21 轟く潮流 その5-2
21 轟く潮流 その5-2
結局、受の帰宅は深夜になった。
馬を下男たちに任せると、受は、何時も通りに対屋へと向かう。
いや、いつもより足音を忍ばせていた。対屋を与えた娘も休んでいるだろうという配慮からだ。途中、母屋を見ると灯を落としてしまって見張り番の居る場所にのみ、ぽつぽつと宿っている程度となっており、しん、と静まり返っている。とうの昔に、染は休んでしまっているのだろう、何時もの事であるから受は気にも留めていないが。
受が対屋の三和土の椅子に腰掛けようとすると、傍に湯を張った盥と晒が用意されていた。
盥から上がる湯気を受が無言で凝視していると、屋敷の奥から、ぽぅ、と淡い光の玉が現れた。
沫が、灯りを持って現れたのである。
「起きていたのか」
と、娘に問うような受ではない。
娘の方も、受にそんな甘い言葉を期待している様子もない。
夕刻の帰宅の時と同じ様に、沫は受の足を清める。何も言わずにいる受と、沫との、二人の息遣いのみが、仄暗い玄関の中でひっそりと動いている。
脚の浄めが終わると、二人はひっそりと部屋に上がる。沫は、仄かな灯りを頼りに、受の着替えを手伝った。差し出された愛用の凭几に受が凭れて寛いだ状態になると、沫は漸く笑顔を浮かべて、軽く手を叩いた。すると、奥から軽い膳が運ばれてきた。
そう言えば今日は夕餉を取る暇もなかった、と思い出しつつ、美味そうな香りを漂わせている膳を前に受は腹を撫で擦る。
空腹感が一気に目覚めて、目眩がしそうだった。
箸を取るのももどかしそうに、受は茶碗を手にしようとした。
其の隣で、沫は小さな瓶子を傍に寄せた。
そして、熱い湯で満ちている土瓶の蓋を開けると瓶子を其の中に埋めてしまった。
興味を持ったのか、ひくり、と眉を動かした受を見て、沫は満足そうに小さく笑う。
また見慣れぬ小瓶を手にした沫は、箆を使い中身を取り出し、瓶子の中にほとほとと落として行く。
ふわり、と甘く優しい芳香が沫の手元から立ち上った。
「……梅花か」
「はい」
見事言い当てた受に、沫は微笑んだ。
温めに燗をした酒の中に、梅の花や蕾を摘んで乾燥させた物を落として潤びさせたのである。
瓶子を湯から上げ晒で底を拭い雫を切り、白い磁器の大きめの酒杯に梅花酒を注ぐ。酒は、二人の胸の鼓動のような、とく、とく、とく、と波打つ音をたてた。淡い朱の花弁がそよぐ酒が杯に満ちる。
腕を伸ばして杯を手にした受は、軽く傾けて一口呑んだ。
喉仏が、上下する。
「……旨い……!」
酒杯から唇を離した受は、深い溜息と共に感嘆の声を漏らした。
声を掛けて貰えるとは思っていなかったのだろう、沫は一瞬、固まった。
そして、袖口で口元を隠しながら、……有難う御座います、と小さく応える。語尾が震えて潤んでいる。しかし顔ばせは、穏やかな春の陽射しとそよ風を受けながら、ひっそりと花弁を綻ばせた梅の花のように華やいでいる。
受が残りの酒を煽っている間に、沫は新しい瓶子をし始める。
新たな瓶子が用意出来ると、受は沫に向けて、ぐっ、と酒廃を差し出した。
「……だんな……さま?」
沫が戸惑っていると、受は面倒臭そうに其の白い手の内にある瓶子を取り上げ、代わって酒杯を押し付けた。
「呑むがいい」
短く命じる受に、沫は慌てて首を横に振った。
「わ、私はまだ、子供です。お酒のお味を覚えるなんて、まだまだそんな……」
何を云う、と受はまたも珍しく、むっとした様子を見せる。
「私に仕えて其方も3年以上。酒の味を覚えるのに早すぎるということはない」
「でも、でも、旦那様から直接、お情けを頂くなんて、そんな、勿体無い事を……」
「未だ云うか」
おろおろとし始めた沫を前に、受の眉間に皺が寄り更に陰険さが漂う。
「私はお前と酒を楽しみたいと思い、酒杯を差し出したのだ。素直に受け取り、私と共に味わえば良い」
「……」
こうなると受は、渾渾と言い含めに掛かる。
言うことを聞き入れるまで決して受は折れないと、此の3年で嫌という程、沫は思い知らされている。
……では、と沫は静かに酒杯を手にする。満足気に、受は頷いて瓶子をぐ、と突き出してきた。
「人に奨めるのであれば、自らも先ずは口利きとして味を知り尽くさねばならん」
受が傾けた瓶子から流れる淡紅色の酒の流れが、沫の酒杯を満たしていく。
受が瓶子を置く様子を視線で追って許しを乞うていた沫だったが、とうとう決したのか、恐る恐る唇を酒杯の端につけて、こくり、とほんの一口、口に含む。
「旨いか?」
こっくり、と首を縦に振り、頬を同じ色合いにした沫を見て、受の目元が和む。
「酒というものは、こうして差し向かいでゆるりと楽しむ相手が居ればこそ、更に味わい深くなるというもの。酒を酌み交わす歓びと味わいを知らずに過ごすなど、人生の大部分を損じておる愚か者のする事よ」
そう言って、膳の蓋を返して酒盃の代わりに差し出してきた受を、くすり、と沫は笑う。
「何を笑う」
娘に何故、笑われているのか、本気で分かっていない物言いの受に、旦那様、さ、どうぞ、と沫はまだ笑いながら瓶子を取り上げた。
★★★
刺繍用の金糸と銀糸、そして藍染め用の綿布を大量に抱えて薔姫は小走りに部屋に入ろうとしていた。
一度で用事を済ませようとして、やまと積み上げてしまったせいか、糸と布の均衡が絶妙、と云うよりも微妙な状態で保っているからだ。
有体に言ってしまえば、糸と布の山が崩れずにいるのは奇跡に近い、という事だった。
――もう少しで出来上がるから、って欲張り過ぎたかしら?
落として貴重な糸を汚してしまうくらいなら、少しづつ運び出せば良かったと今更ながらに焦る。焦りながらも天帝の御心の深さ故か、薔姫の手から金糸も銀糸も零れ落ちる事はない。
ふと薔姫は縁側に腰掛けて足をぷらぷらさせている娃を視界の端に認め、珍しい、と笑った。
何時もだったら、蔦に踊りや歌を習ったり、鈿に神殿の歴史を習ったりして、娃の時間は過ぎて行く。
でなければ、施薬院で働く奥様方や娘達の子供たち――丸や万たちと遊んだり、道場で剣術や弓術を習う陸のような少年たちと悪戯し合っこしたりして過ごしているからだ。
ふと、声を掛けようとして、娃の小さな肩が下がり背中が丸くなっているのに気が付いた。
此れは何かあった、と思わせるに充分過ぎる、目に見えた落ち込み方だ。
笑いを堪えながら薔姫は足を止め、糸と布を顎の下に挟むようにして支え、小さく咳払いした。
はっとなって、娃は振り返り、薔姫と目が合うと決まり悪そうに視線を伏せて、ぷい、と顔を背けた。
其れこそ、何時もの娃なら此処まで薔姫が近付いていれば気配で気が付いている。
「娃ちゃん? どうかしたの?」
隣に薔姫が腰掛けると、何でもないもん、と娃は唇を尖らせる。
「何でもない人が、こんな家鴨さんみたいな顔はしないわよ?」
突き出た唇を、きゅ、と摘んで薔姫は笑った。途端、娃は頬をぷく、と膨らませる。
「あら、今度は蛙さんになっちゃった」
誂い口調の薔姫に、娃は頬に赤い血の色を集めると、明らかにむっとした表情で手を払った。ぱしっ、と乾いた音が響く。
驚きの余り言葉を失う薔姫に、娃は、べーっ! と舌を出すとくるりと背中を見せた。そして縁側から飛び降りて、裸足のまま庭の奥に走り出す。
「ちょ、ちょっと、娃ちゃん!?」
呆然として駆け出した娃を見逃してしまった薔姫だったが、はっとなって後を追いかける。
まだ女童の年頃の娃と、もう大人の年齢に達した薔姫とでは所詮、体の作りが違う。
あっと言う間に追い詰められ、薔姫に手首を掴まれた娃は見る見るうちに両目に涙を溜め、次の瞬間、わぁん! と大音量で泣き出した。
宥め賺しつつ娃を抱き上げて、家に戻る。
驚いた芙の仲間が夕餉の下拵えの最中だというのに、何事かと飛び出してきた。
「大丈夫だから。晒と手水用の盥にお湯を張ってをきて呉れる?」
泣き過ぎて吃逆が出始めた娃の背中を薔姫は優しく撫で擦りながら、縁側に娃を座らせると、芙の仲間が盥の用意をしてくれた処だった。湯気が上がっており、傍には使い慣れて柔らかくなった晒がきちんと畳まれている。
私がやるから、と薔姫が呟くと、では、と皆下がっていった。
「さあ、娃ちゃん、足を出して?」
湯に晒を潜らせてから緩めに絞る。
ほわり、と優しい温もりが晒に移った。
む、と唇を固くしつつも、娃は右足をぴょこ、と跳ね上げて薔姫に差し出した。くす、と笑みを零しながら、薔姫は娃の足の汚れを丁寧に拭ってやる。
湯を含んだ晒の温もりが心地良いのか、最初刺々しかった娃の顔が、うっとりと緩んできた。
昂ぶっていた娃の気持ちが落ち着いて来たのを見計らって、薔姫は動かしていた手を止めた。
手拭きで水滴を拭き取り、娃の隣に座り、頬に残っていた涙の跡を拭ってやる。ほんの少し顎を突き出すようにして、娃はされるままになっている。気持ち良さそうに顔を拭かれている娃を見ていると、身支度をする際にすっかり自分に甘えている真を思い出した。
笑みが零れそうになるのを堪えつつ、膝にちょん、と置かれている娃の小さな握り拳の上に薔姫は自分の手を重ねた。
「何があったの?」
身を屈めて、娃の顔を下から覗きこむようにする。
視線が合うと娃はまた唇を尖らせて、う……、と言い淀む。
「言いたくない?」
迷いながらも、娃はぷるぷると首を左右に振る。
「……あのね、お姉ちゃま」
「うん、なあに?」
「……今日ね、竹と陸と遊ぼうと思って、道場の方に行ったの」
陸は兎も角、竹までが遊び仲間扱いなのは少々気の毒な気もして、真面目に聞こうと思って気をひ決めていながらも、とうとう薔姫は吹き出してしまった。途端に、娃の量の頬がぷく、と膨れる。
「御免ね、娃ちゃん笑ったりして悪かったわね」
慌てて笑いを堪えて、娃の額に頬を寄せながら抱き締める。
其れでもまだ娃は唇を尖らせて、ムスッ、としているが薔姫に甘えられるのは其れは其れで嬉しいのだろう、上目遣いをしている瞳の色には真剣さのある怒りは見受けられない。
「でも、竹に駄目、って言われたのね?」
「……うん」
こっくり、と娃は首を縦に振る。
克と杢が城にいない今、祭国の屯田兵の長として立ち、率いる長の役目を担うのは竹だ。
娃の我儘に付き合って、鬼ごっこや隠れ鬼などして遊んでなどいられないのは当然だった。
加えて――つい先日、西の見張台から火急の早馬が来たのを、娃は知らない。
★★★
禍国に向け、緊急事態を知らせる烽火が上がった。
本来であれば本国の機密を盗んでいるのであるか、此れは謀反罪に問われ兼ねない。
しかし、義父である兵部尚書・優は視察に託つけてあちらこちらの見張台に自分の息が掛かっている者を据えて、祭国にも情報が流れるようにしたのである。
薔姫の初花祝となった前回の逗留の折には、剛国との国境に特に重点を置いて視察を行っていたと真から聞いている。
そして数日前の早馬は、正しく剛国がある方向からのものだった。
冷夏が来るのでは、という予測を記した郡王・戰としての親書を使者に持たせ各国に送ったばかりであり、使者には、克や杢を始めとして、真も名を連ねている。
そして真が使者として向かった先は、剛国なのだ。
だがもう、我儘を言ってみたり、出しゃばっても目溢しをして貰える年齢ではなくなっていると自覚している。薔姫は、戰たちに烽火の内容を詳しく問い詰めたいのを、ぐっと堪えていた。
溜息を吐きたくなるのを堪えていると、娃の方から身体を摺り寄せてきた。
「あのね、すごくすご~く、忙しいんだって。またね、えっと……新しいね……う~んと、えっと、何かが来たから、って陸が言ってた」
「また? 何? 何が来たの?」
「知らない、分かんない」
思わず急き込んで尋ねる薔姫に、ぷるぷると娃は首を左右に振る。
やっと、相手はまだ4歳の童女なのだと気が付いた。薔姫は自分自身の慌てぶりに苦笑する。
――我が君も、私が何気なく漏らした一言に、慌てて問だたしていた時って、こんな気持ちだったのかしら……。
薔姫の気持ちを知ってか知らずか、娃は彼女の肩に頬を載せて甘えてきた。
話を聞いて貰っている内に、娃は気持ちは収まってきたらしい。
だが、薔姫は逆に気持ちが張り詰めてきた。風邪を引いて、喉が痛み顳かみがちくちくして落ち着かない時に似ている。
――……また?
また、って何?
また何か、と云うことは、真がいる剛国から新たな報せが届いたのだろうか?
――其れとも、克か杢、他の国々に向かった誰かから?
其れとも、禍国に向けて、別の烽火が上がったの……?
薔姫は空を見上げた。
――何かが……。
何が、起きようとしている……の……?
今日は、薄雲がほんのりと流れて閑静な気持ちにさせられる。
だが薔姫は、温容に構えてなどいられなくなった。
真が居ないので、城で何が起こっているのか具に知る事が出来ない。
が、空気が徐々に緊迫してきているのは判る。
不穏な気配は着実に近付いて来ており、もしかしたら、義理の兄である戰は、本国・禍国から皇帝・健の命令が下るのでは、と薔姫はふと胸に浮かんだ考えに、密かに慄き、そして震えた。
★★★
芙の仲間に娃を任せて、薔姫は城へと向かった。
どうしても義理兄である戰に直接会って問い質して確かめなければ、気になって何も手に付かないと思ったからだ。
――兄上様の異腹妹だっていうのを利用して、お姫様扱いして貰って、我儘を通して貰っちゃいけない、のに。
分かっているのに、止められなかった。
城門の前まで来ると、隣にある施薬院が、そのまま素通りできぬ位に喧然としている。
気になって城と繋がっている裏手に周ってしまった。施薬院の中の様子は、やはり騒然としている。
――何方か、急にお加減が悪くなった方が居るのかしら?
今、施薬院では珊と福の二人が仕事量を抑えている。
其の為、どうしても手薄になる部署が出来たり、采配が行き届かない処がでたりと影響が出始めていた。
――どうしよう……何か手伝った方がいいのかしら?
立ち竦んで迷っていると、虚海を背負った竹と那谷が切迫した表情で飛び出してきた。
どうしたの? と竹と那谷に声を掛けようかとまた薔姫が迷っている間に、二人はあっと言う間に城の奥へと姿を消してしまった。
呆然としていると、今度は大荷物を抱えた陸が飛び出して来た。
何時もなら、おう! 姫奥様! とにこにこしながら駆け寄ってくる陸が、自分など目に入っていない様子で、竹と那谷の後を追って城の奥へと消えて行く。
薔姫は堪らず、遂に陸の後について駆け出した。
虚海を背負った竹と、那谷、そして陸は、だが城内に入らなかった。
向かった先は何と、薔姫の生母・蓮才人の住まいとなっている西宮の裏手門だった。
柱の陰に身を隠して、薔姫は一気に高鳴りだした胸を押さえて様子を窺う。
よく見ると、門前を護る兵仗は何時も通り4名であるが、城に仕えている者ではなくて克の部下だった。竹と、彼の背中の上の虚海が、兵仗たちと二言三言、ひそひそと話し合っており、其の間、那谷や陸たちがきょろきょろと周囲を気にしている。
「では、御通り下さい。郡王陛下も中でお待ちになっておられます」
「ほうか、ほんならあんたさんら、あんじょうよう、頼むで」
はい、と引き締まった返事を返す兵仗たちの頭を、頼んだで、と虚海はぽんぽんと叩いていく。
竹の後ろに、那谷と陸が続く。4人の姿が西宮の中に吸い込まて消える。
暫くの間、兵仗がたちは緊張の面持ちで周辺の様子をじっと見回して探っていたが、誰も傍に居ないようだ、と徐々に固くなっていた態度を緩めていった。
そして普段通りの見張りに戻った兵仗に見付からない位置にいた薔姫は、胸がどきどきと早鐘を打ち、息が上がるのを必死で耐えていた。
――……やっ、やだ、まさか……!?
もしかして……もしかして、お母様の具合が悪くなられたの?
自分の想像に、薔姫の顔から、さっと血の気が引く。
思わず、いやっ! と小さく叫んでいた。
此処まで感づかれないように折角気配を殺して姿を隠し通してきたというのに、母親である蓮才人が重篤な病に冒されでもしたのか、と思うと居ても立ってもいられなくなった。
薔姫は、植え込みの木の枝をがさがさと乱暴に掻き分けて、裏手門前を護る兵仗たちの前に飛び出していた。
★★★
竹たちが誰にも見咎められずに此処までやって来られた、宮の中に招き入れる事が出来た、と安堵の溜息を吐き合っていた兵仗たちは、青い顔をした必死の表情の薔姫に突然出てこられて、ぎょっとした。
手にしていた守人用の槍を取り落とす間抜けまでいる。
「こ、こり、こりは、しょ、しょしょ、しょう、ひ・め・さま」
焦りから吃りながらも、兵仗たちは何とか取り繕おうと大げさに身振り手振りを交えて挨拶をしつつ薔姫を引き返させようとした。
だが、そんな彼らの目論見はあっさりと破られた。挨拶もそこそこに、薔姫は槍を取り落として気持ちと視線がそちらに向いた兵仗の隙きを突いて、西宮の中にするり、と滑り込んでしまったのである。
「――あぁっ!?」
「しょ、薔姫さま!?」
兵仗のたちは、腕を伸ばして薔姫を追おうとする。
しかし見るも哀れな程に動揺していた彼らは、横に転がったいた槍を、薔姫は通り抜けざまに、ちょん、と爪先で押したのに気が付けなかった。
「うおっ!?」
「おぅっ!?」
「ぐわっ!?」
「どわっ!?」
一人が槍の柄に躓いて身体をの均衡を崩すと、その男の身体に直ぐ後に迫っていた別の男がぶつかる。
二人がもたもたしている間に、更に別の男が足を取られてふらついた処に、最期の一人がぶつかって全員で縺れた糸の玉のようになって倒れて床に転がった。
盛大な音が門から続く廊下に響いて抜けていく。
兵仗たちの、お戻り下さい! という叫び声を背中に受けながら薔姫は竹たちを探し求めて西宮の奥へと駆けていった。
目を瞑っていても行きたい処に勝手に脚が動いて呉れる位に、西宮の部屋の配置は、もう頭の中にすっかり入ってしまっている。
――竹や虚海さまたち、そして門を護る兵仗たちは、何かを秘密にしたいと思っている。
其れにはどうやら、義理兄の戰も一枚噛んでいるらしい。
場所を提供している以上、母・蓮才人も通じていると見て良いだろう。
実母である蓮才人も義理兄の戰が、自分に隠し事をするのは何か退っ引きならない事であるからに違いない。
薔姫は、自分が赤斑瘡を患った時を思い出した。
隠そうとしているのは、城内に知れ渡り、其れが何時しか王都に広まり、そして領内隅々まで行き渡り、領民たちを動揺させてはならないという気遣いからだろうか。
だが、また恐ろしい流行り病が流行の兆しを見せているのであれば、自分に話がないのはおかしいような気もする。
となると、考えられるのは矢張り、使者として発った者のうち誰かが問題に巻きまれたか。
或いは、禍国本土より無理難題を押し付けられたか。
その何方かだろう。
兵仗たちが自分を探す気配をまきながら思い当たる部屋をちらりと覗き見し、誰も居ないとなるとまた次の部屋へと駆けていく。
しかし数度、繰り返しても誰にも出会わない。
内心焦っていると、背後から声を掛けられた。
と、云うよりは詰問に近い。
「薔、どうして此処に居る」
振り返ると、戰が驚き半分、怒り半分の顔つきで立っている。
何時も穏やかな戰がこういう顔つきをするのは滅多に無い。
逆に、薔姫の中で肝が据わった。
戰に縋り、大きな手を握り締めて見上げる。
「施薬院の前まで来たら、虚海様や那谷たちが慌てて、此処に入っていくのが見えたから」
「……義理母上に、何かあったかと思ったのか?」
拍子抜けしたような顔付きになった戰に、うん、と薔姫は頷く。
やれやれ、と戰は肩を上下させると、薔姫の額に手を当てて何時もの優しい異腹兄としての笑顔を作った。
「義理母上はご息災だ。心配は要らないよ」
さあお行き、と薔姫の身体の向きを出口に向けようとした戰の手を、薔姫は必死で振り払う。
「じゃあ、どうして虚海様と那谷はあんなに慌てて西宮に向かっていらっしゃったの? 兄上様こそ、どうしてこんな処にいらっしゃるの?」
16寸近い身長差をものともせず、ぐいぐいと迫る薔姫に、うっ、と戰は言葉に詰まる。
「兄上様」
今度が薔姫の方が詰問口調となる。
のけ反るように背筋を反らし、ぐっ、と息を止めて戰は真剣な眼差しの薔姫を見る。
やがて、大仰な深い溜息を全身で吐くと、仕方無いね、と苦笑した。
「分かった、何れ薔にも話さなければならなかったのだ。数日早くなっただけだと思えば是非も無い」
此れも天帝の采配だろう、おいで、と戰は薔姫の肩を抱いて西宮の奥へと誘った。




