21 轟く潮流 その4-3
21 轟く潮流 その4-3
玖の元に斥候から備国の動向が齎された。
「どうだ? 備国王はどう出る?」
「は、先頃、我が句国に対して布告を行いました」
「何ぃ?」
「何れ、王城にまで正式に届きましょう」
――あの備国王が、布告を行った、だと?
玖は全身に緊張を走らせる。
「布告を行ったと云う事は、其のまま、此方に攻め入ることも有り得よう」
「は、其れが備国王は公道の入口附近に軍を再編成している様子です」
「何、公道から攻めてくるだと?」
騎馬民族の誇りと矜持に賭けて一気に山岳超えも有り得るか、と思い警戒を怠らずにいたのだが、布告を行った事といい一度軍を引き編成し直してくる事といい、備国は正攻法で句国を攻める気でいるらしい。
逆に言えば句国程度の国に対してなど策を練る必要はない、どんな策で来られようとも勝つ自信がある、と云う事だ。
「舐められたものだ」
腹の奥底から湧き上がる怒りの成分以外何物も含まない呟きを、玖は漏らす。
自分でも、冴え冴えと唇が青く冷えていくのが分かる。
奥歯を噛み締めすぎて、顎が痛みだしていたが其れすらも感じなくなってきていた。
玖の呟きを聞き取れなかったのか、斥候が主君に対して追従して見せた
「備国王も、粗野なる騎馬の風習に浸かったままでは、平原にての勝利は怪しいものと、ようよう悟ったのでありましょう」
「……」
玖は答えられない。
口を開けば、罪の無い斥候に己の内に澱のように澱んでいる不安と怒りをぶち撒けてしまいそうだったからだ。
――中華平原の風習を踏襲したと云えば聞こえは良い。
だが言い換えれば、句国など眼中にないからこそ、平原の民の仕来りを平然と受け入れていられるのだ。
句国など何程のものぞ。
正面から、赤子の手を捻るより軽々と捩じ伏せてしまる相手だ。
戦になり正面からぶつかったとて何程の損害が出よう、と高を括っているのだ。
備国王・弋が敵と定めているのは、禍国。
そして剛国。
此の二国以外に弋の眼中にはない。
もっと言えば禍国皇子・戰と剛国王・闘、此の二人のみ注視しており、他の者は見る価値も無き塵芥と同等だ、と定めている。
平原の風習に手を染めたのは、禍国に対しては何れ貴様たちの国に対しても同様にしてやるぞ、という恫喝であり、剛国に対しては平原に出た騎馬の民に相応しい饗応をしてやろうという挑発に過ぎない。
――句国は、相手にされていない。
いや、端から見ようともされていないとは。
王として、何と惨めな。
何処まで馬鹿にされているのだ。
噛み締め過ぎて顎がどうにかなりかかっているというのに、玖は歯軋りが止められない。
舌の先に血の味を感じながら、玖は斥候に報告の先を促した。
程なく別の斥候がやってきた。
斥候によれば全軍を一旦集結させ終えた備国は、全軍を3軍に分け、第一軍押し立て鋒矢の陣を布く備えを見せているという。
「あの公道を鋒矢の陣形で抜けて来ると云うのか?」
驚きを以て独り言ちながら、玖は用意させた地図の上に視線を走らせる。
「備国の全軍勢の内訳は?」
「は、騎馬三万強、弓隊と槍隊を中心とした密集隊形を得意とした歩兵が二万弱であるかと」
「……総軍勢五万余、か」
――騎馬だけで三万、総勢で五万余、だと?
と云う事は、第一軍に回されるのは単純に見積もって1万と云う事になる。
地形的に玖も戦車は採用しなかったが、それは戦車を操る騎手の絶対数不足によるものもある。
備国王も今回は戦車の投入を見合わせているが、冷静に戦況を見極めての事だ。
受けて立つ句国の総軍勢は領民たちを引っ掻き集めて総力戦の構えをとっていると云うのに、ようようの事で三万五千余しかない。
数の上だけでなく、既にあらゆる面で圧倒されている。
到底敵わない。
そもそも此度の軍勢は、小競り合いを仕掛けて来た時の備国軍の数の凡そ10倍にあたる。
こうなると、あの小競り合いは備国王が自軍の鍛錬の為に嗾けてきたのでは、としか思えなくなってきた。
――いや、実際にそうに違いない。
でなくては、我が軍の手の内が読まれつくされているのに説明がつかない。
してやられていたのだ、掌の上で転がされているのだ。
備国軍を追い払ったのだと自信をつけ、郡王・戰に自慢げに振舞っていた自分の愚かさ加減に、怖気が立つ。
だが、どうしようもない。
今更ながらに玖は臍を噛んだ。
其れ程、此度の戦に於いて句国は惨敗続きだった。
指揮を取る百人隊長以上の将兵の多くが、首を取られて命を散らしている。
真面に配下を采配出来る能力があると云えるのは、玖の目からでなくとも、もう姜が率いる軍勢しかない。
戦場での混乱は日々増悪の一路を辿り、多くの民兵の意欲は水を得られなかった草花が日照りに萎れるが如くに見る見る間に沈滞していく。
★★★
――脆い。
幾ら、父王・番の愚行により禍国に目を付けられ、敗残の王として零丁の身となろうとも、己と父とは違うと努めて意識を高揚させ、郡王・戰と共に何時かあろう戦に備えて軍馬の育成に勤しんできた筈だった。
――今がその『何時か』ではないのか?
なのに、全く太刀打ちできぬではないか。
何と云う無様さか、何と云う醜態を晒しているのか。
自分はやれるのだと、只、思い込んで、どうだと云わんばかりに称賛を欲していただけだった。
いや、確かに軍馬は素晴らしい出来となった。
手塩にかけて育て上げた馬の群れは、駿馬が揃いとなった。
だが、馬があろうとも其れに騎乗する将兵がおらねば意味がない。
――人物が足らぬ。
そう、句国には、優秀な兵が圧倒的に足りない。
然も、国勢は父王・番の愚行の悪影響から、未だに脱し切れていないときている。
たった数年で内政を改善する必要に迫られた点では、祭国と句国は同様だ。
だが屯田制を敷く祭国では、兵一人につき最低でも馬を2頭持たせるつもりで育成にあたっていた、と姜が報告していた。
兵は自ら生き延びる為に、田畑を耕して食扶持を稼いでいる。
此の時に戰は田畑を耕す馬とは別に、戦専用の馬を飼育するよう奨励し同時に鍛錬を説き勧めてきた。
祭国にとて地力というか底力、多くを養いきる国庫の潤いがあった訳ではない。
逼迫した財政は何方も似たり寄ったりだった筈だ。
だが違いが出た。
この雲泥の差こそ、郡王と私の違いだ。
見ているもの、見ているものの先が如実にこの戦の結果に繋がっている。
馬だけを育てておればよいとしか思っていなかった自分と戰、先覚者が迷いつつも自ら求めた言動をの真意の底を知ろうともせず、楽に真似ていただけの付けが、今、敗北と云う形で巡って来たのだ。
★★★
――嘆いていても仕方がない。
今は、正面の敵を撃破する事に専念せねば。
そしてもう一つ、玖には懸念があった。
母后文である。
正王妃である縫たちが城を離れる間に、玖は母后文の説得に当たった。
然し彼女は、東朝宮から離れないと駄々を捏ねたのである。
玖が宥めても賺しても、頑として受け入れようとせず、其れ処か殻の中に閉じこもったまま動かなくなった蝸牛のように一室に籠ってしまい、出てこないのだ。
先の戦の時、郡王戰は礼節を忘れず自分たちの尊厳を傷付ける事なく、慇懃に扱った記憶が災いしたらしい。
もう一つは、父王・番を思い出させたのだろう。
良人である父王が死なねば、此れまでの苦労も何もかも烏有に帰す処だった事を思えば、人には解せずとも自分には母后を哀れに思わずにはいられない。
だが、克と姜との朝駆けの前に、毅然とした態度で自分を諭してくれた母親の姿と違い過ぎている。
――其れこそ、何が母上の中で何があったというのだ……。
嘆息しつつ、玖は首を左右に振った。
いや本来であれば、今の様に振舞うのが母という人の質だった。
嫁として母としては愛される人であるが、国母として人々の尊崇を集められる女性では、残念ながらなかった。
正王妃として君臨するには、心映えが弱すぎたのである。
だからこそ、左昭儀・蜜の専横を許し地位を落とされてしまったのだ。
大人しいという点で、それは自身の妃である縫にも言える事である。
共に手弱女であるが二人の間の決定的な違いは、いざと云う時に毅然とした態度で挑めるか否か、という点だろう。少なくとも縫は、他の後宮たちに尊敬の念を持たれているし、後宮の子らも、生母はあれども縫を慕っている、と別れの瞬間を玖は切なく思い出した。
ともあれ、母に此れ以上時間を割いてもいられない。
せめて、母のだだが、国を預かる者としての其れであれば許せもするが、女の錯乱の一つを国の一大事と天秤になど掛けられない。孝心を忘れぬ玖であるが、母の為に国を捨てる愚行を犯せない。
仕方なく、玖は母を東朝宮に残す事にした。戦に集中しきれないが、此れもまた是非もない。
「兎に角、戦わねばならない」
戦って、戦って、克殿が此の句国に、郡王殿と真殿、そして祭国軍を連れて舞い戻ってきてくれるまで、戦い、耐えねばならない。
背中を丸めて嘆息しかけた玖は、息を止め、ぐ、と胸を反らした。
家臣たちに無駄な心配を掛けてはならない。
漢として生まれたものの沽券に係わる。
どうあがいても、自分は王なのだ。
王としての貫目をせめて部下たちに演じて示してやる事で彼らの不安が和らぐというのなら、己の憂慮など何程のものだろうか。
玖は努めて胸を張り、軍議を開く、将を集めよ、と命じた。
★★★
備国軍が鋒矢の陣でもって此方に正攻法で仕掛けると解っているのは、しかし玖には一つの救いでもあった。
あの公道を備国が鋒矢の陣で抜けてくるというのであれば、句国が取るべき陣形は決まっている。
広げた地図に、玖は別手直という文字の札を横に差し出した。
「姜」
だが、何時もであれば其の札を手にして地図においてくれる人が居ないと云う事を失念していた。
札は、ぽろりと玖の手から落ち、地図の上でころころと転がっていく。非れもない方向へと向かう札を、千騎長が慌てて抑えた。
「済まぬな。この山を背にした部分に札を置いてくれ」
何かもの言いたげに玖を見上げてくる千騎長に、玖は命じる。
ことり、と乾いた音を立てて札は丁字路状態となっている公道の山を前にした箇所に置かれた。
「備国軍は、この暈の道を通る」
暈の道とは、句国側から見た公道の別名である。地形的な特徴から此の周辺は薄雲が発生し易く、月や太陽に光の環が懸かって見える。暈、とはこの光の環の事を指すのだ。
「決して、この公道を抜けさせはせぬ。句国国内に奴らを踏み入らせる前に備国軍を迎え撃ち、そして敗走せしめねばならん」
玖は、今度は備と書かれた錐形の札を取り出した。
「備国の総勢は凡そ5万。奴らは鋒矢の陣を布いてこの公道を攻め上ってくる。紡錘陣形による、中央を突破し分断する策だ」
先ほど札を置いた千騎長の喉が、ごくり、と鳴った。
「となれば、奴らの軍を迎え撃つに最も有効な陣形は別手直であるものと私は考えている」
陛下、と千騎長がおずおずと意見の口を開く。
「我が軍は三万五千弱、凡そ五万の兵を相手に太刀打ち出来るとは……」
将たちがもぞもぞと肩を揺すりながら互いの顔を見合わせあっている。
此処まで負け続きの上に圧倒的な兵力の差を見せ付けられては、尻込みもしよう。
部下たちの青白い顔をみて、玖はやっと己を顧みた。
上に立つ将がしたり顔で負けを悟っていては、従う兵たちは勝利を信じて戦えまい。
だが、将たちにこんな顔付きをさせたのは、偏に己の主君としての情けなさによるものだ。
軽く息を吸い込んで、そして止め、玖は気持ちを落ち着かせると、努めて明るい顔をしてみせた。
「数だけをみれば、成程、備国は圧倒的に我らの上を行く、だが恐れるな」
何処かで聞いたような言葉だな、と思いつつ玖は自軍を模した札と備国軍の札を手に取ってみせる。
「この公道では、一度に5万の兵を投入など出来ん。恐らく3軍に分け、其の内の一軍を投入してくる。此の公道の広さから鋒矢の陣で挑んでくるのを考えれば、我々と対峙する備国軍1万5千がせいぜい、迎え撃つ我が軍3万5千と比べれば何方が優位に立っているかなど明白だろう」
備国軍1万5千、という言葉に、将たちの眸に生気が一気に宿った。
現金なものだ、と思いつつも玖は家臣たちの息吹を取り戻せた事に安堵する。
「よいか、我が軍は決して不利な戦いを行うのではない。寧ろ優勢に戦を展開出来る。突破戦を仕掛けて来る備国軍を逆に打破し、此れを掃討せしめれば残る備国軍の動揺を誘い、奴らを崩壊せしめるなど容易くなろう」
やっと、おお! と云う気炎が上がった。
内心でほっとしながら、玖はそうだ、と力を込めて肯く。
「此の句国王・玖が率いし我が軍勢が、必ずや勝つ!」
軍備を整え陣形を定め終えると、玖は自ら先頭に立った。
背後で、国王としての大軍旗が翻っている。
「行くぞ! 目指すは暈の道だ! 備国軍を迎え討つ!」
命令を下す玖に、句国全軍が喉も裂けんばかりの大音量で呼応する。
「出立!」
腕を振り上げる玖の前に、歓声の波がたつ。目を細めながら、玖は決意を新たにする。
――民の為を護らんと一意専心せずして、何が、王か。
私は、私が、この玖が句国の王だ。
必ず勝つ。
勝って、この国と共に生きるのだ。
★★★
先ずは、先の苦杯を舐めた負け戦の祓いが行われた。
此処までの負けは、厄気に好かれた結果であるとの考えの元、贄が天帝に捧げられる。
基本的に騎馬の民は狩猟の民であるからか、大抵は初子や初穂などを徹底して甚振る。
血の臭いの穢れを背負っていては、獣、即ち悪鬼に憑りつかれるという考えが根底にある。
句国では特に、血に狙いを定める獣から身を護る事とは厄を齎す悪鬼の眼を逸らす事に繋がるとされている。
様々な作法があるが、玖は其の中でも駿馬の初子を生贄として捧げた。
と、何と云う偶然か。
いや、奇跡であろうか。
薄雲が途切れ、其の隙間から太陽の光が零れて一筋の径となった。
光芒は、真直ぐに生贄に降り注ぐ。
おお! という快哉が句国軍から上がる。
「天涯の主・天帝が、我らの生贄を選び受け取られた! 皆の者! 我らは天帝の御意を得たぞ!」
気勢を上げた兵たちを扇動するように玖が叫ぶと、兵士たちの間の感動は軽々と昂ぶりを通り越え、熱狂の坩堝と化す。
興奮の内に祓いの儀式が終わる。
と同時に、玖は暈の道に全軍を押し立てさせた。
直ちに陣形を布くよう指示すると、いざや、と待ち構える句国軍に備国軍の動向を探っていた斥候からの知らせが、間合い良く届く。
「只今、備国の第一軍が鋒矢の陣形にて此方に向かって来ております」
玖の周囲で、一気に緊張が高まった。
よく耳をすませば道を抜ける風に乗って、備国軍の時の声が聞こえてくるではないか。やがて、濛々と沸き立つ入道雲のような土煙と共に、山間が鳥たちの喧しい鳴き声で埋め尽くされる。
――来た。
誰とも知れないが、何処かで呟きが漏れる。
玖は手にした鞭を振るった。
ひゅ! と空を切る音が鳥たちの悲鳴をも切り裂く。
「来たぞ!」
既に土煙を背負った備国軍の先陣が見える。
凄まじい勢い、正に怒涛だ。
正に人が傘の形に固まって、放たれた鏃のように突撃してくる。
濛々と立ち上る土煙は、土砂降りの雨の最中に駆けたとて此処まで煙りはすまいと思わず唸らずにはいられぬ程だ。
じり、と前方の弓隊が怯みを見せたを玖は見逃さなかった。
「弓隊、構え!」
叫びつつ、玖は第二軍の最後尾に在った馬を走らせ、大一軍間近にまで躍り出る。
ぎょ、と目を剥く弓隊だったが、国王・玖の堂々たる姿に力を得たのだろう、ごく、と唾を嚥下する音が幾つかおこると指示に従い、弓を構えた。
「構えよ!」
再びの玖の命に、おお! と弓隊は呼応する。
「放てぇー!」
玖の鞭が前方、向かってくる備国軍に向かって伸びる。
おおー! という怒声と共に、びゅん、びゅぃん! と弓の弦が谺する。
ひゅ、ひゅ、ひゅっ! と細かく息継ぎをするかのような音をたて、備国軍目掛けて矢が飛んだ。
★★★
「陛下、句国軍がどうやら別手直の陣形を布く腹つもりのように御座います」
「そうか」
自分の予測通りに事が進むのは部下の前では良い気分にさせては呉れる。
実際、家臣たちは挙って、流石は陛下に御座います、御慧眼に慄くばかりに御座います、と口を揃えている。
だが、武人としての弋にしてみれば、此の程度の洞察力で弁口達者に持ち上げられても逆に不思議と腹が立つ。しかし、玖が逃げずに全軍を投入してこの公道に出張って来ているのは確かだ。
その事実だけで、喧嘩祭りに出掛ける前の小僧のように、わくわくと血が滾る。
「小僧の分際で、逃げもせずに生意気にも此方を待ち受けて呉れておるか」
玖がこの場に居れば、弋のこの余裕ぶりは呪い殺したくなる位であろう。
態々、句国軍が布陣を終えるまで待っていたのは、圧倒的な力の差を思い知らせ、精神を徹底的に折る為だ。
「さて、そろそろ動くか」
落ち着き無く嘶きを繰り返し、蹄をカチカチと鳴らしている愛馬の様子を愉しみながら、弋は句国軍の出方を今か今かと臨んでいた。
と、其の直後だった。
――あれは!
飛来する鏃を見据え、弋は目を見開いた。
何かが全身隈なく、しかも骨の髄の中を這い回るようにして、ぞくぞくと音を立てて駆け巡っている。
其れは、抵抗する女を乱暴に組み敷いて思うさま犯している時のような異様な興奮に似ていた。
――ふっふ、やるではないか、句国王!
知らず、にい、と口角が持ち上がる。いや持ち上がると云うよりは、まるで霊鬼のようにざっくり顎に向かって切れ上がっているように見える。
鏃の形、そして此方の心の臓を射抜かんと、大移動中の蝗の群れのように迷いなく此方に襲い掛かってくる矢は、蒙国産の弩弓から放たれたものだ。戰との戦の時には戦車部隊が利用した弩弓である。
玖も、此処までの戦で備国軍の軍備がどの程度のものであるか位は把握している。
備国の戦車部隊も強力であるが、暈の道と譬えられる公道の道幅では、自軍の不利になりかねないと投入を見合わせる筈である、と踏んだのだ。
其処で句国も暈の道での戦において、騎手の余力のなさから思い切って戦車を頭から投入しなかった。
数に劣るのであれば戦車の破壊力は魅力的ではあるが、騎手は貴重だ。
代わって歩兵の数に勝るのを幸いとし、通常よりも層の厚い弓隊を前方に布いたのだ。
然も弩は、通常の弓よりも破壊力に勝る。威力を最大限に利用し、備国軍を圧倒せんとの布陣だ。
父王・番の時代に禍国皇子・戰により大敗を喫する一因ともなった弩であるが、玖は見事に其れを復活させたのである。
――だが、相手が悪かったな句国王よ!
弩弓は確かに威力がある。
遠く離れたまま敵を倒す力ともなる。
だが、当たらねば意味がない。
また、当たった処で怯みを見せるような兵は、備国には居ない。
「飛来する矢は薙ぎ払って進めぇっ!」
抜刀するなり弋は命じる。
命じざまに、己の偃月刀で霰か礫のように降り注ぐ矢を払いつつ手綱を操り、愛馬を駆けさせる。
「一気に中央を突くぞ! 遅れるな!」
主君に遅れまじと部下たちも果敢に馬を走らせる。
馬蹄の音は益々唸りを高らめ、稲妻を抱いた分厚い雲の塊ように、句国軍に向かって容赦なく押し寄せる。
集中砲火の先に向かって駆けていくのだ。
当然、矢に貫かれて馬ごと横倒しになる者も続出した。
だが構わずに突進を続ける。
騎馬の民の馬は瞬きを4~5回も繰り返す間があれば、1丁の距離を詰めて斬り込みを掛けられると知っての行為だ。
視界に捉えた句国軍に向かって、弋は剣を煌めかせながら首を捻った。
同じ騎馬の民同士の激突ゆえに、拒馬の長所も短所も知り尽くしているのは玖も弋も同等である。
確かに、騎馬を防ぐには必要不可欠な仕掛けであるが、逆に自軍の攻め方を狭めてしまう。
句国王・玖は、長所よりも短所に目を向けた。備国の騎馬隊の突撃力を身に沁みているからこそ、敢えて拒馬を設置しなかったのである。とはいえまるで設置していないといのは、句国王・玖も己の国の騎馬の力を未だに信じているからこそ、最終的に騎馬戦に持ち込む腹つもりがあるのだ。
其れまで余裕の笑みすら浮かべていた弋の眉尻が、勢いよく跳ね上がった。
攻めを仕掛ける備国軍を迎え撃つ句国軍は、前方にある弓隊を此方側と同じように鏃形にしていたのだ。
その弓隊が、さっと左右に割れて退く。
すると背後に隠れていた横一面に歩兵による槍の密集隊形が姿を現したのである。
此れは弋にとって全く予想外だった。
――槍!
いや違う!
馬矟、いや、此れは槊!
歩槊だ!
槊とは長槍の一種で、先が三角錐や円錐形となっている、基本的に騎馬隊が持つ武器の一つだ。
重さがあり振り回すのには不向きであるが、逆に片腕にしっかりと抱えたまま騎馬の威力を以ての刺突で充分すぎる戦果を挙げられる。
句国王・玖は歩兵に槊を持たせ、此方に突進してくる騎馬の速度を逆利用しての人垣の拒馬としたのである。
しかも、通常の槊よりも絵が太く長い。
槊をずらりと並べて備国の軍馬に対抗しようとしている。拒馬があっては句国軍とて攻め難くなるが、歩槊であれば陣形を解き、或いは変形しして備国軍に対抗しやすい。
騎馬を温存しここ一番で投入しようとの策だからだろうが、無論の事、簡単な事ではない。
迫りくる巨馬の群れに誰か一人でも恐れをなして背を向ければ、此の策は瓦解する。
だが、直前にまで迫った兜の底からちらつく句国軍兵たちの顔ばせには、恐怖に慄く色は微塵もない。
国王・玖と共に此の一戦に賭ける意気込みしかない。
人間が作り上げた長大な槍の壁が、備国軍の前に分厚く立ちはだかり、微動だにしない。
「ふっははは、玖め! 青二才と侮っておったが、漸く我が敵としての自覚が持てたか!」
土壇場で底力を発揮してきた玖と句国軍に、面白い! と弋と叫ぶ戦意の高揚は最高潮に達した。




