21 轟く潮流 その1-3
轟く潮流 その1-3
灼は憮然というか、新しい玩具で遊びに飛び出して行こうとした処を、脳天から抑え込まれてしまった悪童のような、ぶす、とした顔をしている。
燹はちらりと主君を盗み見てから、内心、相変わらずであられる、と苦笑しつつ続ける。
「確かに其れは云えますな。我々としても、国を徒にする訳にはまいらぬ」
「那国王の出方を待ち備えるか。其れとも陛下から仕掛けるを前提として備えるか。此れにより、事は大きく変わりましょうな」
「然し乍ら、まだ僅かですが時間はあります。我が祭国群王陛下、及び陽国、句国、契国とも連携をとるべきでしょう」
「……やはり、そうなるのかよ」
頬にまだ明々とした輝きを放つ涙型の入墨を、灼は指の腹で撫でる。
那国とは大河を天然の堀として分かたれているが、河国と遼国は、禍国との国境線を有している。
然も遼国は兎も角、この河国は平原の中央部と随分気候が違って来ている。
羅紗埡 ( ラシャーヌ ) 国とまでは行かないが、禍国の南方地区同様、南方系の気候を生かして米の作付を二回行える。那国の二期作は刈り取った再び株を育てて実を採る櫱方式であるが、禍国と二度、田を作る方法である。櫱方式は手間は少なく確実性も高いのであるが、二度目の刈り入れ時の収穫量が極端に少なくなる。禍国の二期作方式は再び田起こしから始めねばならず、農民たちの負担は計り知れない。だが、其の分収穫量は櫱方式など足元にも及ばない。
灼は国王となってから禍国の方式を積極的に採用し、年二回の作付を推奨して備蓄米の増量と国庫の増強に腐心してきた。
巨大な高炉を維持するには、大量の職人が必要となる。
職人を育てあげるには、どうしても数年単位の時間が必要となる。
だがまだ力量不足だとしても、いやだからこそ、彼らに仕事を全うすれば必ず報われるのだと示してやらねばならない。
其れには、何といっても飢えさせぬ事だ。
腹がくちくなった人間の口からは、満足とやる気の溜息は出ても不満と怨嗟の嘆息は出ないものであるが、灼がまだ遼国の王太子時代の頃より、翌年の種籾にする備蓄すらも金に変えて仕えて呉れた彼らの苦難の時代に報いたいという純粋な思いもある。
其れに苦労を態々買って呉れていたのは、何も職人たちだけに限っていない。
農民たちも、遼国の地に生まれた領民は皆、自ら率先して負担を背負って呉れた。
のみならず、一揆の一つも起こさずに此処まで従って呉れたのだ。
全ては豊かな国となる為に。
灼の理念に共鳴したからこそ、皆、歯を食い縛って呉れているのだ。
その彼らを裏切ってはならない。
この場に居る者ならば、いや国に住む皆の共通した思いだ。
誰も裏切っては、犠牲にしてよい人間など此の世にはいない。
犠牲の元での悲願達成など、所詮は、虚しいものなのだ。
★★★
議論が進んで喉が枯れてきたのか、燹は涼が入れた麦湯を口に含んだ。
王妃の手から直接受け取る栄誉に恐縮しつつも、何時の間にかまだ士官したばかりの若造のように心を浮き立たせてしまっていると自分でも自覚している。
燹からすれば孫ほどの年齢の涼であるが、王妃としても一女人としても、彼女は実に素晴らしい。
内から外から灼を支え、一番の年下ながらも後宮の女たちに侮られる事もなければ、宦官たちをも卒なく取り纏める手腕を発揮し、加えて文官武官内官の差無く家臣たちの影の功労にも目を配り心細やかに気遣える。
王妃の典範、妻女の縄墨、婦女の鏡といえば、祭国郡王の妃となった椿姫が上げられるが、燹たち灼の家臣にとっては涼こそが正妃として婦人の師表となるべき女性であると誇りに思っている。
ただ燹が心配しているのは、涼は後ろ楯となる身寄りがないという事だ。
あったとしても涼はだたの邑令の親類であるというだけで、背後に政治基盤を持たない。
灼の愛情のみに縋るしかないのである。
最も、灼の涼への愛が枯れるなど想像出来ぬ事ではあるが、王妃たる者に庇護する門閥がないのは異例中の異例の事だ。
翻って亜茶はと云うと、厳密にいえば彼女も一門を亡くしてはいるが後ろ楯となる『那国村』の存在がある。
影に日向に、長く一門をあげて灼を支えてきた亜茶の実績と功績は大きい。
何よりも、亜茶は灼の母后の気に入りだった。
灼にとって亜茶は後宮の最高、重臣でもあり、戦友でもあり、其れに年齢的なものと彼女の手引きにより『男』となった事実から、母性の象徴でもある。
夫婦として十年以上の年月を重ねた。
この事実は大きい。
亜茶の女としての歴史は灼の男としての歴史であり、二人は互い心中に喰い込む事において他の妃嬪の追従を許さない。
其の為、燹は内心は戦々恐々としていた。
灼はああ見えて、常に周辺に支えてくれる女性がいなければやっていけない質だ。
有態に云えば、女に助けられれば逆上せ上るまま、何処までも伸びる。
裏返せば、傍に置く女を見誤れば其のまま自滅への道へと一気に疾走しだす危うさがある。
そういう意味で、静かに微笑みながら許しと癒しを与えて包み込んで呉れる涼と、黙って腕を一振りして先回りして見せる笑って出迎えてくれる亜茶、彼女ら以上に内助の功を見せてくれる女性は居ない。
涼と亜茶。
灼を軸とした二人の女に、河国の重鎮たちは大いに助けられている。
其れは疑いようがない。
が、何時までも変節せぬとは限らないし云い切れない。
祭国では二人同時の懐妊を喜んで見せた燹であるが、古来より、王妃が収めきれぬ程の後宮の女性たちの野心が国を傾けた例は枚挙に暇ないのだ。
涼と亜茶の二人にその気がなくとも、彼女たちを担ぐ者がいつ何時現れるかもしれない。
そうした時に、自分は彼女らを守り切れるのだろうか?
特に亜茶は血筋が那国に由来している。
もしも那国と事あらば、良からぬ吹聴を行う不逞の輩が現れてもおかしくはないのだ。
――其れに、腹の中の和子様だ。
どちらの和子が先に生まれてくるのか、そして王子か姫かで、大きく様相は異なってくる。
できれば王妃である涼に、王子を産んで貰いたい。領民の心を安寧に導くには、其れが国家として正しい道であろう。
しかし此れまで、亜茶が灼の為に成してきた功績の大きさを考えれば、彼女こそ第一王子を産んで国母となって呉れればとも思う。
――相国である自分が此の有様では、他の家臣どもはより迷ってしまう。
此れではいけないと分かってはいる。
相国の心の隙に、他国が付け入って来られては国が滅ぶ。
迷ってはいけない。
其れに先ず、二人には安産で和子を産んで貰わねば――そう、まだ、生まれてもいないのだ。
お二人の間に王子さまがお生まれになられれば良いのだ。
そうすれば、思い悩む事などなくなるのだ。
――今は、健やかなる和子さまの御誕生を心待ちにする。
その愉しみに身を委ねておればよい。
高炉内にもうもうと揺らぐ熱のように、隙あらば脳内をねっとりと支配しかける暗い思いを、燹は必死になって振り切った。
★★★
「御帰国前に是非とも一献酌み交わしながらお話を、と此方から誘っておいて申し訳御座らぬ」
平謝りする吉次に、いや、と杢は静かに手を振った。
そろそろ帰国せねばならない杢に、珍しく吉次が自宅に彼を招いたのだ。
「祭国での郡王陛下や学陛下の御様子を肴に、酒でも酌み交わそうではないか」
こんな話の流れとなった訳だ。
実の処、杢は優に仕込まれた部下らしく酒に滅法強い。
其れも、幾ら呑んでも顔色にも出なければ、翌日に酔いが残って醜態を晒した事がない。
独り身の気軽さも手伝って杢は常日頃から、月の満ち欠けや季節の移り変わりの風を肴にして静かに酒杯を傾けるのを美としている。杢の杯の重ね方は、嗜む、と云う言葉がしっくりくるような、穏やかでゆったりした、疲れを癒し心地よい眠りを誘う為の儀式に近いと云えた。
其の為、親睦の深い遼国王・灼の心尽くしの歓待とはいえ、杢は鴻臚館の格式美と艶のある華々しさが同居している饗宴を苦手としていた。断り難く思っていた処に吉次に誘われたものだから、此れ幸い、渡りに船とばかりに話に飛び付いた、と云う訳だ。
しかし、吉次は自分で誘っておきながら与えられている屋敷に真直ぐ向かわなかった。
帰宅前に、一回りして高炉の様子をぐるりと一回りし、覚書に認めて行くのを吉次は日課としていたからだ。
吉次に付き合って歩き回りながら、彼の丸まった背中を見ていた杢は、ふと細筆と木簡を手に泥や埃まみれになって帰ってきては戰に呆れられていた真を思い出していた。
何時か真実の主である祖国に、陽国王・來世の元に帰った時に何かに役立つかもしれない――
と、思いから始まった覚書を録る作業は、何かというと書きつけておく癖の持ち主の真と良い勝負だと近頃河国の職人たちの間で持ちきりとなっていると聞き及んでいたが、成程、と自然と笑みが零れる。
「いや、私の方こそ真殿に頼まれて、吉次殿と那国の動向を話したいと思い、誘おうと思っていた処です」
お気になさらずに、と云う杢に、いや申し訳ない、と吉次は云いつつ筆を動かしている。
そんな吉次の姿は、益々以て真に重なる。
――そう言えば、契国、河国と、何処に行かれても毎日毎日、何処かに姿を消しては飽きずに調べ物をしておられたな。
特に真は、他人からみれば他愛もなかったり下らなかったり、有態にいえばこんな無駄な事まで書きつけて何がしたいんだ、と云う事まで書き綴っていた。
書く、と云う作業が生来好きなのだろう。
が、それにしても杢ですら帰国後に真が幼い妻女に呆れ顔で窘められている姿を容易に想像できる木簡の山なのだから、平均に照らし合わせるまでもなく相当だろう。改めて、真の妻である薔姫の寛大さが良く分かるというものだ。
そんな真の書付魔ぶりに負けじとしているというか対抗意識を燃やしているかのような吉次の覚書も、河国に来てから毎日行っているものだから膨大な量となってしまった。正直な処、全ての覚書を祖国に持ち帰るのは難しいだろう、というのが燹の見解だった。
書き終えた吉次が、お待たせした、とくるりと杢を振り返って笑い掛けてきた。
杖を握り直しつつ、杢は返答の代わりに目を細める。
「気にする事はありません。私も、吉次殿の目から感じた高炉を見たかったですから、丁度良かった」
いや申し訳ない、とまだ余分な手間を取らせた事に吉次は恐縮している。
「祭国で真殿が、何かと云うと荷物を増やすと、姫奥様に御小言を貰われておられましたが、いや、その気分が良く分ります」
汗をかいた額を手拭で拭きながら、吉次はもう一度高炉を見上げる。
杢が口を開こうとすると、背後に人の気配を感じ取った。
汗と埃と燃える炭と焔の猛々しくも荒く獣じみた臭気の中で、ふわり、と柔らかな薫香が踊った。驚いて杢が振り返ると、ふっくらとした丸みのある輪郭に、てかてかとした赤い頬とぽってりとした唇が特徴的な髪の豊かな年増女が佇んでいた。
「貴方さま、余りにもお帰りが遅いので御迎えに上がりました」
「お、おお、き、吉乃か」
「……貴方……さま?」
何故か慌てた風に吃りながら、熱のせいではない汗をかく吉次の前で杢が首を捻ると、吉乃、と呼ばれた年増女がくすり、と遠慮なく白い歯を見せて笑い声をたてた。
「御初にお目に掛かります。吉次の妻女、吉乃に御座います。以後、宜しくお見知り置き下さいませ」
は、はあ、と呆気に取られている杢に、吉乃は丁寧に頭を下げる。
吉乃の横で、ぐるり、と回れ右をしてみせる吉次の帯を、彼女は女性とは思えぬ力こぶを見せてふんぬとばかりに握りしめ、ぐい、と手繰り寄せて逃さなかった。
★★★
やっと吉次の家に到着すると、既に持て成しの膳が整えられていた。
戸を外して解放されていた部屋の中は風が通り、河国特有のねっとりと湿気を含んだ重く昼間の熱気が冷めにくい空気が薄らいでいる。上がりかけた月のみを明かりとして照らされている酒肴は、数種の川魚や沢蟹や小海老の甘露煮と、通菜のおひたしを八宝豆チで味付けしてあるものが主だ。
ほう、と杢は口元を緩めた。
――真殿が見たら小躍りしそうだな。
しかし、膳は3つ用意されている。
訝しむ杢を、どうぞ此方に、とにこにこしながら吉乃は招き入れる。
豊とはまた違うが、奥方稼業に慣れた女性特有の何か抗いがたく、よく考える間も与えぬままに従ってしまう力強さがある。
では、と杢は頭を下げつつ部屋の中に入った。
吉乃に妻女であると名乗らせながらも、吉次は何所かそわそわとしており落ち着かず、彼らしからぬ挙動不審さを見せている。其れでも何とか取り繕いながら、吉次は杢に座に落ち着くようにと勧めた。軽く会釈しつつ杢が座るのを見届けると、吉乃は厨へと酒をとりに下がっていった。
「しかし、何時の間に妻女を娶られたのですか」
伺っておりましたなら、祝の品を用意して此方に参りましたものを、と杢が笑うと40がらみの小皺を浮かばせながら、吉次は顔を赤くする。
「……は、実は今年の春先過ぎに、でして」
吉次の性格的に、此の年まで独り身でいたものを何を突然、女に目覚めたか、と思われ揶揄されるのが照れ臭く、厭だったのだろう。
何となく分かりはするが、其れでは仲間の甲斐がない。
「芽出度い事ではありませんか。照れるのは分りますが、何もお隠しになられずとも」
「……は、そうですな……」
「では、今宵は良縁を得られた吉次殿の祝酒といきましょう」
「……は、そうですな……」
杢に笑顔を向けられ、まだ吉次はもぞもぞしながら照れている。
一旦下がった吉乃が、大振りな素焼の杯と菊の花を乗せた素朴な小皿を乗せた盆を手に戻って来た。
二人が其々に差し出された盆から杯を手に取ると、瓶子を傾けて濁り酒を程良く満たし、菊の花を浮かべる。ほう? と愉しげに眼を見張る杢に、まだ吉次は困り顔をしている。
「では、ごゆるりとお過ごし下さいませ」
両の手をついて頭を下げる吉乃の背中に、たたた、と軽い足音が走り寄って来た。
「母様、父様はもう帰っていらっしゃっているの?」
子供特有の甲高い声に、これ、と吉乃は窘める。
が、笑みの成分を含んでおり本気で叱ってはいないのが分る。
子供の方も分っているのだろう、うふふ、と声をたてて笑いながら、するりと吉乃の背後を通り抜けて、吉次の背中から首に飛び付いた。
「父様、お帰りなさい」
「と……とと……さま……?」
見た処、10歳そこそこだろうか?
一目見て吉乃の子なのだろうと知れる、ぽってりとした唇が印象的な少女だ。
母親と違い手足こそ細いが、柳のようにしなやかさがある赤銅色の肌は遼国の民特有のものだ。
――しかし、父様、と吉次どのを呼ぶという事は、つまり……だ……つまり、あぁと、つまり……。
目を白黒させる杢の目の前で、いや……その……と照れながら、吉次が頻りと首筋に齧りついてくる子供の腰を寄せて胡坐をかいた膝の上に乗せてやる。
「いや……その……吉乃を娶ったと同時に、どのような運と縁の成せる業であるのか、人の子の親にもなりまして」
膝の上の童女の頭をなでてやりながら、どうにも、その、照れますな、と吉次は一層顔を赤くしていた。
★★★
少女はするり、と吉次の膝の上から滑り降りると膝を揃えて座り直し、手をついて美しい所作で杢に頭を垂れた。
「蘆野、と申します。宜しくお見知り置き下さりませ」
一端の一人前ぶった言い方が、何処かこまっしゃくれた鈿を思わせた。
数日しか離れていないと云うのに懐かしく思い出しながら、杢は頷いた。
すると、杢の笑顔に蘆野は明白にほっとした様子をみせた。実は、作法に自身がなかったのだろう。吹き出しそうになるのを堪えている杢の横で、蘆野が吉次の袖を引いた。
「父様ぁ、お客さまです。時のお爺様が御出でに」
「そうか、御出でになられたか。此方にお通ししてくれ」
「はい、父様」
嬉しそうに、蘆野は奥へと引っ込んでいく。
そして童女にお爺様と親しみを込めて呼ばれた時は、相変わらず鰻の触覚宛らの鬚を弄りつつ、ほう、ほう、と梟の鳴き声のような声で笑らいながら手を引かれて姿を現した。
禍国内にて陽国との交易を一手に引き受ける役目を担っている商人・時は、表向きは未だにそこそこの商人の体でいる。
しかしその実態は、荒くれの無頼漢どもすら恐れる裏と闇に精通した妖怪のように恐れられている新興商人たちの元締として70の半ばを超えたと云うのに溌剌と飛び廻っているのだ。
体格こそ恵まれてはいないが、背筋もしゃんと伸びており、好き嫌いなく何でもよく食べる。寧ろ、季節の変わり目などに身体が付いていかず、何かと云うと寝込む真などより健康状態は上だ。
矍鑠とした老人の見本のような人物であるのはこがいといい勝負だが、印象は時の方が、何というか何処かの御大尽の隠居のような好々爺ぜんとしている。
其れが、時の正体を知る者には益々妖怪じみて映るのである。
母親の吉乃に背中を押されると、蘆野は素直に両の手をついて礼をして下がっていった。仔兎のような身軽さだ。
「吉次殿の御息女に、好かれておいでなのですね」
「ほっほっほ。なに、男として役立たずになって久しい故の、爺得ですな」
時は蘆野が消えていった先に手を振りつつ、杢に勧められるまま隣に座る。
場に落ち着きを取り戻すと、吉乃が時が手にした杯にも酒を満たし、菊花を浮かべる。
漸く三人は酒杯を掲げるとお互いに目配せをし、乾杯、と声を掛け合った。
考えてみればおかしな取り組みあわせと云える。
時は長い戦乱で落ちぶれた寒村から、身一つで立身出世を夢見て王都に出てきて既に50年以上経つ。杢どころか、吉次が此の世に生を受ける、10年以上前の事だ。
その吉次は、遠く海の向こうの故国に在る国王・來世の元を離れ、独り、主人の為にと見知らぬ土地で 孤軍奮戦の日々を送り、残る杢はといえば平原で最も強大な帝国の兵部尚書・優に見いだされ眼を掛けられ出世の道が約束されて居た筈であるのに、上司である優を庇い職を辞した後は祭国群王・戰に自らを賭けるように預け、今では祭国少年王・学の守人として師として仕え、護国鎮護の大将として周辺諸国に名を知られ恐れられるまでになった。
可笑しな取り組み合わせであるが、祭国群王となった戰に関わった者は皆、数奇な命運と縁を手繰り寄せるのだろう。その最たる人物が、一番最初に戰の元に身内として仕えた真なのだから、皆奇妙さを奇妙であると指摘しつつも普通に納得している。
数献、にこやかに酌み交わしつつ吉乃が用意した酒肴に舌鼓をうっていたのだが、不意に杢が口を開いた。
「時殿。那国に居る二位の君はどうされているか、何か掴んでおられるか?」
二位の君、という言葉に、吉乃がぴくりと身体を反応させた。
すぅ、と目が細くなる。
ただ目蓋を伏せたのではない、心の内にこびり付いた拭おうにも拭い取れぬ黒ずみ淀んだ負の感情がなせる技であった。
ほっほ、と時は苦笑いする。掌をいっぱいに使って、つるりと顔面を撫で下す。
「特に、取り立てて申し上げねばならぬ事はありませぬの。那国にて相変わらずの御様子、二位の君は御健在、に御座いますかなあ」
「そうか……」
幾ら客分扱いであるとはいえ、あの乱が、禍国に居た頃とは比べものにならない制約の多い偏屈な場に押し込められているのだ。
それは相変わらずにもなろうというものだな、と杢は唇に杯を押し当てて何とか言葉を呑み込んだ。面のように硬く表情を殺しながらも、細過ぎて最後まで熱を発し続けているのだと理解されない蝋燭の芯のような、じめじめした熱視線で自分を睨む吉乃に気が付いていたからだ。
「吉乃、お前はもう下がりなさい」
珍しく厳しい口調の吉次に、怨みがましい目を向けながらも、はい、と吉乃は大人しく従った。
吉乃の足音が完全に消えると、申し訳御座らん、と吉次は頭を下げた。
「吉乃の先の亭主殿は、二位の君の生口狩にて生命を落とされたのだ。今だにあれの気持の中では決着がついておらぬ事ゆえ、許してやって欲しい」
其れは、と杢と時は絶句した。
4年前の事になるが、禍国皇帝・景の法要の際、時のさぼくや・兆の口車に乗せられた乱皇子は遼国の領内で生口狩を行った。犠牲となった人々の生々しい負の記憶は、一向に癒えていない。
杢もであるが、時や吉次、禍国と関わりのある者がこの河国、つまり遼国内において報復という闇討ちにあわずに居るのは、偏に先の河国戦の際に見せた戰の漢気と、遼国王・灼との間に生まれた友情に頼るものだ。
悔みを述べて良いものかどうか判断が付きかねる処であるが、吉次が吉乃の前の亭主の話を嫌がらずに話している姿に、杢は好感を抱いた。
此処は、吉乃の事には触れずに話を進めた方が良かろうと判断した杢は、酒を注ぎながら、変わらずにこにこと笑っている時の顔を覗き込む。
「この状況で変わりない方がおかしいかも知れぬが、二位の君らしいといえばらしいか……時殿はどう見ておられる」
零れそうになった酒を、ほっほ、と云いながら啜りとった時は、そうですなあ、とのんびりと応える。
「大令殿から切り離されて以後、お独りとなられて此のまま存在を無くされるものと思うておったのですが、どうしてどうして、思いの外しぶとい御仁のように御座いますぞ」
「と、云うと?」
空になった時の杯に、今度は吉次が酒を注ぐ。
「なになに、吉次殿の妻女さまのような御方の存在を、二位の君はよう覚えておられるという事に御座います」
ぴくり、と吉次は腕を止め、杢と顔を見あわせた。
「遼国内の、生口狩の犠牲者たちの邑を再び利用しようというのか?」
声を顰める吉次に、考えられぬ策ではない、と杢は返した。
「寧ろ、大いにあり得るだろう」
ふむ、と吉次は顎を引いて考え込んだ。
「杢殿の考えは分かったが、真殿はどう見ておられた? 杢殿の事だ、此方に来るとなったならば、真殿に相談されておられただろう?」
私と概ね同じ見解をしておられました、と答えつつ杢は杯に口をつけた。




