21 轟く潮流 その5-4
21 轟く潮流 その5-4
星と輪の祝の席。
そして親書が嵒の心の内にあった堤を決壊させたのだろうか?
だとしても、嵒のやりようが契国内で受け入れられるとは到底思い難い。
「兄上様……」
「契国内の事は、これ以上情報がない。ない以上は此方としても動けない」
戰が力無く首を振る。
こんな頼りない兄の姿を見たくなかったが、戰の中で、真という存在の確かさを改めて知って後ろめたいながらも薔姫はほのかな嬉しさを抱いた。
「ま、そういうこっちゃ。お姫さん、分かって貰たかいな?」
話し終えた安堵感からか、一滴一滴を大切に、くぴくぴと音を立てて酒を呑んでいる虚海に、うん……、と薔姫は漫然と頷く。
「何やいな、まだ何か、気になる事があるんかいな?」
「虚海様……」
「何やな?」
「兄上様も。娃ちゃんが言っていたわ。竹が、もう一つ何か来たから一緒に遊んであげられない、って。其れは、相国さまの叛乱の報せの事ではないのでしょう? どうして、句国の御使者まで務められた方がこんなめに遭われていて、しかも西宮に隠すようにされているの?」
虚海と戰は、はっとした表情で顔を見合わせる。
「……薔、其れは……」
「お姫さんは流石、真さんの嫁さんやな。伊達に10年近うも嫁さんしとる訳やないわな、鋭ど過ぎるで」
茶化してみても薔姫の目の色は、話を聞くまでは此の場を離れない、という意思を表明して変わることがない。戰も虚海も、失敗した、と苦い顔を隠そうともしない。二人としては、薔姫に答えてやるのは此処までにしておきたかったのだろう。
しかし、薔姫は曇りのない瞳で、二人を見据えている。
視線を離さすなんて許さない、と言わんばかりだ。見守っている、陸と竹の方が、どうしていいものやら、とはらはら・おろおろしている。
「やっぱり、未だ何かあるのね?」
は~ん、と唸りながら、虚海は徳利を傾ける。
ちら、ちら、と戰に視線を送っているのは、何処まで話すべきかを探り合いたいという現れだろう。
しかし戰は、嘆息しつつも何故か嬉しそうに薔姫に笑顔を向けた。
「何時の間にか、随分と大きくなっていたんだね、薔も」
「兄上様、逸らかそうとしないで」
はっきりと薔姫に突っぱねられた戰は、そうだね、悪かった、と素直に謝った。
「実はね、新しく烽火が上がったんだよ――西の方角からね」
「西、から?」
ドキリ、と薔姫の小さな胸が大きな鼓動で波打つ。
西方、といえば剛国があり、舅である優が重点的に視察に回っている地域だ。
「我が君に、また、何かあったの? そうなの?」
「いや、違うよ」
落ち着きなさい、と戰は陸が引っ張ってきた椅子に薔姫を座らせた。自分は膝をついて異腹妹の前に座り、膝の上の手に自らの手を重ねる。
「契国の相国はんがばら撒きよった密書にやな、備国王はんが真っ先に乗せられて踊りよったんやがな」
「――え?」
「……備国が動いたんだよ、薔」
戰の視線が、僅かに揺らぎ、寝台の上で死んだように横たわっている男――
句国の大将軍である姜へと向けられる。句国も備国も、禍国から見れば西方にある。と、言うことはつまり……。
「兄上様……それじゃあ……烽火が、報せてきたのは……きたのは……」
声を震わせまい、としてもどうしても揺れてしまう。
いや、身体全身ががたがたと震えている薔姫を、戰が腰から包み込むようにして抱き締めた。
「句国が、滅んだんだ、薔」
気を失ってなお、句国の大将軍であった男は、祖国の名に反応して低い獣のような唸り声をあげた。
★★★
真夜中、西天に剛国が燕国――
正しくは西燕を攻め滅ぼしたとの烽火が上がった。
その日から数日後、句国大将軍である姜が瀕死の重体を負った姿で馬の放牧地に倒れていたのを陸が発見したのである。
朝の放牧を行う前に、陸は牧草地に屈んで土とよく伸びてきたの牧草を弄くりながら呟いた。
「こんだけ伸びて来たんだし、そろそろ草を変えてやってもがいいかなぁ」
土と草を弄った手で顔を触るので、陸の鼻の下やら頬や顎には、土草色の髭があちこちに伸びている。
「馬肥草はもう充分喰わせてやったし、うん、もう烏麦の芽にしてやった方がいいよな」
陸が触っていたのは、烏麦の芽だ。
昔から、禍国や祭国では馬の飼料として良く活用されている。育てやすし伸びやすし与えやすしと三拍子揃っているからである。真の云うように、既に冷夏が決定的となりつつある今でも、何するもので順調に芽を伸ばしている。
「えっへっへ、待ってろよ、お前ら」
ずっ、と音を立て鼻の下を擦ると一際濃くて太い髭が書かれた。
陸の視線の先には、馬たちを纏めてある馬防柵があり、中で其々、気のあった仲間同士で小さな塊を作って、飼育中の馬が休んでいる。
学問をするのは未だに好きになれないが、剣術や弓術といった戦で必要な体術を習うのは楽しいばかりだ。特に、馬術の鍛錬は性分にあっているらしく、どんなに厳しくしごかれても苦にならない。
そして陸の興味は、馬を諌める術だけでなく、育てる方向にも行った。手を掛けて世話をしてやり、そして牧草を喰んで順調に成長していく馬を見るのが嬉しくなるのは、根に田畑を耕す者の血があるからだろうか。
鼻歌まじりで立ち上がり、馬たちが待つ柵に向かって歩き出した陸は、ぴた……と脚を止めた。
何処からか、稲妻が地を這っているかのような、不気味な音を聞いたような気がしたのだ。
「……なん……だ、ろ……?」
耳を欹てようとした陸は、今度ははっきりと、ううう、ぐふうう、という何かの呻き声を聞いた。
「う、うへっ!?」
「――う、うううぅぅ……ぐふぅぅ……うぐおぉ……うお~おおお……おうぅぅぅ……!」
途端、どっと一気に冷たい汗が陸の全身の毛穴から吹き出してきた。
「ひっ!? ぎゃあああっ!?」
恐怖の汗で全身を濡れそぼらせ、がちがちと歯の根を鳴らす。
がくがくと膝が嗤い、まともに立っていられず陸はとうとう尻餅をついた。
「だ、だれ、だれかっ、だれかあっ!」
陸は唯一取る事が出来る、はいはいの姿勢で何とか此の場を支配しだした呻き声から逃れようとした。
腕を伸ばし、膝を使って少しずつ前進する。
呼吸もままならず、ひ、ひぃ、と喉の奥で吹き損ねの笛の音色のような無様な音が上がるが、構っていられなかった。ズリズリと馬のいる柵に向かって進んでいた陸の手に、ふと、何かが触れたのだ。
「……えっ……、ちょ、ちょっと……まって……」
――……何なんだよ、今の、此の感触……。
怖くて直視出来ないが、触れているのに相手は手を出して来ない。
もう少し腕を伸ばして、撫で回して感触を確かめてみる。
生暖かく、其れでいて、どろりとした腐臭があり、硬い。
もっと撫で回してみると、がさがさとしているような、そしてもさもさとした毛もあった。
実に奇妙な感触であり、もさもさとした手触りは、獣の毛だと思われた。
――……もしかしなくても俺、何かけったくそ悪ぃもんに当たっちまった……?
死に瀕している獣か何かか、と一瞬で陸は固まった。
しかし、確かめない訳にはいかない。
この辺りには猛獣は居ない筈だが、野犬は群れをもっている。
もしも野犬が仔馬を狙って来ているのだとしたら、早急に手を打たねばならない。
手に触れているものが何であるのかを確認する為に、恐る恐る視線を向け、そして叫んだ。
「ひっ!? うっ、ひっ、うぎゃああああっ!」
陸は器用に後方に向かって這いずっていく。
しかし、視線は手が触れたものから離せない。
陸の手が触ったのは、剥いだばかりの肉の臭気を漂わせた獣の革を被った、血塗れの男だったのである。
★★★
その後どうやって、逃亡予防用の柵の傍に建てられた見張り用の小屋に辿り着いたのか。
陸は記憶がすっ飛んでいて話すことが出来ない。
兎に角、陸は自分の倍以上もありそうな体格差の姜を馬小屋にまで引き摺って行ったのである。先に小屋まで走り、大人たちに事情を話して出直した方が早い、という考えにならなかったのは子供故であろう。
「何やってんだよお! は、早く陛下と竹兄ぃ、それから虚海の爺ぃちゃん呼んできてくれよ!」
血塗れの野獣臭い男と、汗だくになってうんうん呻りながら其の男を担いで連れて来た陸とに、小屋にいた竹の部下たちも腰を抜かした。
しかし、陸と違い彼らは直ぐに立ち直ると、仲間を竹と戰に知らせに、そして施薬院に走らせた。残りは、周辺を探らせる者と手当をする者とに分けて其々に走る。
最初にすっ飛んで来た竹は、男が句国の将軍・姜であると確かめると陸を手元に呼んだ。
言い表しようのない興奮にがちがちと震えまくっていた陸だったが、竹の顔を見て幾分落ち着きを取り戻したのか、のろのろと腰を上げた。
「陸、覚えてる限りの事でいい、此の方を何処でどう保護したのかを郡王陛下に話せるな?」
「う、うん、大丈夫」
こくこくと首を縦に振っていると、戰が虚海を背負って馬小屋に飛び込んできた。
「何やコラ、酷いもんやな」
戰の背中から滑えう様にして寝台に降りた虚海は、横になっている男を眺め回して呆れた声を上げた。
「竹はん! 桶に一杯水汲んで来てくれんか!?」
竹は部下を呼んで、虚海の望みの物を用意させる。
其の間に、戰は陸の為に生姜の蜂蜜漬を乗せた温かい葛湯を満たした椀を用意させた。
ちびちびと小匙で掬いながら口に運ぶと、やっと身体が暖まってきたらしい。筋の張っていた肩が、ゆっくりと下がってきた。戰も目尻を優しく緩めると、先ずは治療に取り掛かった虚海の方へ近寄った。
「どうですか、お師匠?」
「傷の方は、深いっちゃ深いが、ちゃんと治療しといたったら死ぬ事ぁあらへんやろ」
「……そうですか」
虚海がそういうのであれば、確かなのだ。
治療を受けている男――
句国の大将軍・姜の命は助かる。
――だが、彼に此処までの怪我を負わせたのは一体、何処の誰なのか?
戰は目を眇めて、治療を受ける姜にじっと見入る。
虚海は、姜の肩に食い込んでいた鏃を取り出す為に小刀を用意していた。
竹たちに命じて、姜を押さえ付けさせると、ぎらり、と光る刃先を翻して姜の肩に突き立てる。
気を失いながらも悲鳴を上げ、悲鳴を上げながらまた意識を遠のかせていく姜を、竹たちは決死の表情で暴れないように羽交い締めにしていた。
激しく揺さぶられながらも、虚海は手際良く肩に埋もれていた鏃を取り出した。
血に塗れた小さな鏃を、虚海は抜いたばかりの歯のように、無造作に床に放り投げる。戰は、胸元から晒を取り出すと、鏃を摘み上げてまじまじと其れを眺めた。
其の間に、虚海は小刀の先を火で炙って赤くなるまで熱した。
「竹はん、しっかり押さえとけよ?」
云うなり、虚海は赤々とした小刀の先を傷に押し付ける。
じゅっ! と肉の焼け焦げる異臭が小屋の中に満ち、獣のような悲鳴が上がった。
背筋を仰け反らせて悲鳴を上げ暴れようとする男を、竹たちは必死で抑える。
「ちゃんと傷を焼いといたらんと、膿んだらことやでな! 我慢せえ!」
虚海も負けじと怒鳴り散らしながら、傷を塞いでいく。
陸は折角の葛湯を片手に、鼻を抓みながら、うへぇ……、と吐き気を堪えたつぶやきを漏らした。
「陸、此の人と話をしたかい?」
慌てて葛湯を腹に全て流しこんで、大きく息を吐いた陸に、戰はなるべく穏やかに話しかける。
「う、うぅん。おっさんおっさん、って何遍も声掛けたけど、ぶっ倒れたまんま、うんうん唸るだったから、話すも何も……」
流石に、唸り声を野犬か何かと勘違いして腰を抜かした、とは白状できない。
陸が恥ずかしさでもじもじしているのを、怒られるかもしれないと勘違いした戰は、少年の肩を抱くようにして叩いた。
「陸は悪くない。其れよりも、大の大人をよくぞ一人で此処まで連れて来た」
「へ?」
「其れに無駄に騒がず、竹と私に直接判断を仰げるようにしたのも、いい判断だ」
「え、えへ? そ、そっか、そっかな? 陛下、俺、偉い? 偉かったのか?」
「ああ、大したものだよ。なかなか出来る判断じゃない」
戰に褒められた陸は、一気に元気を回復し、鼻高々だ。
姜の治療を終えた虚海は、ふぃ~、と長く息を吐き出すと、瓢箪型の徳利を引き寄せて、ぐい、と景気良く中身を煽った。
「どうですか?」
「見たとこ、目立った怪我は肩に鏃喰らっとったくらいで、他には怪我は背中の刀疵くらいやな。後は、頭に怪我はあらへんみたいやが……。打っとると、ちぃとばかし、まずい事になるかも知れへんで? ま、目ぇ覚ました時に、目玉の位置が悪くなかったら大丈夫やろ」
ぷはっ、と軽快な音を立てて、虚海は呑口から唇を外した。
「怪我は? 武器は何か分かりますか?」
「剣や鉾、弓のようやな。やられ方から、突然攻められて応戦したはええけども多勢に無勢、いう感じで命辛辛逃れてきた、ちゅう処やろかいな」
虚海が姜の肩から剔出した鏃を、戰はもう一度見る。
血肉に埋もれ続けた其れは、まだ、錆びていない。
息を殺すようにして、じ、と鏃に見入っていた戰は、怒気を収めきれぬ様子で虚海に問うた。
「……獣の毛皮は? 何故?」
「追手の犬の鼻を誤魔化す為に、やろな。一発目に、血の臭いに寄って来た奴を仕留めたんやろ。自分の血の臭いに後から後から寄って来る奴の鼻を誤魔化す為に、毛皮剥いで被って来たんやろなあ」
しみじみとした声音は、姜が堕ちた境遇に心底同情しているものだった。
虚海も此の数年間、戰に肩入れしてくれた玖の友情に恩義を感じている。深い溜息、今度は戰と竹の方をぎろ、と睨んだ。
「其れはそうとやな、皇子さんと竹はんは何を話しとったんや?」
「え?」
★★★
「竹はんの部下さんが呼びに来た時にやな、お二人が一緒に居てくれとったお陰さんで、時間が節約出来て助かった、云うとったで?」
「……そうですね、実は、私どももお師匠に相談せねばと思っていた処だったのです」
「克が、剛国に向かう、と報せが来ました」
「克さんが?」
克は句国の使者である。
最も良好な関係の国へ向かった彼が、何故、最も交渉困難と思われる国へと立ち寄るのか。
突拍子も無い話に、虚海が酒の酔いを見せる縁の赤い目を丸くする。
「実は、克が帰国寸前に、契国内にて叛乱が有ったという報せです」
「何やて?」
虚海は眉を顰める。
納得がいったとばかりに、は~ん、と鼻の奥を鳴らして腕を組む。
「成程、真さんと合流して、契国がどう出るか見張る、ちゅうわけか?」
はい、と戰が頷く。
「隊長からの報せは、そう云う訳だったのですが……実は昨晩、再び烽火が上がりました」
「はぁ? 何やってか?」
語尾を荒げて虚海を眉を寄せる。
「今度は、何や? 何を報せて来よったんや」
幾分、苛ついた声を上げた虚海だったが、目の前で呻いている姜をみて、はっ……となり、息を呑む。
「皇子さん……もしかして、句国が、なんか……?」
はい、と答える戰の目が濡れているように、陸と竹には見えた。
「句国が備国に攻め入られ滅んだ、との報せでした」
意識して淡々と答えているのだろうが、戰が固く拳を握ったのを虚海は見逃さない。
白くなっていく戰の拳を、じ、と睨んでいた虚海であったが、はふ、と酒臭い吐息を吐いた。
「……ほうか。句国が滅んだとなると、お城で大保さんがいよいよ動き出すやろな?」
「はい」
「皇子さんは、どう思う? 大保さんは何ちゅうて云うて来ると思うとる?」
「はい、恐らくは――」
拳を解いて、戰は一度、横たわる姜を切なそうに見た。
「私に那国攻略を、学には備国に対応するよう、命じて来るでしょう」
「ええ読みや。大保さんのこっちゃ、そう来るやろ」
★★★
大保・受の性格から、皇帝・健に必ずや、祭国に突出した力を付けさせてはならない、と考える。
忠誠心を確かめる良い機会でもある、此度は郡王と祭国王・学に出陣を命じよ、と耳打ちしてくる筈である。
そして、皇帝・健は大保・受の言葉の魔術に逆らう、いや疑いを抱く術を知らない。
「坊っちゃんを初陣させるんやったら、真さんと克さんは剛国におってもらった方が、まぁ都合はええんやがな……」
「真も、句国が破れた事を早晩、知ることになるでしょう。そうなれば、大保が何を仕掛けてくるか、真が一番良く知っている筈です」
「皇子さん、ちょぅ、聞いてええか?」
「はい」
「剛国王はんは、真さんをえろう気に入っとるようやが、気が付いとるか?」
「はい」
剛国王・闘の真へのやりようは、他国の使者に対しての其れではない。
下手をすれば、郡王戰の名で禍国本土へ剛国王の非礼を咎めるように親書が出されてもおかしくないのだ。
なのに何故、闘は敢えてその危険を顧みず、真を嗾けたのか?
一つには、真の性格を熟知しているからだ。
自分が戦えば戰の言葉に耳を傾けるのであれば、と真を剛国の戦場に立たざるを得なくなるよう仕向けられるのだ。
そして真は戰の為になら平気で自らの生命を賭けられるが、其れを口外するような漢ではない。
しかし、祭国にて真がせんの為を思い勝利に貢献したとは、結果だけを見た場合、普通は思わない。
そうなれば、真が帰国後、どうなるか?
剛国王・闘の狙いの一つは正しく其処にある。
祭国内にて、真の居場所を奪う。
出来れば、戰の一番の身内であるという真の立場を失わせる。
己の居場所を失くした漢がいの一番に思い出すのは、己の力量を正しく評価してくれる大丈夫たる漢、剛国王である、と真に思わせるのが狙い――
つまり、剛国王闘は真を欲しているのである。
「此れを機会に、真さんを剛国に居着せる・ちゅうか、皇子さんから奪うつもりでおるんと違うんかいな? 儂にゃ、そう思えるで?」
「剛国王は其のつもりでしょう」
戰は、肩を上下させた。小さく、息を吐くように笑う。
「ですが、お師匠。真を取り込める男はおりませんよ」
怒りに我を忘れて冷静な判断を失っていないか、真に疑いを抱くような馬鹿な思い違いをしはしないか、戰を試した虚海は、教え子が自分の想像以上に大将として、そして君主としての器として育っている事に満足し、にや、と口元を緩めた。
「皇子さんが分かっとってくれとるんやったら、ま、そんでええわ。けど、まぁ一つ、大けぇ問題があるで? 厄介の度合いやったら、こっちの方が大きぃんやぞ? 分かっとるか?」
「はい――大保、ですね」
「そや」
徳利を傾けつつ、虚海は戰の腹つもりを問う。
「坊っちゃんを使ったれいう言わはるのといい、此処ぞとばかりに祭国の国力を削ぎにかかって来るで? 皇子さん、どうするおつもりや?」
「……学は動かせません」
戰は鏃を再び虚海に示して見せた。
うんにゃ? と片眉を跳ね上げながら、虚海は其れをまじまじと見詰める。
「此の鏃の形、此れは露国のものです」
「何やってぇ!?」
思ってもいなかったのだろう、虚海が頓狂な声を上げた。
★★★
嘗て、鴻臚館の火事を起こした土蜘蛛が、井戸に鏃を態と捨て置いた事件があったが、其の狙いとは鏃の形で誰のものであるかを判別させる処にあった。
禍国のように、将軍毎に鏃の形を変えているのは稀であるが、各国は其々に特徴のある鏃を使用している。
姜の肩から取り出され、今、戰の手の内にある鏃の形は正しく、露国のものであった。
状況から見て、剛国なり備国なり東燕なりが、露国に罪を被せようとしたとは考え難い。
「襲撃者は、露国でほぼ間違いないでしょう」
「ほんなら今、坊っちゃんを動かしたらやな、露国王さんが祭国を狙って動いてまう、って事やわいな」
腕組をして、ふぬぬ、と虚海は呻いた。
宗主国として祭国王・学に出陣の命令一下されれば、否を唱える事は許されない。
戰と学が不在の間、此の祭国を護るとなれば、後は郡王妃である椿姫と学の母である大宮・苑しかいないが、其の何方が政を担うべきか、となれば椿姫に荷が偏るのは仕方が無いだろう。
しかも、交渉の相手国として露国が出てきた場合、椿姫と露国王・静は血と縁の深い間柄だ。
彼女以外に役目は考えられない。
とは云うものの、幾ら椿姫が妃として信頼が置けるまでの手腕を得ていても、椿姫は今、身重なのだ。一度目の懐妊中の彼女の体調を思えば、何時なんどき、という恐れが頭を擡げてくる。
彼女にとても国政に関わらせる訳にはいかない。
椿姫に国政を任せる訳にはいかないのは、其れだけはない。
少年王として名を馳せ出した学を、苦々しく思っているからこそ、東燕の王太后・璃燕は真に彼女の縁者である姫を側室に、と画策してきたのである。
学が動けば、東燕は秘密裏に動くだろう。備国なり剛国なり露国なりと結び、背後から手薄となった祭国に攻め入らんとするのは目に見えている。
「学は動かせません。祭国は禍国の生ける城壁であると心得ているのであれば、尚更です」
「ちゅう皇子さんの言い様を、大保さんが噛み砕いて皇帝はんを納得させる方向に持ってくとは、儂にゃ思えへんのやけどもな」
「する気もないでしょう」
戰は目を伏せる。
禍国に対して、戰が郡王として学を動かせない旨を奏上すれば、大保・受は納得してみせるだろう。
だが、皇帝・健は物分りが篦棒に悪い。
代わりに戰に備国とも戦え、と命じて来るだろう――無論、此度の場合は祭国としては願ったりなのではあるが。
「兎に角、2~3日の内に禍国本土から皇帝の名で使者が此方に遣わされて来るでしょう。其れまでの間に、此方も出方を固めなければなりません」
「えろう、面倒臭い事になってきよったで、こら」
竹の部下たちが姜の世話を頼む為に施薬院の那谷の元に使いを出す間に、腕組をしたまま虚海は、鼻をずび、と啜り上げる。
そして、娃が竹と陸と遊びたい、と道場を訪れた時に、正しくその禍国からの使者がやって来たのであった。
戰と虚海の読み通り、戰に対しては那国討つべし、学に対しては同盟国・句国を下した備国に対して厳しく当たるべし――と。




