21 轟く潮流 その4-4
21 轟く潮流 その4-4
「突っ込むぞ! 者ども遅れるな!」
怒号を以て命じる弋の顔面は興奮で爛々と輝いており、まるで猩々宛らとなっていた。
弋の読み通りだった。
句国軍が別手直の陣を布いてくると踏んだのは正しかった。
だが今、眼前で句国王・玖が展開させている布陣は別手直の陣ではなかった。
斥候が此方を探っていると知ってか、其れとも偶然の産物か。
何れにせよ句国王は、直前で陣形を変形させていたのだ。
「糞生意気にも敵は飛鳥の陣を布いておるぞ!」
弋の指摘に、備国軍中にびりびりとした緊張が走る。
中央に横に長く頂点の低い三角形に布陣した弓隊の背後に、歩槊とした槍の密集隊、前方の歩兵を護る形で布陣する左右の軍から、更に一歩下がって遊軍を備えた独特の見える。
此の遊軍が曲者だ。遊軍にも弓隊、と槍隊が同じ陣形を小型にしたものである。中央突破から展開しつつ山間からの備国軍遊軍が側面を突く備えにもなる。喩えそうならずとも、河の流れ差乍らに刻一刻と変化する戦況に柔軟に対応する事が出来るのだ。
「我らの中央突破が成った直後に奴らは左右から一軍と二軍からの総攻撃を仕掛けて来るぞ! 者ども、備えよ!」
最早、言葉を返す余裕もない。
其れほどまでに句国軍と備国軍は接近し合っていた。
闘志をむき出しにした備国軍の馬蹄が一歩の度に道を削り、泥と砂が舞う。
其れがまるで稲にしつこく群がる浮塵子のように見える。
遂に、備国軍と句国軍は正面から激突した。
★★★
最初の激突の第一波は、句国軍に分があった。
先に弩の集中砲火という攻撃があり備国の騎馬隊の隊列が歪んでいたのだ。
弋は其れを正す暇よりも、攻撃速度を優先した。
其の為、整然とした攻撃ではなく、其の隙を句国軍の歩槊は確実に突けたのである。
しかも全員の姿勢を低く保っており、馬鎧に守られていない脛や腱、騎乗している兵の大腿を過たず狙ってくる。狭い公道で敢えて密集隊形を組んだのは、備国軍は歩槊とした槍隊の横に周り弱点である脇から突こうにも、左右の陣が邪魔をして中央突破しか採るべき道はなくなるからだ。
備国軍の攻撃方法を限定させ、自軍の対処展開法は手の内に数多く持っている分、句国軍に軍配が上がるのは当然だった。
しかし、その当然を突き破る破壊力を、備国の騎馬隊は有していた。
怒号と罵声、悲鳴と雄叫び、叫喚と咆哮が幾重にも激しく入り混じる。
「この糞小僧めがっ! 小賢しいぞっ!」
叫びながら弋は剣を振るい、槊を薙ぎ倒していく。
そして倒した歩兵たちの頭上を軽々と飛び越える。
時には軍馬の後ろ脚で蹴りを入れさせて歩兵を倒す。
「中央突破しか策がないのであれば一気に蹴散らすぞ!」
毛烏素平原の荒れた大地で鍛え抜かれた馬術は句国の歩兵たちの度肝を抜いた。
そしてその空虚となった心の隙間を見逃さず、直属の部下たちが率いる騎馬も、槊の三角錐の穂先の餌食になることなく、弋に続々と続いていく。
大海原の中を突っ切る巨船のように、備国軍は句国軍の槍隊を抜けていく。
一軍の中央に陣取る句国軍の騎馬隊は、凡そ1千5百騎程だ。
数の上からすれば一駆けで蹴散らせる。
しかし、幾ら鋒矢の陣で歩兵の壁を突き抜けてきた処に更にもう一段、一軍の歩兵の壁が現れた。歩兵の数だけを見れば備国軍は圧倒的に不利だ。
とうとう、句国軍の歩兵に備国軍の歩兵は絡め取られてしまった。
「えぇい、糞めがぁっ!」
何とか騎馬隊中央を突破し先手に向かうと、弋が予言した通りに両に開いて展開していた句国の右軍と左軍が挟み撃ちを仕掛けてきた。
句国の右軍左軍共に備えている2千騎の騎馬隊が歓声を上げた。力押しで備国軍を追い込む様は、まるで竹筒罠に追い込まれていく鰻のようにも見え、確実に着実に閉じ込めにかかる。
だが正面奥に見えた句国二軍に、弋は遂に句国王の大軍旗が翻っているのを見た。
そして句国王・玖の伝令が、弋の耳にも届く。
「包囲網を貫徹し、備国軍を殲滅せよ!」
句国王の命令に、おう! と応した軍は、まるで風の流れに乗る柳の枝のように流麗な動きをもって従った。
見惚れんばかりの統制力に、ちっ、と弋は舌打ちをする。
――糞が。
句国軍を、句国王・玖を完全に舐めきっていたぞ。
飛鳥の陣を引いているが、その中の一軍と二軍の動きと布陣は、まるで鋒矢の陣ではないか。
軍の総数では劣る分、そして備国としては鋒矢の陣を布くしかないと知っているからこそ、一点に攻撃を集中させる事で此方を分断せしめ、全軍が揃う前に数で大いに勝る歩兵で騎馬隊を捉える事に成功しかかっている。
並の武将であれば、此処で既に意気は途切れ戦意を挫かれていただろう。
だが、備国王・弋は生半可な漢ではない。
「させるかぁ、此のど阿呆め!」
弋の獅子吼に備国軍は、おお! と湧く。
「前列7千は此のまま我に従え! 中列4千騎は右軍と対峙! 後列4千騎は左軍の相手をせよ!」
瞬時に行われた弋の命令に、備国軍も息を吹き返す。
攻守が目紛るしく、一瞬のうちに入れ替わる。
★★★
「ふんっ!」
弋は眼前に立ちふさがった将に向け、上段に構えて剣の重さを利用して一気に剣を振り下ろした。
キンッ! と甲高い音が響く。
続いて、ヴン、と鈍い音を立てて弋の剣が刃毀れを起こした。
毀れた刃の欠片が飛び、舌打ちをする弋の頬を掠り、肉を削る。
ちり、と火傷に近い痛みが走った。手の甲で血を拭う事すらせず、弋は手にした剣を振るい続ける。
弋の激剣を受け止めた将校は、その勢いを受け止めきれずに落馬しており、弋は手綱を捌いてその腹目掛けて剣を突き立てた。野太い悲鳴が、血飛沫に更なる彩りを与える。剣を引き抜きざまに、横から襲い掛かる別の騎兵の腹を、弋は横に払った。
「剣を打ち合わせるな! 句国の鉄剣に我らの剣は打ち負ける! 兵や馬の腹や足を狙え! 甲冑はまだ鉄製ではない!」
指示を出しつつ右手側から攻めてきた一軍と乱れに乱れて討ちあいながら、弋は句国騎馬隊が手にしている鉄製の剣の威力に目を見張った。
――噂には聞いていたが、鉄製の剣の威力がまさか此れほどとは……!
句国の兵の技量は、我が備国軍の其れに遠く及ばん。
然も数の絶対数でも負けが見えているのに此れだけ粘れるのは、やはり此の鉄器のせいか。
備えている鉄剣の威力により、句国軍は互角以上の勢力で確実に備国軍を押し、後退させてくる。
無論、鉄剣を手にした兵の数は多くはない。騎馬隊にどうにかこうにか配せたか、程度のものだ。だが技術差を埋め、且つ兵役に出ているだけの民兵の戦意高揚にまで繋げる程、句国軍の鉄剣への信頼度は高かった。
嘗て、禍国皇子・戰が先句国王・番を徹底的に打ち負かした時に、鉄器の殺傷能力が如何程のものであるかを身に染みているだけの事はある。
玖は圧倒的な兵力さを効果的に鉄剣を使用する事で補っていた。
此処に来ての大抵抗、赤子を捻るよりも容易い勝利を得られる相手と思われていた句国軍の豹変とも云える発奮ぶりに、備国軍は大いに狼狽し、動きを鈍らせた。
中央突破を完全に成し得ない備国軍、そして包囲網を展開しきれない句国軍は、益々持って絡み合い混戦状態に落ちていく。
★★★
「弓隊、槍隊を援護せよ!」
玖の命令を、弓隊は即座に実行に移した。
最初の突撃を迎え撃った弓隊と違い、一軍の右軍左軍が備える弓隊は通常の弓だ。
威力よりも発射速度を上げて騎馬の突進を阻んでくる。
「しゃらくさいわぁっ! 備国の軍馬を舐めるなっ!」
唸りながら、弋も自国の弓隊に対抗するように命じる。
しかし今度は、長槍を構え長密集隊形を組んだ槍隊の素早い攻撃を受ける。句国軍の動きは猛攻というものではない。
ただ、分厚い守りと手堅い攻めを同時に行う。
力押しで挑んできた備国軍の短所と短慮さを、確実に突いて来ている。
弋は己の不手際を認めざるを得ず、憤怒の表情で剣を振い、自軍を鼓舞し続ける。
だが、其れも束の間の事だった。
此のままであれば、数で優る句国軍が時間が掛ろうとも備国軍を見事に捻じ伏せた事だろう。
然し、備国王・弋が率いる軍は、『第一軍』に過ぎないのだ。
目先の思わぬ戦力の均衡に、抗戦を続ければ此の戦に……、と期待を抱いていた句国軍は、新たに公道の向こうから来た鬨の声に、びり、と身体を竦めた。
「備国の第二軍が来たぞおぉっ!」
狂乱に近い恐怖が句国軍に、伝播していく。
肩越しに背後を振り返りながら弋は漸く余裕をもって、ふ……、と口角を持ち上げた。
「句国王! 小僧如きが良くぞ此処まで耐えた! 此の私を愉しませた、と褒めてやる!」
玖の読み通り、弋は自国軍を三軍編成としていた。そして続く二軍、三軍も鋒矢の陣を取らせ、一定の間隔をおいて後に句国軍目掛けて仕掛けるように指示しておいたのだった。
弋が剣を翳しても、陽光を反射する煌めきはない。
激戦を潜り抜けてきた証の、血に塗れていたからだ。
「掛かれ!」
弋の命令を待つまでもなく、第二軍は句国軍に向かって進軍を開始した。
★★★
乱戦の最中、備国軍を探っていた斥候が玖の元にやってきた。
「へ、陛下! 備国軍の第二軍が此方に!」
何!? と顔を青白くして振り返ったのは玖ではなく将の一人だった。明らかに動揺している。
――いかん。
玖は舌打ちしたくなるのを堪えつつ努めて平静を装って、御苦労、と斥候に笑みを向けた。
指揮する者に走る動揺は喩え僅かであったとしても、兵たちが心に受け取るものとは『負け戦』という衝撃となって軍を瞬く間に駆け巡る。
玖の懸念通り、周辺の空気が此れまでとがらりと変わった。
互角以上に戦いを進めてきた、勝利の袖を掴めるかもしれない、という期待を見せ始めた瞬間に第二軍を投入する時節の見極め方は、やはり自分にはないものだ。
いや、もしかしたら、此の場に姜が居てくれたのであれば指摘してくれたのかもしれない。
だが自分は、国を繋ぐ存在である王妃・縫とその腹に宿る子を護れと姜を戦線から外してしまった。
居なくなって初めて、玖は姜の存在の大きさに慄きに近いものを感じた。
姜はどんな時でも、傍に控えて常に戦意を高めて呉れて居た。初めて、郡王と剣を交わしたあの王都攻防戦の絶望的な状況で戦意を喪失した自分に、最後まで戦えと云い募ったのは彼だ。
兵を護る為に敗北を受け入れると命じた自分に涙を流して呉れたのも、彼だけだった。
――姜。
此の戦が終わったならば、其の方に礼を言わねばならんな。
戦を終わらせる為にも、勝たねば。
浮足立ち掛ける自軍に向かい、玖は声を張り上げる。
「引くな! 気持ちを引くな!」
玖の一喝に、句国軍の兵士の間にびりびりと音を立てて生気が蘇る。
「敵の第二陣が到来したとしても、奴らはまだ3万余り! 3万五千の我が軍には、まだまだ及ばぬ!」
玖の示した実数に、浮き上がりかけた句国軍の脚が踏み止まる。
よく聞けば、玖の言葉ははったりも良い処だ。
誰の眼にも、弋自身が率いる第一軍の層は厚く、2万はある。投入された二軍と合わせて同数程度になっていると、備国から受ける圧力の変化から誰もが感じとっている。
だが、馬上にて凛然として在る玖の姿に、句国軍の凋み萎れ掛けた意気は一気に高揚した。
「備国軍は鋒矢の陣を繋げての長蛇の陣でもって、この暈の道を抜ける策を取っている! だが恐れるな! 長蛇の陣は横からの攻めに弱い!」
玖の声に鼓舞され、項垂れかけていた句国軍の顎が上がる。
「正面! 弓隊と槍隊に指示を出せ! 先ほどと同じ陣形を布いて迎え討て!」
玖は背後を振り返ると、背後に控える遊軍が抱える弓隊に腕を振った。
「弓隊は更に湾曲した陣形をもって左右から攻撃! 騎馬はその後、備国二軍の側面を突け! 武器はよいか!」
手綱を握り直した玖は、真正面で荒れ狂っている備国軍の軍馬の群れを睨む。
「備国の第一軍が反転し、弓隊と槍隊を背後より包囲するという心配はない! 備国は猪が如きに馬鹿の一つ覚えのように猪突するが戦の上等であるとする奴らだ! 此の戦、我ら句国が必ず勝つ!」
暈の道の狭さが自軍を助けたように、長蛇の陣を横から攻めるには場所が足りない。今度は自分たちが攻めあぐね、下手をすれば此処までの有利な展開を全て失い逆転される恐れすらある。
其れでも、玖の声に句国軍は戦意を完全に盛り返した。
其処彼処で、陛下万歳! 句国に勝利を! と声が上がる。
――そうだ。
備国王は、句国王である此の私を捉えるまで、決して突進の手を止めはしない。
我らに勝機があるとすれば、其処だ。
――私と云う餌目掛けて、飛び出して来るが良い、備国王!
此の3年、小競り合いを続けて来て此方の出方を知り尽くし、いざこの機会をこそ! という気合で臨んでいるのであれば、私を目の前にして引くに引けまい!
「長く伸びた備国軍の脇腹を討ち、遮断して包囲する! 第三軍が仕掛けて来る前に、一軍と二軍、揃って撃破してやろう!」
言い聞かせるように、大声を張り上げる玖に、句国軍は若き王の前で指示通りに動いて答えて見せる。
自軍の気力の復活に、ほっと胸をなでおろしつつ、玖は雄叫びを上げた。
「此の戦、我が句国が勝つ! 必ず! 必ず、必ずだ!」
★★★
第二軍の投入に浮足立ち陣形を乱すだろうと踏んでいた弋だったが、己の予測に反して持ち堪え、其れ処か勢いを増して来た句国軍に目を見張った。
此れまで、久々に歯応えがある戦になったと喜んでいた弋だったが、此処に来て初めて、顔を顰めてちっ、と短く舌打ちをする。
第一軍として放った鋒矢の陣で、句国軍を打ち破れるものと踏んでいた。
だが、今一歩追い詰められず、第二軍を続いて進軍させて此れで決定打となるとしたものが、思わぬ抵抗は続き更なる乱戦に持ち込まれている。
もう一軍、最後に第三軍を控えさせている。
投入時期を早めたとしても、句国軍は一瞬怯みは見せても第二軍投入時と同じく盛り返すのではないか、と弋は思った。
其れほどまでに句国軍は執拗に粘っている。
数の上で圧倒しているのであるから、乱戦に長く引きずられたとしても最終的には勝利を収めるものという自恃はある。
――だが此のままでは、悪戯に自軍の被害が大きくなる。
戦は此の戦だけではない。
此の先に、己の本懐を遂げるべき相手である、剛国王・闘との合戦が待ち構えているのである。
句国との戦は、只の前哨戦に過ぎないのだ。
剛国王と対決するために戦意を亢進させる為のもの、そして禍国に外圧を掛ける為のものだ。
しかし、句国王は此の一戦に賭けよと家臣と兵たちの心悸を昂らせて戦場に臨ませている。
次がある、と全力を出し切ってはいない備国軍と、此れが正念場であると決死の覚悟で戦場に在るのとでは、どだい気概が違うのだ。
――常日頃、甘い甘いと嬲るように嘲笑しておったが、甘かったのは、どうやら我ら、いや、私の方だったな。
弋は大きく剣を振りかぶり、眼前の句国軍の肩に剣を深くめり込ませる。
ぶしゃり、と音を立てて血飛沫を上げた敵兵の断末魔の悲鳴を心地よく耳朶内で響かせながら、にやり、と弋は笑った。
「者ども! 小面倒臭い策を捏ねるなんぞ、止めだ、止めだ!」
備国軍だけでなく、句国軍も、はっ、となって弋に注目する。
「奴らは此の戦に国の存亡を賭けてきている! ならば我らもこの一戦に賭けるぞ!」
飛び交う罵声の中、弋の声は弩から放たれた矢よりも鋭く、戦場を走り抜ける。
備国軍を、びりびりと音たてた緊張が包み込んだ。
自軍の兵士たちの顔付きが変わったのを目視した弋は、襲い掛かって来た句国軍の騎馬に剣を突き立てた。
どす、と鈍い音が馬の嘶きにかき消される。騎兵がよろけた処を弋は襲った。手から剣を無理やり奪うと、其の刃で相手に引導を渡す。馬の嘶きが、今度は句国兵の断末魔の悲鳴が被さって消されていく。
「我らの剣は最早、役に立たん! 者ども、句国軍の手から鉄剣を捥ぎ取って戦え!」
おお! と歓声が呼応する。
昂じた戦意が熱い空気の塊となり、ぐわり、と弧を描いて持ち上がるの見えるようだった。
此れまでの斬り合いだけでなく、破落戸か無頼漢の殴り合いに近い状態が生じる。乱戦ならまだしも、縺れに縺れ何処で何が起こり、何方が優勢なのかを図る余地も無い混戦となった。
「明日の剛国軍を見るより、今、此の場の句国軍を見よ! 此の戦にて句国を滅ぼす! 突っ込むぞ! 後れを取るなっ! 伝令! 第三軍に突撃するよう伝えよ!」
命令を下しながら弋は愛馬の横腹に蹴りを一入れて疾駆し、句国軍の人垣を飛び越える。騎馬隊が次々に弋の背後に従い、橋の様になった。
「行くぞっ!! 句国軍を全滅させてやる!」
★★★
「第三軍が突入する前に、第二軍を横から突いて壊滅せしめよ! ここが正念場だ!」
徐々に押され始めた戦場を必死で喰い止めようと、玖は陣頭で大剣を振るい続けた。
既に何人屠ったか分からない。この激戦の中に在って未だに刃毀れを起こさぬ業物を惜しげも無く与えて呉れた戰の友情に感謝しながら玖はまた、眼前の敵を斬り捨てる。
「耐えよ! 二軍さえ挫けば我らに勝機が見える!」
玖の鼓舞に、兵士たちは言葉ではなく剣を振るい槍を巡らせ弓を弾き軍馬を駆けさせ一人でも多くの備国兵を倒す事で応えていた。
――勝てる、いや、勝つのだ!
大剣を振るう玖の前に、赤黒い瘴気を纏った人馬が表れた。
馬の眸は興奮により飛び出さんばかりにぐわりと剥かれ、荒々しい嘶きがどす黒い返り血と共に周囲に落ちている。
騎乗している兵は筋骨隆々とした体躯をしており、愛馬に負けず劣らず、白目を血走らせて、ぎろぎろと玖を睨み据えてきていた。その甲冑は、猩々緋に染め上げられている。最早、元の色彩は何であったのか、探る余地も無いほどに。
「句国王・玖と見たぞ」
頬に朱線が走っている。
何かで傷付けたのは明白であるが、その傷跡を男はぴしゃりと叩いてみせた。
玖は手綱を引き絞り、兵馬と正面から対峙する。
「如何にも、私が句国の王・玖だ」
そうか、とにやりと男は面白げに唇を歪める。
「備国王・弋だ」
名乗り合った二人の王は何方からともなく、剣を構え直した。
弋の愛馬は血気に逸り、突撃の命令を欲して蹄をがつがつと鳴らした。
対する玖の愛馬は、静かに馬首を上げて嘶きもせず主人の命令を待っている。
「句国王! 此の私に傷を付けた事を思い知らせてやろう!」
「ほざくな! 備国王!」
剣の柄を握りしめている弋の手の内が、ぐぎゅ、と鳴る。血糊の塊が、擦れて砕けたのだ。
しかし其の微かな音を契機として、弋と玖は互いの愛馬に鞭を入れた。
「はあぁっ!」
「うおおっ!」
気合の咆哮を迸らせ、間合いが一気に詰まる。
上段から玖の頭上を狙う弋に対して、玖は横に薙ぎ払う型で腹を狙う。
弋は避ける事もせず、逆に速度を上げて玖に迫り一気に腕を振り下ろした。
速度で優った弋の激剣を、玖は上体を後ろに反らして逃れようとしたが僅かに及ばず左肩を切先が掠めていく。
玖の甲冑が崖から落とされた岩のように砕けるようにして壊れた。
しかし目を細め眉を跳ね上げ乍ら、ちぃっ、と舌打ちをする。紙一重で甲冑に守られ、玖の左腕は胴体と切り離されずに済んでいたのだ。
「もう一度だっ!」
弋は再び剣を振りかぶる。
剥き出しになった歯が、まるで獲物を狙いすました野犬の其れのようにぎらぎらと光る。
玖も態勢を整えようとした処に、句国軍、備国軍、両軍からの伝令が飛び込んできた。
「陛下! 備国軍が!」
「陛下! 第三軍です!」
二人の王は、同時に振り返った。
一方の王の顔ばせは絶望に彩られ、一方の王の瞳には凶暴な悦びが渦巻いていた。
★★★
備国軍の第三軍が到達してから、戦の決着まではあっという間だった。
第二軍の脇を左右から挟み撃ちにして包囲しかけていた句国の遊軍だったが、現れた第三軍の猛攻を、自分たちこそ脇腹に受ける事になったのだ。
勝ちに急ぎ無防備になっていた句国軍は、備国軍の第一撃で陣形をあっけなく崩した。
一か所が崩れると、後は早い。
松の木の肌のように、ぼろぼろと先を争って崩れていく。
遊軍からの攻撃を受け足止めを喰らっていた備国の第二軍だったが、絶妙の時節に現れた第三軍により勢力を盛り返した。自分たちを包囲戦と絡んで来ていた句国遊軍の相手は第三軍に任せて隊列を整え直すと、敵味方入り乱れている第一軍の戦場へと進んだ。
備国一軍と互角以上に戦って来ていた句国軍は、背後を取られる形で第二軍の突きを喰らう。
いや、突きなどと云う生易しいものではない。
岩壁をぶつけて来たかのような圧力だ。
第三軍が到達し5万の兵が揃った。
句国の3万5千の兵、然も騎馬隊だけを見れば、備国3万余、句国は1万弱、何方が優勢か教わるまでもない。
句国軍は、総崩れとなった。
★★★
句国軍の陣形が豪雨に当たった泥の玉がぐずぐずと砕けていくように、瓦解して行く。
「句国王・玖!」
手綱を握り直した弋が、玖に迫る。
ぐぅ、と喉の奥を鳴らす玖と勝利を確信して迫る弋の間に、一陣の風が吹いた。玖の直属の兵たちだ。
「陛下を!」
一人が鋭く指示をすると、別の兵が玖の手綱を引っ掴んだ。玖の愛馬の尻に蹴りを入れ、自らの馬の腹にも一蹴り入れる。馬の主従は、共に甲高い悲鳴を上げて弋を残して駆け出した。
「待たんか! 逃げるな句国王!」
弋は獲物である玖の背中を目掛けて馬を走らせる。
だが、次々と葦の様に兵馬が立ち塞がる。興奮に舌舐めずりをしながら弋は剣を振るう。しかし相手は戟を手にして間合いを取りつつ弋を馬から引き摺り下ろそうとやっきになっている。
「舐めるなよ! 句国如きの兵が幾人束になって掛って来たとて、私の相手になるものか!」
はぁっ! と気合を入れて弋は手にしていた剣を一人の兵目掛けて投げ付けた。
切先は、過たず兵の胸に突き立った。
断末魔の悲鳴を上げる兵の手から戟が零れ落ちる瞬間、弋は其れを奪い取っていた。
「掛かって来い! 糞どもがどれだけ束になろうと、私の相手になどならんわ! 纏めて相手をしてやろう!」
弋は両手を使って頭上に戟を掲げ持った。
ぶんぶんと唸りを上げて戟を回す様は、まるで竜巻のようだった。
「陛下が落ち延びるまでの時間を稼ぐぞ!」
「おおぅっ!」
句国兵は一塊になって一斉に弋に向かって突進する。にやり、と弋は嗤う。
「逃げるのか!? 此の私を前にして! やってみせるがいい! 忠義を見せ付ける小賢しい小童どもがあっ!」
句国兵たちは四方から弋を取り囲むと、気合を込めて戟を突き出した。
長い柄は片手で扱うには不向きであるが、玖直属の句国兵は日々の鍛錬を怠らず、片手で軽々と扱えるまでになっていた。
克が率いてきた千騎の兵が、重い梢子棍をまるで腕の延長の様に使いこなして勝利に貢献したあの戦から、彼らも負けじと切磋し続けてきたのである。
だが、やはり片手では両手での操作に負ける。
そもそも根本となる、技量がまずもってけた違いだ。
弋は愛馬に立ち乗り状態となった。大腿の締め付けだけで馬を御しながら、戟を振り回す。有り得ぬ速度で戟を繰り出しては引き、引いたかと思わせた次の瞬間には回転している。
一見、無駄の多い、統合性のない攻撃に見えながらも其の実、最低限の労力で確実に兵を騎馬から引き摺り倒していく。
兵役で戦場に来ている領民であれば、恐怖から錯乱し、瞬く間に瓦解するであろう。
が、王の護衛を担う精鋭部隊だけの事はあり、被害を避ける為に自ら馬から落ちる形をとり、逆に戟を構え直して弋に向かって行く。
粘りのある抵抗力がまたしても復活した句国軍に、弋は鼻の穴を膨らませて怒りに沸いた。
「ええい! 埒が明かん!」
混戦の中、句国王・玖の姿などとっくに何処かに消えている。視線で追いかけたくとも、兵たちは幾重にも重なり合って弋を囲む。
じれにじれた弋は、遂に暴発した。
「とっとと諦めんか此の屑どもがあぁっ!」
眼光が一段、怪しくなった。
肩から背中から腕から立ち上る気合が、ぶしゅぅ、と音を立てそうな勢いだ。
耳元まで裂けろとばかりに怒声を発する弋は、正に咆哮を発する野生の獣だった。
「邪魔をするな! 糞ども!」
ぶんぶんと音を立てて、弋は戟を振るう。
ますます先の読めぬ目茶苦茶な繰り出しようだ。
嵐の最中に巨木や巨石が舞っている只中に放り込まれているかのような錯覚を、句国兵は覚える。
弋の眼光は既に真面ではない。
白目を真赤に充血させ、雄叫びを上げ続ける咥内には唾の糸が幾本も見える。
流れる汗が猛獣の涎のように散っていた。
気を違えた状態に没入した弋は、手加減と云うものを忘れている。
下手をすると自軍の兵士にも巻き添えを喰わせながら、其れでもなお、玖を求めての突進を止めようとしない。
「句国王! 何処だ! 何処に行った! ええい、返事をせんか、此の莫迦者めが! とっとと私に討たれて死ね!」
句国兵たちを木っ端のように散らしながら、弋は玖を求めて暴走し続けた。
 




