21 轟く潮流 その2-3
21 轟く潮流 その2-3
克にも、心配というか気懸りが無い訳ではない。
剛国王・闘という人物だけは、眉唾というか、どうにも安心出来ないのだ。
一つには剛国王の、真への態度だ。
5年前、椿姫を妃の一人とし祭国を我が物とせんとした剛国王・闘を、真は言葉だけで見事に退けてみせた。
その後、何故か剛国王・闘は非常に真を気に入ってしまった。
戰が祭国郡王として即位する其の日にも、興味深げな視線で真を探して回っていた。
其の姿は執着を剥き出しにして憚る事がなく、まるで母親や親類縁者に他所にやられてしまった気に入りの端女の尻を探し回っている若造と何ら変わる処がなかった。
正直な話、不気味だった。
騎馬の民の国であり、戦場を駆け抜ける事を至上とする国の王が、計略策略謀略を口先一つを以て捏ね回し、戦を支配し戦を仕切る身である真を気に入るとは、克にはどうにも信じられなかった。
其れに何よりも、戰と椿姫の御子である星皇子と輪皇子の祝の席での、あの男――
王弟・烈、彼のあの視線が気になって仕方がなかった。
明白に真を侮蔑し、且つ隙あらば討たんという目論見が透けて見えおり、其れを隠そうともしていなかった。
――あんな男が待ち構えている国に使者に行ったのだ。
よもや真が上げ足取られてどうにかされるなどと、無論のこと克は思っていない。
だが人の悪意というものは、時としてより昏く悪しき気と運気を呼び寄せる。
――そもそも、真殿は人の嫉妬や悪意と云うものに対して頓着しなさすぎるんだ。
蔦も杢も芙も心配していたが、真は幼少時より父・優の正室である妙とその三人の兄により不当に悪意を以て扱われてきた。
悪意に馴染み過ぎて、というのも可笑しな表現であるが、確かに真は他人の妬みや嫉みが当然なものとして日常にあった為、無防備だった。
戰が他者、というか兄皇子たちという政敵にどのような目で見られているのかには、凄まじいばかりの鑑定眼を披露する癖に、自分の事に関してはとことん無頓着だったのである。
その所為で三年前のあの日、真は実の兄である鷹から危うく手に鬼灯の灯篭を握らされる寸前までの折檻、いや拷問を受けた。だというのに、懲りていないというのも変だが、真は自分を大切にしようとする姿勢を見せない。
真のこの態度は危ういものだ――と真先に指摘したのは蔦と杢だった。
杢は真の父親である兵部尚書にして宰相であった優に、政治の何たるかを叩き込まれている為、多少の濁りや汚れを恐れて尻ごみはしない。
蔦も長年の流浪の生活で多くの国の暗部を覗き見してきた身の上だ。
遣られる前に遣り、遣られたら二度とその気を起こさせぬように徹底して遣り返すのが上等であると信じている。
真も、戰や学、祭国を守る為であるならそういう態度に出られるというのに、自分自身には何故か出来ないでいる。
此れは危険な事だと、蔦と杢が、対外的、特に外交面で真が表立たねばならない時には、彼を内から外から護る手段が必要となると指摘していた。
今回は、実は芙たちには真を守る為の任も命じてあったのだ。
「何事も無ければ良いのだがなあ……」
一人ごちた克の背後で、音もなく戸が開いた。
★★★
「どうした?」
と声を掛けようとした克は、ぐ、と口を閉じると素早く周囲を見回した。
「入れ」
促す前に、戸を開いた人物はもう既に部屋の中に入っていた。
克の前で跪いるのは、芙の5人組の仲間の一人の薙だ。
どうした、と問い掛けるのは愚かだった。
句国においての交渉は終わり帰国するばかりであると真には伝えてあるのだ。
其れなのに、薙がこうしてやってきている。
何事かがあったに決まっている。
「真殿は無事か?」
気掛かりと云えば、それしかない。
焦りを含んだ克に、薙は微かに微笑んでみせた。
もしや、という懸念を一掃してみせる笑みに安堵するが、今度は真か芙か、どちらかが彼を遣さねばとした切迫した事態とは何かが気に掛かる。
「お耳を」
前のめり気味にして克が耳を傾けると、視線を左右に巡らせてからこそりこそり、と薙は耳打ちをする。
険しくなっていく克の眉尻が、その内容が如何なるものかを物語っていた。
剛国王・闘が戰の言葉を受け入れる代わりに条件を出してきた事。
即ち、真に彼の家臣と共に燕国、正しくは西燕を討ち果たせ、とまるで臣下に対するように命じた事。
だが真は、剛国王・闘より与えられた僅か二百騎の騎馬にて、見事に約定を果たした事。
御蔭で剛国内での真の評価はより一層、毀誉褒貶が激しくなった事。
特に剛国王・闘の一番の懐刀でありお気に入りである王弟・烈と、真の策を直接実行に移した同じく王弟・斬の間で其れは顕著である事。
薙が伝えたのは以上であった。
「そう、か」
明白にほっとした様子で、克は薙に笑われるのも構わずに大仰に息を吐いた。
手勢二百騎と聞いて克も色を為した。
幾ら芙たちが居るとは云え一国の王が他国の正使に此の様な提案を強要するなどと、正気の沙汰とは到底思えない。
だが兵の数に頼らぬ策略を以て、西燕王・飛燕とその地位を狙う王弟・界燕、そして剛国王・闘らの思惑も見事乗り越えてみせた真の知略に、流石だな、と克は舌を巻いた。
「だが其の程度の事で態々、俺の処にまで来る必要はないだろう?」
どうせ、帰国の途は共にするのだ。
その時の道すがらに武勇伝として聞かせてくれれば良い類の話ではないか。寄り目になる克に、いえ実は、と薙は頭を振った。
「此処からが、一番の肝心要の事でして」
薙は目付きを細く鋭くさせて、もう一度、克に耳を寄せる。
こそり、と薙が一言付け加えた。
すると克は、見る見るうちに苦虫と塩を一度に口に放り込まれたかのような、何とも言い難い顔付きとなった。
「本当なのか、其れは?」
余りにも信じ難い話だった。
知らず、責めるような口調となってしまった克だったが、薙は彼の戸惑いが分るのだろう、無言で頷く。
暫しの間、克と薙は、競うように互いの顔を睨み合っていた。が、不意に廊下からどすどすと無遠慮な脚音と話し声が近付いて来たのを契機に、目を瞬かせ、続いて苦笑し合った。
「分かった。此れから句国王陛下に謁見の場を賜る予定だ。其の時に陛下に必ず奏上しよう」
宜しくお願いします、と一言残すと、薙は微かな気配を残して眼前から消えた。
★★★
「陛下。本日を以て、我々は帰国致します。此れまで大変好くして頂きました。また、我が主君、郡王陛下の御言葉に真摯に耳を傾け受け入れて下さいました事、感謝の言葉を尽くしても足りません」
句国王・玖に謁見を許された克は、最礼拝を捧げつつ別れの挨拶を述べた。
玖と姜は、名残惜しげな態度を隠そうともしない。
「そうか、帰ってしまうのか」
「道中気を付けて行かれよ」
玖と姜は、克への心からの声掛けを惜しまない。
「御言葉、身に余る光栄に存じ奉ります」
一段深く腰を折る克に、玖は笑いながら手を振った。
「郡王殿にも宜しくお伝え願おう」
「はい」
実直が人形となって服を着て語を喋れば克になる、と部下たちや蔦の一座の仲間たちから、よくよく揶揄されたものだが、克のような同世代の若い家臣を身内に抱えている戰が、玖は正直な処、心底羨ましかった。いや、嫉んでいたと云ってよいかもしれない。
別段、姜たちの忠節に疑念を抱いている訳でも、頼りにならぬと不満に思い消沈している訳でも、古い世代を疎ましく思っている訳でもない。
ただ。
そう、ただ――
隣に立つ人物の厚みが自分の幕僚には決定的に足りない、と玖は自覚していた。
内政、外交、どの角度からみても、戰の周囲には各分野において、綺羅星か彗星か、はたまた明星かというような優れた者が揃いも揃っており圧倒される。
自国にも姜という人物がいるにはいる。が、彼とても忠義においては疑う余地はない。としても、長く仕えて呉れたという義士である以外に突出した『何か』を持っている訳ではない。
持って生まれた宿星により天帝に愛されているのだ、といえばそれまでなのだろうが、其れにしても此処まで戰との格差を目に見える形で見せつけられてしまうと、一抹の寂しさというか侘しさのようなものを感じていた。
――つまりは、私と郡王殿との君主としての埋められぬ差なのだろうな。
所詮、王としての器に在らざる者が座を守っている、そんな国であるから諸国から責められ攻められするのだ。
苦笑いも出ない。
珍妙な顔付きになった玖を訝しみながらも克は、陛下、と声を潜めさせた。
「実は句国を出立する前に、何としても陛下のお耳に入れておかねばならぬ儀が御座います」
「――うむ?」
一瞬、克に内心を読まれていたかと玖はドキリとした。が、迷いのない、そして緊急性を訴える克の一転の曇りのない眸の輝きに、自分の下らない心の響きを破廉恥と恥ながら打ち消した。
「何があったというのだ? 何を遠慮する事がある。我が国と祭国は、最早、同朋と云っても過言ではない間柄ではないか」
遠慮など要らぬ、許す故、然様に肩肘を張らずとも遺憾なく話すがいい、と玖は先を促す。
「では……恐れながら」
うむ、と頷く玖に、克は一層頭を深く垂れる。
「実は、剛国に在る真殿からより齎されし一報なのですが」
「おお、真殿から」
思いもよらぬ、そして懐かしき名前の登場に玖は顔ばせを明るくした。
姜もまた、目元を優しくしている。何と云っても、彼無くしては父王・番の愚行による禍国よりの責任追及の手を逃れる事も、また荒れた国内の立て直しも叶わなかったのだから。
「真殿か、懐かしいな。郡王陛下の御子殿方の祝いの席から然程経っておらぬが、健勝でおるのか?」
しかし、反対に克の顔付きは堅く暗い。
数年前を回顧させる名に和んでいる玖と違い、姜は克の固さに直ぐ様気が付いた。
「克殿、真殿がどうかしたのか!?」
「どうかとは、どう――……いやよもや、剛国王に質として奪われたか!?」
血気に逸る姜の言葉に、玖も釣り込まれる。
共に克の前に顔を興奮に赤くして身を乗り出す。
いえ、違うのです、と流石に慌てて克は手を振る。下手をすると、此のまま真を取り戻す為に剛国に討って出る! と命じかねない勢いだった
「幾ら真殿が、まあその、あれと云うか些か剣術体術共々小童にも劣る情けなさと申しましても、影として従い守っておる者がおりますので」
自国の者が揶揄を含んで心肺するなら兎も角、他国の王にまで武人向きでない青瓢箪のような身体を本気で懸念されるとは、と克も失笑を禁じえない。玖も、自分の王として成らざる振舞いに、自嘲気味の笑みを落とした。
「実は……」
奇妙に乱れた場の雰囲気を引き締めるべく、ずい、と克が上体を起こす。
思わず釣り込まれ、息を飲んで前のめりになった玖と姜との三人の耳に、倒けつ転びつしつつの慌ただしい脚音が聞こえてきた。
★★★
朝議の最中、然も他国の使者との会談中であるというのい、遣いの宦官は内官の許しも得ずに飛び込んできた。
有り得ぬ失態を犯しながらも其れに気が付けぬほど、内官は泡を喰って動転していた。
「何事だ。許す故、申してみよ」
不敬の極みと斬られても、文句も言えぬ過失を犯しながらも内官はまだ気が付かない。
宦官はしかし、そんな内官を静かに押しやる事に悪びれる様子も見せない。宦官如きが何と不遜な、と家臣たちは色めき立ったが敏は寧ろ、積極的に前に出ることで内官の不始末を隠そうとしているように見えた。
恐れながら、と平伏しつつも声音が落ち着いている事に、那国王・敏はこの宦官が益々只者ならざる機智を有している者である、と敏感に嗅ぎとった。そうした敏捷さは王の素質の一つと云えるが、此度の敏の其れは本能めいた予感が先にあった。
「……密書に御座います」
「何……?」
「契国相国・嵒殿より密書に御座います」
態とらしく片眉を跳ね上げて、敏は凄んで見せる。
睨む敏の迫力に、しかし内官は怯まない。
頬が紅葉した木の葉の如きに赤いのは、気が急いている為か。
其れとも緊張ゆえか、もしくは興奮しているのか、或いは全てが綯い交ぜとなっているのであろうか。
何れにせよ、だが次の一言で内官の赤ら顔の原因は其れら全てであったのだと、朝議の場に居た全員が思い知ったのである。
「契国相国・嵒殿。近々(きんきん)、虚礼を廃すとの事に御座います」
那国の朝議の場に、岩をも砕く波濤の音が轟いた。
虚礼を廃す。
正しくは意味のない、上辺ばかりを取り繕い、誠意が伴わぬ形式だけに堕ちた礼儀を指す。
だが契国相国・嵒が発した『虚礼を廃する』との言葉を其のままの意味で受け取ってはならない。
家臣の長である相国の地位に在る者が、最も真心を込めて礼を尽くさねばならないのは、誰か?
そんな事は赤子でも知っている道理であり、声高に問い質すまでもない。
――王だ。
国王・碩に対して礼を捧げるつもりは最早ない、という意味に取れる。
つまり。
契国相国・嵒は叛旗を翻し、国王・碩を廃し、自らが王となる――
こう、宣言してきたのである。
★★★
契国内にて乱が起こる。
相国の立場に在る嵒が内密裏に知らせてきたのであれば、其れは確実であろう。
――彼奴。
朝議の場が、蜂の巣を突いたかのようなざわめきに支配されている。
其の中で、強い意志を見せる表情を以て、未だ去らずにいる宦官の緊張感の所以が解った敏は、逆に事の重要性を一度で此処まで見抜いたらしき彼を好ましく思った。
――なかなか腹が座っておるではないか。
重要なのは嵒が本気で叛乱を起こす気があるのかどうか、などではない
此の叛乱に乗じて那国がどうでるべきであるのか。
そして契国相国・嵒がこの那国に何を求めているのか。
更には、那国は契国相手にどれだけ優勢に立った交渉し、摂取出来るかをあるか、だ。
宦官は其れを充分に理解している。
だからこそ、宦官は敏の前で恐ろしく落ち着き払っているのである。
心の内で敏は何故とも知れぬが、愉快さに北叟笑んだ。
「皆、静まるがよい」
敏の落ち着いた声音に、はっ……、となった重臣たちは礼を捧げつつ口を噤んだ。
ほう?、と皮肉げな笑みを敏は浮かべる。
「どうやら、私はまだ其方らに、虚礼を廃すると云われずに済んでおるようだな」
滅相も御座いませぬ、と一同は冷や汗と共に深く腰を折る。分っておる、と冗談に紛れさせながら目を細めた敏は、遣いの宦官に黒眼のみを動かした。
「其方は、どう思う? 此の話、どの様に受け取るべきか、受け入れるべきか?」
礼拝を捧げた宦官は一身に浴びた重臣たちの視線に興奮しているのか、――は、と上ずった声で答える。
「契国相国・嵒は、先王・邦の異腹弟であるという立場を自ら手放す事により、逆に権力の中枢に深く入り込んだ強者に御座います」
「ふむ」
「此処から見えてきますのは、相国・嵒は取捨選択に対して思い切りの良い御方であると云う人物像に御座います。此れを上手く利用すれば、河国を追い詰める事も可能になるかと思われます」
敏は宦官の意見に満足して頷いた。
全く、敏が考えていた事を此の宦官は代弁して呉れた。
更に言えば、卑しき賤民と変わらぬ自宮した身でありながら、此処まで情勢を自ら学んで身に付けている此の宦官にもう一段、深い興味を覚えずにいられなかった。
敏が宦官に興味を持ったであろう事は、朝議の場に出る、彼をよく知る寵臣たちは雰囲気で察している。
だからこそ、好都合だった。
――此れで何事かあった場合には、此の宦官を斬れば丸く収まる。
国王は死すまで、民草を率いね続けねばならない孤高なる存在だ。
責任の在処を明確にせねばならぬような事態が起きた場合において、其れが王であり、王が消されるような事に直結してはならない。
王は罪に問われてはならない。
故に、失態が起きた場合に贄となる形代を常に気に掛け、用意しておかねばならない。
宦官の様子から、此の機会に乗じて王である自分の覚えを良くし、あわよくば己の立身を遂げる為に利用せんと目論んでいるのは明白だ。
――宦官如きが。
嗤いながら吐き捨てたくなる。
賤しき身でありながら、愚かにも国政に乗りだし一端の家臣を気取るつもりであるのか。
何と云う大それた身の程知らずの野心だ。
しかし敏はこうした野心が嫌いではなく、寧ろ、宦官如き賤しき身分で其処までの気概を持てるとは、と面白く惹かれるものがある。
だが、自信だけが崑山脈の頭上を駆ける雲の流れよりも高くて、実力は石炭を掘る為の穴よりも深く暗くてはどうにもならぬ。
好例として脳内に浮かぶのは、御荷物ぶりが余りにも徹底し過ぎてどうしたらこんな漢が出来上がるのかといっそ感心する、禍国の廃皇子・乱が居る。
――まあ、よい。
根拠のない自惚れだとしても、廃皇子・乱よりはましだろう。
そこそこ、使える奴であれば良い。
どうせ宦官など、掃いて捨てるほどの存在でしかない。
自分から障礙の身に堕ちてまで権力の中枢に食い入ろうなどという輩など、所詮程度が知れている。
敏の思惑には気が付けぬのか、宦官は王に声を掛けられた自慢と自信からなる赤ら顔を隠そうともしない。
「其方が考えておる、河国を追い詰める策とは如何なるものであるか。許す故、此の場で申してみよ」
王自らが声を掛けて呉れるなど宦官は思ってもいなかったのだろう、はっ、はひぃっ、と興奮して喉を上ずらせてしまう。
「ほう、まるで吃のようではないか」
家臣たちから失笑を受けると、ぎり、と奥歯を神鳴らす音を隠しもせずに宦官は彼らを睨み返した。
そんな気合を見せる宦官は、まるで小童宛らである。が、敏はこの宦官をどう利用してやろうかと考えるのが愉しくなっている自分に気が付いていた。
「那国村からの言によれば、河国は契国との交易で手に入れし瀝青なるものを以て、高炉を動かし鉄器を量産する体制を整えておるとの事に御座います。つまり、逆を言えば、瀝青なるものを河国に渡さねば、鉄器の生産は覚束無ぬものとなりましょう」
ほほう?、と敏は目を眇めて溜息を吐きつつ、宦官の答えに耳を傾ける。
「禍国が強気でおられるのは、陽国との交易を経ずとも、河国内にて鉄器を生産させられるという目星が付いた故に御座います。然し乍ら、陽国の鉄製の武具は揃いも揃って逸品中の逸品。生半な事でどうにかなるようなものではなく、兵役に就いた愚民が奮っても百騎長をも倒せる程の品に御座います」
宦官の肝要な個所を的確に突く言葉に、ほう? と敏は引き込まれた。
「ですが如何せん、生命を賭けて海を渡らねばなりませぬ。何よりも、時間が掛かり過ぎて必要な時に必要なだけ求め切れぬという最大の泣き所が御座います」
「ふむ……成程な。そう言われれば確かに肯ける」
敏が肯の言葉を投げ与えた事に、宦官は更に声を上ずらせる。
「ゆ、故に、禍国は河国内において、て、てて、鉄器の生産を急がせたので、ご御座います。か、禍国になど、て、手前勝手をさせてやる必要なぞ、あ、ああ、ありませぬ」
「ふむ」
「せ、契国から齎される瀝青が供給されねば、鉄器は練り上げられませぬ。さすれば禍国なぞは最早、翼を捥がれた鳳も同然に御座います」
「……しかし、禍国には鉄器兵団がなくとも、祭国郡王・戰と兵部尚書とが率いる疾風の如き数万に及ぶ騎馬軍団が在る。此れを破るは易くないぞ? どうするつもりだ」
「其れこそ、杞憂に御座いましょう。契国相国・嵒が甥である国王・碩を廃した後に一番に着手するとなれば、数年前の戦の報復を考える筈」
「……契国宰相・嵒は、隣国の句国を攻めると云うのか?」
はっ、と宦官は頭を垂れる。
「句国はこの3年余、崑山脈を抜ける公道を廻り備国より攻め入られております。一応持ちこたえてはおりますが、国力が弱まり且つ最も攻めやすい位置に在る国を落とさんとするは、兵法を知らぬ私めであろうとも必定であろうとみております」
「……其方の云う通りだな。私が契国相国・嵒であったならば、先ずは句国を討つ」
「国内の動揺を収めるを急務とするのであれば、仇や憎しの感情が未だに燻る句国を攻めるは当然。いえ必定。最も急がねばならぬ、民どもの目線を反らせます」
「では、契国相国・嵒は十中八九、句国を討つとみて良いな?」
はい、と宦官は目を伏せて答える。
「その際に我が国に背後から侵攻されぬようにとの牽制の意味もあり、近付いてまいったのでありましょう」
「契国は山国だ。一見、我が国とは結びつかぬがな」
「そうとは言い切れませぬ。我が国の操舵術は、他国の追従を許しませぬ。隙を突き、紅河を溯上して攻め込まれる愚を犯されるより、先に平原の西と東を契国と我が国で分たんと和を結ぶ、遠交近攻をなすのが上等であると十露盤を弾くのは当然に御座いましょう」
ふむ……、と零し乍ら敏は軽く握った手を顎に当てた。
「確かに」
「更に付け加えれば、祭国郡王は、禍国本土において危惧される程、句国王と親しくしておる由にて、事あらば何をおいても助太刀せんと駆けつける事でしょう」
「……そうなれば、禍国も祭国を放ってはおけまいな」
「はい。さすれば、陛下が今まで懐に抱いておられた紛い物の玉も使い道が出来ようというものでは……?」
ふむ、ふむ、と敏は愉しげに首を縦に振った。
宦官の奏上は特に目新しいものではなく、寧ろ、少し政治を齧った者であれば思いつく程度の常識的な判断だ。
だが、当然のである事を当然のように行うには、宦官では難しさを伴う。
敏は乗り越えろと腹の中で宦官に密かに命じ、彼は其れに充分過ぎる程、答えてみせたのである。
「其方、名は何と申す」
「――はっ……?」
「王に同じ事を云わせるつもりなのか? 宦官如き身で、大した奴だ」
敏が笑うと、宦官は全身を震わせながら平伏した。額が床に打ち付けられる音が質何響く。
「根雨と申します」
衿から覗く、根雨の赤く染まった首筋を見て敏は目を細めた。
 




