21 轟く潮流 その2-2
21 轟く潮流 その2-2
克は帰国する為の準備を整え終えると、王城に使いを出した。
「句国王陛下に、暇の挨拶をしたい。時間を割いて願えぬか、聞いて来てくれ」
部下に恭しく礼をされるのに、まだこそばゆさを感じながらも、頷く克の姿はなかなかどうして堂に入っているというか、様になっている。
祭国郡王の幕僚といえば、右の雄に上軍大将である杢、そして左の勇に万騎将軍である克、この二将軍が双璧である、と周知され始めて久しい。
だが此の二人の若者は、未だにどちらも頑ななまでに出世した自分を信じようとしない。奥ゆかしい、というよりも、何を今更、謙遜してみたり照れてみたりしているのだ、彼らは称えられて当然の実力があるのだから、下出に出ずにもっと堂々と構えておればよいものを、と周囲の者は歯痒く見ている。
若者、としたが杢も克も年齢を見れば当に青年の域を脱して、漢として最も脂の乗った壮年の領域に片脚を入れている。そして彼ら二人の嘗ての上司である優の出世の速さを思えば、別段特別な事だとは云えない。
何よりも、時代が彼らを求めている。故に、この立場を得たのだと云っても、克も杢も、未だに落ち着きなさげにしている。
「漸く帰国できるんすね、隊長」
「良かったっすね、隊長」
とはいうものの、未だに百人隊長時代と変わらず気楽に声を掛けてくる者の方が圧倒的に多い。
いや、此の身分になってから知り合った者も、何時の間にか砕けた調子になっているのだった。
克は流石に口をへの字に曲げた。
祭国なら兎も角、此処は句国なのだ。
何処でどんな目が光っているか、分らない。
自分に対してざっくばらんな口調であるのは良いが、もしも句国の重臣の一人にでもこんな口をきいた日には、陛下のご尊厳と御威光に傷が付く、と克は血の気を引かせた。上官ぶってみせる克を、部下たちは腹を抱えて笑う。
「隊長、いや隊長、何もそんな青い顔してうろうろおろおろ、心配しなくても大丈夫っすよ」
「は~ん?」
「珊の姉御の事が心配で心配で堪んねっすよね、分かりますよ」
「そうそう。珊の姉御の事だから、元気で走り回っておいでですよ」
「いやでも本当、分かりやすいっすね、隊長は」
「……喧しいわっ、この糞餓鬼どもがっ!」
ぐりん、と勢いよく腕を回して、軽口を叩く部下の脳天を軽く痛めつけておく。
「ぬわぁ、隊長、本気じゃないっすか!」
「うわぁ、手加減なしとか、酷ぇ!」
「ぐあぁ、不意打ちとか卑怯くせぇ!」
「ひぎゃ、無茶苦茶痛ぇ!」
「ああ、ああ、全く手前ら煩えよ!」
全く堪えていなさそうに軽口を叩きながら態と仰々しく騒ぐ部下たちに、今度は少々力を入れて小突いてやる。
今度は、かなり本気で痛がる悲鳴があちこちで一斉に上がる。
やれやれ、と肩を窄めながら克は溜息を吐いた。
確かに身重となった珊の体調も心配だったのだが、今までどうにかこうにか、腹の奥深くに心配に蓋をして来られたのだ。それなのに名前を出されてしまうと、帰国出来ると云う安堵感も手伝って一気に心配が噴出してきた。
――珊、大丈夫かな、あいつ。
とてもじゃないが、妊婦だってと自覚しているとは思えないんだがなあ……。
溌剌とした態度と気風の良さで知られる珊は、妊娠が発覚しても変わらず克と彼の部下の食事や日常生活の世話を事細かに焼いていた。
懐妊した、と告げられてから、其れまで甘えっぱなしだった自分も戒めると共に部下たちにも控えるように命令し、口喧しいまでに珊の遣る事成す事に口出しをして横にさせようとしていたのだが、ある日、彼女が爆発した。
「あ~、もうっ! 我慢できない! ちょっと、ねえ、克ぅっ!」
「な、何だっ!?」
「いい加減で煩いよう! い~い!? あたいはね、大人しくしている方が気鬱になっちゃうの! 分かる!?」
きぃ! と狐が叫ぶように珊は一気に捲くし立てた。
鼻白んで、ぐぴ、と奇妙な音をたてて息を飲んだ克に、珊は人指し指を立てて尚もぐいぐいと迫る。
「気鬱で悶々してる方がお腹の中の子によっぽど悪いんだよぅ! あんた、あたいの旦那さんの癖に、そんな事も分かんないうすら馬鹿なの!?」
「……う、うん、ま、ま、お前の場合は……ま、その、そ……そう・だな……」
思わず釣り込まれて頷くと、でしょ!? と珊は目を輝かせて笑い、腰に手を当てて胸をぐっと反らせる。
「だったら、万の兵を任されてる将軍様が嫁さんが飛んだだの跳ねただの位の事で、ぐだぐだねちねちうじうじ言わないの!」
「……い、いや……そこはその……俺じゃなくても云う気がする……んだが……」
「何っ!? まだ何か、ぶつぶつ糞文句言う気なの!?」
「……いや、何でも無い、いえありません……」
「分かれば其れで宜しいの」
最後に、何故か薔姫の口調を真似て、踏ん反り返って勝ち誇る珊に、はぁ……、と克は肩を落とした。
――どだい、口の勢いで俺が珊に敵う訳がないよな……。
がっくりする克の背中を、ほらほら旦那様、そんなしょぼくれないの! と珊は笑いながら、ばん! と勢いよく叩いた。
「……大人しく座っていろ、とはもう言わないから、頼むから、何時もの勢いを抑えて……動いてくれ、よ……な、……な?」
「んっふ、まっかせといてよ!」
じんじんと痛む背中を気にしつつ懇願する克のその横で、珊はにこにこしながら家事に勤しみだした。
その後も、何度彼女を拝み倒した事だろうか。
其の度に、大丈夫、大丈夫、克は心配症だねえ、ときゃらきゃらと珊に明るく笑い飛ばされた。
「動いていた方がさ、気楽なんだってば」
「いやしかしなあ……」
「其れにさぁ、じっとしてるとさ、ついつい、何か摘んで口に入れて食べちゃうし」
妊娠中の多くの女性は食べられなり、気だるさと眠気に見舞われ、そんな自分の変化に恐れを抱いて落ち込んでしまうと云うが、珊は全く逆で何かと云うと食べてしまい、しかもじっとしていると鬱々としてしまうのだという。
食べ過ぎが心配になり、那谷や虚海にこっそり相談してみた処、そういう真逆の症状の悪阻がでる者もいると聞いて一安心した克だった。とは云うものの、動いていた方がいいとはいえ、懐妊前と同じように飛んだり跳ねたりされては流石に心の臓に悪い。
何とか、いや何でもいいから宥め賺しておかないと、それこそおちおち句国へ出立する準備も出来ないではないか。
と、云うわけで、とうとう克は最終手段に出た。
即ち、土下座の泣き落としである。
出発前夜、改まって珊を呼び出し上座に座らせると、がばっ! と勢いよく克は愛する嫁さんの前で平伏した。文字通り、頭が上がらない図・である。
「いい! 分かった! もう何も言わん! だから此れだけは頼むから聞き入れてくれ!」
「へ? な、何を……?」
面喰う珊の前で、克は殆ど涙声で切々と訴える。
「動きたくなる気分ってのを止めないっていうのなら、止めん! だがせめて、八分目程度で堪えるように努力してくれ! そうでないととてもじゃないがおちおち句国になんぞ行っていられない!」
とうとう半泣きで迫る克に、んん~? と珊は首を捻った。
「八分目?」
「そうだ」
「ん~、そっか、八分目、ね……? んん~……そだね、そうか、それなら出来るかもね。腹八分目、って云うしね」
克の涙と鼻水と汗に濡れた顔面の迫力に、流石の珊も此れはやり過ぎだったと思ったのか、意外にもすんなり納得はしてくれた。
が、しかし珊は矢張り珊だった。
約束を守る、とは遂に言ってはくれなかったのだ。
彼女が祭国で何をやらかしているのか、甚だ怪しいものだと克は其れを思うと居ても立っても居られないのである。
★★★
頬の一番高い処に出来る笑い笑窪を、克はぽりぽりと指の腹で引っ掻く。
――妃殿下でさえ、星殿下をご懐妊中は何かと大変だったというのになあ。
珊が云うには、類の奥方である豊は、9番目の子供である丸の時などは産気づくまで妊娠している事に気が付きもしなかったのだというから、妊娠にも重い軽いがあるのかもしれない。
が、些か珊は一般認識の懐妊中の女性像と懸け離れている。克の性格上、心配するなと云う方が無理な話だった。
――だがまあ、此れでうじうじ考えるだけの日も終わる訳だしな。
帰る事が出来るのだからな。
気持ちがくっきりと晴れやかになり、自然と笑みが零れてくる。ふと、部下たちのにやにやした視線の集中砲火を浴びていると気が付き、もう一度腕を振り上げてやった。楽し気な奇声をあげて逃げ惑うふりをする部下たちの姿は、克の心をまた一つ軽くしてくれる。
句国王・玖とは、外交上の常の明るい繋がりのお陰で、想像以上にすんなりと使者としての役割を全うできた。
国議の場にも加わる事を許され、戰と真からの言葉を余す事なく伝えられたのも良かった。
幾ら盟友であるとはいえ、他国の王の言葉を信じて此処まで動いて呉れるとは思わなかった克たちは、句国王の対応全てに感動したものだ。
つい先日も、朝駆けに誘われた。
朝日を浴びて艶やかに輝き芳る草原へと向かうと、自然と軍馬の育成についての談義に花が咲いた。
冷夏が来るのであれば、干草の蓄えや産まれてくる仔馬のとり上げ方や飼育法、育成法もまた違ってくる。
それらを惜しげもなく授けてくれようとは、流石の克も思いもしなかった。
数日掛かりで伝授された方法を木簡に認めもしたし、今後、不測の事態に向けて両国間でどうすべきであるかの話も詰める事ができた。
有意義といえば実に有意義な数日間であったと云えよう。
――真実の真心からの言葉と行動が、こういう形で実を結んだのだな。
此れから先起こるであろう事を除けば、であるが、句国とは此の先もこの良好な関係を保っていられるだろう。
その一端を担えるのかと思うと其れだけでも胸が弾む。
真を祭国に送り届ける役目を優から任されてから今日までの間の立身を思うと、過分さに身震いがする。
そして其れ以上に、俺も漢だと知らしめてやる、という気合と気概が沸き起こる。
――問題は、真殿が向かった剛国だな。
朝駆けの最中にも句国王・玖と大将軍・姜と話していたのだが、実際の処は備国からの侵攻を受けた隙を剛国王・闘に見抜かれ、背後から突いて来られる方が余程怖い、と云うのが句国内の一致した意見だった。
到着後直ぐに、克は剛国に居る真に木簡を送って寄越した。備国の動向が気になるとだけ記したのであるが、その短い一文に、玖と姜の偽らざる本心が詰まっているのだ。
そして、苦笑いせざるを得ない。
句国にとって、自分たちの祖国である禍国は敵として認定されぬまでに落ちぶれているのである。
ただ、巨大な図体をしているから何か恐ろしげな風体であるというだけで、現実的に禍国が他国を侵攻するなど最早有り得ぬと見破られているのだ。
――何しろ、時代の粗方が郡王陛下と兵部尚書さまの御力に頼ったものだからなあ。
然も、兵部尚書・優は郡王・戰の幕僚の一人と云ってよい身だ。
即ち、禍国にはもう大戦を嗾けるも仕掛けられるもならぬ程、人物が居らぬのである。
同じように御使となって剛国に向かった真には、此方の会談が所持万端上手く行った事は伝えてある。
後は、もうそろそろ此方に到着するであろう契国への御使組の者たちと示し合わせて剛国に居る真を迎えに行き、会談の成果を手に帰国するばかりだ。
杢が向かった河国は、戦において協力し合った遼国王が統べているから、然程心配はしていない。
契国も、河国と正式に国交を開いて瀝青を卸しているのだから、まあ何とかなるだろう、と克は思っている。
「さて」
王城に使いに出した者が戻ってくる頃だろう、と居住まいを正しながら克は首を回した。
こき、こき、と間接が暢気な音を立てた。
★★★
揉み合い、剣が交錯する音がどんどんと近付いて来る。
と思った次の瞬間。
バリバリと稲妻が幾重にも折り重なって走っているかのような凄まじい音をたてて、扉が打ち砕かれた。
控えていた女官たちが、抱きあって甲高い悲鳴を上がる。
室内に吹き飛ばされてきたのは、扉だけではなかったのだ。
碩を守護せんとする殿侍の一人が、腹を潰されて転がり込んできた。
潰れた腹は見るも無残に脂肉や腸を撒き散らし、白目を剥いた眼は半ば眼窩から転がり落ちんとしており、口内からだらりとだらしなく転がり出でた舌が、彼の者は既に意識処か生命もない事を知らしめていた。
――此れは……!
穿たれた腹の傷を見た碩は、腕を振って大声で命じた。
「扉の前から離れよ!」
が、間に合わなかった。
碩の命令よりも一瞬早くに、大の男の腹周り程もある巨大な丸太が数本、吠えたくる竜の牙の様に扉の周辺にいた家臣たちに襲い掛かって来たのだ。
「ぐぎゃっ!?」
「ぐわぁっ!」
家臣たちの腹が砕かれ血が、内臓が飛び散る。
女官たちの中には、余りにも酸鼻な光景に気絶する者も現れだした。
放たれた丸太が、床に無造作に放り込まれ、ずどん、どかり、と山から大岩が切り落とされた時のような音が、室内の空気を震わせつつ響き渡る。
わあ! という怒声が廊下の奥から同時に上がり、今度は矢の形となって人の塊が突っ込んで来た。
「来たぞ!」
今度は碩が注意を促すまでもなかった。
皆それぞれに目配せし合いながら、主君である碩を囲んで護る。
剣を閃かせて突撃してきた者たちの甲冑や武器は、兵部に仕えている者とは云い難いものだった。
どう見ても、兵役に出た領民のものだ。
有態に言い切ってしまえば粗末極まりない。
だというのに、王城の兵士や殿侍たちを大きく押して、彼らを怯えさせるまでの勢いで攻め込んでいる。
「おのれ、貴様ら何者だ! 此の私を契国王と知っての狼藉か!」
碩が誰何しても、不敬なる侵入者たちは答えない。
問いを無視した侵入者たちの内の一団が、祭国からの使者を取り囲んだ。
大胆不敵にも彼らは顔面を素顔を曝しており、身分が発覚するのを恐れていない。つまり、生命を捨てる事だけでなく一門に累が及ぶのを恐れていない。即ち捨て身であり決死の行為なのだから、躊躇逡巡というものがない。
しまった、と思う間もなく、凄まじい斬り合いとなる。
気合いと怒号と、剣が何合も打ち合う甲高い音が悲鳴と共に上がる。
だが郡王の配下の者が侵入者に驚き遅れを取るまい、と思った碩の予測は悪い方へと裏切られた。
部屋の隅に固まっていた女官たちに、侵入者は目をつけたのだ。
女官たちに一気に群がると命乞いをする彼女らの悲鳴を尽く無視し、後ろ手に腕を捩り上げて捕える。
此れには碩の部下も使者たちも、怯んだ。
女官や女童たちを盾に取られては、手の出しようがない。
「おのれ、何と卑怯な! 女子供を質とするのか!」
祭国の使者が歯噛みしつつ叫ぶと、更に廊下の奥からかつかつと規則正しい足音を立てて一人の男が現れた。
「ほう、卑怯、と? 此の私めを卑怯者と誹謗されるか」
「……お、お前は……!」
碩を始めとした契国の家臣、内官、宦官、女官、その場に居合わせた者全てが、現れた人物の顔を見て凍りつく。
「ま、まさか……!?」
「な、何故、貴方様がっ……!?」
余りの事態と、目の前の事実が信じられない、否、信じたくないと、人は心も身体も動きを封じられてしまうのだろう、殿侍たちも、まるで瘧にかかったかのように、がくがくと震えさせながらその男の前に膝を折っていく。
「卑怯、大いに結構。臆病に支配され他国の、然も郡王程度の漢に首根っこを押さえつけられ言い成りのお飾りでおるより、己の意志で動き卑怯と誹られる方が漢としての人物の出来は各上であろう」
★★★
一人一人に、ぎろり、と一瞥を呉れながら、男は部屋の中に遂に踏み入ると同時に、止まっていた時間が動き出す。
祭国からの使者たちに、侵入者たちは一斉に斬り掛った。
女童たちの悲鳴が、使者の魂を其の場に縫い付ける。
無情にも、侵入者たちが振るうある剣は使者たちの頭上に落ちて叩き割り、ある剣は胸を突いて心の臓を破り、ある剣は腹を裂いて腸を飛び出させた。
使者が血の海に沈むように倒れると、最後に現れた男は満足そうに頷き、そして碩の前にはだかるように立つ。
「御覚悟!」
忠誠心の塊のような殿侍の一人が、漸く身体を凍りつかせていた呪縛を解いて、碩の前に立つ男に斬り掛かる。
だが男は、ふん、と冷たい一瞥を呉れると無造作にゆらりと身体を動かした。
どうしたらこのような動きが出来るのか、殿侍の剣の切先はかすりもしないのに、男の振るう刃だけは吸い込まれるように、殿侍の身体に傷を付けていく。まるで熟れ切った柘榴の実のように男の身体は切り裂かれ、ぶしゃり、と血飛沫が周囲に舞った。
殿侍の周辺だけ、刻の流れが緩やかになったように見えた。
ゆら……ぐら……と秋風を受ける案山子のように揺らめかせていた殿侍の膝に、男が蹴りを入れると、やっと、不思議な均衡を保って倒れずにいた身体が倒れた。
どう、と音が響くが、もう、悲鳴も上がらない。
代わりにどの顔も皆、絶望と怒りとが綯い交ぜになった顔で侵入者たちを纏める首魁の男を睨み付ける。
剣の血を払う事もせず、男は構わずつかつかと碩に歩み寄った。
血に塗れさせたままの切先を、ずい、と碩の喉元に向ける。
ぽたり、と血の滴が落ちるのと同時に、男は静かに宣言した。
「国王陛下。今此の時より、其方の身分は、ただ、我が『甥』であるだけの者となったと心得がよいぞ」
「相国……な、何故、お前がっ……!?」
碩の喉の奥から、悲痛な声が絞り出される。
★★★
「何故だ相国! 何故、何故お前が此の様な!?」
「一応、つい先程までは陛下と呼ばれていた立場の方だ。粗相のない様にせよ。ああ、無駄な抵抗はされぬが宜しい。臣下の生命を冥府へと差し出されたいと申されるのであれば別でありますが」
「答えよ、嵒! 何故だ! 何故、此の様な事を!?」
かっ、と目玉が零れ落ちんばかりに目を見開いて碩は叫ぶ。
が、しかし抵抗はしない。いや、出来なかった。
碩の怒鳴り声を煩そうに聞いていた嵒が、徐に身体の方向をくるりと変えた。そして部屋の隅で一塊になっている雀の雛のような女官たちの群れに近づいた。何かを吟味するような眼つきでいた嵒だったが、不意に一人の女童に目を止めると、ふ、と笑い掛けつつ腕を軽く振った。
途端に女童の胸元が朱色に染まり、女官たちの悲鳴が上がたのだ。
「いやぁぁっ!」
「きゃああっ!」
「嵒、貴様!」
どう、と音をたてて其の場に頽れる女童を呻きながら見ているしかない碩は、みるみる間に拘束されて行く。
その間、首魁である男――嵒は、冷やかな目で碩を見下しているだけだった。
「連れて行け」
短く命じる嵒に従い、侵入者たちは碩をはじめとした家臣たちを、引っ立てて行く。
「何故だ! 何故、其方が!? 答えよ、答えてくれ!」
叫びながら姿を消す碩の背中に、殿侍、内官、宦官、果ては女官や女童たちの断末魔の悲鳴が刺さる。
「生憎と、西宮を建てておる暇などなかったのでな。父王・邦が身罷る原因となった邨の炉にでも閉じこもって居て貰おうか」
「伯父上ぇっ!」
「どうした、遠慮することはない。最早彼奴は、王でも王族でも何でもない、只、図体がでかいだけの役立たずの若造にすぎぬ。早く幽閉先に連れて行け」
背後を振り返る度に小突かれながら、碩は引っ立てられていく。
「叔父上、何故なのですか!? 答えて下さい、叔父上ぇぇっ!」
嵒は、まるで仔犬の鳴き声に追い立てられて餌場から逃れて行く馬のような碩の姿が影となって消えていくのを、ただ、じっと睨みつけていた。
★★★
異変を感じて部屋に駆け込んできた兵たちは、立ち竦んだ。
血海の只中に、王二代に渡り仕えた忠臣中の忠臣と名高い漢が、肩を怒らせて佇んでいる。
「……しょ、相国さま、こ、此れは一体……?」
「相国……さま、が、此の場を収めて下され……た、ので……?」
戸惑いの声は、弱々しく霞んでいる。
それはそうだろう。
彼らに、現国王・碩より相国と慕われている男が、よもや、反旗を翻すなどとだれが想像できようか?
だが、だからこそ、恐怖が募る。
嵒は先王・邦の懐刀として、長年、国政に関わってきた重鎮なのだ。
契国の相国・嵒と云えば、国王・碩よりも他国の間では名前が知れ渡っている。
そんな国内外問わず第一人者として認められている嵒が、忠義・忠節の人として若き国王に最も信頼されている彼が、まさか、反逆者として王城に討ち入るなどと、到底信じられるものではない。
振り返った嵒は、兵たちの甘さに、ふ……と口元を緩めた。
背中から肩から興奮した気が蒸気のように、ぶすぶすと音を立てて上っている。
余りの異様さにたじろいだ兵たちは、我知らずの内に後退りする。
――全くもって、なっておらん。
だから其方ら如きに、大切な玉体であらせられる陛下を任せてはおけぬのだ。
幾ら奇襲であったとはいえ、嵒が率いてきた兵の半数は屋敷に仕えていた下男や公奴たちだ。
残りの半数は、頭の足らぬ田舎者を騙したり、剣技の何たるかも知らぬような粗忽者を急場仕立てで従えており、残りは金で雇い入れた破落戸一歩手前のならず者に金を掴ませて使役していた。
つまり兵部に在る者たちと違い、日常的に戦に備えての鍛錬を行っている者たちではないのだ。
――風声鶴唳とはよう云うたものだ。
此の程度の奴相手に何たる様か。
契国はまさに累卵の危うきにある。
「やはりどうあっても、建て直しが必要だ」
郡王などに骨抜きにされるとは、けしからぬ、何と云う不敬の輩か。
陛下をお諫めできぬ脳無どもは、此の世から一掃されねばならぬ。
「今、此の時より」
恐る恐る嵒を伺う兵士たちに向け、ひゅ、と風切り音を靡かせて血塗れの剣を振るった嵒は、岩が割れるかのような低く地を揺らす声で宣言した。
「契国の王座と玉璽は、先王・邦の異腹弟である此の嵒のものであると心得よ」




