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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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22 屍山血河 その1-3

22 屍山血河 その1-3



「杢殿――と、おお、時殿も来て居られたか」

 湿気の多い河国に3年近くも暮らしていながら未だに風土に慣れないのか、ふぅっ……、と声を掛けつつ腰を下ろした吉次は、きょろきょろと首と視線を左右に振る。蘆野が飛び込んできはしないか、と気にしているのだ。

 御息女は遊びに出られておられますぞ、と時が笑顔で告げると、は、此れは、と吉次は恐縮した。何かある時は玩具なり珍しい菓子なりを差し入れて子供たちの溜り場となっている屋敷から彼らを遠ざけるのは、時の上等手段なのだろう。其れがなくとも、養女である蘆野に甘い時に、吉次は常に申し訳ない、と平身低頭していた。


「那国の様子は?」

 杢は、既に普段の彼に戻っている。

 短い言葉の中に全てを詰め込んである。

 河国に来てから恰幅が良くなり、一回り大きくなった顎を撫でながら、うむ、と吉次は渋面を作った。

「かなり、面倒事になりそうだ」

 自覚もなしに、吉次は深々と息を吐く。

 杢は僅かに目を伏せて、眉を寄せた。疲労の色はまだ然程濃くはないが、だが今の、神経をすり減らす状態が続けば疲れ知らずで知られる偉丈夫の彼とて、まいる・・・に違いなかった。

「……」

「契国相国の申し出に、最後の最後に乗って一番上手い処を労せず手にするつもりだったのだろうが、備国が思わぬ動きを見せた事に焦りを見せている」


 杢は押し黙ったまま、尖った顎の先に手を当てて何か考え込んだ。ちらり、と時はそんな杢の顔色を伺いながら、此方で掴んでおる事と云えば、と切り出す。

「那国王が陽国へ使者を送っておりますな」

 其れだ、と吉次は全身を使って大仰に嘆息する。

「そろそろ、陽国からの返答が来てもおかしくはないと思われますがなあ」

「我が主君であらせられる來世陛下が、よもや那国如きの戯言にのる・・とは思えぬ。其れは確かだ。縦しんば何事か有ったとしても、陽国は那国には靡かぬ」

 珍しく勢い込む吉次に、そうですなあ、と時がのんびりと応じる。


「時殿。陽国からこの河国まで、最も大きな船に最大限の人と荷を積んで向かってくるとして最短日数はどの位か、分かるだろうか?」

 杢の問いに、ほっほっほ、と時は懐かしさを滲ませた笑顔で応じる。

「流石に計算兵部尚書さまに叩き込まれておいでですな。目の付け所が、兵部尚書さまと同じですぞ」

「分かるのか?」

「既に計算させてありましてな」

 時は愉快そうに笑う。有り難い、と頭を下げる杢を前に、だが吉次はむっとした表情になった。

 先程、陽国は敵にはならないと云った鼻先で戦準備をしてこの河国に到達するまでを尋ねるとは何事か、と言いたげだ。

 吉次どの、と杢は揃えている膝を半歩進めて、吉次に向き直る。


「私は吉次どのが陽国王陛下を信じておられるように、郡王陛下を頼もしく思っている」

 時から木簡を受け取りながら、杢は鼻息を荒くしている吉次を宥めるように笑い掛ける。

「陽国王陛下が那国にはつきはしないと吉次殿が申されるのであれば、其れは事実なのだろう。だが、河国と祭国と共闘などせぬ、自国こそ甘い汁を吸う為に最期まで鳴りを潜め続ける所存である、と仰られるような御方でもないのだろう?」

 杢に、諭すような物言いをされた吉次は自分こそ勝手な想像で先走り過ぎたと知り、角ばった肩を前のめり気味にして身体を小さくし、恐縮してみせた。

「確かに……」

「郡王陛下が此方に兵を差し向けるのは確実だ。ならば、どんな情報でも得ておかねばならん。陽国からの軍が沿岸に到着する時期を計り、お知らせしておくべきだ」


「杢殿のその云われ方」

「――ん?」

「兵部尚書さまの若かりし折に、よう似ておられますなあ」

 眼光が異様に鋭い杢に吉次ですら微かに仰け反ったというのに、時は、ほっほ、と笑いながら平然と鯰の触覚のような髭を紙縒ってみせた。



 ★★★



 懐かしさを込めて眩しそうに目を細める時に、杢は照れたのか、唇を内側に固くしつつ眉を微かに寄せる。

「私は兵部尚書さまに一番可愛がって頂いた。身に余る知識と技術を与えて頂けた。弟子が師匠に似るのは当然だろう」

 ほっほ、そうですなあ、と時はにこにこしつつ、何度も頷く。

 師父・・ではなく師匠・・、と優を呼ぶ辺りに、杢の遠慮が透けて見えたのだ。


 優が後継にと望んだように、杢も己の全てを賭けて優に師事したのだ。

 親も姉も亡くした杢にとって、家族以上の絆を感じさせる相手であり愛情を傾けた人物だ。

 似ている、と評されて嬉しくない筈がない。

 ――手塩にかけて頂けたのだ。

 私のやりようが、兵部尚書さまに似ているのは当然だ。

 しかし、優には実子の真が居る。


 優は、河国戦の折に重傷を負った杢の末を嘆いた。

 息子である真の目から見ても、其れは師弟の交わり以上の情愛があればこその嘆きだった。

 杢はあの時の事は、武人として戦に出て、そして己の力量不足が招いた失態だとしてしか受け取ってはいない。誰を恨みも嫉みもしなければ、また、此の結果により互いの間に亀裂が入るような生半可な関係ではないという自負もある。

 が、優と真の親子間に判然としない屈折した感情を植え付けてしまったのでは、という負い目と引け目は持った。真は隠しているつもりであろうが、あれだけ表漏れに漏れ出されては、杢も微妙なやりにくさを感じぬ訳がなかった。真と話しあっても、その気持は完全には拭い去れないでいる。


 口にはしないが、真が策を立てる為に欲する情報や資料の集め方は、優が経験から築き上げてきた其れの延長上にあると杢は感じている。

 だから皆が、真の策を目の前にして、何故こんな考えが思い浮かぶのかと驚愕していたとしても、杢は素晴らしいと感じはしても驚きはしない。

 やはりな、そうか、となる。

 ――息子として、父親の背中を恋い慕い見続ければ、斯様な人物が出来るのか。

 正直な処、書庫に篭りきりの頃の真を、杢は本当に優の息子であろうかと疑ってかかった事がある。それも、一度や二度ではない。

 しかし、那国を助けての河国との戦の折に優に進言してみせた真を知り、そして決定打として戰の目付となり祭国での圧勝を見せつけられた時、考えをすっぱりと改めた。


 ――愚かな。

 私は何を見ていた。

 彼の御人の中には、兵部尚書様が確かに息衝いておられるではないか。

 まざまざと見せつけられた時の衝撃は未だに忘れられない、いや、忘れられるものではなかった。

 杢にしてみれば、全くの独学でありながら孤陋ころうに陥る事もなく自尊に走りもしなかった上に、戦に出ず武芸全般に暗い癖に、あそこまで優に近い見識を持っている真に嫉妬に近い感情を覚える。

 眼と手を掛けられた恩義を返さねば、報いたと認められる人物に成らねばと、杢は歯を食いしばって努力に努力を重ねてきた。なのに親子の血脈という、奮励しようもない、断つ事叶わぬ生きた絆には結局は敵わず、超えられぬのであろうか、と。

 優から独立し、戰の元に身を寄せ真たちと胸襟を開く仲になり、学にも仕えだした今でもなお、杢は腹の底には、醗酵中の酒粕のようにぼこぼこと音を立てて、嫉妬とも焦燥ともつかぬ歪な感情がのたうっている。


 こわい顔付きになった杢を、ほっほ、と時は含み笑いをしながら眺めた。

 酸いも甘いも噛み分ける処を超えた年齢に達している時にしてみれば、真と杢の葛藤は逆に若さ故に得られる人生の面白みと糧のようなもの、と可愛らしく映る。

 何しろ時から見れば、優ですら子供の年齢なのだ。

 年を取り、感動に心を動かされる事も稀になって来た者からすれば、若輩者の感情の縺れや紛紜ふんうん、大いに結構、と言いたくもなるのだった。



 ★★★



 重く押し黙ってしまった杢と吉次に、話を戦にもどしませんかな、と時が助け舟を出す。ほっとしたように、同時に息を吐いた二人は照れたように互いを盗み見し、頷きあう。


「灼陛下が進められている河国の軍備はどのようになっているか、吉次殿はご存知か?」

「着々と、というよりも、大いに乗り気であられるな」

 吉次は苦笑混じりに答えた。

 禍国の風下に在るのは不本意ではあるが、戰と再び共闘出来るのだ。3年前の血の滾りを思い出して興奮しきりで、相国・燹に命じて軍の編成を始めているという。

「そうか」

 灼陛下らしい、と杢も苦笑した。苦笑を収めると、今度は渋面を作る。

「しかし……時節到来とばかりに先走られねば良いのだが」

 杢が腕を組むと吉次は、其れだ、と我が意を得たりとばかりに彼の喉元辺りを指差してきた。


「何しろ、なされぬ、と絶対に言い切れぬ御方であられるからな」

 きっぱりと遠慮もなしに言い放つ吉次に、杢は苦笑する。

「仕方があるまい。私も今の主人あるじを悪し様に言いたくはないが、如何せん、御自分に素直過ぎると言おうか、短慮軽率が過ぎるきらいがあられる御方だ」

「……其れが魅力でもある御方だが」

「だが、己が迷妄に走られでもしたら、事だ」

「……確かに」

「最早、若さ故、と云う言い訳が効かぬ・・・御身であるのだと、自覚なさっておられるとは到底思えぬからな」

 吉次がまた、溜息を吐いた。



 ★★★



 遼国時代、灼は河国に首根っ子を押さえ付けられ、禍国には地領を侵され、那国には見て見ぬ振りをされ続けてきた。

 平原の東方の地にありながらも、根幹が異民族である遼国の民は、何処までも余所者扱いを受け続けている。

 鬱憤を晴らさんと意気込むのは解らぬでもないが、だが、其れで戦が拗れてしまうのは困るのだ。


 戰としては、禍国からの命令以上の事をすると云えば、廃皇子・乱を懐に入れている那国に対して、此れを機会に共々に討つ以上に手を掛けるつもりはない。時間がないからだ。

 剛国と燕国の戦いがなかったとしたら、そして句国と備国の戦いがなかったとしたら、状況はまた変わっていただろう。

 遼国王・灼とは戦の中で共に互いを必要な友垣であると認めあった、大切な人物だ。

 その灼が許すまじと眼を裂いて睨む国を共に、而も堂々と討ち果たせる絶好の機会を得たのだ。戰も此の戦が、己の身に潜む呪いを調伏せしめ、尚且つ灼たち遼国の領民の怨嗟を修祓しゅうばつ成さしめられるのであれば、徹底して挑みたいに決っている。


 しかし、祭国周辺がこうまでもきな臭くなってしまっては、那国周辺だけに時間を割いてはいられない。

「せめて今、句国がどうなっているのか、少しでも分かれば」

「遺憾ではあるが、どうにもこうにも、情報が足りん」

 吉次と杢は同時に肩を上下させて嘆息嗟嘆たんそくさたんする。

 気持ちに勢いついた灼が戦を長引かせでもすれば、句国に居座る備国がどう出るか。

 剛国、禍国に向かうとは限らない。

 寧ろ、君主が少年王であり共同統治者である郡王が城を空けている、平原で最も与し易い弱小国家である祭国を狙うのが戦を行う者が考える常套ではないか。

 況してや、戰が留守にしておれば尚更だ。


 ――此のまま、学陛下の初陣に雪崩込みはしないか。

 祭国には虚海が居る。

 克が鍛えた竹たちも居る。

 兵馬倥偬へいばこうそうに陥った戦場にて、此処一番の踏ん張りを引き出すのは、兵たちの心の支えとなり、魂を安んじ、勝利を確信させる絶対的存在としての王だ。

 其の王者としての片鱗を見せ始めている学であるが、だが彼には実戦経験がない。

 鍛錬の成果を見、此れは、と膝を打っていても、戦場で敵を目の前にした時に道場と同じ動きが出来る方が稀であるのは、自ら見に染みている。

 学を護る、経験豊富な人物が足りない。


 ――出来るのであれば、陛下か真殿が帰国するまで、祭国は動かずにいた方が良い。

 禍国本土の大保がどう出るかは、其の都度対応していくしかない。

 同じ、強風吹きすさぶ谷間に掛けれた手摺のない吊橋を渡るのであれば、より安全な方を選ぶに越したことはない。臆病者だの肝が小さいだの云われようが何だろうが、玉体を當たら危地に送るべきではない。

「剛国には未だに真殿と克殿が?」

「ああ」

「と、云うよりも真さまの御気質では動くに動けぬでしょうなあ」

 時も、髭を紙縒るのを止めた。


 此処まで遠く離れていては、真と克が今現在、何処まで状況を把握しているものであるのか最早計り知れないが、句国王は戰が自分から動いて初めて手にした盟友国だ。

 真と克も、句国という地には深く関わっている。国王・玖が備国王・弋に討たれたとなれば、益々以て彼の地を見捨ててはおけまい。

「真様は如何になされますでしょうなあ」

「推測の域を出ないが、剛国王を動かす気だろう」

「剛国を?」

「でなくては、未だに剛国に居座る理由が考え付かない」


 突拍子も無い、と言い掛けて吉次は言葉を飲み込んだ。

 戦巧者と恐れられた父親の兵部尚書ですら、やろうとしても無理だ、突拍子も無いと呆れてるしかない策を講じ、更に其れを成功させてしまうのが真だ。

 いや、優も『もしもこうなれば』と考えなくもない。

 がしかし、常人が考え得る『枠』という範疇を飛び越えた奇抜であり、且つ大胆巧妙な案だとして自ら封印してしまう。それがと言うものだろう。


 だが真は、『そのまさか』を提示してくる。

 此れまでの真を思い起こせば、杢の言葉の方が真実味がある。

 吉次は杢の中に、改めて真と同じ根を見た思いだった。



 ★★★



「杢殿、西方面は我らが此処で議論したとて埒が明くまい。其れよりも、陽国王陛下の腹つもりの方が懸案事項だろう」

「確かに。案じられるが、案じた処で我らが駆け付けられる頃には雌雄は決せられている。目を向けねばならぬのは那国、そして陽国だ」

「うむ」

 腕組を解いた杢と吉次に、時が麦湯を入れて差し出した。申しわけない、と杢は礼をしつつ受け取り、吉次もやはり軽く頭を下げて手に取る。


「陽国が那国ではなく、郡王陛下の側に御味方して下されるのであれば、随分と気持ち的には楽になるのですがなあ」

 のんびりとした時の口調は、緊迫した杢と吉次の間の空気を和ませる。

 茶碗を口に運び傾ける間、二人の口元は柔らかく綻んでいた。が、武人と職人、互いに堅物さが似通っている二人は、同時に麦湯を飲み干し首を左右に振った。


最初はなから陽国からの軍を陛下の御味方として当て込み、策を寝る愚は犯せぬ」

「陽国の軍勢を数の頼みに編成など組めまい。余りにも危険だ」

 同時に発せられた冷静な杢の一言と平静を装っている吉次とに、時はそうですなあ、としか答えず、反駁しない。

 何しろ那国にはまだ、海流を越えて来る安定した技術がない。

 そもそも、巨船を造り上げる安定した技術にも乏しい。

 船底の板一枚下には、冥府の使者である悪鬼どもが手薬煉を引いて待ち構えている。

 波が牙となり、海流が大蛇の蜷局となり、強風が鵺の羽撃きとなって常に襲い来る。

 無事に全軍が辿り着いたとして、直ぐ様、戦に入れる精神を保っていられるのか?

 単身、海を渡ってきた吉次は自らの経験を踏まえて、否、と呟く。

 古巣の仲間たちには吉次は出来るのであれば、來世陛下に危険を犯させてはならん、あの海流に陛下を臨ませてはならん、河国に来てはならぬ、陽国を混乱に貶めるつもりなのか、と叫びたい位であった。

 杢としても、陽国王を危険に放り込んで平然と構えていられない。


「陽国が共闘して呉れる、というのであれば、其れは確かに心強い。本音を云えば、兵の数は力だ、喉から手が出るほど協力は欲しい」

 何も戦闘に参加せずとも、陽国が戰と灼の側についたという事実さえあれば、那国に精神的な打撃を与える事が出来る。此れは、戦に一つ大勝するに等しい価値がある。


「だが、海流越えを甘く見ておられるのであれば、話は別だ」

「確かに」

「陽国の方で、加勢せぬわけにはゆかぬ、との意見が沸騰した時、陽国王陛下をお諌めする者はいるのか?」

 其れは吉次殿の役割ではなかったのか? と杢は言いたげだ。

 ずい、と膝を進めてきた杢に、吉次は呼吸を止めて仰け反るようにした。


「陽国で主戦派が陽国王陛下を担いだ・・・時、陽国王陛下はどの様に出られる?」

「……陛下のご気性なれば、寧ろ、御守りしている父たちを焚き付けかねない」

肺の臓が空になるのではないかと心配になる程、吉次は背を丸めて大量の空気を吐き出した。

「……が」

「――が?」

「私は三人もの陛下に御仕えするという誉れに預かった身だが、未だによく分からぬ処があるのは、実は來世陛下なのだ。……いや、分からぬ様になってしまったと云うべきであるのかな……」

「……」

 確かに吉次は陽国王の來世、祭国郡王となった戰、そして河国王であり遼国王である灼の三人に仕えている。

 其れを云うのであれば杢も、兵部尚書である優、祭国郡王に就任した戰、そして祭国王として即位した学の三人に仕えている。其々に指導者として為政者として良い処も悪しき処も持ち合わせており、其れが人物の魅力となっている。


「よく分からぬのは、最も近いからこそ遠く感じるようになってしまったから、なのでは……?」

 吉次が、驚いたように視線を上げる。

 だが杢の方こそ、自分でも知らぬ間に口を突いて出た言葉に驚いていた。

「最も近いから、遠くに感じる……か、うむ……確かにそうだ。そうかも知れぬな……」

 私は、來世陛下に御仕えする為だけに育てられたようなものでな、と吉次は静かに笑う。


「この平原にやって来て直ぐの頃は、いや、今でもであるのだが……陛下であればどう出られるか、陛下が採られようとする道に誤りがあればどう直言極諫ちょくげんきょっかんすべきであるか、いちいち心に描いては楽しんでいたものだ」

「……」

「其の度に、陛下であられれば私の言葉にどの様に返して下されるかと、思い描いていた、其れを慰めにもしてきた。だが……」

 遠く離れた祖国を思い出しているのか、吉次は穏やかであるが寂しげな表情になった。

「なのに正直を云えば、最近は陛下のお顔が直ぐに思い起こせぬ時がある。此れは、何と云えばよいのだろうか……」


 陽国を出て5年。

 当時、今の学と同じ年頃であった陽国王も、立派な若者に成長している筈だ。

 心を浮き立たせて、背は伸びられたか、肩は広くなられたか、胸は背中は分厚くなられたか、声に張りが出られたか、御髪は豊かになられ美豆良の型は童形から変えられたか、新たな文身を入れられ立派に成人を迎えられたか、と事細かに想像しようとしても、薄ぼんやりとした霞が掛かってしまうのだ。


 吉次は、軒下にぶら下がっている風鎮に視線を移した。

 杢も吉次に倣う。

「言い訳がましいかもしれぬが、來世陛下への忠誠心が薄らいだのでも弱まった訳でもないのだ。そう、陛下への忠信が揺らいだのではない。私の中で、忠良が発露する先が増えすぎたのだ」

「……判ります」

 吉次は、ちら、と黒目だけを動かして杢を見る。

 風鎮を真っ直ぐに見詰めている彼もまた、息遣いは静かであるが目元に何か侘びしげな光が宿っていた。


 杢も、優と共に此の5年を過ごしていたとしても、其れは其れで大いに満たされていただろうと思う。

 が、戰と学に仕える充実感と己の成長に満足感を得ているのも正直な偽らざる心情だ。此れは、兵部尚書である優の元に居たのでは決して得られぬものだからだ。

 だがだからと言って、優に対する忠直心がぐらつく事はあり得ない。

 この環境に居続けられるのは、偏に、戰に引き立てられるのを恥と思うなと背中を押してくれた優のお陰だ。今でも、優が兵部を去るまで共に過ごし、彼自らの手で兵部尚書の座を譲り受けるまで、傍に仕えていたかったと思う気持ちに偽りはない。


 ――だがあのまま、兵部尚書さまの元に仕えておられれば、私はどうなっていただろうか?

 今見ている世界を、優は見せては呉れない。

 知ってしまった、その事に不平不満や不信があるのではない。

 寧ろ逆だ。

 此の大いなる世界を自分が彼に見せたい、と思うようになっている己の変化に戸惑い、煩悶していた。



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