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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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21 轟く潮流 その1-2

轟く潮流 その1-2



 笑い声が静まる頃合いを見計らったかのように、内官が、おー……という微かな声を上げる。

 誰かが忍んで訪ねてきた、という合図だ。

 音もなく戸口が開けられ、するり、と闇夜に紛れて影が二つ、忍び入ってきた。

 影の一つは、こつりこつり、と規則的な乾いた音を立ており、その陰に手を貸すようにもう一つの影が入ってくる。音の正体は杢が手にしている杖であり、寄り添っているのは無論、吉次だ。


 杢は杖を使いながらも、灼に向かって最礼拝を捧げる。

「陛下。先ずは本日の高炉への火入れの儀式を滞りなく終えられましたる事、お慶び申し上げます」

 奇妙に器用な奴よ、と思いつつ、おう、と破顔して灼は杢と吉次を手招きする。


「本来であれば此の佳き日に私も同席すべきであったのですが、障礙の身ゆえの非礼をお許し下さい」

「止めよ。そういう口上は尻穴がこそばゆくなるだけだ」

 肩を竦めつつ、灼は悪童宛らの笑みを浮かべる。

「其れにな、其の程度の怪我で障礙持ちなんぞと口を滑らせてみよ。儂が家臣どもに舐めるな、と喧嘩を売られる羽目になるぞ?」

 片目を閉じて笑ってみせる灼に、はあ、と杢は苦笑を返すしかない。


 杢や吉次が、此の様にこそこそ・・・・と灼たちと対面せねばならぬのには理由がある。

 河国は現在、名目上は禍国に対して絶対服従の姿勢を崩せぬ立場にある為、監視の目が厳しい。

 鉄器を量産するための高炉の建設を禍国皇帝・健が許したのも、自国が潤うからこそ目溢しされたに過ぎない。だが、3年前の政変以来、祭国郡王である戰に取り入ろうとする輩が増えたように、偶然に偶然が重なり合った末に皇帝に就いた健に尾っぽを振って媚態を見せる低俗な者どもも同等数いるのは事実だ。そ

 祭国の上軍大将である杢が高炉の火入れに立ち会ったとなれば、彼らは喜び勇んで郡王・戰に叛意有りきと皇帝・健に吹聴するだろう。一方は、其の情報を戰に漏らして自らを高く売りつける為、もう一方は皇帝・健に秋波を送る為である。何方に転んだとしても皇帝・健は郡王・戰を呼び出して、地位を剥奪し生命を差し出して身の潔白を証明するように威丈高に命じてくるだろう。


「那国の方で何か動きがあったらしいと、吉次殿より聞き及びましたが」

 表情を改めた杢に、おう、それであるがよ、と灼は背後に控えている燹に顎をしゃくる。

 亜茶も目配せをも受けた燹は立ち上がると、部屋の隅で存在感を消してひっそりと控えていた男を招き寄せた。

 灼と涼に亜茶、そして燹、杢と吉次の順に男は礼拝を捧げる。

「那国での顛末を陛下に語って聞かせよ」

 燹の命に、男は平伏したままとつとつと語りだした。



 ★★★



 祭国群王・戰より河国王・灼が、今年から冷夏による飢饉の危険性が高まると告げられたとの報を得た那国王は直ぐ様、自国内にて食料確保に向けて乗り出した。

 紅河より以南に位置する那国は、平原の気候とはまた一線を画する。

 冷夏に苦しめられるとは限らないというのに那国王の迅速なる決断と動きに、灼と杢は、ほう? との端を瞬かせた。

 だが此れまで軍備の充実に裂いていた河国が、人力と国庫に貯めたこがねを冷害と飢饉とに備える事に重点を置いて舵を切った、と伝えた処、那国王・敏は隣に居た廃皇子・乱の存在共々、大いに迷い悩む様子を見せたと云う。


「ほう……那国王とあろう者がこんな瑣末な事に頭を痛めると云うのかよ」

 何処か挑発するような口調の灼とは違い、杢と吉次は、静かに掬い取るように話に聞き入っていた。

「杢殿はどう思われる――廃皇子殿がどうでるか」

 膝の上に拳を置いてきっちりと杢に向かい合いながら、燹が真摯に訊ねる。

 那国王・敏は兎も角、廃皇子・乱のひととなりを最もよく知るのは、この中では杢しかいない。む、と零しながら、杢は腕を組んだ。

「二位の君殿におかれては、秋の収穫を待つまでもない、この機会を逃さず河国に攻め込み滅ぼしてしまえ、と嗾ける処でしょう」

 淡々と答える杢に、男は無言を以て是とすると、はっ! と肩を揺らして灼は嘲笑った。


「ようも云う云うたり、大きく出たものではないかよ。貴様は何様のつもりであるのか!」

「ですが、陛下、あながち間違った読みであると云い切れませぬぞ」

 ぎろりとした灼の眼光が遠く那国を見据えれば、燹の鼻息はまるで馬のように荒くなる。伝えた那国村の男も、同意であるといわんばかりに、顔を爛々と赤くしている。


 そんな中、含み笑いをしながら涼が手ずから入れた麦湯を皆に配って歩く。

 興奮を隠しもしなかった灼と燹は、何処か居心地がと言おうか、ばつ・・が悪そうに僅かに項垂れつつ椀を受け取った。

 若い王妃は、垢抜けた後でもこういう細々とした動きを嫌わない処がより一層美しく見える。興奮して、考える事をうっちゃって議論も何もなく動く向きのある灼などは、嘗ては亜茶の、今は涼のこの落ち着いた物腰に冷水を掛けられてやっと沸騰した脳天を鎮める事が出来るのだった。

 灼が落ち着きを取り戻すのを見計らってから、杢が再び口を開く。


「恐れながら、武人の目からしても廃皇子・乱殿下の言は正しいと思われます」

 飢饉を恐れて右往左往している最中であるならば易し、と読み、国境を侵す。

 逆の立場に立てば至極当然と言える。


「では、どうするが良いと云うのかよ?」

 落ち着きを取り戻した灼が、今度は面白そうに杢を問いただしてきた。

 私見ではありますが、と前置いて杢は背筋を正す。


「私が陛下の立場であれば、那国が侵略攻勢の準備を整える前に、此方から大軍勢にて攻め入るでしょう」

 杢の意見を耳にするや、得たり! とばかりに灼は手を打って喜んだ。



 ★★★



 杢の言葉に喜びを顕わにした灼は、其のまま軍備を整え戦に飛び出して行きそうな勢いだ。

 燹は渋面を作りながら首を左右に振る。

「困りなすな、杢殿。我が陛下を嗾けられては大いに困る、困るぞ、杢殿」

 声まで苦い。

 が、燹もその策に傾いている証拠に、苦くはあるが窘める成分は低い。

 燹も歴戦の勇者だ。地位も何もなくして一己の武人・燹としての見解は、杢の其れと全く同じだった。

 遼国の主従を前に、しかし、と杢は続けた。


「攻め入るにしても、時節と場所が肝要となります。此の一突にて那国の意気を完全に挫く事がかなわねば、長い戦乱を招く。さすれば那国こそが国体を危うくし、存亡を賭ける事態に発展しかねないでしょう」

 ぬ、と灼は口を歪めた。

 確かにそうだ。

 下手に那国を焚きつける形となってしまい本格的な戦となり、しかも年を跨ぐ様な長期戦となってしまった場合、藪蛇となってしまう。


 確かに、河国も遼国も豊かにはなった。

 だが、まだまだ盤石とも充分であるとも云い難い。

 河国の今の政情は、沼地に基礎を無理矢理建ててしまった家屋の様なものだ。

 見てくれはどんなに立派であろうとも屋台骨は常に不安定であり、強風で煽られ僅かな揺れを感じるだけで倒壊する恐れがあるのだ。

 順序が逆になってしまっているが、今は、この河国という泥濘宛らの国の基礎に、人材という砂利や敷石を丁寧に運び入れ、均して行くしかないのである。喩え、それが気が遠くなる程の時間を要しようとも。


 場の空気は悪くなり、膠着し始めたのを見計らっていたかのように、涼が灼に麦湯を満たし直した椀を差し出してきた。

 おう、と灼は目を細めて笑顔で受け取る。

 今度はゆっくりと味わいながら喉を潤して行く。

 ごくり、と勢いよく音が立つ度に、太い喉仏が上下する。口の端から零れた湯の雫が、顎から鎖骨に向かって垂れて行く。子供のように夢中になって煽っている其の様を、二人の妃は微笑ましいと言いたげに、笑みを湛えて見詰めている。


 横着な童子のように袖を使って、ぐい、と濡れた口元を拭った灼は、処でな、と杢に声を掛ける。

「那国に居る、二位の何とか云う腐れ皇子だがな」

「は? はい」

「どんな人物であるのかよ?」

「乱殿下が、ですか?」

「おう、敵を知らねば戦えまいがよ」

「乱殿下の御人物像……ですか」


 涼にもう一杯、と椀を差し出しながら、ぐ、と灼は身を乗り出す。

 打って変って、杢は何所か忌々しそうな素振りで唇の端を噛み、視線を泳がせているではないか。

 杢には珍しい態度に、燹と吉次は顔を見合わせた。実直者で知られる杢は、普段から、無暗に人の悪評を口にするのを嫌っている。

 その杢が、毛嫌いしているのを明白にし隠そうともしない。余程・・の人物であるに違いないか――と灼は、にやりとする。


「……以前、真殿が仰られていたのですが」

「ほう? 真の奴が?」

 真の名に、ぱっ、と灼の顔ばせが輝く。

 長らく会えずにいるが、忘れられる筈がない。

 灼たちの中で戰と真の二人は、喩え共に居た日々は短くとも、魂にその存在を書き込まれた大切な友だ。


「真の奴が何と云うておったかよ」

「先皇太子・天殿下と二位の君・乱殿下を、此の様に評しておられました」



 ★★★



 祭国でも、備国に捨てれれた天皇子と那国に追い遣られた乱皇子に、今後どう対処すべきであるのか、当然の事ながら定期的に話し合いが持たれている。


「お師様。天殿下と乱殿下、御二方とは如何なる御方なのですか?」

 素直な気質の学には、先ず言っても理解は出来ないであろう、鬱屈した二者である。

 だが此の先、学が祭国国王として地勢を逞しくさせていく過程で、彼らは癌と膿として立ちはだかる可能性は高い。

 其れでなくとも、学は人の悪感情と云う物に親しんでいない。

 そんなもの・・に慣れるなど人としては間違っているのであるが、為政者として立とうというのであれば、理不尽に妬まれ、頼みもしないのに嫉まれ、知らぬ間に嫌われる事にいちいち心を縮こまらせていてはやっていけない。

 王として領民と共に歩いていくのだと心に定めた以上、より多くの負の感情に晒される覚悟が必要となる。

 でなくては、皆が何に心を痛め、苦境に悩み、悔し涙を堪えているのかが理解出来ないからだ。

 学の純粋な質問に、真は静かに微笑んだ。

 薔姫が手渡して呉れた苦薬湯を礼を言って受け取りながら、恐れながら申し上げます、と学と正面に向かいあえるように座り直す。


「天皇子様は、生まれながらにして全ての権利を手にするのが当然としてお育ちになられた為、尊大で横柄で横暴、そして堪え性がまるでありません」

 母親である徳妃・寧と祖父に当たる大司徒・充という最大の後ろ盾を有した、血統第一位の皇子として産まれたが故に、多くの支持を得はした。

 が、後に彼が皇帝となった折に重責を担うはずの貴族の息子たちは、天の小型版のような矮小な人物ばかりである為、諫める者も咎める者も正す者も当然居ない。

 他人に厳しく自分に甘い世界に生きており、自分の夢想は全て現実のものになると信じて疑う事を知らない。

 持ち上げられて好い気になる事ばかりを追い求める余りに、予想や予定外の事象に対して対処するという意識向かぬよう育ってしまった。

 結果、少しの事で挫折感と敗北感に打ちのめされて錯乱状態に一気に陥る性質となった。

 その性質は、句国との戦において如実に表されていた。


「対して乱皇子様は、本の僅かの差のみ、然も己の力の及ばぬどう対処のしようのない処で兄君である天皇子様に何もかもをお譲りになられねばならなかったが為に多少の事には耐える力をお持ちになりそこそこ周到ではあります」

 しかしいつ何時、己の野心が露見するかという小心さを抱えていた。

 更に其れを悟られまいとする余り返って陰湿さと陰険さに拍車がかかって、執念深い態度が内に籠りがちとなった。

 その癖、自分よりも優れている者はいないという自負と自尊心は肥大の一路を邁進し続けた。其れ故に、己に劣等感を抱かせる者を蹴落とし貶めんと寸暇を惜しんで暗躍し励む事に、乱皇子は長けていた。

 が、乱皇子の因果が呼び寄せる者は、やはり野心剥き出しの者ばかりだ。気が付けば彼自身も好い様に利用されて転がされる身となり、最後の最後で臍を噛むに至った。

 左僕射から、大令となった兆が良い例だ。


 ず、と音を立てて苦薬湯を啜りつつ、と、云う訳でして、と真は続ける。

「有態にというか端的に云ってしまえばですね、まあ、どちらの皇子様も『どうしようもなさ』に寸毫すんごうの差がある訳ではない、としか評せませんね」

「でも、お師様も群王殿も兵部尚書殿も、杢も克も、皆、その御二方を禍国における二大勢力として政治的な権勢に恐れを抱いてすらおられたのでしょう?」

 学の疑問に、当然です、と真は即答した。


「どちらの皇子様も、『どうにか・・・・しようにも・・・・・もう・・どうにも・・・・こうにも・・・・どう・・しようも・・・・出来ない・・・・御方・・』ですから、怖いのです」

 寄り目になりながら、何だそれは? と首を捻る克は珊に耳朶を引っ張られて、痛ぇ、と小さくぼやいた。二人の遣り取りを笑いながらみていた真は薬を喉につかえさせて、軽く咽る。もう、と呆れながらもとんとんと背中を叩く薔姫に、有難う御座います、姫、と真は小さくなりながら礼を云う。

 嘔吐えずきが収まると、改めて真は器を手の内側でくるくると器用に拍子をつけて回しながら続ける。


「誰しも多かれ少なかれ、誰か彼かを憎んだり蔑んだり、若しくは悪し様に罵ったりするものですが」

 そんな、と云い掛ける学を、真は手を振って制した。

「私なんて、不敬にも父上の暴力性をしょっちゅうぼやいておりますよ?」

 其れと此れとは話の基準となる値が違うような、と言いたげな学に、真は素知らぬ顔で続ける。

「そもそも、人として此の世に生まれ出でた以上、天涯をお治めになられる天帝の如くに清廉潔白で私利私欲に走らず、公正明大で率先垂範に勤められ完全無欠の英華発外な御方などおりません。口汚くしたくなる人物とまでは行かなくとも、苦手意識を持つ方というのはある筈ですよ」

「……」


 学は、どきりとした。

 悪口雑言を振り撒くような行いは自らをも貶める、と母である苑に市井にて育てられた学は、王侯貴族にありがちな選民意識からくる、そうした歪んだ性根はない。

 だが、素直である分、為政者としては戰に劣り、剣術や馬術においては杢や克に及ばず、領民にたいしての政策や思想法などはこがいや真に到底敵わない未熟な自分が恨めしくて堪らなくなる。

 少年の身であるという言い訳が、もう1~2年で効かなくなるという焦りもあった。

 学は、各方面での師匠に対して背伸びしても手を伸ばしても届かない自分が恨めしく、反動から、比べられたくないという気持ちを抱き始めているのを見抜かれたのでは、と思ったのだ。

 押し黙る学の胸の内に気が付いているのかいないのか、真は学の手を取る。


「ですが、学様。同時に人とは、人であるが故に、己の悪意の凄まじさに慄くものです。呪う、という行為は即ち、同じ様に何処かの誰かに自分もまた呪われている、と察し、怯む本能があるからです」

 真が片手に持っている薬湯の消えゆく湯気を、学はじっと見詰める。

「しかし天皇子様や乱皇子様のような御方は、其れがありません。悪感情を剥き出しにして、自分の此の不徳を顧みず、身を守る為に御前から去る人々の背中に向けてすら、悪意をどうにか始末しろ、と理不尽に迫って来られます」

「はい」


「下手をすると自分を傷付けた相手に対して、己を傷付けたあの阿呆の始末をどうしたら良いかと相談なされ、呆れて無視しようものなら云う事を聞かん貴様をどうにかしろ、とまた迫って来られますから」

 おどけた真の言い方に、ぷっ、と戰が吹き出した。

「確かに、あの異腹兄上あにうえがたなら云いだしかねないね」

「然も、その理不尽さに気が付かれていない。それがあの御二方の『どうしよもなさ』の恐ろしい処です」

 何となく、学には分るような気がした。

 自分たちの最大の政敵である戰とその最大の身内である真に、お前たちの悪行を知っている、私の為にお前たち自身で此の悪行に対処しろ、と頓珍漢な迫り方を散々にした挙句が、3年前の政変なのだ。


「御二人は、決して『引く』と云う事をなさいません。言葉の意味を知らないからではなく、責任を取るのは自分以外の者だと本気で思われ疑ってもおられないからです」

「つまり異腹兄上あにうえたちは、自分たちを苦しめる酷い輩である真を私が討つべきである、そして共倒れになって役に立て、と本気で言いだしかねない――と、いう訳だね?」

「まあ、そういう事になりますね」


 おどけた調子の戰に、真もおどけ返す。

 其の場に居合わせた皆は苦笑いを隠したのだった。



 ★★★



 杢の話を聞き終わった灼は、腹を抱えて身悶えしつつ大笑いをしている。


 笑う灼を前に、杢は幾らかほっとした。

 灼の母后は、二位の君・乱の生口狩により儚くなった。

 河国から無事に脱出してきたとはいえ、国でありながらも国と認められず、不当に扱われ虐げられる長く暗い不遇の時代を、灼は亜茶たち傍仕えの女たちだけでなく母后にも支えられてきた。


 その母を奪った張本人が、目の前の、那国に居るのだ。

 廃皇子・乱の迂闊な言葉尻に踊らされて、那国王が河国と遼国を虎視眈々と狙う位置に立とうとしているならば、此方から先手必勝とばかりに戦を仕掛けてやりたいのは、何も領民を護る為だけではない。


 生口として、蟻を踏み潰すよりも無残に潰された領民たちと、母親の弔い合戦をしたいのだ。

 王として息子として、灼は母であった母の凄惨な死に様の恨みを、天の采配の無慈悲さを呪った日を自身の魂に刻みこんだ皇子・乱の所業を、灼は忘れじと強く念じている。


 領民たちも、枯れる事のない泉のように慈しみの心を隔てなく注いで呉れた国母を己の親同然として敬っており、二位の君・乱への怨磋を血と骨に刻みこんでいる。

 乱皇子への意趣遺恨、毒念の渦は、灼と領民たちの魂の中にて油を発火させる程の温度で燃え盛る焔となって消える事はない。



 赤銅色の肌を震わせてえずくまで笑っていた灼は、涼に背中を撫でられている。

 自分と然程年齢の変わらない王を、杢はじっと見据える。

「しかし陛下」

「おう?」

「二位の君・乱殿下が食客として飼われているからと、無駄に那国に攻め入られるのであれば、私としてはお諫め致します」

 杢は遼国の民でもなければ、部下でもない。

 だが、河国との戦の際に両脚に大けがを負い、鬼灯の提灯を下げた死霊神がちらちらと何度も眼前を横切ったというのに生還できたのは、彼らのお陰であると恩義を感じている。

 何といっても、遼国王・灼が貴重な薬と高名な医師や薬師たちに診察と治療を命じてくれなければ、肉を突き破って折れた骨が飛び出る程の大怪我をした自分は、其のまま鬼籍に入ってもおかしくはなかったのだ。


 杢の云わんとする処を、灼も素早く感じ取ったのだろう、まだ涼に背中を擦られながらも、目付きを変えた。燹は逆に、家臣ではない第三者である杢の諫めに内心ほっとしているのか、目元が柔らかくなっている。

「飽くまでも戦禍を広げ混乱を招かぬ為にのみ、意識を集中させねばなりません」

「ふむ、那国の出鼻を挫く其の為の戦である、と心得ておかれねばならぬ、と申されるか」

「はい、寧ろ――侵攻するよりも事為り難しと腹に据え、心得て当たらねばならぬかと」

あたら無駄に戦火を広げては、河国弱体化への道を歩む結果となります、と杢の実直な堅い視線に、ふむ、と燹は満足そうに目を細めた。


 実際の処、策を練るのは頭の痛い作業だ。

 祭国では郡王の影に控えている真のみかと思っていたのだが、この若者もなかなかどうしてやるものだ、と自然と皺のある口角に笑みが刻まれる。

 ――そういえば、禍国の宰相にして兵部尚書・優の秘蔵子であったか。

 この杢という若者は優の政治基盤を受け継ぐよう一からの全てを叩き込まれていた、と燹は思い出した。彼は優の期待を裏切らず、実質的な後継者という立場に相応しい能力を垣間見せたと云う訳だ。


 ――羨ましい事だ。

 実の息子である真の方が、優の武運と才気を頼りにしていない。

 しかも優を間に挟んでの真と杢との関係には、嫉妬や粘着などの暗さが全くない。

 此れは稀有な事だ。

 親子と師匠の関係性の濃さが逆転している不思議さがあるが、確かに先程の真の言葉を借りれば、二人は『どうにかしようにも、もうどうにもこうにも、どうしようも出来ない』皇子などには到底到達できぬ境地にあると云えようか。最も、燹は優の正室腹の息子たちも三人雁首揃えて見事に『どうしようもない』奴であるとは知らないから、勝手に若い真と杢に感動出来ているだけなのだが。



 しかし、燹は改めて優の禍国内における立場と、如何に自分が恵まれているのかを実感した。

 自分の様に、国の最有力者に幼少時より最も近い位置で仕えている者にはない、叩き上げの武辺者の苦労というものだ。

 最もこの数年は周囲の者に知られないだけで、優はその渋面に隠して苦労を随分と愉しんでいるのであるが、燹は反対に、優のような自ら鍛え上げる後継者と云う者を傍に置いた事がない不幸もある。


 ――何方も何方か、か。

 儘ならぬものだ。


 人の世は上手く動かぬものだ。

 が、どうしても足して二で割れば程良いものを、と口惜しくなる。

 斯うした心の動きは、嘗ての己にはなかったものだと断言できる。


 自分が迂闊にも何も考えずに年を喰ったから、というよりは若者たちが想像以上に才能を伸ばしているからだろう――と、燹は思いたかった。



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