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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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18 句国王・玖(きゅう)

18 句国王・きゅう



 句国王・きゅうの朝は早い。

 朝駆けと称して、王都近隣の田畑を見て回るのを日課としているからだ。

 特に、こん山脈を挟んでになるが隣国である備国ひこくが、国領を侵し始めてからは雨が降ろうが雪が降ろうが御子が産まれようが、一日たりとて欠かした事がない。

 領民たちの心を安んじるのが国王としての最大の務めである、と自らに誓っての行動だった。


 尊い玉体を晒すなど恥である、と当初、諌め諭した老臣たちであったが、馬を颯爽と駆る玖の姿を一目見る、ただ其れだけで備国からの攻撃に耐え続ける領民たちを見て、徐々に考えを改めていった。

 今では、彼らの方こそ何事にも動じず定時刻を迎えれば馬を駆る玖の姿に心を安らげているのだった。



 ★★★



 手水を取り、更衣の手により衣服を整えた玖は、閨を共にした王妃・ぬいの手を取ると滑らかな手の甲を撫でながら微笑んだ。


「では、私は行くが、女医にょいを控えさせておる故、辛ければ遠慮なく呼ぶのだぞ?」

「……はい、陛下……」

 後宮の妃たちの間には王子や王女を数人儲けている玖だが、廃太子時代に娶り、苦楽を共にして呉れた王妃・ぬいの腹にはなかなか御子が宿らなかった。

 その王妃に懐妊の兆しが見えたと、昨日の晩、典医に密かに告げられた玖は正に天にも登る気持ちであった。

 一晩、王子であるか姫であるか、名前はどうする、養い母は何処から迎えるか、祝いの品を造らせねば、と一方的に捲し立てて妊娠初期の縫を疲れさせてしまい、女官長に雷さながらの叱責を喰らったのも御愛嬌だった。


 浮かれながら、玖は縫の頬に口付けを落とした。縫は女官たちの目を恥じらい、頬を染める。不遇の時代も変らず傍にあり続けて呉れたというのに、王妃の初々しい美しさは損なわていないのが玖の密かな自慢だった。

「良いか。最早、其方一人の身体ではない。此れまで、其方は後宮たちに良くしてやって呉れた。その分、此度は其方こそが大切にされねばならん」

「……はい、陛下……」

 一国の王妃が懐妊したのだ。本来なら、この慶事を大々的に国内外に知らしめたい。しかし、縫自身が其れを拒んだ。玖は訝しみながらも、長く寄り添ってきた王妃の言葉に従うことにした。だからこの懐妊は、王妃付の女官や内官たちの他には、典薬寮の一部の者と玖しか知らない。


 明るい朱色に染め変えられつつある空に、微かに残る星の名残のような縫の視線を感じながら、玖は休んでいた彼女の部屋を後にした。



 ★★★



 厩に到着すると、もう既に早駆用の馬に鞍が備えられ手綱も鞭も用意されていた。見れば、姜が厩の前に居るではないか。


「陛下、お早う御座います」

「ああ」

「良き朝に御座いますな。早駆けには持って来いで御座いますぞ、陛下」

「ああ」

 晴れ晴れとした表情で、巨体をうきうき(・・・・)と揺らしながら、甲斐甲斐しく玖の愛馬の世話を焼く姜であった。


 今ではすっかり忠義随一、臣下の鏡として名を挙げられている姜であるが、若き王が早駆けを初めた頃は煽るように従っていた為、乱心しただの叛臣であるだのと取り沙汰されていたのは句国の王宮では有名な話だった。

 さきの王・番の時代から従う臣下たちは、拠所無い事情があったにせよ玖に不遇の時代を味あわせてしまった後ろめたさがあるが故に、彼が王座に就くや否や、異常な程の忠誠をみせた。其れが僅かでも玖を蔑めてはならぬ、という先走りというか些か過保護の極端に走らせたのである。

 が、姜は彼らを大喝し、一蹴してみせた。


「陛下が道を外されたのであれば、成程、我が腹をかっ捌いてでもお諌めすべきであろう! だが、陛下の行かれる道が正道であると信じられぬ臣下ばかりである事の方が、今は問題視すべきだと思うが貴殿らのお考えや、如何に!?」

 ぎろ、と睨みを効かせる姜の正論に、こそこそと老臣たちは引き下がった。

 何と言われても、仕方が無い。何と言っても勝利など望めようもない底無し沼のような恐怖を、おくびにも出さずに戦場に従ったのは姜のみだからだ。

 やがて、言葉よりも雄弁に語る態度を示された老臣たちは、溜息と共に古く硬い考えに固執していた自らを恥じて、姜に謝罪を申し入れてきた。こうして姜は玖だけでなく、家臣団からも信任を寄せられるようになり、句国の大将軍として軍部の頂点にたつ身にまで立身出世を果たしたのだった。


 しかし節を曲げぬ姜は、この様な雑事などは下男や公奴婢たちから泡を喰って、お止め下さりませ、お任せ下さりませ、何卒我々の仕事を奪わないで下さりませ、と手を組んで懇願されても切々と涙ながらに哀願されても、断固として譲らない。

「陛下の御事は、細部に至るまで私が手を尽くして世話をし申し上げねば気が済まぬだけだ。構わんでよい」

 幼少の頃より支え続けてきた時のままの仕えぶりなのであるが、周囲はたまったものではない。

 今もまた、姜の忠義心の被害者である厩番の下男たちは平伏し、何か言われはしまいか、とこそこそと互いに顔を見合わせていた。

 吹き出しそうになりながらも、玖は労いの言葉を入れてやる事を怠らない。

「ああ、ししの張りも毛艶も、何とも良い馬であるな。日頃の手入れの賜物だ。句国の軍馬はこうでなくてならぬ。其方ら、よくやって呉れているな」

 まさか、国王直々の声掛かりで労われるなど思ってもみなかったのだろう、興奮に顔を赤らめ身体を緊張で硬直させている素直で純朴な馬番たちにも、玖は笑いが込み上げてくるのだった。



 ★★★



 しかし此れは、祭国郡王と親しくなってから身に付いた事だった。

 正式な王太子でありながらも寵姫に狂わされた父王の心持ち一つで王子の籍を剥奪されるなど、玖は不遇の時代を実に長く過ごした。

 とは言うものの、『お可哀想な王子様』として、姜を始めとした心ある旧臣たちに陰ながら支えられ、大切にされてきたのもまた事実だ。

 そんな玖は、郡王・戰と打ち解け彼を知れば知るほど、自分は置かれた立場以上の愛情を周囲の者にかけて貰えていたのだ、と気が付いた。


 ――いや、気が付けたという方が正しいか。

 左昭儀さしょうぎみつの何処までも貪欲な出世欲が、というよりも歪んだ執念が結実した存在が、異腹弟おとうとみちである。

 左昭儀・蜜の奸計により王太子となった享は、異常に肥大した自尊心を開けっぴろげにして隠そうともしなかった。当然ながら、そんな異腹弟・享の顔付きも態度も言葉も何もかもを、玖は好いてはいなかった。


 だが、今にして思えば、ただ正王妃の腹の、しかも一番最初に生まれた御子である、という理由のみで何の努力もなく王太子として認められ、蝶よ花よと持ち上げられる自分を、享も幼いながらも片腹痛く斜めに見ていたに違いない――と、玖は事実を受け入れだしていた。

 自分は考え方が甘かったのだ。

 己の常識は、他者にとって理不尽極まるものであるかもしれないのだ。

 喩え大多数から見て其れが大いなる過ちであったとしても、相手にとっては揺るぎ無い正義である以上、自分は極悪凶猛な罪人と成り得る場合がある。

 ――所詮は何方も何方、互いに未熟な感情をぶつけ合っていた愚か者であっただけの話だ。

 しかし、歪んだ悪意により不当に貶められるのが自分・・という個にのみであったならばまだよかったのだが、生憎と此の身は句国王の王子であり、正王妃・文から産まれた第一王子であり王太子だった。

 その自分を冒涜する行為とは、即ち句国という国の根幹と名誉を毀損そんきするものだ。

 其れに寄り、国家を混乱に蔑め転覆させる機会を他国に与えてはならない。


 ならばどうすれば良いのか?

 国内で味方を、王たる者の努めを果たす者であると認めて貰い、王者として受け入れて貰う事だ。

 ――王として、領民に好かれる事だ。

 気付いて以後は、玖は戰をまじまじと観察し彼をより知る事から始めた。

 戰が自然と周囲の者と打ち解けるのは、先ずは此方から気持ちを明らかにして飛び込んでくるからだ。身分など知るものかと言わんばかりに積極的に、感謝しておれば感謝を、感動感銘を受けれは其のままを、伝える。


 全てを他人任せにせず、自らの脚と言葉で示す。

 ――そうだ。

 私と姜が彼ら二人にどうしようもなく惹かれた時と同じではないか。

 では、郡王と彼の臣下たちと同じようになりたいと思うなれば、事を成すには先ず、郡王と同じようにすればよいのだ。

 其れからの玖は、戰を手本・・として物事に当たるようになったのだった。


 とは言うものの、戰を真似れば真似る程、彼が遠くなる。

 備国からの侵略に、我ながらよく耐えていると思う。

 祭国郡王であれば、よくこの句国を治め守っているに違いない、という臣下たちが無意識にそして明白に発する無言の圧力なども、玖は当然だと感覚なので今更何とも思わない。


 それよりも、他人から突かれるよりも、自分の内側からじわじわと滲み出す冥い思いの方が厄介だった。

 自分には、このこん山脈へ通じる大切な公道を守護する国の王など、荷が勝ち過ぎるのだと云う事くらい解っている。


 ――所詮、王者の器ではないのだ、私は。

 郡王・戰が、この句国の王であったならば、と家臣たちが密かに念じている事くらい、分かっている。

 羨んだ処でどうにもならぬと解っているからこそ少しでも近付けるようにと努力しているが、そもそも、戰は喩え一瞬であったとしても、此の様なそねみを丸出し(・・・)にした健羨けんせんの眼差しで人を串刺しにすまい。


「分かっている……分かっているのだ……だが」

 ――だが、私も人間だ。

 解っているからこそ、天性のものに加えて天然自然てんねんじねんに人に対して平等に接する事が出来る戰と自分との、人物の違いを魂が砕けるのではないかという嫉妬と共に感じて夜も眠れぬ程身悶えするのだ。


 そしてそれを誰にも悟られてはならぬという苦しに、せめて耐えねばならないのだ。

 ――曲がりなりにも王として、句国の玉座に在る以上は。

 そして王妃を始め、多くの後宮と御子たちを持つ親としても。



 ★★★



 馬は三頭用意してあった。

 自分と姜の他に誰が、と首を捻りかけた玖は姜がにやりと笑ってみせたので、ああ成る程、と思い至った。

 祭国からの使者として訪ねてきた、克の分である。

 句国との戦の後、克は順調に出世し続けており、禍国においては牙門大将と同等の四品扱いを受けており、近年は学より正式に正三品中領将軍として任命された。同じく、杢は上軍大将軍の他に、学より祭国の軍部における最高顧問責任者として輔国将軍の地位を得ている。

 その克が、玖も姜も、無論、他の重鎮たちが思いも寄らぬ報を齎した。


 曰く。

 こん山脈以東の国におかれては、冷夏に注意されたし。


 激震に似た響めきが、場を支配した。

 しかし使者としてやって来た克は、真面目生一本な実直が人型となったような好人物として句国内でも知れ渡っている。態度も言葉も何もかもが率直であり、隠しだても出来なければ何か後ろ黒い含み処抱えながら臆面もなくシラを切るなど出来ないおとこだと、この数年の付き合いで玖も姜も了解している。

「かつ……いや、御使者殿。郡王陛下が態々貴殿を寄こさねばならぬほど、事態は切迫していると思わねばならぬのだな?」

「はい。この冷夏の後には、恐らく飢饉が平原を襲うのではないか、と真殿は見立てられました」

 此処ぞ、とばかりに克は真の名を出すと、おお!? という響めきが挙がる。


「何? 真殿がだと?」

「克殿、其れはまことなのか?」


 克の口からでは、幾ら盟友である戰が郡王として認めた親書であったとしても、直ぐには受け入れられる内容ではなかった。

 其処で克はもう一押しに、絶対的に不利であり大敗確実と思われていた先王・番との戦の大勝利の立役者の名を出したのだった。克も其れくらいの交渉術は身に付けてはいたわけだが、真の名前を出すという彼の目論見は、想像以上に効果絶大であった。

 戰だけでなく、真の名を出されて朝議の場は騒然となったのだ。

 郡王・戰に影のように従う真の姿と、その彼の頭脳が捻り出した言葉に、句国は良きにしろ悪きにしろ巻き込まれてきたのだ。身構えぬ方がどうかしている。

 しかも実直謹厳な克の人柄も相乗効果として功を奏し、結局は『不測の事態に備えるべし』という流れに議題は傾き出していた。


 かくして克は、見事に大役を全うする事に成功した。

 とは言うものの、根っから現場に出ての指揮が合う(・・)のだろう。

 句国に滞在して議事に没入し解決の糸口が見えて来れば来る程、克は元気をなくして見事なまでに萎れていった。元気一杯の腕白盛りの仔犬が、常に縄に繋がれて犬小屋に押し込められているかのような、余りにも哀れな萎れっぷりに何とかしてやれないものか、と玖は気になっていたのだが姜も同様だったらしい。


「では、祭国の使者殿が参る前に母上に挨拶をしてくるとしよう」

 玖は笑顔で姜に声を掛けて、踵を返した。



 ★★★



 朝駆けに出掛ける前に、玖は必ず東朝宮へ住まいを移した母后・ふみの機嫌伺いに赴く。

 東朝宮とは句国王宮の一番端に建てられている宮殿であり、東宮と称される事もある王太子の住まい近くに在る。所謂、西宮と逆の立ち位置にある宮の事だ。王妃や、先王の寵愛の深かった後宮たちの終の住処となる宮殿である。


 玖の母后、即ち王太后・文は息子の栄達と共に、安寧の宮殿を得たのである。

 正王妃として第一王子であり王太子である玖を産んだ身でありながら、玖の母・文は父王・番に不当に貶められ、不遇の時が長く続いた。気弱く神経質な気質であった母后・文も、此れで穏やかに暮らせる、孝行の一つが出来たと喜んでいた玖だったのだが、しかし漸く手に入れた平穏な日々の流れの中にあっても、文は常に仔鹿のように震えて神経を尖らせている。

 それ程、文の心の隙間に生じた闇は深く暗いのだ。全ては不甲斐のない不肖の息子である自分の責任であると玖は思っている為、母后・文への愛情は一層深まるばかりだった。



 東朝宮に到着すると玖は部屋付の内官を呼びだし、母に朝の挨拶を賜りたい、と遣いに出るよう命じた。

敬意を込めた礼拝を捧げた内官は下がり、程なく戻ると母后・文からの許しを携えていた。

 内官の先導をうけ、背後に宦官と女官たちをずらずらと引き連れて母の部屋へと向かう。最礼拝を捧げつつ戸口にたつ玖の鼻腔を、優しい粥の香りが揺蕩い、くすぐった。

「母上様、お早う御座います。良き眠りを得られましたでしょうか」

 そのまま平伏すると、手が振られる衣擦れの音がした。が、玖は平伏の姿勢を崩さない。

「お早う御座います、陛下。今日もよく来て下さいましたね。嬉しい事です。さあ、面を上げて下さりませ」

 直接の声掛けの許しを得ても、玖はまだ平伏の姿勢を解かない。暖かい笑い声が玖の背中に注がれた。

「何時までも、そのようにしてわたしに寂しい思いをさせないで下さりませ。さあ、わたしの自慢の息子にしてこの国の王である陛下のご尊顔を、早くみせて下さりませ」


 やっと平伏を解いた玖の目の前に、盆に乗せられて小さな茶碗が差し出された。

 先程の、腹の中に飼っている空腹という虫を刺激して止まぬ匂いの――玖の好物である雑穀をふんだんに入れた粥だった。

 王太后である文が、愛息子が訪ねてきてくれる時間にぴたりと合わせて出せるように命じて作らせていたのだ。しかも自らの手で、杓子を使って茶碗に粥をよそっている。

 母の心使いに恐縮しながら盆を受け取った玖は、早速茶碗に手を伸ばした。良い香りに胃が刺激され、いよいよ腹の虫が活発化してしまい我慢がならなくなったのだ。


 だが、想像よりも遥かに熱い茶碗に驚き、危うく落としかけた。

 茶碗は、粥の熱気そのままの熱さだった。顔を顰めて、慌てて床に茶碗を置く。掌を赤くじんじんと唸らせる火傷寸前の熱に、ふぅふぅと息を吹きかけながら、玖はふと、匙が無い事に気が付いた。

 未だに袴着前の童のような目で自分を見、何くれとなく世話を焼きたがる母后・文が匙を忘れるとは考え難い。密かに顎を上げた玖の視界には、憂いを秘めた文の横顔があった。


 ――母上……?

 眉を顰めると、母后・文が深い溜息を吐いた。

「陛下。一体どうなされるおつもりですか?」

「母上様、?」

 茶碗を手にしたまま姿勢を正すと、母にだけは子供じみた仕草を見せる玖はきょとんとしている振り(・・)をした。しかし、内心では心の臓が早鐘を打っていた。



 盟友であり今や開襟の友とも思っている祭国郡王・戰皇子からの遣いとして、句国とも関わりの深い祭国の万騎将軍・克が数日前から王宮を訪れている理由も、彼が齎した報により王宮内に議論の大嵐が吹き荒れた事も、母には全く伝えていなかったからだ。

 母后・文は兎に角心持ちが細く弱い。

 何か少しでも想像の範疇を超えると、目眩を起こして卒倒し、其のまま寝込んでしまうのだ。自分が父親に廃嫡された経緯がそのようにさせてしまったのだ、という強い負い目を玖は母親に抱いており、細やかに母親を気遣っていた。


 元々、政治に口出しをするような、おとこには負けぬといった気負いや、子に対しる以上なまでの期待感からくる激しさなどいったものは皆無な女性ではあった。

 そして、一度卒倒して床に伏せるとなかなか起き上がれない母后・文を、玖は意識的に政治の話から遠ざけた。句国における内政面の問題も外交上の云々等の一切を玖は相談もせず、また耳に入れぬように宮女や宦官、内官たちに厳しく言い渡してあった。

 文の現在の気質には、内政の問題上から常に他国から領土を虎視眈々と狙われているという事実は負担にしかならない。

 そして国母である彼女の動揺は、王宮内にも大きな波紋を呼び寄せてしまう。

 息子として王として、玖はある意味、母親にして王太后である文を、一番恐れているといってよかった。



 ★★★



 玖の内心に気が付けなかったのか、陛下、と文はもう一度溜息を吐く。


「今の句国は、粥が満たされたこの茶碗と同じです」

 玖はどきりとした。

 確かに、腹を空かせた他国からは、此の句国は実に美味そうに見えている事だろう。

 美味そうに見える条件が全て出揃い、そして手を伸ばしやすく、匙で掬って口に運べば咀嚼する手間もなく易々と平らげられる。

 其れが句国だ。


 床の上でまだ湯気をほくほくと立てている粥に視線を落としながら、玖は成るべく優しく母を諌めねば、と言葉を探った。宮女や内官たちの多くの目がある場で、朝っぱらから王太后が国王に苦言を呈している姿を晒すのはよくある事だったが、其れは大抵の場合、世継ぎの御子や王妃と後宮たちとの和合についての話題、つまりは女性が大好きな世間話に偏っていた。

 此れ以上、政治的な話に踏み込ませては、また母の精神の安定が損なわれてしまいかねない。

 玖は苦心しながら茶碗を手に取り、必死に頭を巡らせる。懐妊をまだ知らせてはならないとした王妃・ぬいの心遣いが、今は有難く感じた。今の母の気持ちの持ちようでは、慶事も瞬く間に凶事と摺り替わってしまうだろう。


「母上、ご心配には及びません。無造作に手を伸ばそうものなら、粥の熱を伝えている器が凶器となり思わず放さずにおられぬように、王である私が毅然としておれば他国は手出し出来ぬのでありませんか?」

 無造作に茶碗に手を伸ばして、あつっ、と小声で叫んで叫んでみせる玖に、母后・文の目元と口元が優しく緩んだ。しかし、直ぐに萎んでしまう。涙ぐみかけた文は、きゅ、と唇を引き締めると袖で目元を拭い、そして背筋を伸ばして玖の前に座り直した。母の態度に、玖は首を傾げる。


「……母上?」

 陛下、と文は微笑んでみせる。

 年相応の皺が刻まれる目元と口元であるが、玖は美を追い求めてるあまり年齢をも捻じ曲げるような左昭儀・蜜よりも、自然体の文の方が美しいと改めて誇らしく思った。


「陛下、貴方様は只今、この粥を我が句国に、茶碗を御身に喩えられました」

「はい、そうですが……?」

「ではもし、茶碗が支えきれず丸ごと放り出されたならば、どうなるのでしょう?」

「母上?」


「熱い、と叫んで投げ捨てられた茶碗は中身を零した後にどうなってしまうのでしょう? 床に零れた粥は、野犬や野豚どもに瞬く間に啜られ、貪り尽くされてしまうのではありますまいか?」

「は、母上……?」

「床に当たった茶碗はどうなりましょう? ころころと転がって何処へと向かうのでしょう? よもや、床に当たった衝撃で粉々に砕けてしまうのではありますまいか?」

「は、母上?」

 何時もと違い、毅然とした態度で続ける母親に逆に玖は慌てた。


「何を心配されておられるのかは存じ上げませぬが、大丈夫です。母上の御心を乱すような事は……」

 ありません、と続けようとした玖の言葉を遮るように、文は嘆息した。女官が柔らかな色合いの小振りな凭几ひょうきを、彼女の為に差し出してくる。辛かったのだろう、文は凭れると目を閉じて首を小刻みに振った。

「陛下、わたしは確かに御国の内情にも外の国々との間の関係にも暗い、愚かな女に御座います。陛下を此の腹に宿し、産み育てる栄誉を賜った、ただそれだけにて国母の位置に構えておられる卑しい女に御座います」

「は、母上?」

 憂いを帯びた口調で切々と訴え出すのは、何時もの文に一気に戻った感がある。が、国に関する話題でこのような言い方をする姿を玖は想像した事もなく、また出来なかった。そんな腺病質な質の彼女を、此処まで駆り立てているものはなんなのだろうか、と玖は胸が痛み疼く。


「陛下。陛下は本当に、ご自身の器がこの茶碗と同じく強いと思われておられるのでしょうか?」

「……」

 玖はどきりとした。実に、玖にとって痛い処だった。

 幾ら、郡王・戰の真似事をして国が安堵した処で、所詮は真似の範疇内の話だ。

 たまたま此れまでが上手く廻っていただけの事であり、不測の事態、つまりは自分の手に余る何か(・・)が起これば、忽ちのうちに自分自身の気持ちが追い付かなくなるだろう。


「母は、陛下のが弱いものだとは露ほども思っておりませぬ。ただ、陛下の器とは、陛下がお臨みになられねばならぬ、此の先に満たさねばならぬ粥に対して、果たして相応しいものなのありましょうか?」

「……母上」

 もう一度、母后・文は嘆息した。

 しかし今度は、憂いよりも微笑みの成分で成り立っているものだった。


「陛下、此れよりのわたしの言葉は、王太后としてではなく、只の母の言葉と思うてお聞き下さりませ」

「は? ……は、はい……」

 訝しみながらも玖が頷くと、にこり、と文は笑い掛け、凭几ひょうきを横にずらして両腕を広げて息子を招いてみせた。

 膝を使って躙り寄ると、ふわり、と暖かな陽だまりのような心地良さで胸に染みる薫香と共に、母の腕が玖の頭を胸に抱き寄せる。


「陛下」

「はい、母上」

「陛下がご自身の器にあらず、と思うてのご英断なれば母は陛下の存念に従いますゆえ。母の身の行く末を心配為される余り、道を違えられてはなりませぬぞ」

「はは……う・え?」

「況して王妃を始め、後宮や和子様がたの末を案じる余りに、国の行先を見誤ってはなりませぬぞ」

「は、はは……」

「陛下に従わぬような不埒者はこの王宮におりませぬ。いざ、という時には躊躇される事のう、御決断なさりませ」

「母上……!?」


 ――いつの間に、母上は気が付かれておられたのか……!?

 自分は句国の王として足りぬと感じていると、それ故に何時かはこの座を明け渡す日が来るであろうと予感めいた決意をしているのだと、何時の間に悟られていたのだろうか?


 動揺を隠しきれず黒目が泳ぐが、そんな玖の失態を晒さぬようにと文は長い袖で息子の顔を隠すように腕を曲げた。

 母の腕の中で玖は顔を上げた。

 慈愛に満ちた母の顔は、常に彼が案じ続けてきた心弱き女人の其れではなかった。

 一頻り、息子が幼子の時のように額を撫でていた文であったが、不意に身体を離して粥をよそった茶碗を差し出した。


「さ、陛下。朝駆け前に、どうぞ粥をお召し上りになり、身体を温もらせてお行き下さりませ」

「はい。では遠慮なく頂戴致します」

 

 文が差し出した匙を受け取ると、玖はともすると滲んできてしまう涙を堪える為、丁度良い暖かさにまで冷めた粥を、一気に掻き込んで胃袋の中に落としていった。



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