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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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21 轟く潮流 その1-1

轟く潮流 その1-1



「よぉーい、や、さぁっ!」

「えぇーい、おぅっ!」

 巨大な炉の前で、人足たちが大声を張り上げていた。

 活気がある、というよりは生命力の坩堝るつぼと言って良いだろう。

 紅河こうがの脇に沿うように建てられた最新の炉に、とうとう火が入るのだ。

 此の巨大炉を目の前にして、興奮せぬ方がおとことしてどうかしている。


 次々と瀝青が投入され炉の準備が着々と整えられていく。瞬く間に、遼国の民特有の赤銅色の肌という肌に、汗が輝き弾け飛ぶ。

 皆、上半身裸の、特鼻褌のみを纏った出で立ちだ。漢たちの興奮は最高潮となっており、最早、衣服など着ていても意味がない。

 禍国などであれば、監督する貴人たちから其れだけで鞭が飛びそうな具合であるが、此処は遼国だ。彼の地に置いては勝手が違う。生命を一つとして仕事に当たる漢たちには、身分の上下も遠慮もへったくれも何もない。寧ろ、汗を飛沫として飛び散らせながら、彼方此方で身分や年齢の上下など関係なく怒号が飛び交う。

 そんな中、辣腕を、と言うよりは鉄拳制裁的に実際に腕を振り回して怒鳴りつけている人物があった。灼の右腕として既に名高い、河国相国・燹である。

 年齢としては真の父である兵部尚書・優と同世代でありながらも、なんの若造如きに後れを取ってなるものか、と燹ほどの漢が年甲斐もなく興奮している。


 背筋を伸ばして腕を組み仁王立ちになって火入れの為の準備を見護っていた灼が、くわっ、と目を見開き号令を下す。

「高炉に火を入れよ!」

「おお!」

「いいか! この火入れで炉が使い物になるかどうかが判別するのだ! 気を抜くなよ!」

「おう!」


 燹を始め男たちが、まるで狼の遠吠えの如きに一斉に応える。

 と同時に、最新式の高炉に真赤な火が点る。

 直ぐ様、ごうん! と炉の中の空気が戦慄き、炉を見守る人々の頬に、炉の赤みと熱が乗り移る。

 ぐんぐんと赤みを増し温度を上げて行く高炉を、皆、固唾を呑んで見守っている。

 入れた焔が最も高温となる瞬間が、緊張が最高潮に高まる刻だ。

 技術力の粋を尽くして建築された高炉であるが、数台に一つの割合で組み立てた煉瓦が熱に耐え切れずに崩壊を起こす場合がある。初の火入れは、炉にひびが入らぬかどうか、安全に稼働するかどうか、そして此の先、炉から火が落ちる日まで大過なく役目を終えられるかを見定め卜う為の、儀式の場でもあるのだ。



 ★★★



 河国王となった灼が焔を回転さている高炉を見守る中、敷地の厄除け儀式が同時に始まっていた。

 しゃん、しゃりん、しゃん、しゃりん、と規則的な杖の音が炉の敷地を取り囲む。

 やがて、おーう……、おぉーう……、と独特の掛け声と共に警蹕けいひつが始められた。

 遼国においても陽国においても、炉の神は女人を嫌う。

 其の為、儀式のえきに携わる事も、況してや就く事も、堅く禁じられている。浄めや祓いや禊やも無論、禁忌だ。其れ故、めかんなぎも一切立ち入らず、おかんなぎほうりたちの手によって全てが執り行われるのだ。


 それにしても、浄めと祓いのうらないを続けつつの初火入れなど、遼国の男衆たちも久方ぶりの事であった。

 高炉を使っての製鉄作業中に多くの人命が損なわれるような大事故が起こらぬよう、先ずは禰宜たちにより太占が行われ、吉日が選ばられる。太占を終えた日から当日の深夜まで、傀儡たちは舞いながら敷地の四隅にあらかじめ、いぬの血を浸した米粒を撒き続ける。禰宜ねぎたちにより命を捧げられたいぬの血を浸した餅米は、撒かれる数が多ければ多いほど良いとされている。この米粒一つ一つが、奪われる命のよりわらとなって惨事が自ら慄き翻ってくれると信じられているのだ。

 警蹕と共に、次々に餅米が宙を舞う。

 この傀儡舞いを指揮している者の中に、なんと、戰に仕えている筈の吉次きちじの姿もあった。

 普段は角髪結みずらに髪を結わえている吉次であるが、今日は髪を下して振り分けのままにしており、麻布で仕立てられた筒袖の帷子に身を包んでいる。この辺りの儀式は祭国でも似通っており、どの国でも普遍であるらしい。


 陽国出身である吉次は、禍国とのよしみを通じる為に陽国王・來世の名代としてただ一人いちにんにて海を渡ってきた。五年以上前の事になる。ただし、商人・時の判断と手引きにより郡王として祭国に赴任したばかりの戰と引き合わされてから、彼の当初の目的は大きく捩れたものとなった。其れも良い方に、である。

 此れまで中華平原の国々から『東夷』として蔑視され続けてきた陽国は、鉄製の剣を唯一産する国として確固たる地位を築く為に禍国を中心とした動乱を利用する腹つもりであった。

 しかし吉次は何時の間にか、戰が積極的に取り入れようとする陽国の踏鞴方式とはまた違う製鉄法に魅入られるようになってしまった。

 暇を見つけては真の元に足繁く通い、自らの手に技術を沁み込ませようとした。

 陽国に置いての製鉄の技法は、何方かというと基本的に其々の工程を分業制にした職人気質溢れる法である。互いの工程に要らぬ差しで口などしない。するとなれば、折角の自分の技を役不足とするような、明白に腕が足りない刀をなまくらにしてしまう輩に対してだ。其れだけ、自分の受け持つ工程に誇りを持っているのである。

 だから陽国の者は、型を使った大量生産品の産出にはどちらかというと冷めた、というよりも見下した見方をしていた。大量生産の剣は、所詮は模造品にもなりきれぬ烏合の衆のようなもの、そのような作品・・に対して差別的な目になるのは職人集団である陽国では当然かもしれない。

 しかし実際に高炉を利用しての大量の、そして高純度の製鉄方法と鋳型を利用しての剣の大量生産方を目にして、吉次は魂ごと肺腑ごと震えるのを感じていた。単に危機感を覚えたからというのではなく、純粋に技術を持つ者として職人として、選り優れた知識を得たいという本能の様なものである。


 そうなると、居ても経っても居られなくない。吉次は戰に河国での技術の習得を申し出た。

 そして遼国王にして河国王である灼の元に、陽国との交易の仲介人という名目で、祭国から派遣されてきたのだった。

 戰の祖国である禍国は、大保・受が何かと目を光らせている。

 要らぬ詮議を受けぬ為に、真は吉次の為に尤もらしい言い訳・・・を用意したのだ。

 禍国皇帝・健の母后・合は、こと、玉石に目がない。

 特に陽国産の翡翠から作られた装飾品に魅入られてからは、那国を跨いでの交易では物足りなくなってきていた。郡王・戰が自ら抱えていた陽国人を交易の場に駆り出して来た事を褒めこそすれ、疑いの目を向ける事はなかった。

 こうして吉次は、禍国からの疑心の目を見事に搔い潜って遼国王・灼との対面を果たし、製鉄方法を学びたいと申し出たのである。


 しかし目暗ましとした理由も、単純に生きている・・・・・

 禍国――正確には将来的に戰は、陽国との直接の交易をもっと大々的なものとし、海上航路をより安全なものとして大いに賑わせ、互いの技術を奮わせる間柄としたい、と考えていた。

 潮の流れという、どうにも抗えぬ自然の摂理を前にして、陽国は古くから那国と取引をしてきていた。

 其処に河国との戦の後、独自の海の貿易路を切り開いたのは、時を始めとした商人たちの商魂逞しさだった。陽国としては、鉄器以外の品で交易が盛んとなれば、国庫が安定して潤うのであるから否やはない。

 とは云うものの、基本的に那国相手の交易は相手方が巨船にて陽国まで繰り出してきてくれていた。

 しかし、禍国相手の鉄器の交易はそうはいかない。禍国には造船業というものが皆無とまでいかなくとも、縁の薄い職であったからだ。

 那国を仲介しての交易では、途中での手間賃で禍国は陽国に暴利を貪られる。だが巨船を操舵しての航海術を有しているのは、那国のみだ。

 言い成りに成らざるを得ない。

 しかし河国が、契国が組み立てたコールタールで舟板を保護した巨船を仕入れて、海に乗り出したらどうなるだろうか?

 那国まではいかずとも、河国も力河と紅河を往来する一大軍船団を保有していたのだ。

 数年、海に乗り出せばやがて独自の航海術を得るに違いない。

 現河国王である灼の命令の下、陽国までの航海は繰り返された。


 しかし、数世代に及ぶ那国の術には遠く及ばずとも、河国と陽国は暴利とも云える手数料を毟り取られる厄介な仲介者・那国を排しての交易路を曲がりなりにも開拓しきるのは生半可な事ではない。

 吉次の尽力もあり、この3年の間に河国と陽国の間で先ずは使者たちが行き来する関係が築かれるに至ってはいるが、交易路を手にするまでには至っていない。

 互いの鉄器の利点を損なう事なく高め合い、且つ共食いからの共倒れ状態とならぬように手配する術を講じるよう勧めたのは、商人・時だった。齢70の半ばを超えても、鰻の触覚のような鬚を捏ね回しながら梟のような、ほう、ほう、という笑い声をあげて益々精力的に仕事に勤しむ時の姿は、交易に一度でも手を掛けた者なら必ず目にしている。


 しかし二国の間はあたかも順風満帆のように見えていながらも、実の処はそうでもない。

 隣国・那国が危機感を募らせ、身構えだしたからだ。

 決定的だったのは、那国王が密かに陽国を嗾けて、禍国を討たせんとした素振りを見せた事だ。

 禍国を討つ、とは即ち、鉄器生産で陽国に打撃を与える河国を討つ、と云う事だ。

 陽国と那国の間の関係性の年月を思えば、那国王の出方は当然だろう。

 折しも、那国では鉄器生産に暗雲が立ち込め始めていた。那国王・敏としては、陽国は必ずや言い成りになるという目算があったのだろう。


 だが陽国は、左右を見渡して反芻するように何度も利潤を計算して、歯噛みしつつもぎりぎりの線で河国と一線を超えぬように取引をするに到った。

 今、那国と共に戦を嗾け勝利を得たとしても、陽国に旨味・・は殆どない。国力をごっそりと刮げ取られるだけであり、迷惑千万なだけだからだ。

 すっかり陽国に先を読まれた那国は、焚きつけ難くなった。


 こうして、海と二大大河を挟んで、那国・河国・陽国の三竦みの睨み合いが続いている。

 だがこの均衡は容易く崩れるだろうと、予感ではなく確実に、然も遠からず起こるものとして、誰もが予測していた。



 ★★★



 おお! という叫び声が上がり、警蹕が終わりを告げた。

 同時に、最後の餅米も撒き終わる。


「一番高い温度に達したもようです!」


 炉を見張っていた男が叫ぶ。

 すると、灼は腕を高々と突き上げて振り回した。

 再び、――おお! と人々がどよめく。

 あちらこちらで喜びの悲鳴が、いや怒号があがる。

 殆ど半裸状態の技師たちは、殴り合いの喧嘩宛らに肌と汗をぶつけ合って歓喜を顕わにする。

 悲願の高炉の初火入れは、こうして無事、成功を収めたのであった。



 火入れの儀式を終えた後は、紅河の河神を祀る祈祷が始まった。

 感慨深げに、灼は燹の肩を叩く。年甲斐もなく涙で皴の彫りが深くなった肌を湿らせた燹と共に、灼は高炉を見上げる。

「ついに、だ」

「はい――はい、陛下……!」

 燹が声を詰まらせる。


 この高炉は独特の形をしている。

 此れまでの高炉とまるで違うのである。

 陽国式の炉が踏鞴方式を採用しているように、遼国式の炉は人力で巨大なふいごを押して強風を起こしていた。

 其れ故に、一つの炉を常に稼働させるには、百人一組として3組は必要となる。

 しかし、国力を安定させるには軍馬と兵の育成にも人を割かねばならない。


 人材確保の争いが勃発しかけようとした中、此の諸問題を一発で解決したのが、真が設計した水力を利用して鞴を動かす方式の高炉だった。

 紅河の流れは力河の其れと比べて急流だ。

 流れの強さを利用せぬ手はないと、現場に在た吉次の意見を取り入れながら真は水車の設計に尽力した。

 小型の水車から徐々に大型化して、3年がかりで遂に高炉に強風、いや爆風を送る事が可能な水力鞴を完成させたのである。


 紅河の水を利用する以上、河神の加護を求めて祷りを捧げるのは、遼国の民ならば当然な事だ。

 今回は巫女たちが盛大に舞う中、特別に仕込まれた白い神酒が用意され、河神に奉げられる。続いて高杯に、麻布の披帛ひはく白膠木ヌルデの木の削花が添えられる。

 水に浮かべられた高杯は、紅河の流れに緩やかに押され、やがて渦に呑まれて沈んでいった。

 紅河の神に、声が届き無事に受け入れられた証拠に、わっと安堵の歓声が上がる。


 こうして河神に紅河の水の利用の許しを乞う祓いの儀式も無事に終わり、やっと人間の祝宴となった。



 ★★★



 官民入り乱れての喜びの宴の喧騒は、長く夜半過ぎまで続いた。

 遊女たちが紅河の河神に捧げたものと同じ神酒を、皆に酌をして回る。遼国の人間は男も女も酒気を好む事この上なく、しかも強い。忽ちのうちに大甕が一つ、二つ、と空になっていく。

 互いに肩を組んで杯を重ね合う領民たちの生き生きとした笑顔に、灼は満足を覚えていた。

 よもや、自分がこうして領民たちに生きるとは何かを教えてやれる立場に立てるようになれようとは。


 ――数年前では、到底、考えられぬ事よな。

 白波のようになみなみと神酒を満たした一際大振りの杯を、灼は一気に呷って空にする。其処彼処で、王を讃える囃が上がる。

「皆、愉しめ、愉しめ!」

 灼は笑顔で、新たな神酒で杯を満たした。


 祝宴もたけなわとなった頃、燹が密かに傍にやってきた。

「どうしたかよ?」

「……お耳を」

 す、と姿勢を低くした燹が耳打ちをすると、灼の目の淵に刺してある刺青が、一層明々と輝く。

 二人して、ぐるり、と祝宴を見回すと、燹の只ならぬ様子に気に掛けていたのだろう、吉次と目が合った。

 互いに軽く頷き合うと燹と吉次は其々、酒気が回り誰も王と相国に気を配っていない無礼講となったと確かめる。

 灼は燹と、燹は吉次と目配せした後、密かに喜びの宴を抜け出した。



 ★★★



 灼は王妃である涼を連れて、妃嬪となった亜茶の棟を訪れた。


「陛下、ようこそ御出で下さいました」

 横になっていた褥から上体を起こそうとする亜茶の元に、涼が駆け寄り肩を支える。

「王妃様、何と勿体無う。王妃様のお腹の障りになります故……」

 張りの無い声で、逆に年若い王妃を気遣う亜茶を、涼は睨み付けた。

「何を云うのです。貴女も私も、陛下の御子を授かった身体。大事にせねばなりません」


 目を潤ませる亜茶は声も出せずに、くすん、と小さく鼻を鳴らした。

 そう、涼も亜茶も、ほぼ同時期に灼の御子を身篭っていた。

 亜茶を初めての女としてから、多くの後宮を得ながらも子宝に縁のなかった灼の喜びは大きく深い。


 しかし腹が目立つようになった先頃から、亜茶は体調が優れず、床から起き上がれぬ日々が続いていた。手足の浮腫が酷くなり、眩暈が頻繁に起こり身体の疲れが抜けないのだ。

 女医にょいが常に傍に従い、悪阻に効くとされる薬湯や鍼を施しているが思ったような効果が得られていないのが実情だった。

 涼をはじめ、彼女を慕う後宮の女たちも入れ替わり立ち替わりで様子を伺う。その際に、少しでも滋養をつけさせようと、高価な干し鰒や蘇など滋養のあるもので心尽くしの料理を作り持ち寄るのであるが、悪阻のせいで量が食べられない。そんなこんなで、亜茶の健康は一向に回復しない。


 涼は此れまで、後宮の女たちを治める役目を充分こなしてきたと自負していたのであるが、亜茶に倒れられてからまだまだ頼っていたのだと思い知らされた。

 亜茶が倒れて以来、涼は積極的に彼女の役目を引き継ぎ、他の後宮の妃たちに肩代わりできるものは役目を譲るなど妊婦らしからぬ精力的な動きを見せて、亜茶がゆっくりと横になっていられる環境を内から外から整えていった。

 若さに任せて腹の子を感じさせぬ機敏な動きをしてみせる涼に、亜茶ははらはらさせられどおしだった。しかしながら、涼がこうしてきびきびとした動きを見せるからこそ、逆に周囲は此れならば腹の中の御子様もさぞやお元気あろうと安堵するのだとも理解していた。

 やがて亜茶も涼の手腕に慣れ、腹の子大事に日々を過ごす事に慣れていった。


 とは云うものの此度は亜茶でなくては成らぬ役目があった。

 其れは、『那国村』からの連絡の取り次ぎ役である。



 ★★★



 亜茶は名前が示す通りに、『那国村』の出身者だ。

 河国に幾世代にも渡り肉腫のように深く浸透し、最早切り離す処か根が何処にあるのかを確認するのも容易ではなくなった『那国村』は、しかし、彼らを那国の民でも河国の民でも無くしてしまった。


 その事実を一番認めており、そして自然に享受しているのは外でもない、那国村の者たちだ。

 自分たちは流浪の民とされる、平原の中に在る国でありながら国と認められぬ遼国の民と何等変わる処がない。

 寧ろ根幹を消され、自尊心を利用されている以上、遼国の民よりも悲惨であると云えよう。


 そんな彼らが、世代を重ねる内に次第に変質していったとて誰に咎められようか。

 彼らとて、生き延びんとする本能に従ったまでだ。

 そう――『那国村』は挙げて遼国王に忠誠を誓い、仕えると決意したのである。


 『那国村』の人間にとって、那国も河国も、自分たちを好き勝手も勝手、好い様に利用するだけの存在だ。

 そんな輩に上手く利用され続けねばならぬ謂れなど、何処にもない。

 自分たちの命運を切り開く為に、『那国村』は遼国の民として生きる事を選んだのである。


 亜茶はそんなうからの想いを一身に背負い、灼に仕えていたのだ。

 嘗て灼は河国のしちとして生きる時代が長くあったが、那国と河国との戦のどさくさに紛れて遼国の領土へと逃走し、決死の独立劇を敢行した。

 その際に同じく質として河国の館住まいであった灼の母親と、他の女たちを率いて見事な脱出を図ったのは、亜茶だ。この脱出を成功に導いたのは、外でもない『那国村』の存在あってこそだった。彼らからの情報と協力があればこそ、亜茶は逸早く脱出の準備を指示し、そしてより安全な道を選んで、か弱い女性たちを率いて遼国に脱出したのだ。

 しかし、最も長く灼に仕えている彼女は、その分、年嵩がいっている。

 既に40に手が届こうかという年齢に差し掛かり出して、初めて子を宿したのだ。

 幾ら美貌に然したる衰えは見えずとも、積もり積もった長年の苦労は確実に彼女の体内を蝕んでおり、悪阻の強さは残酷なまでに彼女の衰えを引き摺りだしたのだ。



 大きな腹を抱えながらも、きびきびとした動きで女官たちに的確な指示を出す涼の姿を、亜茶は眩しそうに見上げる。

 溌剌とした若さだけは、自分はどれだけ望んでも決して手に入れられない。

 20年近く経って漸く、殆ど執念のようにして愛しい男の子を腹に宿したというのに、健康に産んでやれる自信が今の亜茶にはなかった。


「亜茶、話ならば横になっていても出来るがよ。楽な姿勢でおれ」

 がしがしを音を立てて引き摺ってきた椅子に、どす、と音を立てて灼は座る。

 そんな不作法さは、まだ、『御館様』と呼び慕っていた頃の悪童時代と変わりない。くす、と笑いながら、其れでは遠慮なく、と亜茶は横になった。うむ、と満足そうに頷いた灼は、亜茶の腰をさすりだす。


「申し訳御座いませぬ。母親が大年増のせいで……」

 大真面目に、何を言いだすのかと思えば、と灼は肩を揺すって笑い飛ばす。

「病は気からというが、気持ちが老けこんでおっては腹の子も気鬱になるぞ」

 笑え、笑え、と声を立てて笑う灼を、亜茶は目を細めて見詰める。

 楽な姿勢で横になれるように、と涼が綿布の袋に綿わたを詰めたものを亜茶に差し出してきた。

 抱きかかえるようにして半分身体を乗り上げると、膨らんだ腹が圧迫されずに楽な姿勢を保てるのだ。


 申し訳御座いませぬ、と言いかける亜茶に涼は人差し指を立てて口元に宛がい、お互い様ですわ、と悪戯っぽい笑みを浮かべた




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