3 想う夜
3 想う夜
夜着に着替えて寝台に潜り込んだは良いが、椿姫は、なかなか寝付けないでいた。眠気を誘おうと、何度も何度も寝返りをうってみるが、一向に睡魔は襲ってきてくれない。そうこうするうちに、じりじりと刻ばかりが過ぎて、とうとう夜半を過ぎてしまった。
珊はまだ戻らない。気になって、ますます目が冴えてしまう。
こうなってしまったら、諦めて起きてしまった方が良いだろうと、椿姫は溜息をついて掛布団を大きくはだけると、上体を起こした。
格子戸の向こうで、月が輝いている。それに胸を弾ませて、秋の夜に、虫が自らの恋を楽しむかのような、明るい鳴き声を奏でていた。
珊と真様は、今頃どうしているかしら?
珊は性格的に、人を泣かせたり、悲しませる事を嫌う。だから、薔姫が悲しむような事を仕出かす事はないと、椿姫は信じている。
が、それはそれとして、別に気になる事柄があった。
真と話しをしたいと言っていた珊、彼女と真が話す話の内容のことだ。真が悩むとすれば、祭国に到着した後、皆で国をどのように導いてゆくのか、その一点であるに決まっている。
だとすればそれは、自分に直接関係してくる事柄となる。
それなのに、傍観者でいてよいものだろうか? 真が気に病む事があるのであれば、自分も話に加わった方が良いのではないだろうか?
一度そのように思いだすと、いてもたってもいられなくなって仕方がない。椿姫は寝台を抜け出した。厚めの布地の上着を羽織り、部屋の戸をそろそろと開けて、周囲を見渡す。女官たちが控えて居る様子はなさそうで、ほっと胸を撫で下ろすと、するりと扉から身体を滑らせて、渡殿へと足を向けた。
広くはない宮とはいえ、造りは凝っている。
相応に入り組んでおり、禍国の王族の宮造りに明るくない椿姫は、あっという間に迷ってしまった。元々、道筋を辿るのは得意な方ではない。一度戻ろうかとも思ったが、そもそも自分の部屋の位置すら、どちらの方角であるのか、もう分からない。
早い話、方向音痴な椿姫は、すっかり迷子になっていたのだった。
「ど、どうしましょう……」
抜け出てきた事が知れ渡れば、珊もただでは済まなくなるが、これではどうしようもない。
「珊、御免なさい」
覚悟を決めて、誰か人を呼ぼうときょろきょろと辺りを見回すが、こんな時に限って、警護の殿侍すら見当たらない。心細くなって涙ぐんでいると、背後から、ぽん! と、肩を叩かれた。
「きゃあ!?」
「うわぁ!?」
思わず恐怖に引きつった叫び声を上げた椿姫だったが、叩いてきた方もそのように出られるとは思っていなかったのであろう。驚愕に満ちた声をあげてきた。それでも、椿姫を思いやる、優しい声が重ねてかけられた。
無論、声の主は戰だ。
彼も眠れないでいたのか、夜着の上に上着を羽織った姿だった。
「椿姫、どうしたのだ、こんな時間にこのような所で」
「み、皇子様?」
一気に安堵感に包まれた椿姫は、ぽろぽろと大粒の涙を流して、更に戰を慌てさせたのだった。
★★★
近いからと、戰は自室に椿姫を誘った。
椅子に彼女を座らせた戰は、部屋の奥にある暖炉へと向かった。其処には、いつかの夜のように薬缶がかけられており、熱い湯気がしゅんしゅんと音をたてていた。
器に甘く煮た花梨を落とし湯を注ぎながら、戰は椿姫の様子をこそこそと伺う。手の甲で涙を拭いながら、くすん、と鼻を鳴らしている様は、ますますもって、いつかの夜を思い出させる。そして、真と蔦に教えられた事も同時に思い出す。
思わず身体が熱くなるが、戰は頭を振って必死で払い除ける。器を手に、なるべく平静を装い、椿姫に歩み寄った。
「落ち着くから、飲むと良いよ」
「有難うございます」
視線を上げた椿姫の眸の淵が、ほの赤く染まっている。それがまた愛らしさを煽っており、戰の心を怪しく乱した。
器を受け取って、花梨の香気を楽しんでいた椿姫が、不意に、ふふ……と小さく笑った。
「姫、どうした?」
「いえ、あの……いつかの、夜のようで」
やはり、椿姫も同じように思っていたらしい。
戰も笑いながら、盛大に湯気を息で払いながら、湯を口にする。器を片手持ちにし、平気で立ち飲みをする戰に、再び椿姫が、ふふ、と含み笑いをした。
「どうしました?」
「いいえ、皇子様なのに、お行儀が……」
『悪いのですね』とまで口にするのは、流石に憚られると思ったのだろう。椿姫は笑って言葉を紡がない。しかし戰は、ああ、と頭をかいた。
「どうも、せっかちなのだろうね」
せっかちと言うよりも、『皇子』らしくないという方が、正しいだろう。
礼儀知らずという訳ではないのだが、普段の戰は、全く畏まる事がない。せいぜいが、何処か裕福な家柄の、型破りなお坊ちゃんといった風体というか様子であり、堂々とした体躯と他に例えようもない美々しい容姿がなければ、誰も皇子とは思うまい。
大体が、王宮を抜けて庶人である真の書庫に入り浸るというのも、到底皇子とは思われない行動だ。そもそも、成人した皇子が王宮外に宮や屋敷を構えるのは当然ではあるが、そのように庶民と親しくする為ではないのだ。
皇太子やそれに続く地位にある皇子たちは、王宮内に離宮を持つ。対して、身分の低い皇子たちは、臣籍に下るとはいえ臣下としてより高い品位と御位にあるのだということを知らしめる為、またそれだけの屋敷を構える力があるのだと誇示する為に、王宮外に挙って華美な宮を構えるのだ。
だから宮や屋敷から出るときは、王宮に入宮する場合か、何処かの誰かの屋敷に招かれた時であるのが、常となる。それは自ら訪ねる場合もあるだろうが、あのように足繁く通うなど、誰も見たことも聞いたこともない。
成人しておきながら、養母である蓮才人と、何よりも実母の廟を守るために、王宮の子供のままの部屋住まいである事を当然とし、部下である真のと彼の妻となった義理妹の為に、連日のように足を運ぶ。
そのどちらも平気で打ち破るような戰の行動であったから、王都に住まう子供たちの童歌にまでなった訳だ。戰のこの行動は、図らずも平民層の間ではつとに有名な話で、気取らず飾らない、腰の低い御方であると、愛情と好意を持って受け入れられている。
何といっても、母である麗美人の薄幸の儚さと、皇太子やその他御位の高い他の兄弟に毛嫌いされているという事実も加わって、戰は民衆の間では『俺たちが見守ってやらねばならぬ、可哀想な皇子様』として、異常に愛されている。
いつの世も、見目麗しい容貌と物語のような宿星を持つがゆえに、悲劇的な末路を辿りそうな皇子様や王族様という存在は、本人の思惑なんぞは預かり知らぬ所で、庶民に盲目的に愛されるのが常なのだ。
そして戰はその、勝手に作り上げられた『皇子様の理想像』に、遠からずの位置に存在する、珍しい皇子なのだった。
★★★
何となくその後は、二人共押し黙ってしまし、静かに湯を飲み続ける。
しかし漸く、意を決したかのように、戰が口を開いた。
「姫」
「はい?」
「その、どうしてこのような夜遅くに、部屋を出たのだ?」
「……それは、あの」
「うん」
珊とのやり取りと自分の考えを、小さく身を竦めながら椿姫は答えていく。
未だに目指す行く末を見定める事ができない自分が、恥ずかしかったからだ。しかし、戰は笑わずに、うんうんといちいち相槌を打ちながら真摯に聞き入ってくれた。
「姫、そんなに小さくなる事はない。私も同じだよ」
「え?」
「実は私も、同じなのだよ、姫。何を、何処を、どのように目指せば良いのか、全く皆目見当も付かない」
「皇子様も?」
「ああ私もね、考え出すとどうにも寝付けなくなってしまってね。真のところにでも行こうかと、部屋を出たところだったんだよ」
戰は器に視線を落として、自嘲気味の笑みを口角に浮かべている。
椿姫は意外な気持ちで、彼を見上げた。此れまでの、祭国に落ち着いた後の為にと、真と激論を交わしている様子からは、到底そんな風に彼が悩んでいるとは思われない。
「皇子様は、何でも解していらっしゃるのかと思っておりました」
「まさか」
椿姫の言葉に、戰が間髪入れずに答え、肩を竦めた。
「それだったら、どれほど良いかと思うのだが」
頼りなげな声音になる。
本当に、何でも見通す心があれば、どれほど楽だろう。
いや、全てにおいてでなくていい。目の前の、この可憐な少女に対してだけでいいのに。
「でもね、姫、何となくだが、朧げに分かってきた事というかこれで良いのではないかと思える事があるのだよ」
「何でしょうか?」
「うん。つまりね、私は烏滸がましくも『郡王』を名乗ってはいるが、元を正せば『戰』という人物でしかない、ただの人なんだ。つまり神のように、万能でも全能でもない、という事だよ」
「え?」
「だから、何も一人で全てを背負いこなす必要はないと思うし、出来る訳がないと思っているんだ」
「一人で、全てを背負う事はない?」
「ああ、分からなければ聞けば良いし、その道に秀でた者がいてくれるのであれば、頼れば良い。それが叶わないのであれば」
「叶わないのでしたら?」
「皆で、考えれば良いのではないかと思うんだ」
「皆で?」
「そう、一人では無理でも、皆でより集まれば何とかなる、そう思うんだ」
私は、3年前の祭国での戦の折にそう思ったよ、と戰は朗らかに笑った。
そういえば、帰る・帰らないの押し問答を繰り広げた時にも、そのような事を戰は口にしていた。
皆が、勝たせてくれたのだ、と。
皆で考えれば、何とかなる……?
こくり、と椿姫は息を飲み込んだ。皆に話すには、まだこの問題は大きすぎる。どうしようもなく、答えの出しようもない大事件だ。
けれどこの人には、知ってもらいたいと椿姫は思った。
答えが出なくてもいい、共に考えてもらいたいと思った。
「皇子様」
「ん?」
「あの、実はもう一つ、聞いて頂きたい事があるのです」
「何かな?」
急に、表情も態度も切羽詰まった様相になった椿姫に、戰も態度を改める。
「実は……」
もう一度小さく喉を上下させて、椿姫は語りだした。
実の兄・覺の事を、だ。
5年ほど前に、叔父である便との一騎打ちの際に共倒れとなった時、兄は30歳をそろそろ迎えようかという、若さだった。本来であれば王太子として妃をとうに迎えて、世継ぎ、つまり王太孫をも儲けていなければならない年齢であったが、頑なに兄は縁談を拒み続けており、その頃から母と折り合いが悪くなっていた。
「おそらく思うに、兄には想い合う女性がいらっしゃったのです。けれど、母からみれば、そのお方は兄には不釣合いな身分と映ったのでしょう」
兄の死後、あとを追うように儚くなった母の残した「こんな事になるのであれば、認めてやれば良かった、許してたもれ」というあの言葉。
其処から推察するに、兄には相愛の女性が、そしてもしかしたら御子も、産まれていたかもしれない。
「それは。もしもそうであるのならば、祭国に戻った折には、早々に探し出してさしあげねば」
我が事のように喜びを表す戰に、椿姫は力なく首を左右に振った。
「私も、同じように思っておりました。でも、分からなくなったのです」
「え?」
★★★
「珊に、言われました。身分が邪魔をして、思うように好きあえないのか、と」
「――え?」
「身分のある者は、勝手に人を好きになっては駄目なのか、と」
器を握る、椿姫の白い指先が一層白くなり、そして小刻みに震えだした。
「そうなのかも、知れません。兄も、王太子などでなかったなら、継治の御子などでなかったなら。お相手であった女性と、添い遂げる事が出来たのではないでしょうか?」
「椿姫」
「兄の遺児である御子を探すのは、本当に、その女性とその子の為になるのでしょうか? このまま、知らぬままで過ごしていた方が、幸せなのではないでしょうか?」
「姫」
戰は膝を床について、椿姫とほぼ同じ目線になるような姿勢をとった。震えながら器を握る少女の白い手を、包み込むようにして握る。それは、彼女の怯える心を守りたいのだという、現れのようだった。
「どうだろうか? 兄上とその女性が幸せであられたか否かは兎も角、もしもお二人の間に御子がおられるのであれば、近しい家族が増えることは喜ばしい事なのではないだろうか? それに御子がおられるのであれば、御子を王家にと望まれるか否かを決する事が出来るのは、兄上が見初められた女性であるべきではないだろうか?」
迷いながらも、戰は自分の考えを椿姫にはっきりと伝える。
もしも椿姫の想像通りであるとするならば、御子の将来を決めるのは、母親である兄の妻である女性であるべきだ。椿姫の思いだけで、御子の将来の選択肢を勝手に閉ざす訳にはいかない。
「でも、皇子様」
「ん?」
「珊に、こうも言われたのです」
「何と、言われた?」
「……姫になど」
「え?」
「姫になど、生まれつかなくて良かった、と」
新たに浮かんだ涙が、ぽとり、と器の中に落ちた。小さな波紋が、冷めた湯の上に広がる。
はらはらと止めど無く流れる涙で、椿姫の頬が濡れていく。
「珊に、言われたく、なかった……。私、王家になんて」
「――姫」
「姫になんて……生まれてきたく、なかった……」
堪らず、戰は椿姫を抱き寄せた。
手にした器を落として、椿姫の手が戰の着物の領を、ぎゅう、と掴む。床におちた器は割れもせず、ころころと転がって残っていた温い湯を床に広げていく。
甘く立ち上る芳香が、戰の着物の裾を濡らしたが、彼は構わないようだった。
「姫、私は貴女が祭国の王女であってくれて、良かったと思っているよ。でなければ、私は、貴女という女性がこの世に存在する事を知らずに生きる不幸に、一生を過ごさなくてはならなかった」
戰の腕に抱きしめられながら、椿姫は激しく首を左右に振る。
「……好きな人と」
「え?」
「好きな人と、思い切り好き合えないなんて」
「姫」
「そんなのは……そんなのは嫌だと、言われて……」
「姫」
「……いや、嫌です、私も、そんなのは、嫌です、私……」
「椿!」
涙で潤んだ声は、最後まで言い切る事が出来なかった。
椿姫の、柔らかな唇を、戰のそれが塞いだからだ。
だが、生まれて初めて彼の唇を受けた時と違い、強く、激しい。乱暴と言うよりは暴力に近い行為であるのに、何故かより甘く胸を締め付けられるように覚えてしまう。椿姫は目が眩むような悦びに、翻弄された。
必死になって、嵐のような戰の行為について行こうとしていたが、遂に叶わず、固く握り締めていた白い手が領から離れ、たらり……と力なく腕が垂れる。
それを待っていたかのように、椿姫の白椿の妖精のような可憐な身体が、ふわりと舞い上がった。いや、舞い上がったのではなく、戰の腕に抱き上げられたのだと気が付いた時にはもう、椿姫の身体は、寝台の運ばれており、褥深くに押し込められていた。
長い、椿姫の緑の黒髪が、豊かさを誇って褥の上に散らばっている。
戰の大きな掌が、濡れた椿姫の頬をすっぽりと覆い、そして優しく拭っていく。
「椿」
「はい……」
「椿」
「は、はい」
勢いで呼ばれた事は何度かあるが、初めて真面に、眸を真っ直ぐに見詰めて『椿』と名を呼び捨てにされ、椿姫の胸が、とくとくと早鐘のように高鳴った。
褥に深く沈まされたまま身動きを封じられ、乱れそうになる熱い呼気を整えるのに、必死になる。
「私は、貴女が好きだ」
「み、皇子様」
「それが、いけない事だとも罪な事だとも、思った事はない。ただの一度も」
頬をなぞっていた掌が、そのまま、ゆっくりと首筋に下がっていく。びく、と躰を強ばらせる椿姫の上に、戰の逞しい身体が覆いかぶさってきた。
自分だけが熱を感じているのだと思っていたのに、耳朶にかかる戰の息は、熱砂の嵐なのではと思われる程に、熱い。
「椿」
「……はい」
「好きだ、椿が好きだ。この世の中で誰よりも、椿が、好きだ」
今日、涙を目に浮かべるのは何度目になるだろう?
自分からも、同じこの気持ちを伝えたいのに、言葉に、ならない、出来ない。
だからせめて・と、椿姫は、戰の背中に腕をまわし、ぎゅう・と力の限りに抱きしめた。
こうして。
深まる秋の夜、月と星と虫の音が優しく見守る中、椿姫は戰によって、とてもとても、痛い痛い思いをさせられた。
苦しくて辛くて、涙と叫び声を止められなかったが、それでも何故か、椿姫はより深い悦びを、戰の躯の下で感じていた。
戰もまた、馨しい吐息を紡ぎながら熱く潤む椿姫の躰を、壊してしまうのではないかという恐怖に苛まされながらも、彼女の全てに初めて触れて、彼女の全てを初めて奪うのは自分なのだという喜びを噛み締めていた。
戰と椿姫は、倖せのなか、熱い一夜を共に過ごした。




