21 轟く潮流 その4-6
21 轟く潮流 その4-6
「たった今、お前は自らを卑賤なる身、と云ったな? つまり、王ではないと認めた事になる」
「……」
――此の上、まだ何を言い募るつもりなのだ?
何をやらせようというつもりなのか、と玖は慎重に弋の顔色を伺う。
せめて縫と後宮たちと、幼い子らの生命だけでも助けなければならない。
椅子から立ち上がった弋は、腰に帯びていた短剣をすらりと抜いた。そして、玖の髪をむんずと掴む。
「王者でなければ、此の御大層な髷も必要無かろう」
言いざま、弋の手首が獲物を見付けて急降下した隼のように、くるりと回った。
次の瞬間、ざくり、と音がして短剣が玖の髷を一息に斬り落とすと、同時に、ばさり、と髪がざんばらになった。嵐の後の烏の巣のように、非れもない髪型になった玖を弋は嗤う。
「はっははは! 存外似合うではないか句国王! いや、既に王ではなかったな。此れは失態だった、許せ、臭国王・玖よ」
弋は手にしていた髷を、無造作に後方に投げ捨てた。ぼん、と地面で跳ね返る音がする。
「さて、戦にも負け、妃たちと子供を質に取られ、髷をも失った。貴様が恥を知る身であれば、此の後どう足掻いても王は名乗れんな」
此れで何度目の屈辱になるのか。
最早数える気も失せた。
しかし自分が汚辱に塗れれば、縫を始め、後宮の女たちや子供らを救う道を見付けられるのであれば、此の程度、何程の事があろうか。
母を求めて泣き叫ぶ子供たち、子の命だけはと哀願する後宮たちの姿が、我慢の限界をとうに超えた玖を支えていた。噛み締めた両の奥歯が、ぐきり、と奇妙な音を立てて割れ、口の中に新しい、生暖かく苦い血の味が一気に広がる。
「さて、玖よ。王ではなくなった貴様だが、最後に一つ、王として働いて貰うとするぞ」
「……なに?」
眉を顰める玖に、臭い演技をして恍けるな、と弋は語気を荒げた。
★★★
「句国王の大軍旗、そして六選の璽綬は何処に隠した」
弋の口調には、明らかに焦りがある。
当然だった。
句国を完全に手に入れ備国の国領内に組み入れるには、大国旗とそして六選の璽綬はどうあっても手に入れ、受禅を行わねばならない。
王の大軍旗、つまり大国旗は確か契国方面に向けて逃したと耳にした。が、弋はまだ手に入れていない処か行方すら知らぬらしいと知り、玖は僅かにだが溜飲を下げた。
――然し、璽綬六選の在処を問うてくるとはどういう事だ?
璽綬六選の印綬は、王妃と後宮たちの護衛の役目を申し付けた姜に託してある。
――後宮たちが捕まった。
と云う事は、国の玉もまた備国の手に堕ちたと云う事ではないのか?
玖は混乱した。
しかし、王妃である縫と姜の姿は楼閣にはなく、備国王・弋はじりじりと焦れ込む様子を隠そうともしない。
――つまり。
まだ、縫と姜は、備国王軍に捉えられていないのだ。
そして璽綬は姜が護っているのだ。
玖の中で微かではあるが、希望の灯火が宿った。
「何処にやった? 教えれば、そこそこ、其の方の身を案じてやらんでもない」
「……断る」
怒気と共に吐き捨てる玖の態度は予測済みだったのだろうが、それでも弋は眉を跳ね上げる。
「そうか、答えぬか。此れだけ盛大に負けたのだ。今更亡くした自らを恃む気持ちなぞ捨てて、素直に教えれば良いものを」
「大軍旗と璽綬は国の誇りだ。貴様のような者に渡せるか」
眦を裂き、血走った眸で睨む玖を、ほう? と弋は何処か見直したように目を細めた。
少しは王の挟持が何たるかを示せたか、と溜飲を下げ掛けた玖であったが、しかし次の瞬間、自分の甘さを自覚した。そして己自身を深く呪った。
備国の弓隊が、ざっ、と音を立てて割れ、其の只中に縄に捕らえられ、青白い血の気のない顔ばせでふらふらしながら立ち竦んでいたのは王妃である縫であったのだ。
★★★
――縫!
思わず名を呼びそうになる。だが、万が一を考えて耐え切った。
縫の衣服は一切乱れていない。
と云うことは彼女はまだ、暴かれていない。
備国側の毒牙に掛かってはいないという事だ。もしも縫が句国の王妃であると備国側に知られていないのであるのならは、此のまま逃れられる可能性もある。一縷の望みでしかないが、生命を繋げられるかもしれないのだ。
しかし、玖はまたしても自分の甘さを実感させられた。
縫の腰元辺りの衣が、濃く変色している。
何かに濡れたせいだと気が付いた瞬間、玖は其の濡れの元を悟ったのだ。
――……血!
其れが何を意味しているのか、分からぬ玖ではない。
囚われの身となり国の存亡と良人である自分の姿を目の当たりにした衝撃のせいで、青白い顔をしているのではないのだ。
――子が……私たちの子が……!
夫婦の縁を結んで数年。
やっと彼女の腹に宿ってくれた愛し子が無残にも儚い存在となった、その、残酷なる刻印だったのである。
まるで風に揺れる柳の枝のように頼りない細い身体は、今にも目蓋を閉じて倒れそうだ。
だが、焦点の合わない虚ろだった縫の眸が、ふと、動いた。
玖と視線が合った途端に、縫の瞳に絶望の色がさっと走る。
「……きゅ、う……あなた……」
暗澹たる声音は、彼女が絶望の淵で何を決意したのかを玖に悟らせた。
縫が王妃と知られてしまうという気遣いがどうこう、などと言っている場合ではなかった。
弋は縫が王妃であろうとなかろうと、質として最も有効に扱うだけだ。彼女に何がなされるのか、想像するのも、言葉にするのも恐ろしい。
「縫、止めろ! 止めるんだ!」
思わず叫んだ玖の前で、縫が動いた。
「備国王、お覚悟を!」
か弱い女性一人、何が出来ると軽く縄目だけを掛けられていただけだった縫は、自分を捉えている兵に体当たりを喰らわせて、手の内から逃れた。
そして、備国王目掛けて真っ直ぐに駆けてくる。
玖の頭上から、後宮たちの悲鳴が注ぐ。
王妃の暴走を止めようとしても、彼女たちにも泣き叫ぶ事しか出来なかった。
椅子に尊大不遜な面持ちで腰掛けていた弋は、すっ、と目を細めると顎を刳って弓隊に命令を下した。
弓隊は、番えていた矢の先を、よろよろと迫ってくる縫に定める。
「やめろ、やめてくれ、備国王!」
「やれ」
魂が捩じ切れて血の色に染まるような悲痛な声で、玖は懇願する。だが弋は玖を軽く一瞥した後、ただ一言をもって命令する。そして弓隊は、静かに弦より発射させて弋の命令を忠実に実行に移した。
「縫、逃げろ、逃げてくれ、縫!」
必死になって叫ぶ玖の目の前で、細い縫の躰が矢衾の的となった。
★★★
どっ、どぶっ、と鏃が肉に喰い込む鈍い音が、玖の耳を打つ。
縫の脚が止まり、ふらり、と蹌踉めいたかと思った次の瞬間、彼女の身体はゆっくりと頽れた。
「縫、縫――!」
どうやって立ち上がったのか、覚えていない。
しかし、玖はいつの間にか、倒れ伏して血を流している縫の傍に駆け寄っていた。
身体中に矢を受けた縫は、既に事切れていた。半開きになった目蓋から除く眸には光はなく、開いた唇からは破れた胃の腑から上がってきのだろう、血が溢れている。
涙を流しながら、急速に冷たくなっていく縫の頬に玖は自らの顔を寄せた。
後宮の女たちが次々に王子や姫を産んでくれる中、慶びの声を掛けてくれて呉れていた。
自分の子供宛らに愛情を注いで呉れた。胸の内には激しい葛藤もあったであろうに、微塵も見せずに尽くしてくれた縫にも、せめて子を産ませてやりたかった。
腕に産まれたばかりの我が子を抱き、慣れぬ手つきで乳を含ませる彼女に、良くやってくれたと声をかけてやりたかった。
きっと彼女はそんな時でも、頬をほんのりと紅く染めて、いいえ、陛下……と微笑むのがやっとだったに違いない。
後宮たちや子供たちに傅かれ、慶びを領民たちに国母として敬われ、共に輝ける日が直ぐ目の前に見えていたのに。
――許せ!
許してくれ、縫っ!
私が不甲斐ないばかりに……!
涙を流しつつ、玖は縫の口内に溜まった血を吸った。
頬に彼女の血が移る。吐き出しては吸い、吐き出しては吸いし、縫の口を浄めてやる。半開きになった目蓋も、頬を擦りつけるようにして閉じさせてもやる。
苦悶の表情を浮かべていないのが、せめてもの救いだったと縫に覆い被さり、号泣する玖の背中の上で、再び弓弦が鳴る音が盛大に響いた。
顔を傾けて視線で音を追った玖は、放たれた矢が城壁に吊るされている後宮の女たちと子供たち目掛けているのを知った。
「やめろ! もうやめてくれ!」
叫んでみても、虚しいばかりだった。
今度は女たちと子供たちが矢衾の的となった。
ぶっ、ぶつっ、と肉に矢が突き立つ音が間断なく起こり、断末魔の悲鳴が城壁に跳ね返る。血飛沫が飛んだと思うや、あっと言う間に滴る血潮で城壁は真っ赤に染め上げられた。
生暖かい朱い滝が幾筋も城壁を流れていく。
弓隊が、どっと湧いた。同時に、城壁に在った備国軍が、腕を振りかぶる。
次々に腕が旋回すると、縄目が順に切り落とされていった。ぼとりぼとり、とまるで熟れ過ぎた木の実か何かのように、後宮たちと子供たちが落とされていく。
言葉にならない叫び声を上げていた玖は、残る力を総動員して背後の備国王・弋を振り返った。
「呪われよ、備国王!」
叫ぶ玖を、じっとりと弋は睨め付ける。
「呪う。ふむ、良い言葉だ」
玖が舐めて浄めた傷痕を、弋は指先でとんとんと軽く叩いてみせる。
「呪え、呪え、存分に私を呪え。去勢豚も逃げ出す玉無しであったと公言しておるようなものだ」
「貴様ぁ!」
「吠えろ吠えろ、負け犬め。声が高ければ高い程、貴様の懦弱さが際立つぞ、臭国王よ」
弋の哄笑の渦を受け、玖が立ち上がる。弋は手を伸ばし、傍に控えていた側近の手から奪い取った。弦を引き絞り、狙いを定めて矢を放った。
どっ、と鈍い音が周囲に広がった。
玖の背の、ど真ん中に矢は突き立っていた。
満足気に口元を歪め、弋は弓を側近の胸元に押し付ける。
「城に向かうぞ」
背中に矢を突き立てたままの玖に一瞥を呉れる。
「陛下、臭国王を始め、此奴らの遺体は如何致しましょう?」
下卑た笑い声を噛み殺しつつ、将兵の一人が弋に伺いを立てた。そうだな、と目を眇めながらふん、と弋は鼻を鳴らした。
「此のまま、捨て置け。何れ、野犬どもの腹の中に収まるだろう」
「――はっ!」
弋は、礼拝を捧げる備国軍をぐるりと一瞥する。
そして王城に向かう一歩を踏み出しながら腕を振り上げた。
「正門を開けぇいっ! 新たなる王を迎え入れよっ!」
「国王陛下万歳! 備国万歳!」
「備国軍の栄光を天帝に知らしめよ!」
弋を、備国軍の勝鬨の声が包み込んだ。
★★★
大歓声が大海原の様にうねうねと畝りながら、城の大正門に向って行くのを、玖はぼんやりと聞いていた。
――皆、済まぬ……。
妃たちも、子らも、情けなく不甲斐ない父の血を、呪ってくれ。
せめて来世では、私と縁が交わらぬ時と場所を選んで生命を得られるよう、私からも天帝に祈ろう。
句国の不幸は自分などが王になった事だ。
ただ、正王妃から産まれた第一王子であるという意義に胡座をかいた自分のような男が王になってしまったばかりに、備国などに滅ぼされてしまった
だが、此のままでは終わらない、終わらせない。
――まだ望みはある。
此の場に居ない姜が、動いて呉れれば。
彼が六選の御璽と大軍旗とを、郡王・戰の元に届けて呉れる事を願うばかりだ。
復讐を他国の王に任せねばならぬのは、情けなさのうちに入らないのか、と自問してみる。
今更何を、だ。
此の上、一つ二つ、軟弱者との誹りを受ける事柄が増えた処でどうという事はない。
寧ろ、備国王如きにこの句国を冒されるならば、郡王・戰にこそ此の国の王として即位して欲しい。
――そうだ、それが良い。
姜よ、此の次句国の地を踏む時は、郡王・戰を句国王・戰とし、お前も家臣の内の一人として名を連ねて来るがいい。
視界がどんどんと霞んで行く。
いや、霞むのであれば、白く霧状のものが被さり全体的に薄まらねばなるまいに、今の玖の視界は鈍色に濁り、そして輪郭がぼやけて欠けて暗くなっていくのだ。
一瞬、泣いているせいかと思った。
頬は確かに流してきた涙に濡れてふやけている位だ。だがもう、両眼からは涙は流れていない。
――涙で視界が滲んでいる訳ではない?
では何故、こうも目の前が暗むのだ?
不思議でならなかった。
自分に何が起ころうとしているのか、理解出来なかった。
ただ、折り重なっている縫の身体が固くなって行くのだけは判った。
身体から力が抜けて、彼女の身体に自分をだらりと預けている状態になったからだ。
幾ら彼女が儚い存在となったとしても、凭れ掛かるとは男として良人として挟持に関わる。
身体を持ち上げようとしたのに、重すぎて自在にならない。
此れではいけない、醜く切られた髪の先が彼女の柔肌を傷付けてしまう、と焦ってみても同じだった。寧ろ、益々身体は不自由になっていく。
――縫。
せめて互いの名を呼び合いたいのに、彼女の唇はもう動かない。
そして、自分の唇も動かない。
やっと玖は、自分の魂も、彼女と同じ処に往こうとしているのだと理解した。
――縫、済まぬ……。
許して呉れ……どうか、私を許して欲しい……!
自分などの妃にさえならねば、もっと別の、穏やかな暮らしと倖せがあったかもしれない。
もう何人も子を胸に抱いて、微笑む暮らしをしていたかもしれない。
煩わしい仕来りと多くの女たちを取り纏めて裁き、頼りない義母に代わり采配を振るいつつも彼女を立てながらの暮らしに密かに辟易し、折り重なる気苦労と難儀さなど知らずにいられただろう。
――命尽きる最期の瞬間に、国と領民の行く末を案じもせずに妃の心を想って泣くなど、矢張り私は、王として相応しい男ではなかったな。
「……でも……其れでも私は……其方と夫婦の縁を結べて……倖せだったよ、縫……」
情けない良人で済まなかった。
嘘偽りない愛情と云うのであれば、もっと示してやれば良かった。
感謝の気持ちを伝えずにいて済まなかった。
――だが私は貴女を妃にして倖せだった。
本当に倖せだったのだよ。
貴女は、どうだったのだろう?
縫、貴女が私に向けて呉れた微笑みに偽りはなかったのだろうか?
倖せだと、私の腕の中で、少しは感じて呉れていたのだろうか?
「……確かめず……逝くのだけが……こころ、残り……だ……」
玖は静かに目蓋を閉じる。
喉の奥から、ひゅう、と木枯らしのような音が漏れると、永久に動かなくなった。
句国王・玖。
彼の最期は、彼の愛する王妃・縫に遅れること、ほんの一刻余りでしかなった。
★★★
こつ、こつ、こつ、と規則正しい沓音がどんどんと此方に近付いてくる。
「お、王太后陛下……!」
文を庇いつつも、宮女は明らかに動転していた。おろおろと背後の主人を見ては、言いようのない焦燥感に身を焼いて冷静で居られなくなっている。
だがこの東朝宮の主人である文こそが、もっとも動揺していた。
この東朝宮にやってくると云う事は、玖が後宮たちを祭国へと逃した今、取りも直さずより多くの『女』を求めてに決まっている。
「お、おぉ、お、おちつき、なさい」
毅然と振舞えればよかったのだが文の声は明らかに恐怖で裏返っており、下女たちはちらちらとお互いの顔を見合わせ合っている。
先王・番との戦の折に、禍国の皇子・戰は数多の美女が犇き合うこの後宮に見向きもしなかった。
それどころか尊厳を守り、文を王妃としてたてて不自由のないように万事取り計らい、気を配って呉れた。
正直な話、良人である番の時代よりもぐんと待遇が良くなり、女童などは感動して泣きだすほどであった。
だが、今回の備国王・弋は祭国郡王・戰とは違う。
まさか、王太后の立場にある者にまで無体は働くまいと思いたいが、断言できぬが備国王・弋という人物が放つ噂だった。
こつ、こつ、こつ、と沓音と気配が近付いてくる。
徐々にそれが女性の、然も高貴な身分の者でなければ許しを得られない品から発せられる音であると文は気が付いた。
ひたり、と気配は戸口で止まった。
そして、くつくつとした笑い声があがり、ゆっくりと声の主が現れた。
「御機嫌麗しゅう、王太后陛下」
「そ、そなたっ……!」
東朝宮にて宮女や下女たち、そして宦官たちと一室に集まって身体を寄せ合って震えていた文は、まさかの人物の登場に目を丸くした。
其れは、嘗て文の良人である番の寵愛を欲しいままにして此の後宮にて専横を振るった、左昭儀・蜜――
其の人だったのである。
★★★
「さ、左昭儀!? そ、そなた、其方が一体なぜ、何故っ……!?」
「何故、とはご挨拶だこと」
ほっほほほ、と蜜は身体を仰け反らせて高笑いをする。
「随分、余裕綽々だこと。先の戦で、郡王・戰に庇護された時のように甘い汁を吸えると思ってのんべんだらりとしているのかしら?」
わなわなと文は身体を震わせる。
言いたい事は山とある。
詰問してやりたい事も、罵倒の言葉も浴びせかけてやりたい。
しかし、余りにも多くの言葉を胸に抱え込んでいる為、喘ぐばかりで一言も言葉が出て来て呉れない。
「そんな御悠長に構えていて宜しいのかしら? 其れとも、本気で御存じなくていらっしゃるの? まあ、なんて御仕合せなこと」
ほっほほほほほ、と蜜は身を捩って嗤い転げる。
眉を顰めた文だったが、次の瞬間、蜜の言葉の意味を悟った。
備国軍の勝鬨の声が大地と大気を揺るがし、東朝宮に居た文の耳朶を打ったのである。
「あっ、ああっ、そんな、そんな、ああ、そんな、まさか――まさか、玖が、玖が、玖がぁ~!」
文の瞳がこれでもかと見開かれ、瘧に掛かった時のようにぶるぶると戦慄いた。
此の鬨の声が何を意味しているのか、幾ら世に疎い文にもわかる。
目の前に茫然自失の体で佇む文に、笑いを収めた蜜は勝ち誇る己の姿をより見せ付けたいのか、今度はにんまりと嗤う。
「そう、そのまさかよ」
残念ねぇ、と蜜は身体をくねらせて科を作り、肩越しに文を見る。
「お前の息子の生命を、陛下は御許しにならなかったようよ?」
「妾の玖! 玖、玖――!」
しかし、玖の生命は当の昔に天涯の主の元へと向かってしまっている。
其れでも涙ながらに我が子・玖を求めて叫ぶ文の髪を、蜜は哄笑しつつむんずと掴んだ。
高笑いで周囲の空気を切り裂きながら文の髪を、きりきりと髪の根元が鳴るまで痛めつけつつ持ち上げた。引っ張られた文は仰け反り、一段高い悲鳴を上げる。
「ひ、ひぃっ!? 痛い! や、やめ、やめてっ、おね、おねがっ、い、痛い、痛い、おね、がいぃっ、や、やめてぇっ痛いぃっ!」
「どう!? 我が子を亡くした気持ちは!? 子に先立たれた母の気持ちが少しは解って!? 我が子が戦で凶刃に倒れるとは如何なるものか! 頭の鈍い貴女にも此れでやっと身に染みたでしょう!?」
蜜は鬼の形相で文に迫る。
ひぃ、ひぃ、と胸を喘がせながら文は、そんな、そんな……と呟き続ける。
其の眼には、生命ばかりは助けて欲しいという懇願の色が宿っている。
其れを見て取った蜜は、ふふん、と文を嘲り笑い、腕を振り回して身体を床に叩き付けた。
髪の根が限界を超え、ぶちぶちと音を立てて文の髪が抜ける。ぎゃー! と叫びながら叩き付けられた床の上で、頭を押さえてのたうち廻る文を見て、蜜は勝ち誇って嗤った。
「お前のような! 身分に守られてのうのうと生きてきた頭の緩い女には! 生き延びる為に死ぬ程の苦しみがある世界があるだなんて! 知りもしないし解りもしないでしょうね!」
ひぃ、あひ、あぁ、うあぁ、と、もう意味も無い言葉を譫言のように繰り返しながら、文は啜り泣くばかりだ。
朱い紅をきっちりと引いた唇を歪めて蜜は更に嗤う。文の歔欷が秋風に虚しく舞う木の葉のように部屋の中を揺蕩う中、指に束で抜き取った艶やかな髪を絡み付かせたまま、蜜は嗤い続ける。
「では……あ、あれは……」
「あれ?」
「……後宮を出奔するときに、妾に其方が申した事は……では、では……何故……? な、なん……の、ため……」
縋るように見上げる文に、ああ、と蜜は煩わし気に目を細めた。
――口先からの下らぬ出まかせを、此の女は今の今まで信じていたの?
手の甲で口元を隠しつつ、ほーっほほほほ! と蜜は笑い転げる。
此れまでと違い、心底楽し気に。
「お前、あんな事を信じ切って、覚えていたの?」
挑発するような蜜の視線に、文の顔ばせには、絶望の色が浮かんだ。




