22 屍山血河 その1-2
22 屍山血河 その1-2
――此奴程度の漢に、何を遠慮せねばならぬ。
乱の無礼に耐え切ったは良いが、敏は耐え抜いた後で大いに悔いた。
――斬れ。
斬ってしまえ。
さすれば此の悪縁も終わりを告げる。
心身ともに伸びやかに健やかに過ごるというものだ。
分かっている。
頭では分かっているのだが、どうしても出来ない。
家臣たちが、此処まで言わせておくのか、どうか斬れと御命じ下さいと、其れはもう一途さが哀れな程に目で訴えかけて来ている。
敏は乱に気が付かれぬように、微かに手を振った。何故!? と家臣たちが深い失意と悲観にくれる。済まぬ、と声を掛けてやれぬもどかしさを抱えながらも、敏は家臣たちの望み通りにしてやりたくなる欲求に耐え抜いた。
――……おのれ……糞めが……此方の弱みにつけ込みおって……!
一つには、乱が指摘した通りだ。
遠く海を隔てた陽国ですら、友垣として手を伸ばす労を厭わぬ郡王・戰。
其の皇子・戰が、何故か、そう何故かこの那国にだけは声を掛けてこないのだ。
由々しき事態であると、長らく自覚していた。
自分が腹に据え兼ねているのだから、当然、家臣たちは更に業腹であっただろう。
――然程にまで、この那国に魅力がないと云うのか。
そして敏は呻く。
此の程度の男に懐かれる程度の国なのか、我が那国は――
★★★
蒙国、備国、そして滅んだ楼国など、西戎とされる崑山脈以西に広がる毛烏素砂漠に散らばる国々。
南蛮と揶揄される羅紗埡 ( ラシャーヌ ) 国。
そして東夷として冷笑され続けている遼国、那国に陽国。
此れ等の中にあって最も下等で拙悪で低俗な輩であるとされてきた遼国ですら、郡王は対等の立場で彼らを受け入れた。
正直な話、河国王を遼国王・灼が継いだ時、郡王・戰が此の那国にも誼を通じんと動くと期待していた。
だが、郡王は本国である禍国に叛意ありと見做されまいと、さっさと自国へと引き揚げてしまった。
以後はなしの礫である。
――伽耶がもっと頼りにさえなれば……。
思わず敏は、廃皇子・乱のように親指の爪をかちかちと音をたてて噛んでいた。
遼国王に河国を譲り渡した王太后・伽耶は那国王室の出だ。
彼女は母国の為に動くべきであろう。だがしかし伽耶は全くもって動かない。逼塞した日々を送るばかりで、以後、表舞台に出ようとしないのだ。
向こうが動けぬのであれば、と敏の方から那国村の草たちを使って伽耶に連絡を取ろうとした。
何しろ、今の伽耶は河国の王太后だ。
立場的には『王の母』として上位に君臨している。
伽耶を上手く使えば、浦から河国を支配できるかも知れぬ、と敏たちは期待を掛けたのである。
が、出来なかった。
いや、確かに伽耶と繋ぎを取れた筈なのだ。
が、彼女の元に参じた間者や斥候に草たちは忽然と姿を消してしまう。
こんな事が数度続くうち、敏も諦めが先に立ち始めた。そもそも、伽耶は出来が悪かった。時間の経過により冷静さを取り戻すと、伽耶という人物には荷が勝ち過ぎると思える様になってきたのである。
何よりも、こうまで手持ちの駒を潰されてばかりいては正直やっていられない。
結局、何時の間にか那国村だけを活用するようになっていった。
賤民層との垣根を取り払うとする灼の政策も味方しており、なにも伽耶に頼る必要性もなかったのである。
おまけに、遼国王・灼は那国村出身である亜茶を後宮としている。
灼は涼を正妃として愛しつつも、亜茶には別格の愛情を傾けている。
まだ、御館さまと呼ばれていた人質時代より添っている間柄だ。誰にも入り込めない、二人だけの境地というか世界が出来上がっている。ぽっとでの小娘如きに容易く関係を裂ける筈がなかったし、涼の方でも亜茶に敵わなぬものは敵わぬと先から認めて一歩下がっている。
亜茶を使えば、遼国と河国の関係を一手に握る、牛耳る事も不可能ではないと思われたし、事実、そうであったからだ。
★★★
だが、其れがどうだというのだ。
郡王・戰は徹底して那国を無視して来た事に変わりはない。
――何が、どう劣るというのだ!
其程に、那国は下等だというのか!?
虫螻以下だというのか?
生口どもの土地、遼国ですら奴らは国と王を認めたというのに、此の那国は関係を結ぶまでもない卑陋で陋劣な族だというのか!?
腹の奥底が煮え滾る。
皇子・戰が許せない。
何としてでも、奴に一泡吹かせなければ気が済まない。
振り向かせ、這い蹲らせ、沓先で額が割れるまで打ち付けさせねば到底許せぬものではない。
――其の為に、飾りの神輿として担ぐ存在として廃皇子・乱が必要なのだ。
最早、邪魔者以外の何者でもなく、ただただ無駄飯食いの粗暴な獣に過ぎぬ此の男を赦しているのは、禍国より引っ張り出されてきた皇子・戰との交渉材料として利用価値が在るからだ。
質として突き出してやるもよし、
一大将として軍を呉れてやり禍国軍のど真ん中に放置してやるもよし。
今となったからこそ、攻めて来るという皇子・戰の戦力を削ぐなり気を萎えさせる為に大いに活用してやれる。
散々っぱら此方を利用して、安穏無事にそして怠惰に過ごした証として肉達磨に成り果てたのだ。
――其の借りは最低限、返して貰うとする。
怒りが沸点を超えるからか、逆に冷え冷えと冴え渡り纏まり出した。
那国王・敏は、まだごろごろと喚き散らしている乱を、にやり、と口元を歪めて睨め付けた。
★★★
だが、那国王・敏は勘違い、と云うよりも大きな、そして決定的な思い違いをしていた。
郡王・戰こそが、那国を憎んでいるのである。
いや、那国だけではなく備国もである。
皇子としての地位を剥奪された二人の異腹兄、天と乱。
彼らを彼の地の王はどのように扱うかを見ていたのである。
戰としては3年前に、彼ら二人を己の手で始末したかった。
憤懣遣る方無いが、野垂れ死にを見守る事にしたのは、未だに郡王という中途半端な地位から抜け出せぬ、立場的な弱さのせいだ。
其れでも、大司徒・充、先大令にして帳内・中、大令・兆という主たる奸臣を奴婢の身分に貶しめ、彼らの一門である代帝・安、徳妃・寧、貴妃・明らを其々公妾とした。
彼らがどうなったのか。
端的に云い表わせば、野垂れ死んだ。
甘ったれた砂糖漬けの生活に膿むほど慣れていた彼らは、野外での生活に心身を病ませ、半年も持たずに此の世を去った。
大司徒を頭として男どもの方は筵敷きの土間のみの茅造りの家の中で、冷たくなっていたり血を吐いていたり、若しくは作業を命ぜられている最中に道具に圧し潰された。
死んだ処で、幾らでも代わりが効く、文字通りに『頭数』の存在でしかなくなった彼らは、没年月日から祭祀を行われる事もない。同様に、無残に死んでいった他の成丁たちと同じく、路端に放置された。野鳥に目玉を啄まれ、野犬に脛の肉を噛じられ、蛆虫共に臓腑の中を這い回られして、朽ちて土に返った。
安たち、女たちの方は何時の間にか売られた先から姿を消していた。
逃げ出したのか、其れとも辛くも脱する事に成功して去ったのかどうかは定かではない。
彼女らが最期に身に着けていた着物が、道端や野末に散らばっていた。
此の事から、生き延びる為の術を手に持たぬ女が逃げた処で、その先はほぼ想像を超えず、決まりきった道を歩んだものと捉えて良いだろう。
即ち、野犬どもの腹に収まり、道端に散らばった喰い残しは養豚や養鶏を生業としている者が拾って餌にした、位のものだろう。
威光を誇っていた一門の凋落と云うには余りにも呆気ない最期だ。
栄耀栄華を貪った族の末路としては、代わり映えしない在り来り過ぎる面白みのないものであると云えよう。
しかし、二人の異腹兄、天と乱は違う。
彼らも成丁として雑役を収める為に国境、いや辺境へと送られた。
戰は、彼ら二人が大司徒一門と同様に、路傍でくたばり斃死しろ、いう意思の元に罪を決定した。
あの時の戰に出来る、最大限の沙汰だった。
もしも此れを覆す勢力が現れたのならば、流石の戰とてもどう出たか、分からない。
普段は春風の如き美しいばかりの漢である戰が下した非情とも云える一刀両断の沙汰に震え上がった門閥貴族たちは、皆、慎ましく口を継ぐんだ。
一つには、此れ以上、天にも乱にも関わり合いに成りたくないという切実な思いと、そして出来るのであれば、此の先、権力を握りそうな戰への覚えを目出度くさせたいという下心があればこそだ。様々な思いが入り乱れ、結局、天と乱は、国内の勢力からは末も末、箸にも棒にも掛からない程度の者からも見放されていた。
天と乱は、別々の処に送られたとはいえ、似たような経過を辿って備国と那国とに身を寄せた。
備国王も那国王も、禍国の皇帝となった二人の弟・健に対する駒として使えると思えばであった。
備国王と那国王の魂胆など、子どもにでも解る道理だが、其れが戰の怒りを如何に買うものであるかまで想像する能力には欠けていた。
――何故、奴らに手を伸ばす。
怒りを覚えたのは戰だけではない。
彼に従う家臣、共鳴している同盟の友、そして心酔している領民たちであると気が付けなった。
他者に対する怒りと憎しみを正直に表せるようになったのは3年前の政変以後であるが、戰が乱を拾った那国を許せず遠交近攻の策から彼の国を外すまでになったと知った大保・受は、密かに口元を持ち上げたものだった。
ともあれ、那国王は知らないまま、出陣してくる戰を迎え討つ形となった。
乱だけでなく、彼の庇護者と成り禍国皇帝への道の前に立ちはだかる存在となった那国王を本心から討つ、と戰が決心していると思いもせずに。
そして何故、伽耶からの連絡が途絶えたのか、祭国からの使者が本当に来なかったのかを確かめなかったのか、其れが自国を如何なる末路に追い込むものであるのにと、全身全霊で悔む事になるのであった
★★★
王の間から与えられた部屋に戻った根雨は、暫くの間、青白い顔に紅い灯火を反射させて恍然自失としていた。
やがて、紅い灯りの熱が身体を温めたのであろうか、失われていた表情が徐々に灯りだす。
然し其れは狂気、否、狂喜と云うべきものであった。
眦をきりりと裂いてカッ、と見開かられた眸は灯りよりも明々と輝き、だらし無く開かれた蜂蜜の香りが溢れる唇からは、舌先がちろりと覗く。
「……くっ……く、は、はっははっ……は、ふ、……ふ、ふははっ……」
漏れ出た笑い声は、鵺のように湿気の多い那国の空気の中を彷徨う。
声を立てぬようにと、口を手で覆った。しかし、邪智深い笑い声は其の程度で抑えられる訳が無い。むしろ指の隙間からこぽりこぽりと落ちてくる声は、怜悧狡猾と云う以外何と言い表すべきだろうか。
――馬鹿め馬鹿め、大馬鹿どもめ!
何が一国を統る王だ!
何が平原一の大国の皇子だ!
脳の働きのない飾り物の頭を載せた木偶の坊が額を突き合わせた処で愚昧で無知な輩に知恵など浮かんでくるものか!
――何という戯け揃いなのか!
全く、領民の上に立つべき能力に欠く者は、何と軽忽にも程があるのか!
根雨は全身を使いながら涙を流して哄笑する。
自分たち那国村の者が河国との接点を尽く断ってきたのだと、いや、河国だけでなく祭国郡王からの使者も須らく断ち切ってきたのだと、何故気が付かないのか?
何故、其の程度の想像も出来ないのか?
不思議と思えばありとあらゆる可能性を鑑みるのが頂点に立つ者の務めであろうものを、那国王は怠ってきた。
いや、視点を変えようなどと思い付きもしなかった。
廃皇子・乱に至っては指摘などする必要性もなかろう。
明君賢相と名高い祭国郡王とその最大の家臣という男もそうだ。
何故気が付かないのだ!
「――あ……はっ、はははっ、……ふ、くっ、ふ、ふふっ……くっ、う、はっははは……」
笑いが止まらない。
身体を捩りながら、根雨は涙を流して悶絶し始めていた。
――何という笑いの種だ、此れは一種の拷問だ。
だが耐えられようと耐えられまいと、どうでもいい。
自分の前に、己が弄した策の前に、高貴なる血を引くと云われる男たちが、皆挙って踊らされているのだ。
笑わずしてどうする! 何時笑うというのだ!
――偉大なる我らが王、灼陛下!
陛下、陛下に仇をなし亜茶さまの御腹に宿れり御子さまを害する者は、須らく此の根雨が排してみせまする!
「此の中華平原を手にされるのは、鉄器を量産化する道を開いた、我が王・灼陛下と、陛下に最も相応しきお后様・亜茶さま、そして美し国を継ぎし御子さまは亜茶様の和子さまのみ」
他の国々の都合なぞ、知ったことではない。
精々、此方の要望に応えて呉れよ、噂通りの能力と魅力があるのならばな。
口元を手で隠している為、自分のねっとりと甘く重い湿気の多い口臭が耳の方へと流れていく。
普段ならば我ながら気分が悪くなる処であるが、しかし根雨は終始上機嫌だった。
王太后となった那国の血筋の伽耶、そして祭国郡王からの使者たちを、此の3年もの間、虱潰しに尽く潰して潰して握り潰してきた甲斐が有ったというものだ。
秘密裏に、極秘に行わねばならぬ手間は尋常一様ではなかったが、しかし、漸く報われる時が来たのだ
!
――何が博愛と敬愛の精神に満ち秀でし皇子だ。
愛情なぞで腹が膨れるか。
意味もなく切り落とされた童子の腕を伸ばしなりくっつけなりしてやれるのか。
ただむしゃくしゃするからという下衆な理由で、剣を振り回され膾切りにされた者の生命を救えるか。
獣と同等の価値しかないと蔑まれながら輪姦される娘の心身を清いものに取り戻せるか。
暇潰しだとして馬で引き摺り回される年寄りの数を減らせるか。
他国の王が新だからと生贄にされた者たちと、先祖代々続くこの怨念を晴らせるものか!
自分たちが欲しいのは力だ。
此れまで自分たちを抑えてきた全てとの立場を逆転させ屈服させられる力だ。
郡王のような生温い理想主義に脳天まで浸かりきって醜悪な程に甘い体臭を放つ為政者ではない。
絶対的存在として時に恐怖を感じさせるまでの畏怖の念を抱かせる絶対王者が必要なのだ。
此の国と対峙するにはどうしたら良いのかと、相手国が焦慮し悩乱する程までに大きな存在であらねばならぬ。
「其の役目、郡王・戰、貴様のものではない。我が主たる遼国王陛下だ」
郡王・戰。
だが貴様は良く役に立っては呉れた。
この遼国にて鉄器を産するだけの能力を惜しげもなく与える酔狂さ、見上げたものだ。
量産化された鉄器は、有難く我らが王・灼陛下の御為に使わせて貰うとするぞ。
「何しろ、この先は戦続きとなる」
落ち着きを取りもどしてきた根雨だった、それでも腹の底を擽ってくる笑いに、ふっ……と口角を歪める。
頭の線が切れた那国王ともとより脳が湧いて腐っていう廃皇子の二人が、契国の思惑と禍国の反応に慌てふためき、陽国を巻き込んで戦を繰り広げる事になるだろう。
遼国王陛下は、愚かな地虫の如き貴様たちの戦いを、高みの見物と洒落込まれる。
全てが弱りきった処で、濡れた手で粟の壺に手を突っ込んで粒を獲るよりも容易く全ての国を平らげられる事だろう。
「そうなってから、泣け、喚け、陛下の前に額を打ち付けて命乞いをしろ」
自分をはじめ、那国村の仲間を何世代にも渡って不安定な立場と中途半端な扱い、面倒事が起これば御誂え向きの者たちと奇禍に放り込み、其のくせ、労には報いずに来た。
此れは、累々と積み重なってきた、不当な処遇に甘んじねばならなかった我ら那国村の中に、全身に傷を負い汚れを拭えず溜まった汚れのようなものだ。
瘡のように膿み、痂のように痒みを放ち、虱や蚤すら臭みにより厭忌する垢のように粘着しながら積もってきた怨嗟だ。
我らの怨気衝天が、如何程に強く深く、そして熱きものであるのかを、御名に灼を持たれる陛下は知っておられる。
おられるからこそ報怨して下さる、きっとして下される。
「思い知れ、思い知るがいい……!」
自らの呪いで己の魂を喰らうつもりであるのか、狂ったかのように再び根雨は笑いだした。
いや、もう狂っているのかもしれなかった。
根雨はその後、一時辰近くも笑い過ぎたが故の腹痛に身悶えしつつ、冒疾の言葉を吐き続けていたのだから。
★★★
吉次の屋敷の一室で腕を組み目を閉じて、じっと座り込んで報せを待っている杢は、まるで塑像のように見えた。
部屋の外で、そわそわと行ったり来たりをくり返しながらそんな杢の様子を伺っていた蘆野は、ぽん、と背後から肩の辺りを叩かられて飛び上がった。
「ひゃっ!?」
蘆野が思わず上げた叫び声に、杢が閉じていた目蓋を開けて少女の方を向いた。
ぱちり、と互いの視線があう。
蘆野は自分の肩を叩いた者への怒りと、様子を窺っていたのが杢にばれてしまった羞恥心に顔を真っ赤にさせた。彼女の背後では、鯰の触覚のような髭を紙縒りながら、ほぅっほっほ、と梟の鳴き声に似た笑い声を商人・時が上げている。
「もうっ! お爺様なんか大嫌い!」
ぷりぷりと頬を膨らませながら、蘆野は童女らしい反応を見せて家の奥へと姿を消した。
初めて此の吉次の屋敷を訪ねた時は取り澄ましていたが、それから何だかんだと今日まで滞在を伸ばす内に、杢は蘆野にすっかりと懐かれてしまっていた。
懐かれた、と云うよりは一方的に仔猫が擦り寄って来るような感じかもしれない。
家に吉次と時、そして近所の知り合いや遊び仲間以外の男が居る、というのが気になって仕方ないようなのだ。
杢自身は自分でも認めているように愛想のない仏頂面の口数の少ない男であるが、鈿といい、何故か幼い子に好かれる傾向にある。一つには、亡くした姉のような娘をもう見たくはない、という彼の気質を、少女たちの方が本能的に察知しているのかも知れなかった。女というのはどんなに幼くとも女で、色恋感情を挟み込む前から、信頼に足る漢を明敏に見抜く眼力を備えているのだろう。
「おやおや、今回ばかりは、爺得も効用がありませなんだかな」
「かも知れません」
スパッと答える杢に、ほっほ、と時は苦笑する。そして座を勧めた杢の前に腰を下ろした。
ちんまりと丸まるように座った時に、杢は麦湯を満たした椀を差し出した。
にこやかに受け取り早速傾けた時は、半分ほどをゆっくり時間をかけて、実に美味そうに飲んでいく。唇を椀の端から外すと髭が濡れており、縦皺の入った上唇が益々もって鯰のそれのように見える。
二人して笑いあうと、ぴろろ、と鳶が歌う声が曇天から微かに開いた青い空から落ちてきた。
其処に、艷やかな青葉から弾け飛んだ露の球のような子供のはしゃぎ声が重なった。近所の子供たちも集まって、何か玩具を囲んでいるようだった。中心に居るのは、きっと蘆野だろう。
時が耳を欹てて、子供たちの声を拾っている。其の眸が優しい。
杢はふと、禍国の優の屋敷で時折、垣根を越えて堂々と遊びに来ていた近所に住む子供たちと、一緒に走り回っていた薔姫を思い出した。
「蘆野殿を可愛がっておられるのですね」
「ほっほっほ。可愛がっておるというか、何か構いたくなるといいますかな。どうも、蘆野殿を見ておると、こう、祭国にいらっしゃった頃の姫様を思い出しましてなあ」
ああ……、と杢は短く笑った。
「確かに蘆野殿は、其の頃の姫君様と同じ年の頃だ」
「人を重ねて見るのは良くないと分かっておるのですが……ついつい、悪戯の手が出てしまうのですな」
儂も、年、という奴ですかな、と時は何処か淋しそうに笑う。
つるり、と顔を撫でる時を、やはりそうか、と杢は目を細めて見詰める。
――確かにお淋しいのだろう。
時殿は、陛下と真殿の初陣の時からの、そして姫様の御輿入道具も取り揃えられた縁がある。
そう言う意味では、戰と真、そして薔姫にとって時は、克よりも古い仲間である。
時も、彼らの役に立っていると実感しているからこそ、こうして離れても矍鑠たる様で仕事に励んでいるのだ。
しかし、幾ら役に立っていると分かってはいても、祭国と河国とでは遠い。
年齢的な身体の衰えを感じさせはしなかったが、気弱というか、人懐かしくなりもするのは理解できる。時が吉次の屋敷に出入りしているのは、そんな肌寒さを蘆野の明るさと屈託の無さが埋めて呉れるからだろう。
だからといって仕事一本の侘しい暮らしをしている訳ではない。確かに妻はとうの昔に亡くなった直後は玄人好みの閨の技巧に優れた妾を屋敷に置いたりもしたが、60を超えてからのこの15年ばかりは、特定の女を置かずに、妓館の嬢たちに金と手間を掛けて一人前に育ててやるまでの方が楽しくなっていた。
男として枯れた、と以前口にしたが、枯れたというよりも男が女に賭ける壮大な趣味に走った、と言えるかもしれない。
そうでなくては、例え真の父親の優に情報を流す為とはいえ、妓館に惜しげも無く大金を出資などすまい。
子供たちの声が弾みながら徐々に遠ざかっていった。何処か、近所の広場に向かったらしい。
「さて、此れで落ちついて話が出来ますなあ」
時は、声音だけでなく表情までも、其れまでの小金持ちの隠遁爺のような仕草から改めた。
杢も、眼光を鋭くして頷く。
二人の耳は、どすどすと荒い足音が近付いて来るのを捉えていた。
此の屋敷の主人である、吉次のものだった。




