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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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21 轟く潮流 その5-1

21 轟く潮流 その5-1



 かぁん、かぁん、と政務を終了を告る鐘の音が城内に響き渡る。

 響き渡る、と言うよりも移動している。

 手にした小さな鐘を鳴らしながら、内官が各尚書や執務室に知らせて回っているのである。ゆったりとした規則性のある音の動きは、つい最近、生じたものだ。時辰じしんを告げる役目が健に、というよりもその母后である合の意向により、文字通り鳴り物入りで増設されたのである。彼らの多くは低位の内官なのだが、美々しく着飾り化粧まで施して鐘を鳴らして歩くので『時告げ鳥が錦鶏鳥になった』と密かに揶揄されていた。

 健が皇帝となって此の方、皇太后・合のご意向とやらによる新規の役目が、雨後の筍の勢いで増え続けており、新設の役を開く為に受が請け負わねばならぬ仕事も、軒並み右肩上がりとなっていた。



 ★★★



 しかし受は、一回目の鐘の音が響くと同時に静かに椅子から立ち上がった。

 するすると手元に荷物を纏めると丁寧に布に包み、腕に抱えて執務室を出る。

 こんな仕事は基本的に舎人や資人の役割なのだが、受は自分の持ち物を決して他人に触らせようとしない。


 当初、何かを恐れているのだ、と半分恨みを込め半分は僻みを含んだ言葉が、引っ切り無しに受の頭上を飛び交い、時に背中に刺さりもした。

 が、受は全く意に介さない。

 相変わらずの無表情で、定刻に城に入り定時に出る生活を繰り返し、そして身の回りの事は自身で全て行っていた。

 この受の時告げ鳥よりも正確無比な行動は、皇帝・健の耳に入り悪戯心を発揮させる事となった。

 即ち、催した宴会に無理矢理に受を出席させた事がある。


「受よ、たまには宴の席に残れ」

「……」

 はいともいいえとも言わず、受は腕に荷物を抱えたまま最も健に近い席に座る。

 克服したとはいえ、吃である受は、こうした晴れやかな場には基本、出て来ない。其れを良い事に健は好き勝手し放題であったし、上官である受が出席せねば、皇太后・合の息のかかった下士官たちは宴の席を、皇帝への目通りの絶好の機会として大いに活用していた。其処まででない部下たちも、末席に列して伸び伸びと憂さを晴らせていた。


 しかし、此の日は違った。

 大保であり、大司馬である彼以上の雲上人はいない。宴が始まっても相変わらず押し黙ったまま、面白そうな顔一つせず、ただ黙々と盃を開けていく。そんな人物に上座を占められて、部下が気分良く呑み進められる訳がないではないか。

 だが、ある程度酒が回り酩酊とまで行かなくともほろ酔い加減となると、皆の気分が徐々にではあるが盛り上がって来た。良い頃合いを見てか、妓女たちが小鳥のさえずりのような笑い声を転がしながら現れる。現金なもので、途端に場の雰囲気が一気に火を吹いたように大盛り上がりを見せる。

 美しい妓女に酌をされて気分が上がった健も、無論、其処から急速に胃の腑に酒を落とす速度を早めた。

 一気に泥酔した健は、徐ろに隣りに座る受にどろんと酔いの色に染まった視線を投げ掛ける。


「大保よ。其の方、何時も同じ時間に帰るそうだな」

「仕事が終われば帰宅するのが道理です」

 眉をぴくりともさせず、受は波々と注がれた酒を一気に煽る。

 健よりも杯を重ねている筈だというのに、受の方は一向に乱れる気配を見せない。顔色さえ微塵も変えない。

「だがお前の部下たちは、居残って仕事をこなしておるぞ? 上官である其の方がいの一番に帰宅してしまっては、部下に示し・・がつかんだろうが?」


 皇女・染を正室に迎えていながらも、受がまだ蕾のような少女を側室とし、対屋を与えて住まわせているのだというのは公然の秘密だった。

 暗に承衣の君と認めた娘の元にそんなにも早く帰りたいのか、と誂ったのだが、受は平然と受け流した。

「時間内に仕事を終えられぬのが無能なのだ。余計な時間を割かねば仕事を片付けられぬなど、仕事に対する気構えが足りぬだけだ」

 眉一つ動かさず平然と言い放つ受に、健は鼻白む。


「そもそも無駄な役職が多すぎる」

 じと、と受が視線を上げた先には、時辰を告げる鐘の音がゆらゆらと徘徊している。

「時を告げる鐘の音を鳴らすだけの阿呆な役目に、一体何人使っているのか、分かっておるのか?」

 ふぐぐ、と健は息を呑んだ。

 健の母親、皇太后となった淑妃・合は見目の麗しい若者をより多く己の傍に、そして代わる代わる回らせる為だけに此の役目を大増員したのである。

 しかも、恐ろしい高給取りだ。

 刑部尚書・平とその部下たちが多忙を極める割に合わぬ薄給に、いつ困窮零落に落ちていくかと抱えた不安を誤魔化し誤魔化し激務をこなしているというのに、だ。

 しかも、皇太后・合の虚栄心を満たすのみに新たに作られた部署と役職は何のあの役目だけではない。

 正に数知れず、であり、旨い汁とお溢れに与ろうという門閥貴族たちは互いに袖を引き合って彼是と彼女が望むままの心地よい言葉を選りすぐって耳打ちをしあった。

 彼女の唇から錬られた役職を得るのは一門の誉である、と持ち上げられれば合は調子に乗り、こうして益々、訳の分からない役目が増えていく。健も母親孝行という御題目を逃げ札にして、彼女の虚栄心を満足させる好き勝手を目溢しして居たわけだから、藪蛇になった。途端に肩を窄ませて口を噤む。


「ほんの一刻余り鐘を鳴らして閑歩するのみ。後は一日椅子に座り机に突っ伏して眠るだけが仕事と言えるか。戯けた役目で法外な手当を貰っておる輩なぞ、とっとと首切りしてしまえば良い。浮いた金を有能な者に賃金に回しすれば、一層仕事に身を入れ国の為に励むというもの。門閥貴族に箔をつける為だけに訳の分からん役職を増やして何になる。煩わしさが増すばかりだ」

 相変わらず、遠慮も何もない容赦のない言い切りように、健は目を白黒させる。

 しかし仮にも皇帝に向かってきく口ではない。

 ないのだが、さりとて、一時の怒りと僅かばかりの満足を得る為に受の首を切れない。

 そんな事をした暁には、政務は半日もせぬ内に破綻してしまう。

 自分が後宮に次々と女たちを迎え入れ、芸妓を呼んで楽しさを囲って暮らしていけるのは、この受が全ての苦労を背負い込んで呉れているからに他ならないと、健は一応、理解はしているのだった。


 ぐびぐびと下品な音をたてて不味そうに酒を呑み下した健は、ぷい、と顔を背けた。

 そして、手を降って受に下がるよう促した。

「では」

 遠慮も礼拝もなく、荷物を纏めた包を手にして受は立ち上がり、すい、と音も無く宴から姿を消した。

 以後、皇帝・健が大保・受を私的な宴に誘う事は二度となかった。



 ★★★



 帰宅した受は門番に馬の轡を預けると、其のまま真っ直に東北の対屋に向かう。


「旦那様がお帰りになられました」

 対屋の前で下男が奥に声を掛けると、しゅしゅ、と衣擦れの音が慌ただしく近付いて来る。

「旦那様」

 衣の音の主である、まだ、少女とも言える年頃の娘が現れた。

「お帰りなさいませ」

 嬉しさに頬をほんのりと赤くし、声を上ずらせている。

 しかし受は、うむ、とも、ああ、とも言わず押し黙ったまま手にした荷物を娘に押し付けるようにして差し出すと、三和土に用意された椅子に座る。

 娘の方も慣れきっているのか、受の無粋さに眉も顰めない。静かに土間に降り、下男が用意した手水用の大盥に熱めの湯を張らせる。


「旦那様、今日も一日、御政務、お疲れ様に御座いました」

 受を気遣いながら、娘は湯の中で受の足を丁寧に洗う。汚れを落とし終えると、膝の上に湯から上げた足を乗せて優しく水滴を拭き取る。そして湯の温もりが冷めぬうちに、足裏に軽く按摩を施していく。

 受は、表情を変えずに両足に按摩を受けながら、まちよ、今日はどうしておった、とぼそりと口にする。

「はい、本日は白様にお茶のお作法を習っておりました」

「ふむ、茶をか」

 初めて、受のに興味の色が走るのを沫と呼ばれた娘は見逃さない。

「はい、今日は、あの……褒めて、頂けました……」

 受にも味わって欲しい、そして褒めて欲しいという期待感からだろう、俯いている沫の項が真っ赤になっている。そうか、と受は乾いた声音も変えない。

「では、沫。手前の上達ぶりを見てやる故、早速、茶を点ててみせよ」

「は、はい、旦那様」

 立ち上がった受の背後で、沫は慌てて晒を下男に押し付け、荷物を抱えた。



 部屋に上がると沫は受の背後に回った。

 受は当然のように腕を広げて立ち、沫の好きな様にさせる。

 此れもまた慣れた手付きで、沫は受が纏っていた雲上人のみが許されるきぬをするすると脱がせ、そして手際よく深衣に着替えさせる。衣が擦れる音だけが、鄙びた草庵風の対屋の中を満たしていく。

「旦那様、どうぞ」

 沫が座と凭几を用意すると、受はゆったりと上体を預けて休んだ。

 其の間に、沫は預かった荷物を急いで開いて片付けていく。


 受の邸宅での暮らしの殆どは、沫に与えられた此の東北の対屋で営まれている。

 資人に荷物を任せないのは、其のせいだった。

 資人は受に仕えているわけだが、正室である染の『所有物もの』でもある。

 染に何事か命じられれば、逆らえない。

 しかし受が自分で始末してしまえば、資人の出る幕はなくなり、染の思惑が絡む事はない。


 片付けを何時もの倍の速さで終えると、沫は茶を点てる用意を始めた。

 高価な茶道具一式は、受が彼女に気前よく買い与えたものだった。道具の一式で沫の元の身分の者であれば、一族郎党が8代先まで安泰に暮らして行ける値段だ。

 欠けさせては一大事と沫は青い顔で首を横に振ったのだが、物事は最も上等のものに触れねば上達しない名人という極みに達する気構えは本物に常に触れねば培われない、と云う訳の分からない受の理論に押し切られてしまった。無論、正室の染は悋気に狂って大暴れしたのだが、受は彼女には平然と無言無表情を貫き、聞き流してやり過ごした。


 沫は予め温めておいた泡瓶ほうひんに茶葉を落とすと、沫は見慣れぬ小壺を手に取った。

 杓を使って、中身を取り出す。

 白い小さな粒は、何かの花の蕾のようだった。

 沸きたった湯を茶銚に移し、普段よりも幾分温めになるまで温度を落として泡瓶に注ぎ入れる。

 巾で泡瓶を包み込み、じっくりと蒸らし終えると、沫は茶器にゆっくりと茶を注ぎいれて蓋をした。

 納敬のうけいを受け取った受は、茶器の蓋を僅かにずらすようにして開け、先ず香気を吸い込んだ。


「……ほう」

 受のように表情や感情を表に出さぬ男が、思わず感嘆の声を上げた。

 白い粒が幾つか茶器に流れて来ていたのだが、正体は玳玳だいだいの花を蕾の内に摘んで乾燥させたものだったのだ。湯の中で花が戻り、ふわりと優しく香りが鼻腔を擽る。

 香りが逃げぬよう、蓋を抑えたまま受は茶を口に含んだ。甘い蜜の味と花粉の苦味走った粉気が、爽やかな茶葉の風味と共に舌の上を転がって喉の奥へと消えていく。


「良い味だ」

 率直な褒め方、と云えば聞こえがいいが、何の衒いもない。

 そもそも、此れで褒めていると言えるのかどうか、受の無表情からは読み取れない。其れでも沫は、受に喜んで貰えたのだと嬉しそうに頬を紅色に火照らせた。

玳玳だいだいの花の蕾に御座います。玳玳には、疲れを癒やして胃を健やかにする作用があるのだそうで、あの……旦那様が……此の処……お疲れ、の、ご様子……でしたので……」

 沫の声がどんどん細くなっていくのに、そうか、とも言わずに受は茶器の中の湯を飲み干していく。

 飲んでなお、目蓋を閉じて残る香気の余韻を楽しんでいる受の耳に、無粋な声が届く。

 母屋からの使いである兵仗であった。


「御主人様、御正室様がお待ちに御座います」

「そうか」

 短く答えると、受は立ち上がった。



 母屋に入ると、早速、染がねちねちと嫌味を口にして出迎えた。

「餉の前に茶なぞ飲んで、何と愚かな。食が進まなくなったらどうするつもりなのじゃ」

 挨拶もせずに、じっとりと上目遣いで睨んでくる染の横を、受は無言で通り過ぎる。

 食事だけは此の母屋にて、受と染で取っている。

 が、唾を飛ばして日々の不平煩悶を捲し立て続ける染の前で、受は修行中の導師のように終始無言で黙々と箸を動かし続けるのみという、恐ろしい光景が展開されている。

 今日も、そうなるのだろう、と使用人たちが胃の腑辺りを抑えてげんなりしていると、屋敷の正門あたりが騒がしくなった。

 程なくして、資人が駆け込んでくる。


「旦那様、城より火急の知らせに御座います」

「何だ」

「烽火が上がりました」


 何? と珍しく受は眉を跳ね上げた。



 ★★★



 結局、食事も取らずに受は王城に戻った。

 然し流石に受と言おうか、馬の足を急がせるような事はしない。

 あくまでも普段、登城する時と変わらない。そして普段、政務を取っている大保としての部屋ではなく、大司馬としての部屋に入る。


 既に、宰相にして兵部尚書である優が待ち構えていた。

 丁寧さだけは一流の礼拝を受に捧げた優に、も呉れず受は腰掛ける。

「兵部尚書、何があったのか仔細を申せ。烽火は何処より上がった」

「西天より上がりました」

「ほう?」

 受の語尾が、僅かに上がる。

「して、如何なる報せか」

「崑山脈の公道にて、句国と備国が激突したとの事」

「勝敗は?」

「備国の圧勝」

 淡々と答える優に、ふむ、と受は首を捻る。


 契国の相国である嵒が国王であり甥である碩を廃して玉座を奪い、同時に各国に密書を送り乱を起こさんと画策しているのとの情報は、受と優は共有している。

 甥を追い落とし自らが王となる。

 一見分かり易い図式でありながらも、何故態々、自国に禍を呼び込むような真似をするのか、しかし優には読めないでした。

 一方の受は、何故分からん、と眉を僅かに寄せる。

 頭の良い人間に往々にして有りがちな事であるのだが、何事も自分基本である為、本気で何故分からないのが解らないのである。

 更に受は嵩に懸かって、頭が悪くて理解が不能なのであればせめて云うなりに動いて役に立て、と平然と言い放つ為、より一層、たちが悪い。

 一方の真は、自分には足りない処があるとの前提で動いている。

 だからこそ、常に知らねばと脳を高速回転させているのだが、そうした努力奮励何もせずに『分からない』の一言で済ませようとする根性が判らない。然しそうした態度を取って貰った方が此方には都合が良いのでまあ其れでもいいです、という態度を取る。

 二人のこうした態度は全く似ていないというのに、奇妙ではあるが何故か受を見ていると息子の真を彷彿とさせる。


 ――全く以て、腹が立つ。

 居らぬ間でもこの父の胸をざわめかせるか、馬鹿息子。

 苛つきを感じながらも、恐れながお教え願えませぬか、と優は頭を下げる。

「契国の宰相は、此の中華平原に動乱を呼び起こしたいのだ」

「互いの国と国を争わせ、漁夫の利を得ようというのか?」

「最も弱い国であるという自覚がある契国宰相は、其れを逆手に取っている」

「つまり……容易く御する事が出来る契国などは後回しでよい、と思わせて、動乱を逃れると……?」

「意外と言出した側いうのは盲点になりやすいものだ」


 ふむ、と優は唸った。

 聞けば成程、と納得がいく。

 真が此の場に居たとしても、似たような説明になっただろう。

 其れに現実、契国にはどの国も兵馬を差し向けていない。

 何も契国如きの言い成りになどならずとも良いものを、何故か乗せられてしまっている。

「人間というものは、腹の底に仕舞っていた欲を許される甘い言葉を発せられると、簡単に其方に靡くものだ」

 明日の天気を予想した、と言わんばかりの平坦な口調の受に、優は返答のしようもない。此の十数年、禍国の帝室にはそんな輩ばかりなのは事実だ。


 ぐぬ、と優は呻きつつ腕を組んだ。

 実はつい先頃、剛国が、西燕を攻めたという烽火が西北から上がったばかりだ。

 烽火では剛国王の勝利しか伝えられず経緯や経過など細かな出来事は判断できない。

 剛国からの早馬も待っている状況であり、兵部は今、真偽を探りようのない情報が飛び交い、蜂の巣を突いたかのような目紛るしさの只中にあった。

 ――阿呆息子め。

 剛国におるのであらば何か一つくらい連絡を寄越せ、この莫迦者めが。


 剛国王が西燕に攻め入る前、祭国郡王の名で皇帝・健に奏上の書が届けられた。

 その際に、祭国に居る真、杢、克たちがどの国に派遣されるのかも優に知らされていたのである。

 もしも阿呆だの莫迦だのと口汚く呼んで罵っている息子の活躍で剛国が難無く西燕を手に入れたのだと優が知ったら、真と再会した時に彼の頭部に何発もの鉄拳が落ちることだろう。



 ★★★



 ともあれ、剛国に引き続き備国にまで禍国の領土との境界線を接するまでに押し切られてしまったのだけは、事実である。むっつりと黙る優を、受はちらりと見た。


「だとしても備国王の動きは、予想よりも格段に早い。して、句国王はどうなった?」

「其処までは流石に早馬の到着を待たねばなりませんな。ただ、備国王の為人ひととなりからして、無事に済むなど有り得ますまい」

 徐ろに立ち上がった受は、背後の戸棚から地図を取り出し机の上に広げた。

 どうやら自作、而もかなり古いものらしく巾は黄ばんでいた、が、なかなかどうして地形の書き込みは精巧であり、且つ特徴などの添え書きも緻密なまでに書き込みがしてある。


「兵部尚書よ、契国からの使いから数日で備国は斯様に動いたが、其の方、今後、那国はどう出ると思う?」

「那国――ですか」

 備国には廃太子・天が、那国には廃皇子・乱が居る。

 契国の密書に乗せられた備国王は、迅速果断動きを見せた。

 此の先、備国王の狙いは何方に向くかは未だ推察の域を出ない。


 禍国に真直に攻め入るのか。

 其れとも剛国に向かうのか。

 其れとも、祭国を目指すのか。


 何方にせよ、禍国への牽制に廃太子・天を利用してくるのは必定だ。

 そうなれば、那国とて黙ってはいないだろう。

 廃皇子・乱を使用して河国を攻め、宗主国である禍国に圧力を掛けてくるだろう。

 備国と那国、同時に動かれた場合、幾ら平原一の軍備を誇る禍国とて切り抜けるのは容易ではない。

 下手をすれば、句国と河国を其々に奪われたまま、平原での地位を貶める可能性が一気に噴出して来た事に、優はだが、目を爛々と輝かせている。


「楽しそうだな、兵部尚書よ」

「――は」

 揶揄成分は一分もない受の口調であったが、指摘された優は罰が悪そうに言い淀んだ。

 禍国が窮地に陥るとなれば、あの皇帝・健は莫迦の一つ覚えとして、大保・受に『何とかしろ』と丸投げで命じて来るに相違ない。

 そうなれば、受の事だ。

 此の危機的状況下を祭国郡王である戰の名声を高める為に活用するに違いない。


 ――陛下に出陣の命令が下れば、此の私も共に戦場に出られる。

 此の3年、平和を囲っていたと云えば確かに聞こえは良い。

 だが、優のような根っからの武人にとっては、やはり戦に身と魂を賭けてこそ漢というもの、という意識がどうしてもある。

 年齢的に、大掛かりな大戦に出陣が叶うのはコレが最期だろうという覚悟もある。精神的な充実感が肉体的な能力値と同等ではなくなっており、其れは何か事あらば命取りになるのだと優も理解している。

 だからこそ最期の戦こそは郡王・戰と、そして戰の元で『目付』として最も長く使えている息子である真と共に戦いたい、という漢の我儘が表に出てしまうのだ。


 優の意識が昂ぶっているを知っていながら、受は全く表情を変えずに、じっと地図を凝視し続ける。

 長く息を止めていたのか受は徐ろにやたらと長い嘆息を落とすと、まあ、良い、と零し、やにわに地図を掴んで片付け出した。

「近々、両国の状況を知らせる早馬は必ず来よう。其の上で、我らが先ず着手せねばならぬ問題は那辺にあるのかを見定めればよかろう」

「――は」

「此度も烽火による報せであった故、其の方の手間も省けたであろう」

「――は?」

 語尾を上げた優に、気が付いておらぬとでも思っておったのか、と受は珍しく呆れた声を上げた。


「其の方、遠国への視察に際して、禍国へ有事を知らせる烽火が在った場合は祭国へも届くように整備をしておったのだろうが」

 うぬ、と優は唸った。

 確かに、烽火が祭国にも流れるように整備はしてきた。

 早馬を使ったとしても祭国まで2日半。

 この遅れが決定的になる場合が此の先必ず来ると踏んでいたのだ。

 幸いにも、戰が郡王として赴任する時に祭国に入植した者たちは屯田兵だ。

 禍国の烽火の種類を叩き込まれて居る者も多い。距離的に、ほぼ同時にこの報せは郡王・戰の手元に届けられているだろう。早馬で詳細が届けられるまで何も知らずに動かずにいるよりも、遥かに効率が良いに決っている。


 ――だが、何処から漏れた……。

 此の処置を知っている者は、祭国内はともかくとして、禍国内では己一人である筈だ。

 何しろ、誰にも話していないし、視察先は皆、兵部尚書である自分の息が掛かった者ばかり。

 背筋を冷たくして無言で立ち尽くす優に、受は、間抜け面だな兵部尚書よ、と此れもまた珍しく茶化してくる。


「お前の息子が思い付きそうな事など、少し考えれば分かる」

「――は、あ」

 返答もしようもない優から、だが既に受の興味は移っていた。

 ぶつぶつと口内で何事か呟いている。

 時折溢れる、皇帝がどうの、という言葉から、皇帝・健をいかに丸め込むかを思案しているのだろう。果たして、視線を上げた受は、未だ居たのか、と言いたげに胡乱げな視線を優に向ける。


「皇帝陛下には私から状況を説明しておく。兵部尚書、其の方はもう帰ってよい」

「――は。では御言葉に甘えまして」

 深々と一礼する優を残して、受はさっさと部屋を出て行った。



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