! あの程度の端た金で、兵馬の兵糧が購えると思っているのか?」
「仕方あるまい。融通してやりたいのは山々だが、今の禍国は決定的に金がない。元がないものをどうやって捻り出せと言うのだ」
貴様っ!! と怒鳴りかけるのを唇を噛みつつ耐え、優は唸る。
「中華平原に、歩兵に至るまで全軍此れ精鋭と知れ渡り畏怖の念を抱かれている我が禍国軍だ。禍国の軍旗の波を押し立てての行軍を見せ付けてやれば、敵も敵わじと悟り早々に降伏してこよう」
「其れが大司馬殿の認識か」
まさかな、と大保は肩を竦める。
「皇帝陛下の御言葉だ。此処まで信じて頂けるなど、武人にとって栄誉の極みであろう」
「……有難くも勿体無い事だ」
興奮した若駒のように全身を汗で濡れそぼらせ、ふぅふぅと息を継ぐ優を、受は感情がこもっておらぬ癖に異様に鋭い物を含んだ眼光で睨め付けてくる。
「現皇帝の治世は惨憺たるものだ」
「其の位の事は理解しておる――いや、させられた」
「ならば金の無心など無駄だと解ろう」
ちっ、と舌打ちしかけるのを優は必死で堪える。
――どうして此処まで金が無くなっていた。
此度の出陣に備えるようになって、始めて真実の国の状態を知った優は、天井を仰ぎ見る。
見抜けなかった悔しさに、鼓動が耳に喧しくなっていた。
★★★
4年程前の事になるが、祭国で戰が実施した政策を真似ての優遇政策が禍国でも施された。
当時の皇太子・天が己の失点回復の為に受に命じて施行させたものだ。
当初は、何のことやらと戸惑っていた領民たちや下士官だったが、やがて手応えを感じ始めると、そこそこ好感をもって受け入れられていた。
が、建が皇帝として即位して1年を過ぎる頃には有名無実化してしまう。
今は逆に彼の政綱を広めんとして発布された政策綱領只の建前、詭弁であったかと諦めと怒りが複雑に絡み合ったどす黒い感情の塊となって、領土を覆い始めている。なまじ、その施政の良い面を見て此れが長く続くのであれば、と期待を寄せた分、負の感情の広まりは恐ろしい。
皇帝・建と彼の母后・合とその一門は、凄まじい勢いで国庫を浪費していたのだ。
その速度は赤子の成長などよりも早く、火山から流れ出る灼熱の動く岩の如くに容赦なく根刮ぎ何もかもを奪い取っていく。
王都に居ると分かりづらいが、地方の農村部で其れは特に顕著になった。
あれだけ、新たな政策に夢と期待を賭けようと熱く語らっていた者たちが、踵を返した途端に中央に阿る顔に変わった。自分たちが生き延びる方が先決であるとはいえ、領民や更には賤民たちには彼らの変節ぶりは殺しても飽き足らぬものとして胸に刻み込まれた。
たった4年。
されど4年。
皇帝・建と皇太后・合が知らぬ間に、禍国の財政は文字通りに火の車となっていた。
状況を正確に知らぬのは建たちのみだ。無論、知った処で自ら戒めるような殊勝な彼らではないのだが、兎も角、蜘蛛の巣が張りそうな程に空になった蔵を誤魔化し、財政難を感じさせずに回して来られたのは、領民たちから租税を容赦なく搾り取り、従わぬ者は一門全ての罪を激しく問い、財産を没収して穴埋めしてきたからだ。
苛斂誅求とは良くぞ言い表したものだ。
代帝・安も皇后時代から浪費の激しい女性ではあったが、まだ此処まで何をどう施しようもない迄に逼迫させはしなかった。だからこそ真も、国庫から金をちょろまかしてやろうと目論めたのだ。
ちら、と視線を落とすと、大保・受が相変わらずの無表情で其処に佇んでいる。冷や汗一つ、かいていない。
――厭味な程に、気を荒らげる事がない男だ。
そしてよくも此処まで私を騙して呉れたものだ。
おまけに、露見した後でもこの態度だ。
――どういう脳の構造をしておるのだ、此の男は。
優はぎりぎりと歯噛みをした。
なんだかんだで、真は気持ちが表情や態度に出る。
しかし大保は其れが全く無く、人間味に乏しい。
というよりも、此奴はまともな血と臓腑を腹に収めた人間なのか? と疑いたくなってくるのだ。
とはいえ、優にも分かっている。
此れは、大保・受の策略だ。
受が目論んでいる、郡王・戰を皇帝の座に据える為の布石の一つだ。
此の窮状、考え様によっては大保・受は戰を皇帝にと望んでいる優や刑部省書・平たちの強い味方とも云える。皇帝・建への不平不満が貯まれば内側から鬱憤が火を噴き、戰への傾倒に繋がって行くだろう。
しかし、遣りようがいけ好かないと云うか気に入らない。
今の此の危機的状況下において、軍の不備は其のまま敗戦への道に繋がる。
戰が此処まで禍国の領民たちに受けが良いのは、麗美人を母とした物語性溢れる彼の出自も然る事乍ら、初陣から此れまで負け知らずの常勝将軍で通して来たからこそだ。
★★★
烽火が上がり、同盟国であり崑山脈以西の国々からの盾の役割を担ってきた句国が、事もあろうに備国に敗れたと伝えてきた。
此の事実を知った皇帝・建は当然の事ながら大いに狼狽え、何とかしろ! と問題を受に丸投げした。
大保、いや軍の最高司令である大司馬・受は、皇帝・建に奏上して上手く操作し、祭国郡王・戰に那国攻めを、そして宗主国として祭国王・学に備国との対応を命じさせた。
受は、烽火が上がった其の日の晩までに此れらを一気に決定したのだ。
其処に至るまでの大保には迷いや躊躇は一切無く、まるでろくろが螺旋を描いて壺を練り上げてゆくような、澱みのない流暢な手配であった。
戰に戦や面倒事の全てを上手く押し付けられた、此れで万事諸事片付いた、と知るやいなや、皇帝・建は再び自堕落な生活に舞い戻ったという訳である。
其処までなら、別に何も云わない。
其れだけであるのなら、自分には、兵部尚書として戦に身を投じるべきである命じよ、と皇帝に直訴して認めさせてやるつもりでいた。
だが後の早馬で詳細を知った大保は事もあろうに、兵部尚書である優には、契国に対して厳しく当るべし、事と次第によっては兵部尚書の権限にて侵攻を定めてもよい、と命じてきたのである。
国を危うくした契国を討つのは理に適っており、且つ、其れだけの力があり契国に最も近い位置に在るのは優しかいないのであるし、大司馬として命じるには極妥当といえる。しかし戰と共に那国と戦う気でいた優と兵部の面々は、盛大に肩透かしを喰う形となった。
だが、優と兵部の怒りは、何も戰と共に戦に出られないからという些細な事に由来しているのではない。
戰が率いる郡王軍の一員となる祭国の屯田兵たちが禍国軍に劣らぬ力を蓄えているのは、誰よりも優が熟知している。
其れに、禍国への忠誠と、兵部に掛ける情熱と愛情のみで、ただ一身のみで此処までの地位を築き上げてきた武人として、自分が居なければ戰が勝てないなどと愚かな自惚れなども抱いてはいない。
優が怒りを隠せぬのは、自国の為体を目の当たりにしたからだ。
――金がない、だと……!?
育て上げてきた兵部の者と共に、優は茫然自失するしかなかった。
真の進言を取り入れて、騎馬隊の育成に力を注いできた兵部の中に、戦う前から兜を脱ぐつもりの着物小さい輩はいない。戦場は違えども、此れまで蓄えに蓄えてきた力を発揮する場を与えられたのだから、其れに向かって意識を集中させようとした矢先、優とその部下たちは、この血と汗の結晶とも云える大部隊をハレの場にて活躍させる為の軍資金が決定的に足りぬと知らされたのだ。
人馬を充分に機能させて策を成功に導くには、将兵の有能さも然る事乍ら、末端の兵士たちの腹が満ちているか、精神的に安定しているかどうかによる。
禍国では武人は武人として養われている。此度のような大戦ともなれば、具足も満足に用意できぬような領民たちも兵役を課して駆り出す。しかし彼らにも役割に応じた報酬が支払われるからこそ、禍国は平原の中で突出した強さを保ってきていたのである。
だ、彼らの忠義と戦争に赴かせる力を持続させてきた、金がない。
此れでは契国に向かうまでで兵糧を喰い潰してしまうし、何よりも兵役でかき集めた歩兵に持たせてやれる武器が限られてしまう。
充分な食料もなければ戦に臨めぬし、備えも用意してやれねば相手国の格好の餌食となる。
況して勝利に貢献したとして皇帝の名で与えられる賞与など無い袖は振れぬ、と突き放すしかなければ、先ず以て戦場に生命を掛ける気力など湧くまい。
脱走兵がどの位の規模と成るのか、想像するのも恐ろしい。
幾ら禍国軍の真骨頂が騎馬隊による集団戦法にあろうとも、腹をすかせて身体を弱らせた兵馬に何が出来るというのか。
當たら野垂れ死に死にゆくようなものであり、最初から大敗塗地が見えている戦場へ征けと命じられて怒り覚えずにいられる訳が無い。
――もしも自分たちが負けるような事になれば、勢いづいた契国軍がどうでるか。
当然、其の頃には那国軍と激突している郡王軍の存在に気が付いている。
戰が率いる一軍の恐ろしさを汎ゆる面で身に沁みている契国相国・嵒が、此の絶好の好機を見逃すという悪手を打つとは思えない。
必ずや、勝ち戦の波に乗って攻めて来る。
――那国との戦に挑んでおられる陛下が、背後を突かれる。
其れを知らせる術はなく、虚を突かれた軍の脆さと危うさは、戦場に生きてきた優が誰よりも熟知している。
――陛下に負けの土を踏ませるつもりか、大保め。
契国から河国まで、巨船を使って下れば日数を稼げると知らしめたのは、他でもない、当の戰であるのは皮肉としか言い様が無い。
が、今は憂いている暇があるのならば、此の愚かしい状況を少しでも良い、改善する方に注力してゆくしかない。
其れに優とて、手塩に掛けて此処まで育ててきた部隊を失う為に出陣式など開けない。
部下たちを守ってやれるのは自分しかいないのだ。
大保に煩がられようが何だろうが、対面や格好など構ってはいられない。
喰い下がり、何としてでも最低限の資金を毟り取ってやる、とまるで破落戸宛らに受の前に立ちはだかったのだった




