17 契国宰相・嵒(がん)
17 契国宰相・嵒
気付いた時には、娘の部屋の戸口が見えていた。
「……」
「どうかなさいましたか、旦那様?」
「……いや」
嵒は首を振った。が、久しぶりに姿を見せた屋敷の主人のおかしな挙動に、下男はこそこそと顔を覗き込んでくる。よい、下がれ、と嵒は下男を無理矢理下がらせた。
★★★
先王・邦の御代から仕える嵒は、家臣の中で人一倍仕事熱心な男として知られている。一人娘が剛国に去ってからは、更に家にも戻らぬ精勤ぶりをみせていた。
だが余りにも仕事漬けが過ぎたのを見かねた国王・碩から直々に、帰宅するようにと命じられたのだった。
「宰相、其方のやりようは極端過ぎる。精根を詰め過ぎては身体を害してしまおう。城から下がり、休むがいい」
「陛下。家臣が君主が為と、七代生まれ変わる魂すら注ぎ込み仕えるは当然の事に御座います。お気に病まれぬよう」
「だが如何にも根を詰め過ぎだ。疲労が蓄積しておろう。さすれば国が為に充分に働けまい」
「この嵒、成る程、若駒の如し陛下とは比べるのも烏滸がましき老耄の身。なれど、この程度の働き程度で疲弊するような、やわな鍛え方は致しておりませぬ」
必死で食い下がる嵒に、いかん、許さん、とだけ碩は厳しく言い渡した。
「此れは王としての命令だ。後は若い部下たちに任せ、明日は登城せずともよい」
「……解りました、陛下」
此れ以上の議論はせぬ、と言いたいのだろう、碩はくるりと背を向けると、其のまま宦官や内官たちの列を引きずるように連れて去っていった。
城で住み着くように寝泊りしていたのは碩にそう言わせぬ為でもあったのだが、嵒は渋々ながらも、最礼拝を捧げつつ碩の命令を受け入れざるを得なくなった。
こうして久方ぶりに自宅に戻ってきた嵒であったが、自分でも自覚せぬうちに一人娘である照の部屋に向かっていた、という訳だ。
普段であれば自室へと直行し、直様、書簡を広げて持ち帰った仕事をこなす。下手をすると仕事をしながら部屋で食事をとる有様であるというのに、自分でも此れには苦笑しきりだった。
未だに探るように見上げてくる下男たちに、もう一度手を振って下がらせる。彼らの姿が見えなくなってから、嵒は其のまま娘の部屋の戸を開いた。
からり、と乾いた音を立てて戸は開く。
開けた途端に、娘が好んだ愛らしくも慎ましやかな香が優しく香り、鼻腔を密やかに撫でていった。
すん、と鳴らしつつ鼻頭に手の甲を当てながら嵒は部屋の中に脚を踏み入れた。
部屋の主を思う召使たちの心使いだろうか、埃もなく調度品も綺麗に磨かれている。娘がいなくなって久しいというのに、一刻後に娘が里帰りするとの知らせを受けても困らぬように暮らしていた頃と寸分違わず整えられている。そんな部屋の中にぽつんと立ち尽くすのは、嵒も親として胸が潰れる思いだった。
契国王・碩の王妹・瑛姫が剛国王・闘の王弟・烈の正妃として輿入れが決定すると、照も当然の如くに彼女について剛国へと旅立った。瑛姫の乳母であった嵒の室も共について行きたがったが直前に体調を崩したかと思うと、婚礼の行列が剛国に到着するのと前後して静かに儚い存在となった。
室を迎えてこの20余年、仕事一筋であり家族を顧みる暇すら王と国家に捧げていた嵒は、妻の体調の変化に全く気が付いてやれていなかった。
呆然としつつも、手紙を認め早馬にて照に母親の死と葬儀の日程を知らせた。
が、照は、受け取らなかったものと致します、という一文のみの返答を返して寄越してきた。
一人娘である照が母の葬儀の為に帰国すれば、下手をすればそのまま婿取りの話が出てもおかしくはない。王族から臣籍に下った身である嵒は、現国王・碩にとっても契国という国にとっても、無くてはならぬ盾であり矛である人物だ。出来れば、彼一代で終えるのではなく、一門として存続させたいと他の王侯貴族たちも見ている。
だが照は、瑛姫に従って剛国へ向かった時点で国元に帰らぬ決意をしたのだろう。
父親である自分の背中を見続けていたが故に、己の全てを捨てて主家と主人一途であるべしと、娘は育ったのだろうか。
夫婦や親子の情などに左右されるなど、武人として漢として有るまじき姿、笑止千万である、と生きてきた嵒であったが、母親の法会にすら一言も寄越さぬ徹底ぶりを示す照に、疲れに似た哀しさを感じていた。
――いや、物哀しさを感じている場合ではない。
思わず照の部屋に寄って珍しく弱気の虫が這い出てきた己の至らなさに、嵒は舌打ちをした。
照がそういう剛毅な娘に育って呉れたからこそ、此度の策は生きてくるのだ。
なのに自分が萎れている場合か。
――疲れているのだなどと、己を過保護にしてどうする。
国の為に尽くして心身を壊すのだとしたら、其れこそ本望本懐だと思わねばならぬ。
何としても成功させねばならぬという精神的な圧迫感が自分を追い詰めているのだとしたら、腹が出来ておらぬ小胆者との謗りを受けよう。
照が大切にしてきた文机の角を撫でると、嵒は唇を一文字に結んで愛娘の部屋を出て行った。
★★★
宰相・嵒は契国の現国王・碩の叔父に当たる、れっきとした契国王族の一員である。
しかし嵒は早くから、碩の父王・邦に死に至るまで忠信孝悌べしとし、その証として自ら臣籍へ身分を落としていた。王子として一族に名と籍を残していては、兄王・邦との要らぬ後継者争いの火種の一つとなる。嵒は、邦の憂いの種となるのを美としなかったのである。
それだけでなく、嵒は忠義の証だてとして妻は王妹・瑛姫の乳母とし、一人娘である照は女童の幼い頃より瑛姫の元に出仕させ、専任の宮女として宮使えをさせた。
臣籍に下ったとて、嵒は筆頭貴族だ。
その嵒が、一途な忠誠心の為に妻と娘を人質宜しく兄王に差し出してみせた事に、周囲は驚き、そして一斉に彼に習い始めた。
異腹弟王子を心服させ、且つ自ら下るを決意させるだけの器を持った王者として、兄王・邦は他の貴族や豪族たちに認識された。嵒は己の身を切る事で、周辺諸国のみならず国内にも、契国王・邦有りと知らしめたのである。
契国の領土がある平原には禍国、剛国といった大国・強国が揃い、また崑山脈を抜ける道からも近い。
その為、毛烏素山脈からの圧力も長年、ねちねちと受け続けてきたのであるが、悲しいかな、其れを一国のみで追い払えきるだけの力が足りなかった。
逆に言えば足元が泥濘んでいるくにであるからこそ、先年はあの国であったが今回はこの国、と攻め入られ続けているのは、その程度の国力だ、とはっきりと諸国に舐めてかかられていたのだと言える。
対外的に実に多くの不安要素を長らく抱えていた契国であるが、しかし邦王の時代になって漸く落ち着きを見せ始めた。
邦の王者としての資質もさる事ながら、嵒たち臣下が文字通り一枚岩となって支えたからだ。
盟主である剛国に朝貢などを怠らず、而して時には禍国にも擦り寄る柔軟さをみせた外交手腕をもって、情勢の不安定さを払拭してきた。こうして国内政情を安定させつつあったのだが、しかし実は脆いものであったと看破されたのが、先の句国王・番の侵攻を受けた時だった。
契国は国土が痩せており、農耕に適さない土地が多い。
煤黑油は商業面での大切な引合品であり国庫を潤す糧であるが、其れを産するには領民たちに過大な税を掛けねばならなかった。他国どころか国内ですら秘してあった為、知られてはいなかったのだが、煤黑油を生成するには大量の石炭が必要となる。
しかし契国の石炭の産出法は、山肌の奥深くを横に掘り進む採掘式だ。
山腹を掘削すれば、最中に大規模な落盤事故も当然起こる。
何よりも、煤黑油の生成作業中に、恐ろしい死の流行病が吹き荒れる場合もあった。
石炭と煤黑油以外では主な産業は林業や馬の産出に偏っており、兎に角、食糧を得る為にはこれらの輸出に大きく頼っている契国においては、働き手である成人男子たちががくりと減る凶事は国力の死に直結した。
そして、先句国王・番が二度目の侵攻を企てた5年前の契国は、正にこうした過酷過ぎる試練の最中であったのだ。
先句国王・番は別段、契国の情勢の不安定さを見抜いた訳ではない。
全くの偶然で攻め入ったのであるが、邦王の御代となってから最も苦しい内政状況の折に侵攻を受けてしまった契国は、採るべき道は一つしかなかった。
列強国に媚を売り諂う事である。
水面に浮かび強風に煽られ、いつ沈むかしれぬ儚くも危うい木の葉の如き身である弱小国らしく、流れに逆らわずしかして強かに縁とすべき先を見極める――
其れが契国なりの生き延びる国策だった。
禍国という大国と剛国という強国に、常に蛇に睨まれている蛙のような立場であるという点に置いては、祭国と契国はある程度似通っていると言えるが、実情は真逆の道を歩んでいた。
★★★
だが、此処に来て流れが変わりだした。
邦国王が身罷り王太子であった嵒が王となり、其れまでの政策に尽く否を突き出し凡ゆる面で変革に着手しだしたのである。
国内の農産物の生産能力をあげる為に、祭国と句国にそれぞれ技師を送り学ばせ始めた。
煤黑油だけでなく骸炭――いや瀝青というべきだろう――が新たな輸出の目玉として浮上した事により、より多くの品を一度に運べるようにと、国を挙げて巨船建築をも国策事業に据えた。
理想に燃えて精力的に邁進する碩であったが、此処で新たな問題が噴出してきた。
河国、正確には遼国王・灼が巨大炉を建設し、此の瀝青を活用しての製鉄業に心血を注ぎ始めているのであるが、紅河の流れを利用しての瀝青の輸出入を行っている為、隣国、那国がきな臭い動きを見せ始めてきたのだ。
その、那国。
禍国からの廃皇子・乱を抱えている那国を牽制する為に、碩は遼国王・灼のみならず、海を越えた向島の国、陽国王・來世とまで手を組むとまで言い始めている。
契国の国政の舵取りを、先国王にして兄である邦と手を携えて、文字通り苦楽をともにし何十年と司ってきた、という自負のある相国・嵒にとって、甥にして国王である碩のやりようは若さという情熱に頼り切った、危ういものとしか映らなかった。
★★★
自宅の書院に入ると、嵒は人払いをした。
唯一の贅沢品とも言える紫檀製の椅子に深く腰掛けつつ、溜息し、目を閉じる。
「……次々と目新しき事に着手されるのは、まあ良かろう。お若く、希望しかお見えになっておられぬであろうからな」
――だが、疲れる。
陛下の御為を、と忠義心よりお諌めする自分を老害と見做す、あの碩の昏い眸に射抜かれ続けると心身共に疲弊していく。
口に出すと余計にどんよりと身体が重くなり首が前に垂れていく気がして、此れでも溜息で留めるように気力を張っているのだ。この1~2年、精神的な疲労が肉体的な其れに直結するようになり、しかも蓄積するばかりで晴れてくれないと感じ始めている。
「……此れが老いというものか……」
一人娘の照の実家への連れない態度を思い湿っぽくなるなど、碩に老害扱いされるまでもなく、はっきりと老いを自覚せざるを得ない。
「嘆いている場合ではない」
発奮しようと、嵒は両手で頬を叩いた。
幸いにして、碩は自分たちのような父王からの旧臣を蔑ろにし、自分に甘い言葉を吐く若造たちで周辺を固めるような愚かさを見せはしなかった。寧ろ、父王・邦の時代の善行は積極的に取り入れ継続してゆこうと努力奮励している。其の辺は嵒を始め、年配者たちには微笑ましくも初々しい王者の姿として好意的に捉えられている。
事実、碩は国内の立て直しに向き合い、よくやっている。
しかし只一点においてのみ、嵒は頑なまでに嵒たち老臣の意見に耳を貸そうとしなかった。
其れは、祭国郡王にして禍国の皇子・戰を同志の頭領としての新しき世を自ら開拓せんと発進してゆこう、とするものだった。
此れだけは、相国として長く国政に携わってきた者として、嵒は許す事が出来ない。
――祭国郡王・戰。
あの御人は危険すぎる。
あの郡王・戰陛下との交わりは、碩陛下にとってまさに煤黑油を生み出す際に生じる煤気だ。
★★★
綺羅星の如くに眩しく凛々しい出で立ちもさる事ながら、溌剌とした鋭気と底知れぬ懐の深さを同時に合わせ持っている。
勝者として君臨しながらも恐れと怒りと恨みを抱かせる処ろか、弱者の懐深くに浸透せしめて己の頷き一つで、彼が思い描く方向へと相手を導いていく。
――郡王・戰。
正に生まれながらにしての王者。
「何とも恐ろしき御方よ」
そして嵒は愕然とした。
知識、武術などは本人のやる気と努力である程度――無論、真のように、武人としての素養が塵ほどもない、天帝に見放された人物も此の世は存在するが――どうにかなるものだ。
だが、此の人を惹きつける溢れんばかりの魅力から成る憎らしいまでの『人たらし』の技だけは、身に付けようだの、まして努力云々で何とかなる類いのものではない。
天性のものだ。
皇子・戰を前にすれば国政の末について語らわずにおられず、一度語らえば行動を共にせずにはおられず、行動を共にすれば離れがたくなる。
彼の横に立ち、眸を見、言を耳にし、手が指し示す先に脚を向けずにはいられない。
――正しく、王だ。
紛う事なき、王者として王道を征く御方だ。
碩のやり様に渋面を作る嵒の同輩たちの中にも、自分の息子や孫と変わらぬ年齢の新たな臣下の中たちも、皇子・戰に対しては、若き国王と同様に心を揺り動かされている者が多数いると嵒は気が付いている。
契国王として、国と領民を率いねばならぬ身でありながら、祭国に傾倒していく碩の姿を苦く歯痒く物足りず、王者としての威厳を保ち外交を成すべしと意見する者であっても、郡王・戰個人に対しては奇妙に抗いがたい魅力を感じている。
感じているが故に己の不甲斐なさを隠蔽せねばという焦りもあり、碩の王者の資質を問う姿勢になっているのだ。
王であれば、自分たちのように個人の魅力に絆されて政治を行うべきではない、と。
嵒は眉間に深い皺を刻み、底に手を当てて深く溜息を吐いた。
――恐るべき事だ。
本来であれば、陛下こそがそうなられねばならぬものを。
何を他国の皇子如きに良い様にあしらわれておられるのか。
歯噛み、というよりは嵒には痒くてならなかった。
現在の処、祭国郡王・戰に最も深く傾倒しているのは、句国王・玖だと嵒は認識している。
父王・番の愚行の尻拭いを、数年経っているにも関わらず、今尚、奔走周旋し続けている。
そんな玖であるが、それとても皇子・戰の執り成しがなければ禍国からの命により彼の首と胴はとうの昔に切り離されていた筈だ。
しかしそれにしても、句国王・玖と祭国郡王・戰は、お互いの政策施政面で禍国を飛び越えていると言っても過言ではなかった。
句国王・玖は生命を救われたから恩義を感じていると言う訳でもなく、また郡王・戰も下心ありきで動いた訳ではない。
だからこそ、若い二人の王は、竹馬の友も赤面して逃げ出すほどの固い結束ぶりをみせている。
そしてこの契国を通り越して河国と対峙した後、河国王として即位した遼国の王者・灼もまた、郡王・戰のお陰で国を手に入れたのだとばかりに遜り媚び諂っている。
――そうでなければ、誰が一代の英傑も成し得ぬような鉄の大生産になど、大戯けでなければ乗り出そうものか。
大それた事だ。
誰も考え付かぬ馬鹿げた、其れも見果てぬ夢に近い。
しかし皇子・戰の口車に乗せられた遼国王・灼は、実現可能であると信じて疑っていない。
山師の世迷言、戯言であろうとももう少しましであろうに、禍国の間では密かに大枚をはたくも厭わぬ商人たちが続出しているという。
しかも、だ。
近年、二つに分たれたという燕国であるが、そのうち、雄河の流れの恵みを多く共有している東燕側を取り仕切る王妃・璃燕は身銭を切ってまでして、皇子・戰が治める祭国と共に大河の改修工事に乗り出しているという。
――考えられん。
嵒としては唸るしかない。
燕国の根幹は騎馬の民だ。
鍬と犂を手に地を地道に耕すくらいならば、軍馬の手綱を握り締め馬蹄で草原の土を蹴散らす方を選ぶ国柄だ。
しかし、璃燕は我が子にして東燕王を名乗らせている葵燕に、戦に偏る事なき施策を自ら示している。幼い息子を揶揄し付け入られせる隙を見せるだけと警戒しているばかりでは埒が明かぬとばかりに、王妃・璃燕は西燕王・飛燕とは真逆の政策を取っている。
女の身であるという風当たりの強さもさる事ながら、根幹的に受け容れ難しと嫌煙されもしようものを、王妃・璃燕は見事な鞭裁きで東燕を祭国に寄せつつ自らの国を保っている。
――どいつもこいつも、どうしてこうも皇子・戰に肩入れするのだ。
幾ら王道中の王道を歩む王者の風格を持つと言っても、一体、皇子・戰はどんな幻術を用い、目眩ましの技にて人心を惑わしているのだ。
己の中の焦りが何時しか、甥である国王・碩との対立という形をもって政治に影を落とし始めていると、嵒も理解している。
此のままでは、決して契国のためにならぬと承知している。
それでも、嵒は引けなかった。
尊敬する王であり敬愛する異腹兄であった邦と、夜通し熱く語らいあった国造りの夢。
其れこそが、嵒にとっての在るべき強き契国の姿だった。
碩こそが、父王の成し得なかった夢を正しく此の世に実現すべし、と奔走すべきであるのだ。
そうであれば、この様に思い悩む事も迷う事もなく、一途に一心に碩に仕えられるものを、其れを陛下は忘れておられる。
「……そうとも、お諌めするのは臣下としての責務」
――喩え、其れが後の世に返り忠だ謀反だ背信の徒だとの謗りを受けようとも、道を誤った君主を導くのは臣籍にある者の努めだ。
郎党諸共滅ぼされようとも、本望であるとせねばならないのだ。
天井を仰ぎながら腕を組む。
那国王・敏と嵒は、既に何度も書簡にて密に連絡を取り合っていた。
自分が碩を廃する動きを見せれば、句国王と河国王が黙ってはいまい。
自身の蜂起と同時に、河国王を牽制する動きをするようにと嵒は那国王に密かに頼んでいた。
那国としても、隣国の河国が此れ以上強国への道を行くのをむざむざと指を咥えて見ているわけには行かない。鉄器の開発だけであれば、まだ然程苦い思いはしない。
だが、農耕と漁業にて身を立てている那国としては、諸々の技術や物資の輸出入を行う海の窓口として河国と陽国が連携し始めている現状を看過できよう筈がなかった。
此れまでは那国が一等品として重宝されてきた、珊瑚や真珠や翡翠といった宝玉、蚕の品種の違いにより絹糸の質が独特な絹、何よりも呪術に欠かせない上質の麻布などの織物、そして気候の違いにより独自色が顕著となった薬草など、那国にとっての主産物が全て陽国にとって変わられてしまった。
そして此れまで独壇場であった鉄器の生産を河国に奪われた陽国であったが、河国と対決するかと思いきや、海上の漁場を求めて勢力を広げており、那国領域であったはずの海域にまで手を伸ばし始め海の覇者としての立場を強めようとは、誰が考えつこうか。
那国王・敏が黙っていられよう筈がない。
だから那国の水上での活動を支えていた造船技術を持つ契国から、同盟を申し出てきた秘密裏のこの動きに、二つ返事で乗ってきた。
目を開いた嵒は、硯箱に手を伸ばした。
娘である照に連絡を取らねばならない。
母親の葬儀にも法会にも顔を出さない気丈な娘であるが、国の為に忠実に動く臣の一人であると嵒は照を認めている。事実、最後に受け取った手紙には、剛国内で娘は予想以上の働きをする決意を示して呉れていた。
かた、と乾いた音をたてて箱の蓋が除かれた。現れた見事な彫刻が施された硯に、水差しで水を加えつつ墨をすりはじめる。しゅ、しゅ、と小気味よい音が黒々とした墨の匂いと共に広がる。
摺り上がった墨を筆に含ませると、嵒は木簡を手に取った。
――親子共々、国に殉じ果てる決意があれば必ず事は成せる。
全ては、契国王・碩陛下の輝かしき御代の御為。
「剛国での動きは、其方に任せたぞ、照」
呟きながら、嵒はつるりとした木簡の表面に筆を走らせた。




