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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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21 轟く潮流 その4-1

21 轟く潮流 その4-1



 押し寄せる馬蹄の音は、国を挙げて何かを祀っている最中なのではないか、という錯覚を玖は受けた。

 ――祀りか……。

 確かに。

 備国はこの句国を詛いに来たのだ。

 天帝に満願成就の歓びを現さんと供物を差出せと求めている。

 ――警蹕……いや此れは蟲毒に酩酊した詛の足踏だな。

 玖は、嘗て禍国にて椿姫の舞を観た時の事を唐突に思い出した。

 あれは霊たましいが悪神とならぬ様にとの呪言であったが、全身の血潮の脈動を止める馬蹄の音は違う。


ぬい

 やっと我が子を腹に宿してくれた愛しい女の名を、ぽつり、と呟く。

 と、同時に口腔内に苦く渋みのある血の味が溢れ満ちていく。

 咥内を何時の間に切ったのかすら分からないまま、玖は重い身体を引き摺り、城内を這うようにして進んだ。


 此のままいけば、王都の陥落も時間の問題だろう。

 ――まるで数年前の禍国との戦のようだな。

 嫌に暢気に思い出す自分が道化師の繰り人形と同じに思え、滑稽さに知らぬうちに自嘲の笑みが漏れる。

 あの時。

 父王・ばんの不興を買った自分は、王太子として処か、王子としての身分すら剥奪されていた。

 残された父王の後宮を護れとの命令を受けはしたが、父王・番が許した兵は僅かでしかなった。

 己の不甲斐無さも然る事乍ら、正妃の子、然も嫡男として此の世に生を受けながら、まるで手付きになったしがない宮女の子よりも格下の扱いに、どれだけ隠れて悔し涙を流した事だろうか。


 いや。

 悔しいのであれば、父王・番を本気で諫めねばならなかったのだ。

 血筋を正しく認めぬ愚者の末路とは何時の世も何処の国であっても、悲惨なものである。

 自分を王太子として認め直し王城に戻し、そして異腹弟・亨を、其の地位に相応しくない者を追い落とすべきである。

 地位と血筋が賤しく有る者は、高貴な血に己を滑り込ませ認めさせる事こそが至上である。

 国の大事を思い、行く末を案じる心映えを決して持てはしない、と奏上すべきであったのだと大いに悔いた。


 しかし攻め手の大将である戰もまた、郡王としての地位を得ながらも代帝・安の命に唯々として従うしか道のない、最下位の皇子という立場でしかなかった。

 其れが今やどうだ。

 父王と王太子となった異腹弟・亨を亡くした己は地位と名誉を回復し一国を率いる王となり、戰と学という二王体制を敷いて着々と勢力を伸ばしている。

 だがしかし、時の流れが齎す苦難を乗り越えた先の栄耀と栄達というものは、人に等しく流れる訳ではない。

 今、祭国郡王・戰の名を知らぬものは此の中華平原に居らぬであろう。

 が、句国王・玖と聞いてどれだけの人間が、我が身を思い浮かべられるであろうか。

 恐らくは、首を傾げる者ばかりであろう。


 ――判っている。

 所詮、私は其の程度の人物だ。

 だからこうして、備国王に無様な醜態を晒して負け続けているのではないか。


 ――滅びる。

 句国は私の代で滅びるだろう。

 玖は顎を上げ、天を仰いだ。



 ★★★



 戰との戦の時にも、負けた、と感じた。

 そして実際に、あの時の戦に大敗を喫した。


 大将たる者が戦に対して尻込みをし、然も勝機という展望を見いだせねば、従う部下たちはどうして勝利を信じられようか。

 幸運な事にあの時の敵将は、皇子・戰だった。だから、句国は滅びずに済んだのであるが、だが此度の戦の相手は郡王・戰ではなく、備国王・弋だ。

 王である己が敗北を認めてしまったのだ。

 王都まで陥落してしまうのは時間の問題であり、伝え聞く備国王・弋の為人なれば句国と王族に対して決して容赦などすまい。躊躇逡巡することなく、全てを奪い全土を焼き尽くし、王族に連なる者の全てを滅せずに終らぬだろう。


「陛下、ご無事で」

 姜が駆け寄ってきた。全身血塗れの凄まじい成りであるが、全て返り血だった。

 此処まで、勝ちをもぎ取りはせずとも負けを負わずにいるのは姜が率いる部隊だけのようなものだ。

「妃と後宮の女たち、子供たち、母上を逃がす」

歩くと、互いの甲冑の隙間を血糊が分厚く糊塗している為、擦れて零れ落ち、じゃりじゃりと砂利が混じっている時と似た音がする。


「陛下、しかし……」

 備国の大攻勢の最中だ。逃がすとしても国内には、最早安全を確保出来る逃げ場などない。一体何処に、と言いかけた姜は玖の切羽詰まった横顔を見て、はっ……、となった。

「陛下、若しや祭国に王妃様方を?」

 そうだ、と間髪入れずに玖は肯く。

「此の句国内にあっては、妃と子らの生命の保証はしてやれぬ。我が王家の血筋を私の代で絶やしたとあっては、死した後、我が祖の英霊がたに顔向けできぬ。故に、妃と子らが最も生き延びる確率の高きものに、私は縋る」


 ごくり、と姜は喉を鳴らした。

 確かに、祭国にまで逃れられれば、御子たちの生命が救われる確率は高くなる。

 しかし賭けるならまだ分かる。

 だが、縋る、とは。

 ――陛下。

 もう此の句国の滅亡は覆らぬものとして、陛下は既に死を覚悟しておられるのか。

 何という事だろう。

 時代の寵児となるべくして此の世に生まれた郡王陛下までとはいかずとも、陛下とて一刻を立派に治め率いる御力と魅力に溢れた御方だ。

 

「どうした?」

 玖が笑い掛けてきた。

吹っ切れた感のある笑みは、血塗れのおどろおどろしい姿であるのに、穢れを知らぬ清涼感すら漂わせており、其れがまた一層、物悲しい。

 ――陛下に罪などあられようか。

 全ては、陛下をお支えしておる家臣の不甲斐無さよ。


「いえ……分かりました、手筈を整えます」

 下手に馬車を派手にしては目立つし、荷物を増やしては足が遅くなる。

 一瞬が生命の有る無しを分ける。

 迅速こそが求められていると理解している姜は、礼拝を捧げると踵を返した。

「頼む。其方しか頼れる者がおらぬのだ。姜よ、お前が郡王のもとに、妃と子らを送り届けてくれ」

 分厚い背中に、爽やかな玖の声が跳ね返る。姜の脚が止まった。

「――陛下……? 今……いま、何と!?」

 思わず振り返りざまに姜は主君に向かって猛進していた。

 がしりと肩を抱き、激しく揺さぶる。


「陛下! 今、何と仰られたのですか!?」

「郡王のもとに、妃と子らを送り届けよと命じたのだ」

「陛下!」

 姜の悲鳴が裏返る。

 不敬の極みと腕を落とされようと構うものか、と姜は玖の衿首を引っ掴んだ。

「陛下!」

「其方にしか、頼めぬのだ」

「陛下、此の私に陛下の窮地に背を向けて戦線を離脱せよ、とお命じになられるのですか!?」

 喚く姜に、そうだ、と玖は飽く迄も落ち着き払っている。


「其方だから頼めるのだ。妃たちの中には、王城を離れがたく、また尻込みする者も当然あろう。だが、其の方が指揮を取るとなれば、否と申しておった者も横にしておった首を縦に振るであろう」

 胸倉を掴まれた玖が、寂しげに笑う。

 確かに、姜が護衛の指揮を取れば祭国まで落ち延びられるとの目算が立つ。

 不安から発狂しかかって突発的に自害しかねない後宮のお妃方も見受けられる今、安堵を覚えれば大人しく指示に従うであろうし、そうなれば命を救う確率は更に一段と高くなる。


「姜。頼まれて、くれるな?」

「私は……」 

 此処までの戦況を見るに、唯一負け越しを喫していないだけあり姜の率いる部隊が一番層が厚い。

 其の姜が戦線を離脱すれば、句国軍はもう踏ん張りを効かせる個所がなくなる。

 一気に総崩れとなり、滅亡への道を突き進む未来しか見えてこない。


 だがしかし、断りを入れればどうなるだろうか?

 己の陣営だけは踏み止まっていたとしても、別の個所から切り崩されて王都に雪崩れ込まれたとしたら?

王城に、無頼の者どもが大挙して押し寄せでもしたら?

 正妃である縫の腹には念願の御子が宿ったばかりだというのに、備国の無法な者どもが美貌の妃を前に非 道なる振る舞いをせずにいるなど想像できない。

 そして女性として最も屈辱的な行為を備国の男たちに迫られた時、王妃・縫は自らの生命を絶つだろう。

 其れは王である玖に妃の長たる正妃として婉娩聴従えんべんちゅうじゅうであるべしと誓ったからではなく、一人の女性にょしょうとして良人おっとを愛しているからだ。

 女人として仕える良人に守るべき四徳を、玖を愛しているからこそ守らねばならぬ、と自然に思える彼女だからこそ、良人以外の男の手に堕ち、句国蹂躙の証として汚されるのであるならば、其の前に井戸に身を投げる位は平気でする筈だ。


 だが、其れは正しい判断と云えるのか?

 確かに、良人に追従して自ら生命を絶つのは婦人の鏡と云える。

 だが王妃・縫は、玖の御子を宿しているのだ。

 ――妃殿下に、然様な御覚悟をおさせして、果たして家臣として良いのか?

 ごくり、と喉を鳴らして姜は唾を飲み下した。

 それが、引き金となる。

 姜は顎を上げて天を仰ぎ、零れ落ちそうになる涙を必死でこらえつつ、嗚咽に声を震わせまいと握り拳を固くした。


「……承知仕りました。この姜。陛下の御存念に従う所存に御座います……」

「解って呉れたか、姜よ」

 姜の手から力が抜けていくのを感じとったのだろう、玖の声音に安堵の色が含まれた。

「しかし陛下。妃殿下を祭国に送り届けし後、私は直ぐ様此方に戻ってまいります」

 いや、と玖は頭を振る。


「姜よ、帰ってきてはならぬ」

「陛下!?」

「其の方が縫の元におらずして、一体誰が、我が子を王位にまで導けるというのか?」

 御妃がたと御子たちの身の安全と、そして王室の行く末を郡王・戰に託せられれば其れで良い。

 再び玖の基に馳せ参じ、死が訪れる瞬間まで玖の傍に常に在り、玖の為に戦い続けたいと願う姜にとって、玖の覚悟は其のまま死ね、と命じられているようにしか思えなかった。


「姜よ。王である私が敗残の将となり、国が亡ぶのが最早止めようもない道なのであれば、せめて身籠っている王妃の腹に居る子を、次代を引き継ぐ正統なる血筋の我が子を然るべき地――祭国にて護り育てるのが、人として臣下として、正しい道ではないのか?」

「……御子様を……」

 ――王者に相応しい人物に育て上げ、句国王室を再興すべき道を。

 此の、私が……?

 乾ききった喉の奥から、やっと声を絞り出す。

 そうだ、と玖は姜を抱きしめる。


「姜よ。我がさいと玉璽と大国旗を護り、我が子の師となれ。再び立つ其の日まで立派に育ててやってくれ。そして何時の日にか、此の句国の地にまで導いてやってくれ」

「……へいか……」

「其方にしか頼めぬのだ」

「……お、お……! へ、いか……!」


 王妃・縫が産む御子が王子であれ姫であれ、備国の手より句国の領土を取り戻す可能性を、王室再興の可能性の芽を摘み取ってはならない。

 そして彼の御子の師父となるべき人物は、父王である玖を最もよく知り、且つ、備国の非道をも併せて知りえる人物でなくてはならない。

 つまりこの句国において、玖の重臣として最も長く仕え大将軍となった、姜以外に適任者は居ないのだ。


 句国の主従は、何方からともなく肩を引き寄せ合う。

 其のまま、がっしりと互いを強く抱き締めあうと、男泣きに泣いた。



 ★★★



 玖が姜を伴って後宮に入ると、王妃である縫の采配だろう王妃の間に全ての妃たちが子と共に揃っていた。

 姜の姿を視界に入れた縫の大きな瞳が、す、と細められた。


「陛下。此処なる後宮に足を踏み入れるを許されしおのこは陛下只御一人の筈。何故なにゆえ、大将軍を伴われておられるのでしょうか?」

「縫」

 平生であれば、白い柔肌の如き花弁に夕日浴びて最も香りを放っている夕顔の花のように嫋やかな雰囲気を纏っている縫が、今は気丈に振舞っている。

 そんな姿が実に哀れを誘い、玖の胸を痛めつけ、締め付ける。


「縫よ、緊急の時だ。姜の無礼と不作法は許してやってくれ」

「……はい、陛下……」

 努めて笑顔を作りながら縫の肩を引き寄せる。

 と、出過ぎた真似をして声を荒げたと恥じ入ったのだろう、縫は頬を仄かに赤く染めて俯いた。童女のように、額を玖の胸に凭れかけてくる。此のまま抱き締め合い愛を交わせたのであればどんなにか、という悲壮感が玖の胸の内で犇めく。


「縫、王妃よ。隠し立てし取り繕った処でどうにもならぬ故、正直に話す。備国の猛攻に、我が句国はどうにも耐え切れぬ」

「……は、い、陛下……」

「其れ故、野蛮なる備国の奴らから其の方らを護るべく、同盟の友である祭国郡王の元へと落ち延びて欲しいのだ」

「……へ、へい……か……!?」

 玖の腕の中の縫の瞳が大きく見開かれた。

 思わず玖の腕の中から飛び出そうとした縫の背だったが、男の太い腕が其れを許さなかった。

 優しく心配りばかりをしている常の玖からは想像も出来ない、粗暴と云える力の入れ方に縫は言葉を失った。


「王妃である其方に、後宮の長たる責務を果たして欲しいのだ」

「……」

「我が子らと妃たちを統率し、そして誉れある句国の血筋を護る役目を」

「……」

「出来るな、縫」

「……」

 二人の会話に聞き耳を立てていた妃の一人が小さな悲鳴を上げると、一気に動揺が走った。

 父王が王妃に何を頼み込んでいるのか、幼い御子たちに理解が出来ようはずもない。

 だが自分たちの母親らが戦慄し、震撼しているのを幼心に鋭敏に感じ取っていた。そう多くはない玖の子らであるが、うち一人が慄いて愚図り出すと釣られて他所で泣き声が上がった。一人が釣られ泣きをすると、垂泣は周囲の子らに瞬く間に伝播していった。


 一番最初に泣き始めた子は、もう滂沱の中を突っ走ってきた後の様に、涙と興奮の汗で全身を濡らしてしまっている。

 母親である容華の地位にある後宮が、殆ど涙目になりながら必死であやして泣き止ませようとしている。

 しかし宥めようとすればする程、子は背中を反らせて激しく泣き喚いた。縫が苦笑しつつ容華の手から子を抱きとり、子守歌を歌いながらゆらゆらとあやしつつ、静かに言い含め始める。

 縫の言葉には子供は耳を傾け、やがて落ち着きを取り戻すと今度は泣き疲れが出たのか、彼女の腕の中でうとうとと舟を漕ぎ始めた。

 今度は、我が子が王妃の手を煩わせている失態に容華が恥じ入って泣きださんばかりに顔を赤くする。縫は子をあやしつつ、微笑みながら容華の腰の辺りを優しくなでた。


「ただ場の慣れぬ雰囲気に驚いただけ。無理に泣き止ませようとせずともよい。それに見なさい、流石に陛下の御子ではないですか。このような時にも眠れるなんて、きっと大物になりましょう」

 珍しく縫が冗談めかして云うと、容華だけでなく後宮の女たちの間にも気持ちの余裕が生じてきた。

 母親たちが、ほっと息継ぎするように吐息を漏らすと子らも一瞬きょとんとし、そして鼻をぐずぐずさせつつも泣き止み始めた。

 玖の血を引く王子や姫たちの額や頬を、一人一人、良い子です、立派です、と声を掛けながら縫は撫でてやっていく。


 縫の執り成しに、玖は心底、ほっとした。

 と同時に、何としても彼女だけでも救わねばならないという思いをより一層固めたのだった。

 縫とて他の後宮たちと同じく、状況を完全に把握している訳ではあるまいに。寧ろ、王都陥落が近いという逼迫した事態のみに対処しようと気を張っているように見えた。

 玖の決意を感じとったのだろう、背後で跪いて控えている姜の肩が小刻みに震えている。

 涙を流さずに、心の中で号泣しているに相違なかった。


「郡王に救援を要請する為に、姜を其方らの警護に付ける。祭国にて我が帰りを待つのだ」

「……はい、陛下……」

 か細い声で返答する縫の細い腰を、玖は万感の思いを込めて抱き締めた。



 ★★★



 玖の命令を受けた姜の指示により、祭国に落ちる手筈は着々と進んでいた。

 但し、玖の母后である王太后・文の姿がない。


「母上は? どうされたのだ、御姿が見えぬ」

「は、其れが……」

 姜の背後に従っている殿侍が言葉を濁す。

 どうあっても住まいとしている東朝宮から外に出ぬ、と言い張って聞かぬのだという。

 玖は深い溜息を吐いた。

 正王妃という身分にありながら、左昭儀・蜜の奸計に乗って父王・番に貶められてより、母后・文は異常なまでに己の地位に固執した。

 粘着液が出ているのではないかと疑いたくなる程である。


 備国に攻められて身が危うかろうと、母后・文にとっては地位を脅かされるよりはまし・・なのだろか?

 命あっての物種ではないか、と思うのであるが彼女の中では優先順位が違うらしい。

 玖は縫の肩を擦りながら、もう一度嘆息した。


「よい、分かった。私が母上の説得に参ろう。姜、其の方は妃たちを先に逃がしていろ」

「――は、陛下、仰せのままに」

 深く頭を垂れる姜の前で、縫が初めて底知れぬ不安を露わにして玖を見上げた。母親への1日3度のあいさつを欠かさず、孝徳の厚い玖が母后・文を置いて先に逃げろというなど、想像もつかなかったらしい。

 逆に言えば、其れだけ事態は抜き差しならぬ、空転状態に陥り出しているのだと、聡い縫は理解しまったのである。


「へ、陛下……そ、そんなに……?」

 其れまで気丈にも、後宮の長たる正妃としての威厳を保とうとしていた縫であったが、顔ばせから仮面がころりと転げ落ちるようにして、表情が強張った。

 慌てて、玖は両の手で縫の頬を包み込む。

「ほお? 此れまで尊厳を切らさずにいたというのに、まるで一気に初めて枕を共にした夜に返ってしまったようだな」

 玖の冗談に、ぽ……、と縫は頬を染める。

「縫の其の顔は何時までたっても変わらぬな」

「ま、まぁ……陛下、其の様な……」


 ぎゅ、と玖は力を込めて縫を抱いた。

 玖と縫は王族としては一般的な年齢で婚礼を上げたので、既に夫婦となって10年以上経っている。

 まだ稚さの残る薄い胸板の優し気な少年だった玖も、赤くふっくらとした頬の少女だった縫も大人となった。

 生涯を終えるまで連れ添えば、幾人の子と孫に囲まれていたであろうか。

 現実に今、縫の腹の中に子が宿っている。

 此の御子が王子であれ姫であれ、先の世代を考える年齢まで、二人は時間を共有して歴史を紡いできた。

 其の年月に賭けて、良人の言葉を信じろと態度で示してくる玖に、縫は静かに目蓋を閉じて肯いた。


「大丈夫だ。母上も動転しておられるだけだ。私が赴けば耳を傾けて下さる」

「……はい、陛下……」

 縫は身体を静かに離すと、御子たちと後宮たちを一人一人、手招きして玖の前に立たせた。

 今生の別れとなるやも知れぬ。

 而してその思いを表に出すことなく、別離せねばならない。

 縫は後宮たちに毅然とした面持ちで知らしめ、王妃としての威厳を玖に見せ付けて良人を心底喜ばせた。


 縫に従い、後宮たちは子の有るものは抱いたり手を引いたりしつつ玖の前に立つ。

 一人に与えられた時間は短くとも、皆、万感を込めて玖にさいとしての最礼拝を捧げては去っていった。

 一人、また一人と欠けて部屋が物悲しくなって行く。

 最後に一人残された縫が、嫣然として玖の前に立つ。

 無言のまま見つめ合っていたが、姜が陛下、と呟いた。

 出来ればもう少し此のままにして差し上げたい、と姜も思ったが、母后・文の説得の時間を考えれば此れ以上時間を割けない。

 苦笑を浮かべて、王妃ももう行くが言い、と玖が命じると、はい……と小さな声で縫は答えた。

 くるり、と背中を向けた縫が一歩、踏み出そうとした其の時、玖は腕を伸ばして引き寄せた。あっ!? 悲鳴を上げる間もなく、縫はまた、玖の腕の中の住人となっていた。


「……縫」

「……はい、陛下……」

「……名を」

「……はい?」

「私を、私の名で呼んで欲しい」

「……陛下?」

「其方と長く連れ添ったが、縫の口から、私の名を呼んで呉れた事は数える程しかない。縫の声を心に縫止めておきたいのだ」

「……」


 女性が、室である身が、良人の名を呼ぶなど何とはしたない事であろうか、と縫はたちまちのうちに全身を真赤に染め上げた。

 常の玖ならば、縫の嫌がるような事はしない。

 軽い冗談や揶揄すら本気にしてしまい、思い詰める性質なのだ。

 だが、此の日の玖は真剣な表情で食い下がった。


「縫。私を呼んで呉れぬか?」

「……は、い……」

 小さく返答をした縫は、今にも頽れそうになりながらも、背伸びをした。そして良人の耳元で小さく囁く。


「……あなた……玖…………」

 蝶の羽のはためきよりも細い声であったが、玖は念願の玩具を手に入れた悪童のように頬を輝かせて満足気に何度も肯き、縫を抱き締める。

 頬を、額を寄せ合い、お互いの体温を移し合った後、やっと二人の身体は離れた。


「縫。其方が良き子を産んでくれる場所は、必ずや此の王城にする。迎えに行くまで健やかにして待て」

「……はい、陛下……」

 妃殿下、此方に、と姜が平伏したまま縫を促す。

 に涙を溜めかけた縫であったが、きゅ、と唇を固くして顔を上げた時には、既に王妃の顔付きになっていた。


「姜。我と我が身に宿りし陛下の御子の護衛。立派に果たしなさい」

 立ち上がり様に、御意、と姜は力強く答える。

 姜に従う為に良人に背を向けた縫は、其の後、一度も振り返らなかった。



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