16 燃える山河 その5-3
16 燃える山河 その5-3
「御使者様、何卒、はい、と一言お返事を」
照の言葉を、真は背筋を伸ばして聞き入っている。
言葉を重ねる照の項が、赤く染まっている。
泣いているのか、興奮しているのか――いやその両方だろう。末若い娘が、敵対する国に輿入れした主人に従い祖国を遠く離れ、覺束ぬ身分と立場を嘆きもせずに気丈にしているだけでも哀れを誘うというのに、一人で男の部屋を訪ねねばならぬとは。
心が潰れる程の羞恥を掻き立てるであろうに、国元で宰相として重席を担う父・嵒の国王・碩の不穏な動きを暴くという、娘としてならざる不敬を働かねばならぬとは。しかもその相手は禍国に籍を置くものなのだ。心痛、如何許りであろうか、とそう思えば無下にする事も憚りを覚える。
とは言うものの、照の言葉を額面通りに受け取り、今此の場で即答出来るような話題ではない。
「状況を全く耳にしておらず判断材料もないままに、はい、と返事を返す程、私は愚かではありませんし、喩え私が此の場で首を縦に振ろうとも、郡王陛下が私の判断を全て鵜呑みにされて由との言葉をお掛けになられるとは限りません」
真は敢えて冷たい声音でぴしりと言い放つが、照は怯まない。
「判断材料があれば、と仰られるという事は、御使者様はご判断を得る為にも私の話を聴いて下さるという事で宜しいでしょうか?」
……そう来られましたか、と珍しく真は小さく零した。
普通に考えれば、幾ら武辺に暗いとはいえ大の男を目の前にした小娘が、冷たくあしらわれれば萎れて引き下がるものだ。
だが、逆に喰らい付いてくる。
つまり其れだけ、彼女が内側に抱えているものが重く本物であるという事に他ならない。
膝を揃えて座り直した真は、枕に折り畳んだ布団を載せて簡易版の凭几を作り上げて上体を寄りかからせた。
「申し訳ありません、実は数年前に身体を壊しまして」
不思議そうに小首を傾げてみせる照に、真は小さく肩を竦めながら項あたりをぽりぽりと引っ掻きながら苦笑してみせる。態度の急変に、照は伏せていた表を上げた。
「どうにも体力がないのです。非礼は重々承知の上の事として、お見逃し下さいますか?」
柔らかくなった物腰に、照の顔ばせが明白に輝いた。
★★★
膝を揃えて座り直した照は、実は、と切り出した。
「私の父・嵒は勿体無くも契国王碩陛下の御信任を得て、宰相を名乗っておりますが……」
一端、言葉を切って深呼吸をし、きゅ、と唇を固くしつつも照は決意を込めて言い放った。
「父は、禍国に対して他の国の方々と結び、反旗を翻さんと水面下で画策しているので御座います」
衝撃的な照の一言を真は表情を変えずに受け止め、具体的には? と先を促す。
「那国王・敏陛下と結ぼうとしております」
「……那国王陛下、ですか……」
契国の地理的に結ぶ国として名が挙がる国は予測していたが、いざ実際に名前を出されると事の重大さに自然と眉根が寄ってくる。意識していないが故に遠慮のない真の仕草を見て、照は涙の成分で湿った溜息を落とした。
「父には碩陛下の為さりようが、禍国、ひいては祭国郡王陛下に対して媚び諂うものとしてか映らず、歯痒く見えているのです」
戰は句国王・玖、河国王となった灼と碩と共に、崑山脈以西に広がる毛烏素平原――正確には砂漠地帯における騎馬の民に対抗する策を密かに進めている。
軍馬の育成。
胡服の採用。
騎馬隊の充実。
そして鉄製兵器の量産体制の確率。
此等は決して一国のみで成し得るものではない。
であるが故に各国王との意識を一致させた連合体を組まねばならない。
父王・邦の死病の原因を知った碩が、若さのままに理想に燃えるのは当然であろう。
そしてまた、戦に備えつつも戦に依らず国を豊かにし共存共栄の道をゆこうとする戰の理念と宿志が眩く見えるのも。
同世代である戰が、夢を夢で終えさせぬ、若者の浅はかな憧憬と揶揄させぬ、とばかりに一途に邁進する姿に、己も、と碩が触発され、発奮するのは当然と言えた。
「それが丁度、瑛妃殿下の御輿入れと同時期であった、という訳ですね?」
はい、と照は喋り過ぎて掠れ気味の喉ながらも、しっかりと答えた。
しかし碩の若者らしい意気込み溢れる雄心は、嵒のような辛酸を何度も舐めて経験を積んできた年配者の眸には、危ういものとしか写らなかった。
「ですが、父の憂いは娘の私の目から見ても独り善がりのものだと思うのです。誰が何と言おうとも、契国の国王陛下は碩陛下なのです。陛下が決せられたであれば、契国に生まれ臣下となった身なれば、否やなく受け入れるべきなのです――喩えば其れが、国を損なう重大な過ちであれば命を賭して諌めるべきでしょう。でも、陛下が選ばれた道はそうではなく、これこそ領民たちの宿願であるのです、ですから……」
「ですが、宰相様は、陛下の決を由と為されなかった」
はい、と照は目を伏せた。
涙に濡れて微かに赤みを孕んだ瞳の淵が、父親の過ちを恥じ入っているように見えた。
「それでも……以前の父ならば自分の考えは臣下として偏っているのだと、そして陛下の御意に添う為に自らは何を成すすべきであるのかに、気が付けたと思うのです。ですが……」
「周囲の重鎮の方々もお父上を諌める処ろか意を煽られるような素振りをみせられ、そして父上は彼らに乗せられるばかりであった、と?」
娘として、喩え事実であるとしても敬愛する父を悪し様に言い立てたくはないのだろう、はい……言葉を窄めていきながら照は、鎮痛な面持ちで俯いた。
「そして此処に至りお父上様から照殿に何か内密に、しかも瑛妃殿下にも秘しての話があった、のですね?」
「……はい」
膝の上で握り締めている手が、白くなるまで固められている。小刻みに震えている拳は、祭国に残してきた薔姫や娃のそれとは違う細く頼りなさがあり、何処か印象が薄く見えた。
「お父上、宰相・嵒殿は何と仰られてこられたのですか?」
真が促すと、照は、く、と短く息を飲んで気持ちを整えた。
俯けていた顎を上げると鬢で結わえてある髪が揺れて乱れたが、構わずに真を見据える。
「父は……父は、国王陛下を排斥擠陥し申し上げ、退位を迫るつもりなのです」
背筋を伸ばして凛とした声音、曇りのない瞳で照は言い放つ。だが、真は眉を顰めた。
★★★
――嵒殿が、碩陛下を擠陥讒誣されるとは思えないのですが……。
真は内心で首を捻った。
戰と共に契国に滞在した期間は、ごく短かなものだ。
だが碩国王や相国・嵒の為人を知るには全て理解するとは行かなくとも、本質に触れるには充分な期間であったと思っている。
契国相国・嵒。
嘗て戦った事がある河国相国・秀と気質的に似通った部分がある、と真は見ていた。
王が全てであり国を第一とし盲目的な忠誠心を疑いもなく捧げる、という極論にある点が非常に似ている。
其処から考えると、嵒が碩国王が戰や句国王・玖、河国王・灼らと開襟する仲になるのは危ういものと映るのは当然だと言える。
国王たる者には刎頸の交わりは必要無い。
只唯一孤高の存在として輝き続ける者であるべし、とする向きは、嵒や秀、真の父・優の世代に特に古く、其れも武人型の人物に突出した考えだ。
真は、父・優には其処までの偏りは少ないと真は見ている。それは河国戦での勝利が物語っていると思う。
だがこの王たるもの、という考えこそが『天帝の御意を受けし高尊なる我が王と国』という選民意識へと繋がり、ひいては国と国が衝突する一因となっているのであるが、彼らは気が付けない。
そして民族の根幹意識と国への欽慕と敬畏と云うものは、崇拝精神へと摺り替わっていくように仕向けると人を容易に導き易いのもまた事実だ。意識を高揚させ、領民を団結させ、盲信的に従わせ、且つ不満鬱憤を噴出さずおくには最も有効な手段であると断言出来る。
恐ろしい父の企みを口にした途端、堪えていたものが一気に吹き出してきたのであろう、照は身体を震わせている。彼女は父親が、叛逆者となり国王・碩を廃して自らが王の座に就かんとしているもの、として怯えていのだ。
そんな照の顔を覗き込みながら、大丈夫ですよ、と真は微かに眉尻を下げた。
「照殿、何もそんなに恐れる事はありませんよ? お父上には、契国王陛下を廃し奉る気はありませんから」
えっ……!? と照は顔を上げる。
「で、でも、そんな?」
穏やかな真の態度に、信じられない、と照は大きく瞳を見開いて、影を忙しなく揺らして主張した。しかし半開きとなった唇から漏れる吐息が、真の言葉通りであったなら、どんなにか、と縋ってきている。
「お父上であらせられる相国・嵒殿は、先国王・邦陛下の御代より、陛下と契国が何よりも大事と思い尊崇の意を込めて魂を捧げて仕えておられる御方です。そんな御方が、陛下に叛意を示し簒奪者とならんとされるとは、思えません」
きっぱりと言い切る真の口調に、ああ、と照が頬をほの赤く染めながら胸を抑える。
「で、では、父の本位は何処にあるのでしょうか……?」
望む言葉を紡いで欲しい、と恃みきっている照に危うさを感じつつも、真は彼女を勇気付けるように言葉を強めた。
「お父上・嵒殿は、自ら弑逆者として貶められる御覚悟の上で、碩陛下と戰様や句国王陛下がたとの縁を切らせようとなされているのです」
ごくり、照の喉が鳴った。
「碩陛下をお討ちになる気は嵒殿にはありません。恐らくは陛下を幽閉されるかどうにかされ、政治の中枢から遠ざけられるに留まる筈です。決して玉体に傷をお付けにはなられません」
ほっと胸を撫で下ろす照の眸は、真の言葉の先を知りたがっていた。
彼女の望みを叶えてやるつもりでいる訳でもないのだが、真は続ける。
「その間に、禍国・祭国・句国・河国と戦なりなんなりを起こし各国を撃破する。と言うよりも、互いの国を反目嫉視し合うように仕向けられ契国に戦が及ばぬように為されるおつもりでしょう。全てが碩陛下に都合よく廻りだし終焉に近づいた頃合を見計らい、父上は拘束していた陛下のお身柄を解かれ、陛下に叛逆者として討たれるおつもりなのでしょう――碩陛下が、この中華平原の盟主となられたお姿を目に焼き付けながら」
父親の最後の瞬間までを予言された照は、青白い顔色で切なそうに真を見上げる。明白に助力を願う視線である。
「御使者様、何卒、私の父を止めて下さい。父の誤った忠義で契国のみならず、各国王諸侯の皆様を戦禍に塗れさせるなど……」
手を握り縋ってくる照の手を、真は長手袋に収めた左手で撫でるようにした。
瞬間、はっと恐ろしげに身震いして照は身を引いた。手袋の奥に秘された左腕は、悪神の呪詛を孕んで腐り木乃伊のようになっているのだと、宮女たちの間で実しやかに噂されているのだ。これ見よがしにされ続けて等に噂を耳にしている真は、苦笑しつつ手を離す。
「照殿、まだ、大切な事を話しておられないのではありませんか?」
「……と、仰られますと……?」
「嵒殿が己の策に曲がりなりにも成功するのでは、と思われている一端には、那国との結び付きを密かに固められておられるからではありません。その後ろにある、禍国皇帝・建陛下の兄皇子に当たられる廃皇子・乱殿下と結ばれておられるからではありませんか?」
涙で仄かに光る照の頬が強ばった。
彼女は背後に、素人の小娘でもそれと解る強い殺気を感じ取ったのだ。
★★★
ひっ、と短く息を飲んで冷や汗を頬に伝わらせながらも、照は背後の殺気の主へと視線を回して正体を確かめようとした。
しかし、彼女の労力が報われる事はなかった。
真が盛大に溜息を吐きつつ首を左右に振ったからだ。
「芙。か弱い女性を相手に、そういう恐ろしげな振る舞いはいけませんよ。當たら怯えさせてしまえば、伝わる話が拗れて終わってしまいます」
「そのつもりでやっているのです」
珍しく手厳しい芙に、おやおや、と真が苦笑する。真殿はお甘い、と唇を動かさずに呟いた芙は首を左右に振った。
「真殿。事は契国内の内乱です。真殿が関わる事ではありません」
「そうでしょうか?」
「そうです。そもそも此度の剛国と西燕の諍いにも、骨を折ったとて王弟殿下に無駄に恨みを買うだけだと分かっていた筈。真殿であれば、手を貸してやる必要などなくとも、剛国王を言い含められたでしょうに、何故、阿呆な申し出に従われたのです。真殿の甘さが、此のように別の案件を呼び寄せる。此処で断ち切ってしまわれるが宜しい」
「ですが芙、嵒殿は那国に居る乱陛下を利用して禍国に厄を齎さんと画策しているのですよ? そうであれば、事は戰様と祭国と学様にも及んできます」
「其れが真実であるかどうかなど、誰にも判りません」
鏢のように冷たく鋭い芙の流し目が、照の首筋に突き刺さる。びくり、と照は身を震わせて顔を背けた。舌打ちこそしなかったが、芙はそんな照を凝視する。
此れまで、照が何かというと真に取り入ろうとしていた理由が分かり、芙はじっとりとした粘着性のある怒りに支配されていた。
――どいつもこいつも、真殿を都合よく利用する事しか考えん。
しかも真殿も何が目的で近付いてきているのか、分かっておりながら。
剛国王・闘の要求は理不尽の極みであり、王弟たちの寵を競う争いに當たら足を踏み込む危険を知りながらも、結局は陛下がたの御為と何も表面に出さずに引き受けられた。
ぎろ、と芙は照を睨む。
契国での彼女の父親の地位と、彼女の主人たる瑛姫の身分を慮れば親密な態度は危険極まるものであり、無駄に後ろ指をされるような行為は慎むべきなのだ。
何よりも、腕の治療を行おうとすると袖で顔を隠して明白に中傷の視線を向け、こそこそと、それでいて耳に届くように非毀誹謗の言葉を囁きあうような輩の居る場所など、芙たち5人の仲間も克の部下たちも一刻も早く発ちたいと思い始めていたのだった。
――剛国王の要求を真殿は適えられた。此の上は、王が約定を違えず施政を正すかを見極めるのみでよい。
祭国で薔姫や戰、椿姫、娃、好、蔦、虚海、那谷……多くの仲間たちが真の安否をどれほど案じ、そして帰国を待ち侘びているものか、理解しておらぬ筈がない。
――大切にしなければならないのは祭国のみでよいではないか。
真実、真殿を必要し、そして真殿が必要としている仲間だろうに、此れ以上の何を望まれるのか。
珍しく口にするよりも表情で包み隠さず心情を吐露している芙に、落ち着いて下さい、と真は静かに訴え掛ける。
「照殿が私を利用しようとしてるのであっても、私は構わないのですよ、芙」
何を云うのです、と芙は真を咎める。
3年前、権力だの野望だに取り憑かれた輩に散々心身を甚振られ、自分以外の者まで傷付けたというのに懲りていないのか、と眼力だけで迫る芙に、真は笑ってみせる。
「確かに私は頼りなくも力のないみっともない、漢の風上にもおけぬ男です。ですがだからこそ、せめて自分の気持ちにだけは素直に生きていきたいのです」
「真殿」
「利用されていると分かっていても結果、戰様の為になるのであれば私は動きますよ」
真は、薄雲の一つもかかっていない澄んだ青空を駆ける風のように、軽やかに言ってのける。
芙は肩を上下させつつ嘆息した。
こんな風に言い切られては、芙であろうと誰であろうと、反駁の言葉など出ないだろう――祭国に残している、彼の幼い妻以外には。
いや、彼女が今この場に居てくれたしても、逆に真を嗾けるに違いない。
小さな身体を熱くさせながら発破をかける薔姫の姿が容易に脳裏に描けてしまう芙は、いっそ真殿が悲痛な面持ちで苦しげに言い放ってくれれば契国を恨めるものを、と唇の端を噛んだ。
★★★
部屋にあった椅子に蹴りを喰らわせて脚を叩き折った烈は、飽き足らず持ち上げて床に投げ捨てた。木端を散らしながら稲光を受けた憐れな若木のように、椅子は砕け散った。
はあはあと全身を使って息をしながら、烈は仁王立ちになった熊が踵でぐるりと方向転換するように、背後を振り返った。その方向には、真に用意された天幕がある。発情して我を忘れ、本能しか残されていない獰猛な野生動物のように、ぎらぎらと底光りする目玉で睨み続ける。
「今に見ておれよ、真とやら! 兄上が天下を睥睨される日は近い! 兄上の号令が天涯に届く日が、お前の生命の炎が消される日であると覚えておけ!」
野獣の如きに吠えたてる烈の傍に、陛下、と内官が声を潜めつつ近付いてきた。
「何だっ!?」
鬱陶しい、と言いたげに目を眇め肩を聳やかしつつ烈は内官を睨む。激情の赴くままに室内の調度品に当り散らす烈の癖を知っておらねば、其れこそ仕えている者の方が目を眇めてしまいそうな室内の惨状だったが、慣れてしまっていると思しき内官は、つつ、と烈に忍び寄る。
「お耳を」
烈の方でも、彼らがこうして声を顰める時はどのような状況であるかを熟知している。忽ちのうちに蒸発しっぱなしであった怒気を収めてみせ、奇跡的に横転もさせられていない椅子に腰掛ける。
一礼して烈の傍らに寄り、殿侍は耳打ちをした。薄く目を閉じて聞いていた烈だったが、内官が離れると同時に、カッ、と目を見開いていた。
「……其れは本当か……?」
にやり、と口角を持ち上げて笑う烈は、正しく己の得意な地形の狩場に獲物である小動物を追い込んだ野獣の如き面相だった。
内官を下がらせると同時に、烈は照に馬乳酒の酌をせよ、と呼び出した。
妃の女官である照は、本来、烈に対して下女のように振舞う必要性はない。
だが、何かにつけて横柄と云おうか不遜と云おうか、兎に角、腰高な態度を崩さぬ驕慢な瑛姫は周囲に要らぬ軋轢と衝突を生んだ。兎角、剛国内において瑛姫の立場は日々悪化の一途を辿っている。照は、此れ以上の瑛姫の孤立化を防ぐ為に、奔走周旋しての尻拭いに明け暮れていたのだった。
暫くの後、慌てた様子で、しかし無礼にならぬよう息を荒げまじと胸元を抑えつつ照が現れた。
ふん、と目を眇めつつ烈は俯き、礼拝を捧げる照の顔を覗き込む。酌の合図だと勘違いした照は、殿下、御意を得ました故、失礼致します、と小雨の滴れよりもか細い声で告げ、瓶子を手におずおずと烈に近付いた。
底深く黒光りする烈の視線に身を縮こまらせながら、照は烈が差し出した杯に馬乳酒を注いだ。息を潜めている照の前で、とくとく、と馬乳酒は遠慮のない音をたてる。
目蓋を伏せて、時が過ぎ去るのをじっと待つ照を、烈は頭の先から爪先までじっとりと睨みつつ杯を傾け、ぐびり、と喉を鳴らして慣れ親しんだ酒を飲み下していく。杯が空になると、ふぃ、と烈は酒臭く長い息を吐き出した。
「話があるのは他でもない。お前の主人であり私の妃である瑛の事だ」
は、はい、と照は肩を小さく窄めながら、矢張、蚊の羽搏きよりも細い声でようよう答える。
烈は照の怯えように、喉をくっくと鳴らしながら笑う。ぐ、と酒杯を差し出し、馬乳酒を満たすように顎を癪って促しながら、照の細い首筋を舐めるように眺める。
「妃が私の元に嫁して何年になるか、分かるか?」
「……は、はい、殿下……。……さ、三年……に御座います……」
「だが一向に懐妊せん」
そこで、だ、と烈の酒に任せぬ強い口調に、ひく、と照の細い肩が戦慄いた。
「兄上のお許しを得ねばならぬが、私は後宮を迎えようと考えている」
「……殿下!」
何時かは口にされる問題であると恐れていたが、よもや烈本人から突き付けられるとは思ってもいなかった照は、お待ち下さい殿下! と叫びざまに平伏した。
「殿下! どうか、どうか何卒! 何卒妃殿下に、今暫くの御猶予を!」
家長の繁栄を繋ぐ御子を男児を産めぬ女は出来損ないの烙印を押され、持参金から何から何まで身包みを剥され棒で打ち据えられ四辻に捨てるのが家門の仕来りであると堂々と名言する一門まで有るこの時代だ。
喩え、王族であろうとも、3年経っても子が生せぬ室は石女として国元に送り返されても文句は言えない。
最も、幾ら気性の激しさで知られる剛国といえでおも、今時其処まで極端な行為をしている訳ではない。だが瑛姫は輿入れした後、剛国の風紀や因習に慣れようと努力する訳でもなければ、妃としての任を全うせんと努力する訳でもない。
瑛姫は剛国の中で完全に孤立しており、照の孤軍奮闘の撮りなしのお陰で何とか威厳を保てているに過ぎなかった。
「妃殿下はまだお若く魅力のある御方に御座います。殿下の御寵愛の証たる御子様を、必ず御身にお迎えになられます故、どうか、どうか」
震えながらも瑛姫の為に歯向かって来る照の気概に、烈は急に欲情を覚えた。
何かと言うと口篭り、おずおずとしたはっきりせぬ態度の宮女が、急速に光り輝いて見えてきたのだ。
――詰まらぬ女かと思っていたが、どうして、なかなか篭絡しがいのある女であるのかもしれん。
「安心しろ、妃には何もせん」
安堵のあまり、烈の目の前で溜息を吐いてしまった照であったが、その細い肩を烈に絡め取られて、短い悲鳴を上げた。
「私と妃の婚姻は、剛国と契国、二国の王家が血の縁を結ばんが為のもの。――であるならば、何も子を生すは、妃との間でなくとも構うまい」
「で、殿下……?」
「其方とて契国王の血縁者であろう」
照の目が大きく見開かれた。
確かに父親の宰相・嵒は先王・邦の異腹弟であり、王家の血を、照も引いていると言えなくもない。
しかし、何故この場で烈が己の出自を持ち出してくるのかが、この時の照にはまだ分からなかった。




