21 轟く潮流 その2-1
21 轟く潮流 その2-1
杢が聞き及んだ真の見解とはこうだ。
「私の知る二位の君であれば先ず、那国王・敏陛下に河国との戦を唆しておき、その気にさせて手を出させますね」
散々ぱら不当に扱われてきたと思い込んでいる乱は、他人の心の機微を見抜くに変な処で卒がない。那国王・敏が自分を軽く見ている事を片腹痛く思いつつも、其れを逆手に取り利用するだろう。其の方が、事を成した暁に、相手が臍を噛み地団太踏む様を大いに嗤ってやれるからだ。
「そしてその陰で、那国村を動かすでしょうね」
「遼国の民の間で先の生口狩の恨みを爆発させる、と言われるか」
思わず語気を強めた杢に、御明察、と云いたくはありませんが、と真は言葉を濁した。
「しかし二位の君にとり、濡れ手で粟となる此れ以上の妙手はありませんからね。生来あの御方には、意趣遺恨ですとか鬱憤ですとか怨讐ですとか悵恨ですとか、まあそういった類の思いが積もり積もられておりますし、其れを晴らすのは正義っであると疑いもなさいませんからね。予測が外れる事の方が寧ろ可笑しいと思います」
「……」
すらすらと淀みなく答える真であるが、其の分、内に秘めた自身の予想に対する怒りは深い。杢も黙るしかなかった。
那国と河国。
どちらが戦の勝利を得ようとも、この生口狩の恨みを抱いた領民たちの蜂起は遠からずどちらの王の泣き所となるだろう。
那国王の場合は、喩え河国に勝利を収めたとしても、無作為に起こる一揆に業を煮やせば掃討手段に出ざるを得ない。
そうすれば、ますます河国内は荒れるだろう。
下手をすれば共倒れになりかねない。
灼の場合も、彼らの言い分が分りすぎる以上、下手をすれば自らが首謀者となりかわりそのまま禍国へと雪崩れ込みかねない。
そうなれば、禍国は河国を見逃すようにと嘆願した戰の責任追及に走るだろう。
何方に転んでも、乱にとっては容易く新たな領地を得られる絶好の機会が転がり込んでくる事に変わりないのだ――
彼にその才能があるかどうかは別として。
「二位の君が其処まで見越して居られるとは思えませんが」
言外に買い被りが過ぎるでしょう、とばっさり杢が云い捨てると、そうですね、と真は苦笑しつつも頭を縦に振った。
「ですが、あの方々の恐ろしい処は、偶然と必然を逆転させて他者の命運を転げさせる処にあります」
「と、云うと?」
「つまりですね、奔放な御二人がたの無軌道さは私たちにも読み切れぬだろう、と此れ幸いに利用しようとする方の方が恐ろしいと云う事です」
確かに、と杢は納得して頷いた。
「遼国王陛下には、然るべく心構えをして頂くに越した事はないでしょう」
「ですが、なるべくなら今はまだ、灼陛下にはお知らせにならない方が宜しいでしょう」
何故、とは杢は言わなかった。
激情型の灼は喜びも悲しみも怒りも、その表現が勅裁であり、且つ素直であるあまり猪突する傾向がある。
其れでなくとも、王妃である涼と妃嬪となった亜茶が懐妊中で気持ちが変に昂ぶっている最中だ。
どのような方向に破裂した焔のような、融けた鉄のような真赤な感情が雪崩をうって向かうかしれない。
そうなれば、誰にも止められない。
河国王となって、灼はまだ日が浅い。
二人の妃が無事に灼の御子を出産するまでは、燹とのみ連絡を取り合っていた方が良いだろう。
「分りました。河国王陛下とは別に、那国がどの様に謀るつもりであるのかを、吉次殿と私なりに探ってみましょう」
宜しくお願いします、と真は杢に頭を下げた。
★★★
「そう云う訳で、真殿としては二位の君の要らぬ差しで口もさることながら、灼陛下が我を忘れられる事が最も恐ろしいと考えておられる節がある」
確かに、燹を伴って密かに戰の元を訪ねるなど灼は突飛な行動が多い。
こうだ、と心に決めると次の瞬間には部屋を飛び出してその半瞬先には馬上の人となり駿馬を掛けさせている。
即断即決する事熱風の如し、行動する事火災旋風の如しである。
灼の漢としての魅力の一つではあるのだが、文字通り身を焼き滅ぼしかねない。
「其れと、もう一つ」
「何だろうか?」
「陽国王陛下は如何なる御所存であられるのか、吉次殿は知っておられるか?」
「其れは、私めも知りとう御座いますなあ」
「陽国王陛下は、今の処、中立とまでは云えずとも、那国にも禍国にもどちらにも転べる立場を取られておられる。其れが御本意であると思って良いのか、否か。吉次殿には解るか?」
ほっほ、と笑いながら時は鬚を紙縒る。
ふむ、と軽く酔いの周った息を吐きつつ唸りながら吉次は杯を降ろし、胡座をかいた膝に手を置いた。
「我が陛下の御存念に変わりはない。今はまだ那国に海路を抑えらえてはいるが、何れは自ら海に乗り出し、時殿との交易を続けて行きたいと考えておられる」
「つまり正確には、時殿の後ろ盾である群王陛下と手を携えて行く御所存なのだな?」
強い口調の杢に、うむ、と吉次は頷く。
「鉄器の利益の事を思えば、那国に与して河国を討つべしとの声が上がっても当然だと思うが」
鋭く切り込むような口調の杢に、そうですなあ、と時はのんびりとした口調を添える。
「陽国王陛下に離反されては、我ら海の商人は商売あがったりに御座いますぞ」
おどけた口調の時の混ぜっ返しにも、杢は怯まない。
「遠く離れておりながら、吉次殿には陽国王陛下の御存念が見えるのか?」
「陽国としては河国の技術は国体を弱めるだけだろう、という話の流れになるよう、來世陛下は持っていかれるだろう。其処から推察するに」
吉次は手にした酒杯を、ぐ、と杢と時の前に突き出した。
「出来るのであれば、我が來世陛下には那国に成り替わり海上の覇者の地位を確立し、祭国群王・戰陛下と共に平原の一雄となりたく思う」
吉次の宣言に、杢は眼光を鋭くした。
★★★
嵒の朝は規則正しく、そして早い。
毎日、日出の3刻前には起きる。
起きて直ぐに庭に出ると清めの井戸に向かうのが常だ。
此れは、嵒が臣籍に降りた時に、兄王である邦から賜った特別な井戸だ。
まだ朝ぼらけの気配もない真っ暗な中、嵒は衣服を脱いだ諸肌のまま井戸に着くと、硬く絞った布で2刻ばかり摩擦を充分に行う。
素肌が赤く熱を持つまで、丹念に擦りあげる。手ずから専用の井戸から自ら清水を汲み上げ、頭から何度もざぶりざぶりと音をたてて被って清る。
湯屋から出た訳でもないのに、熱気が上がり続ける身体に湯帷子を着た。
水を滴らせたまま、漸く白みかけた空気の中、矢張り一人で湯殿に向かう。
杉の葉の室に胡坐をかいて1刻ばかり籠り、徐に出ると再び井戸に戻って清水を頭から被る。其れをきっかり三回繰り返すと、湯帷子を脱いで下男に用意させた真白な晒で身体を叩くように拭き上げていく。
こうして半時辰程も掛けて、じっくり精神の鍛錬を終えた後、年齢からは想像も出来ぬ程、朝からしっかりとした量の朝餉を此れもまた時間を掛けてとり、王城へ雲上する身支度を整るのだ。
今朝も変わらない。
何時もと同じ時刻に嵒は、かっ、と目を見開いて目覚めると、音もなく起き出してきた。
そもそも誰かに起こされる事を、嵒は嫌っていた。
休む姿を人に気安く見せるものではない。
誰かに寝室に入る事を許すとは、即ち戦場で寝込みを襲われるようなものだと思い鍛錬しているからだ。
男子たるもの寝入っている姿を、喩え妻女であろうとも見せるものではない。
「何時如何なる時であろうとも、主人である兄王の一声に従えるように己を整えるべし」
最早祓いもならぬ怨霊に憑かれた感があるが、この信念の元に嵒は一人きりで休んでいたのだった。
嵒の家に仕えている下男や端女たちは、朝の早い主人が起き抜けから直ぐ様動けるように万事整えようと、更に1時辰早く起きて動き回っている。其の為、彼の家は夜中の内から奇妙な活気がある。周辺の武家屋敷からは兎角不気味な目で見られていた。
が、嵒に仕える召使たちは、主人の規律高い克己心ばかりの生活態度を誇りに思っていた。
彼らの殆どは、嵒が臣籍に下った折に兄王・邦の命により下賜された公奴婢たちだ。嵒は彼らの身分を引き上げて土地と家財を与えた。若い資人や女童たちは当初から仕えている者の子や孫世代、つまりは親子2代3代で仕えている訳だ。
自らを律する事について竹槍の上を素足で闊歩するよりも厳しい嵒であり、他者にも其れを強いはするが、内に抱える者には愛情を以て接しており、慕われているのだと解る。
★★★
「お早う御座います、旦那様」
古株の下男が乱れ箱に仕立て上がったばかりの湯帷子を入れて、恭しく差し出してくる。
嵒が屋敷を構えた若年の頃から、この役目は此の男の役目だった。
頷きながら嵒は自ら寝間着の腰紐を解き、とくびこん一つを纏った素裸となる。
庭に出ると、既に行水用の盥や桶、晒の用意は万端、整えられていた。
今日は殊更に、力を込めて肌を摩擦する。
しかし、その手が、ふと止まった。
激務の間にも日々の鍛錬を怠らっていないにも拘らず、腕の肉に張りがないのに気が付いたのである。
手桶に映る自分の顔を、か細く頼りない月明かりの中で睨むように見詰める。
額には幾筋も深い皺が刻まれ、頭髪には白いものが斑に混じっている。
腕だけではなく、腹も、大腿も、年にしては引き締まり筋があるとはいえ、往年の輝きは流石に失われている。
――老いた。
年をとった。
先頃、娘の部屋でらしくもなく愚痴っぽくなった事といい、自分は確実に老いている。
ついこの間、此の御方こそ王太子と成られるべき王子様である、と誕生を喜んだ碩が、今や国王として立派に国を舵取りしているのだ。
――老いる筈だ。
そうだ、先を心配する必要のない朽ちるばかりの老人だからこそ、私がやらねばならぬのだ。
水を被り、水滴を滴らせながら蒸気が充満している狭い室内に入ると、じくじくとと音を立てて一気に汗が玉となって噴出した。
どかりと腰を降ろすと、腕を組んで目を閉じる。
――いよいよ今日という日が来たのか。
常と変らぬ振舞いをするのは難しいかと思っていたが、存外に自分は腹が据わっている男だったらしい。
いや…、と嵒は自嘲の笑みを浮かべつつ頭を振った。
――厚顔無恥なだけだ。
此れから、自分は主君である碩を捕える。
王宮の一室に碩を幽閉し、甥にして国王である彼に成り替わり契国の王となる為だ。
嵒は目蓋の裏に涙が貯まるのを感じていた。
しかし幸いな事に、溢れるように流れる汗に紛れさせられる。
じとじととした梅雨の最中のような室の中で、嵒は呻く。
――兄上、御許し下さい。
「自分には最早、此れしか手段が残されておらぬのです」
ぐずり、と鼻の奥が鳴る。小鼻をつまんで揺すり、嵒は泣き面になるのを堪えた。
――此のままでは我が契国は、他国に、いや祭国群王・戰に好い様に喰い物にされて終わる。
「断じて、許すものか」
許せるものか――
祭国群王・戰。
陛下を惑わす元凶。
「悪の権化め」
私の眼は、惑わされぬぞ。
★★★
「そもそも、禍国からの援軍が皇子・戰が率いる部隊だと知った時点でどうにかするべきだったのだ」
先句国王・番の侵攻を受けた際、契国は禍国からの助成を受けた。
その時、総大将として契国軍を率いていたのが、嵒だ。
兄王・邦の御為ならば、全軍、句国軍と相討ちになって果てようとも構わぬとばかりに意気込む嵒を制して、思いもよらぬ奇策を指示してきた。
お陰で、その後は大した人的害を出す事もなく、戦は終結した。
翌年の、此度は禍国からの侵攻時も郡王・戰が総大将だった。
そして再び、契国内を徒に掻きまわして、惑わせる言葉をのみ残して去って行った。
郡王・戰の融和策により、此れまで無駄な廃棄物でしかなかった骸炭が瀝青という、石炭よりも数段上の価値あるものに生まれ変わった。
新たな交易品の出現は、契国に輸出立国の道を開かせ、若き王を中心とした新家臣団にとっての希望の星となった。
「だが、其れがどうした」
この国は、契国は、契国の者が統べるべきだ。
他国の王の血筋の者の言い成りになって機器としていてどうするというのだ。
好漢ぶった郡王の笑みと、したり顔で従っている痩身の従者の姿を思い出すだけで反吐が出る。
そして彼らを讃える言葉を吐く碩の姿を画くだけで、心の臓が抉られる思いがする。
――国王たる者が、他国の、然も王者に心酔などしてどうなされるのか。
国を挙げて其の者の従者になると知らしめてどうするというのか。
陛下の人物が損なって広まり、何れ人が失われて行くのだと、何故、気が付かれないのか。
果てにあるものは、陛下ではなく郡王をこそ王にと望む声が上がるものだと、何故気が付かれないのか。
声を上げた者が、王宮を覆い尽くす日が遠からず来るのだと、何故、何故に気が付かれないのだ。
――陛下が、賎民どもの手に掛かる日を見る位であるのならば、いっそ。
「其れくらいであればいっその事、私が此の国の全てを握る」
ぽつりと呟く声は、ぽたぽたと滴る蒸気が雫になった物に紛れて、室の外には聞こえない。
――私がこの国を掌握する。
そして、陛下を惑わす不逞の輩を全て討つ。
陛下の障害を全て取り除いた頃には、私の専横に対して他の家臣どもが決断し、陛下を奉りて蜂起するだろう。
其処で私が陛下に討たれれば、終わる。
陛下に渾名し、私なぞの甘言に乗って陛下を軽んじ自らの利益を貪る事にのみ腐心する愚かな輩は全て消え去り、陛下の御為ならば生命も惜しまぬ真実の忠臣のみが残る事となる。
「此の契国は、生まれ変わるのだ」
ぽつり、と音をたてたのは、額から落ちた汗か、其れとも室内に充満した蒸気の雫化、其れとも、目蓋で抑えきれぬまで溢れた涙であったのか。
今の嵒には、構う心の余裕がなかった。
★★★
朝餉を取り終えると、嵒は自室に戻り鋭く命じた。
「具足を持て」
下男たちもまた、此処得たりと口には出さないが、其の分厳しい表情で動きまわる。
用意した愛用の甲冑を、手慣れた動きで主人の身体に纏わせていく。
磨き抜かれた鈍色の甲冑は、年老いたとはいえ往年の勇者たると思わせるに足る見事な造りであり、代々王家に伝わっていた逸品の一つである。嵒が家臣に下る折に、異腹弟からの一点の曇りのない忠誠心と濁りのない愛情を頼りにしていると示す品として、兄王・邦より特別に下賜されたものだ。
――兄上。
きゅ、と音をたてて帯を締めあげると、年甲斐もなく鼻の奥に、つんと立ち上るものを感じてしまう。
最後に差し出された剣を慌てて手にした嵒は、鼻の奥を湿らせる気配を気取られぬようにしつつ、再び命じた。
「家の者を集めよ」
資人が直ぐ様走り、家に仕える者たちを集めた。その間に男衆たちは、下男たちまでもが甲冑に身を固めて嵒の前に集結を終える。
此れあると心得ていたのだろう、現れた端女や女童たちは既に旅の支度を万端に整えた姿となり、手には私物を纏めた荷物を抱えていた。
召使たちの前に戦支度を終えた嵒が現れても、誰一人として驚きの声を上げない。
寧ろ、悲壮な決意を内に秘めた主人を、憐憫の情溢れる濡れた目をもって見上げている。
「此れより、我が屋敷に火を放つ」
其処此処で、ごくり、と決意を込めて息を呑む音が上がる。
「男は皆、私に従い王城に討って出よ。女、子供たちは郷里や家門の者の元に帰るがよい。里がない者には存分に金与えておいたが、足りぬとあらば申し出よ」
女たちの間で、啜り泣きが広がりだした。
嵒に仕えていた者たちの殆どが、此の屋敷しか知らない。
一門の者を頼れと云われても、公奴婢であった者たちなのだ。
奴婢に家など在る筈もなく、当然ながら行く当ての無い者ばかり、世間を知らぬ者ばかりなのだ。
だが彼らの中にあるのは、嵒への恨み辛みではなかった。
何故、此の様な形で国王陛下への忠義を知らしめねばならぬのか。
何故、其れを実行する者が嵒でなければならぬのか。
嵒を慕う多くの者は、答えが出ぬ此の不毛な問答に涙に暮れながら、――何故? を繰り返していた。
★★★
「先代国王陛下より屋敷を賜ってより数十余年。家付きの従者として、皆、良くぞ此処までこの偏屈者に従って呉れた。礼を言うぞ」
旦那様、御主人様、相国さま、と嗚咽が漏れ出、涙雨に室内に満ちる。
年端のゆかぬ女童たちまでもが、お互いに抱きあって声を張り上げて泣きに泣いている。
そんな少女たちの額を、嵒は万感の思いを込めて一人一人、優しく撫でてやる。
すると少女たちは、旦那様、旦那様、と悲痛な叫び声をあげて抱きついてきた。腰や膝に纏わりつくように縋ってくる女童たちを抱きとめてやり、泣き吃逆で激しく上下している背中を静まる様に祈りながら擦ってやる。
――実の娘である照にも、斯様に優しくしてやった事がないというのに。
余所の子供になら、心を砕いて優し気に振舞う事が出来るのか。
嵒は己の何気ない手の動きに、愕然とした。
照には、剛国にて秘密裏に動くように容赦なく命じておきながら、何という事だろうか。
親子の情愛すら利用して国と王に仕えるように強要しておきながら、他人の子供には友愛を見せる父親を、娘は何と思いながら見ていたのだろうか?
何所かおどおどとした態度ばかりの娘の姿を思い出しつつ、しかし嵒は、娘を思い出す事こそ、弱気の虫だと己を奮い立たせる。
――何を今更。
慮ったとしても詮無き事だ。
最早、事は止められぬ処まで来ているのだ。
自分は逆臣・奸臣として、後世にまで名を残す。
其れにより、契国王・碩の名は末代まで名君として名を馳せるのだ。
「……良いのだ、此れで良いのだ、陛下の御為になるのだ……」
良い筈だ、と嵒は己に言い聞かせるように、何度も呟いた。
★★★
此の年は冷夏となり、何れ中華平原を飢饉が襲うであろう。
祭国からの使者が齎した一報は、契国の雲上人の間にも激震を起こしていた。
気候は僅かに違えども、同じ平原の国だ。
何処でどう、影響を被るものか分らない。
充分と云えずとも、今からならば其れなりに融通の効く政策に方向転換をさせられる。
歓待を受けていた祭国からの使者が、早々に帰国を申し出てきた。
句国に居る同じく使者として立っている万騎将軍と、其々の国での成果及び問題点を議論し合いながら帰国の途に就く予定なのだと云う。
碩を始め、若い家臣たちは別れを惜しんだが、自分たちも国内の施政について討論せねばならない。
時間の猶予は余りも少ない。
だが、引き留めあっても互いの為にならないと頭では分かっていても、離れ難い思いは止められない。
帰国の準備を終え、早朝であるにも拘らず旅立つとの知らせを手水の最中に受けた碩は、そうか、と頷きつつも名残惜しさから顔を顰めた。
「直ぐに行く」
宦官に言葉を与えた碩は、其処でやっと、自分よりも半時辰は先んじて登城しておらねば気が済まぬ忠臣の鏡である叔父、相国・嵒の姿がない事に気が付いた。
常であれば、この様な知らせは嵒が先の見通しと並べて自らの意見と共に行う筈なのだ。
碩は更衣の手を借りて衣服を整えつつ、控える内官に声を掛けた。
「叔父う……相国はどうしたのだ? 姿を見ぬが?」
「は、相国さまに於かれましては、本日は未だに札が裏返って居られませぬが」
答える内官の声も戸惑いに歪んでおり、ふむ?、と碩は首を傾げた。
嵒は臣籍に降りて此の方、一度たりとて父王と、そして現国王である己の傍を離れなかったというのに。
「陛下……相国さまとて御年に御座います故」
碩の内心を知ってか、更衣が控え目に云う。
確かにな、と碩も頷いた。
父王の異腹弟である嵒に、余りにも頼り過ぎていると碩も自覚している。
世代が変わったのだ。
自分は自分で、新たな国造りを共に目指すに足る家臣を揃え、育てていかねばならない。
――私もいい加減で嵒叔父上から巣立たねばならぬ、と云う事か。
美々しく着替えを終えた碩は、鴻臚館へ行く、と苦笑しつつ申し渡した。
★★★
鴻臚館に碩が入ると、祭国からの使者たちが出立の挨拶をせんと、王城に向かう処だった。
驚愕し、そして其れ以上に王自らの来訪に感激した使者たちは、顔を赤くしつつ最礼拝を碩に捧げる。何をなされか、頭をあげられよ、と笑いながら碩は使者たちに向け自ら両手を差し出した。
「名残惜しい事だ。郡王殿には、礼を尽くしても尽くし足りぬ、此の恩義は必ず返したく思う、と契国王が云っていたと、是非ともお伝え願いたい」
「は、必ずや」
「郡王とは今後も手を携え共に平原を駆けるべく、親睦を深めて行きたいとも」
「はい、陛下より斯様にお言葉を下され我らが主人たる郡王陛下も御喜びは深いものと思し召し下さいますよう」
「当然だ、其れこそ、此方が云わねばならぬ科白だな」
「陛下、何という有難き御言葉を」
一人一人、惜しみなく手を握り別離を惜しむ声を掛けてまわる碩の態度に、祭国の使者たちも感涙を流した。
数年の交わりで、志を共にする盟友国であるとの理解が深まってきているとはいえ、国王自らが使者にも親愛の情を見せるのは、矢張り別格と云えた。
其々に別れの言葉を交わして、気遣い親睦を深めている若者たちの耳に、慣れぬ喧騒が届いた。
「何事だ!?」
碩は太い眉を寄せて不快感を顕わにした。
王が涙を流す別れの時間を汚すなど、言語道断だ。注意などと生温い、と眉尻を跳ね上げる。
しかし、喧騒はやがて怒号へと様変りし始めた。
此れは只事ではない、と碩も祭国からの使者たちも顔を見合わせる。碩の周辺には、殿侍たちがすわ、と抜刀して固まる。使者たちも其々に身構えた。
騒ぎは気違いじみた狂乱のていとなり始め、耳に迫る怒号の中に、不敬極まる言葉が織り混じって聞こえてきたからだ。
「討て! 討て! 進め!」
「怯まず進み、討つのだ!」
「他国の皇子如きに媚び諂い追従する者は王に非ず!」
「契国を売り、政を乱す者を王座より引き摺り落とせ!」
――何だと……!
碩の顔が赫怒に赤く染まる。
他国の皇子、とは郡王・戰の事だろう。
確かに自分の態度は付和雷同と取られても仕方がない処もあったかもしれない。
――だが、媚びても諂ってもいなければ、国を売ってなどおらん!
碩は鼻息も荒く仁王立ちになった。




