16 燃える山河 その4-2
16 燃える山河 その4-2
――この声はっ……!
ばっ、と勢いよく声の方に振り返った烈の方が、今度は怒りに眦を裂く番だった。
「貴様っ、真とやらではないかっ!? 何故、此処にいるっ!?」
「烈殿下、何卒お静かに」
何故も糞も、此処に訪ねてくると伝えられていた筈ではないか、と言いたげに真の背後で芙は咎めるように、目を眇めてみせる。
しかし烈は、そんな事は知ったことではない、と言いたげだった。巨大な塑像宛らに、目玉を剥いて仁王立ちになる。
――兄上を惑わず元凶めが、良くものこのこと!
脳天から真っ二つに裂いて薪替わりに火にくべてやろうか!
怒りにより握り拳に肩に胸板に、熱くがたがたと震えが来る。
烈と斬の眼前で、丁寧に、作法通り礼拝を捧げる男――真は、そんな烈の心中に気付いているのかいないのか、気が付いていても構うつもりのないのかどうかは知らないが、しゃあしゃあと言ってのける。
「烈殿下。此度の斬殿下の初陣は、闘国王陛下直々のお声掛かりによるものです。その斬殿下の初陣を卑しめ貶める言葉とは、即ち闘陛下を虚仮にするも同然である、と烈殿下は心得ておられるのですね?」
礼拝の姿勢の奥から、視線だけを鋭くして言い放った真に、ぐう、と烈は罵倒の声を飲み込んで喘いだ。
「……そんなつもりは毛頭ない」
「では、ただの酔いに任せての戯れがお過ぎになられた、と云う事で宜しいのですね?」
此処で真という男の言葉の裏にある真意、つまりは嫉妬から絡んでいたのではなく兄弟喧嘩の一つであると認めるなど、烈の自尊心が許さない。しかし、許さなくとも其れしか道は残されていない。
「……そうだ」
声が苦くなるのを自覚しながらも、烈は引き下がった。
「其れならば言葉が行き過ぎであった、と御自身の非をお認めになり、斬殿下に頭をお下げ下さい」
兄弟喧嘩の内に収めてしまえば、王の耳には入らない。
入ったとしても笑い話で済ませられる。
しかし他の兄弟が此れを好機とし、烈に二心有りなどと讒言を弄して兄王・闘の耳を汚され心を煩わせるなどされては、実に許しがたい。
ぬぅ、と喉の奥を鳴らしつつ、済まぬ、と烈は一言詫びの言葉を入れた。
「兄上、どうか面をおあげ下さい。弟の身でありながら、私も如何にも直情的に過ぎました。以後、自戒致します。兄上、子供じみた行いをせずにはいられぬ私をお許し下さい」
斬も素直に頭を下げる。
斬としては表裏のない真正直な言葉であったのだが、烈には痛烈な皮肉にしか聞こえない。しかも、この真とかいう男の前で弟に頭を下げさせて許さないままでは、狭量な人物であるとの意識を植え付けてしまう。
烈は胸の内に様々ととぐろを巻く怒りを堪える微妙な顔つきで、しぶしぶ手を振り異腹弟に許しを与えた。
そして、此れ以上この茶番劇に付き合うつもりはない、とでも言いたげに、ちっ、と小さく舌打ちしつつ態と真に身体を当てると、肩を聳やかして部屋を出て行った。
やれやれですねえ、と当てられた肩を竦めてみせる真に、斬が首を捻って訊ねる。
「処で、真殿。私にお話があるとの事ですが、何用でしょうか?」
訪ねて来い、と云った本人の方からやってくるとは予想外だったのだろう、斬こそ眉を寄せて何とも言えない顔付きをしている。
「実は、お尋ねしたい、というか折り入ってお頼みたい事がありまして」
「は? 私にですか?」
「はい、殿下にです」
にこにこと笑う青年は、自分より随分年上の筈なのに年下の悪戯小僧のようだ、と斬は思った。
★★★
「明日には城に入れるな」
西燕の王都として定められた都とは、目と鼻の先となる群府に入城した界燕は安堵感から大きく肩で息をした。
まだ、国王である飛燕の死は伏せられていた。
其れ故、飛燕王の影武者をたててある。兄王の甲冑を着せ、軍旗を大いに知らしめながら悠々たる帰途についていた。
界燕としては、もっと速度を上げたい処であるが、仕方がなかった。
――やっと、此処まで来た。
今少し、今少しだ。
今少しの辛抱で、私は私に相応しい身分を手に入れる。
実感は重く沸き立っている。
それでいて心の内をまるで雛の産毛のように軽やかに舞っている。
――王都に着くまでの我慢だ。
界燕は此の処、呪言の様に日々、胸の内で同じ言葉を唱え続けている。
王都に着きさえすれば、飛燕王を重篤な急病人に仕立て上げて印璽を譲り渡すという遺言を認めさせ譲位を行わせられる。
――譲位さえ済めば此方のもの。
其れまでの辛抱……なあに、其れも最早、目と鼻の先だ。
嘯く界燕は、口々に戦勝を祝い、賛美する声を上げつつ平伏する領民たちの群れに出くわした。
「国王陛下万歳!」
「大勝利、御目出度う御座います!」
「燕国万歳! 国王陛下万歳!」
領内の民たちは、剛国王弟・烈は国王・飛燕の威に畏怖し、戦わずして群府を明け渡したものである、という界燕が流した流言を信じ込んでいるようだった。
今回のように、道々、戦勝を祝って列をなして諸手を上げつつ迎え入れて呉れる純朴な民を、普段の界燕ならば小馬鹿にする処である。が、判で押したか馬鹿の一つ覚えかと揶揄したくなる程に、万歳万歳と叫ぶ領民を前に、此度は王の言葉を鵜呑みにする民の脳なし加減に助けられた、としみじみ実感していた。
――矢張り、民に知恵は必要ない。
静かに何も考えず、此方の言うなりにする無辜の類でなければ。
そういう意味では、東燕を仕切る王妃・璃燕の遣り様は界燕には不可解極まるものだった。
祭国程度の国に媚を売るような真似までして、雄河の堤防工事などに血道を上げるなど笑止千万だ。
挙句の果てに国庫を逼迫するまでに費用が嵩んでいる上に、度重なる工事の賦役に東燕の民は疲弊してきている。従う各豪族、貴族高官たちの間にも義憤は持ち上がり始めているとの情報を界燕は掴んでいた。
――何が垂簾聴政だ、片腹痛い。
見てみよ、女なんぞに政治を任せては、あたら国を傾けるだけだ。
燕国は確かに豊かとは言い難い土地柄であるが、他国に諂わず堂々たる道をゆくべきだなのだ。
ふふん、と界燕は悦に入った笑みを漏らす。
――東燕は放っておいても、出しゃばりな阿婆擦のせいで遠からず自滅するだろうさ。
なぁに、私は其れまでの間、のんびりと構えておればよいのだ。
無駄に兵を割く必要などない。
くっく、と鳩のように喉を鳴らして界燕は笑い続けていたが、ふいに、ぎらりと眼を鈍く光らせて前方を見据えた。
――だが、王位に関しては別の話だ。
都には、飛燕に従い共に王都を出た兄弟たちが揃っている。
兄王・飛燕の死を知ったならば、勿怪の幸いとばかりに都合の悪い事は須く自分に押し付け、印璽を奪うに決まっている。
当然、東燕にも悟られてはならない。璃燕が飛燕の王妃に納まる由縁となった大返しからの王宮での暴挙を忘れられるものではないし、そんな彼女が手にする大国旗は、正統性を維持する為にも何としても奪取せねばならない。
――苦労して飛燕の奴を打ち取ったのだ。
何処の誰にも、漁夫の利を呉れてやるつもりは毛頭ないわ。
寧ろ此れを機会に、無能な兄弟たちと女ゆえのねばっこい厭らしさを発揮する璃燕一派を一気に一掃してやろう、と界燕は目論んでいた。
――印璽は、王座は、燕国は、王位は、私のものだ。
私の手にこそ相応しい。
誰にもやるものか。
そくそくと背筋を這い上ってくる云い知れぬ快感に身を浸しながら、界燕は腹黒さを隠しもせずに馬に揺られて笑っていた。
★★★
界燕が率いる軍が入城したのを確かめると、芙は覆面を軽く直して踵を返した。
疾風も恥じ入る瞬足の持ち主である芙は、あっという間に小さな天幕に辿り着いた。音も立てずに、入口の分厚い布を持ち上げ、するり、と身を滑らせる。
「ああ、芙。ご苦労様でした。界燕殿の動きはどうですか?」
「城に入りました。あの様子では、確実に一泊はするようです」
そうですか、と云いつつ真は手元の地図に視線を落とした。
まだ墨の匂いがする新しい地図は、芙の仲間である蘭が筆を取って仕上げたものだ。何と蘭は、自分で歩いた場所や仲間が見聞きした地形を正確に地図に起こす事が出来るのである。真が重宝している彼らの特技の一つだった。
地図の上で、真は長手袋に収めた左手をうろうろと徘徊させる。
この辺りは山間の谷間、所謂、狭間とか硲と呼ばれる地形が多い。
だが此処は盆地に近い地形をしている。此れまでの群府とは違い、兵馬をのびのびと休めてやれる。
しかも、西燕を建てた折に王都として定めた地は目前だ。
「此処までは、ある程度、背後に気を配っていましたが、城に入るなり軍に最後の骨休めを勧めておりました」
芙の言葉に、ですか、と真は目を細めた。
確かに眼と鼻の先に、王都がある。王都には当然、同等数の軍が逗留している。
「まあ、普通に考えて、剛国や露国からの強襲に恐れを抱くよりも、此れから先は自らを掛けて王座を奪いに行く算段に眼も心も奪われておられる事でしょうね」
所謂、『此処まで来たら一安心』という心理だ。
此れまで細心の注意を払って来ていたというのに、より大きな目標が眼前に迫った途端に其方に思考と注意を奪われる。
然も『自分だけはそうならない』と自負している人物ほど陥りやすい、厄介な闇と云える。
「斬殿下、お待たせ致しました。殿下のお力を借りねばならない時が、漸く参りました」
宜しくお願いします、と頭を下げる真に、斬は少年らしい一本気な青く硬い実直さで、任せられよ、と短く応えた。
★★★
音楽こそなかったが、此度の行軍中、初めて酒が振る舞われた。
兵士の間に、明るい笑みと調子に乗った者特有の浮かれた空気が一気に爆ぜる。
「どうせなら、妓女って奴の舞を拝みながら飲み食いしたいもんだがなあ」
「馬鹿を言いやがれ。お雅な音楽なんぞ流されても、尻の穴の毛が震えてこそばいくなるだけだ」
「そうそう、俺たちゃそんなお上品じゃねえからなあ。女なら、其処らの端女で充分だ」
「違いねえ」
出身地を同じくする者同士で小さな輪が作られ、どっと囃し立てる笑い声が上がると、後は早かった。
茶碗や樽や瓶を打ち鳴らして、無礼講の踊りが其処彼処で披露され始める。
酔いが回る前から、男たちは涎を垂らしながら膳を運ぶ端女や公婢たちの腕をとって引き、腰を抱え込む。
彼方此方で悲鳴があがるが、直ぐに濁り酒よりもべっとりと甘くどろりとした嬌声にとって変わられていく。
帰国の道中で最も羽振りの良い料理が饗された事もあり、界燕が率いてきた軍は大いに盛り上がっていた。
★★★
此処まで界燕が率いて戻ってきた軍は、とても一枚岩とは言い難いものだ。
当然だ。
何しろ、飛燕王が率いていた軍を壊滅させた張本人と共にいるのだから。
お互いに腹の底では、裏切りを起こさないか、という疑心にじわじわと苛まされつつあった。
其の為、行軍中は曇天と同じく何とも言い表しようのない、澱のようにどんよりと淀んだ空気を孕んでいだのだが、此処にきての豪華な振舞いに逼塞気味であった兵たちは、大いに羽目を外していた。
「此れでは余りにも隙がありすぎます。今少し気を引き締め、見張りに人員を割く様にすべきではありませんか?」
「其方の言葉は確かに正しい。が、王都は最早、目前である。弓を引く為の糸は、撓ませ過ぎても矢が引けぬが、さりとて張り詰め過ぎても引く前に切れてものの役に立たぬのもまた道理。今宵一時、発散させてやれ」
無礼講が過ぎる兵士たちを当初咎めようとした将兵もいたのだが、界燕に窘められて引き下がる。
しかし界燕とても、将兵が進言する前に、如何にも羽目を外し過ぎではないか、と思い始めてはいた。
だから此の時に、界燕は気が付くべきであったのだ、深く考察すべきであったのだ。
此の将兵が、何を意図して彼に進言をすべしと判断したのだろうか、と。
夜が更ける前に入り、疲れから酔いの回りが早かったせいか宴会はぼつぼつとお開きとなっていく。
いや開いたのではなく、その場で酒に潰されており、大鼾をかいて眠っている者が殆どだった。
道中、見張りの者を除いた兵士たちは肩を寄せ合い、ぎゅうぎゅうに犇めき合って休息を取らねばならなかった。しかも一刻も早い帰国を界燕が命じていたため、群府にいる時間も短く、とてもじゃないが休める環境になかった。
また将兵ではない者らにとって、馬の方が重要に扱われているのにも不満があった。
何より、国王を討ったという重大事を秘匿しての行軍だ。常に異様な興奮と緊張を強いられてもいた。
兵士たちは旨い酒と料理を体内に入れて心と身体を大いに解し、束の間ではあっても人一人が手脚を伸ばせるだけの場所を確保して横になり、神経を尖らせずに眠れる幸せを噛み締める。
明日になれば再び強行軍に近い行軍となる。
其の前に充分過ぎるほどの英気を界燕軍は養った――筈、であった。
★★★
夜の帳が、しん、と音もなく厚くなり、深夜となった。
既に聞こえてくるのは酔っ払いたちの寝息のみであり、人どころか野犬の気配すらない。
元から此の城に詰めて城郭の見張りに立っていた者たちも、気を緩めだした。彼らにしてみれば、大部隊を受け入れたとは、即ち此れまでと違い警護の手が万倍以上に増えたと云う事に他ならない。
交互にうつらうつらと仕掛けながら見張っていると、交代が来るまでの時間が厭に長く感じられるものだ。
処が、彼らは突然の叫び声に目を覚まさざるを得なかった。
「お、おい! あれは何だ!?」
見張りの叫び声は、瞬く間に城の隅々まで行き渡った。安穏たる眠りについていた界燕も、叩き起こされた。
「何事だぁ!?」
「火です! 夜陰に乗じて動く者が焚いたと思しき火が見えます!」
「何ぃ!」
かっ、と目を見開いて飛び起きざま、身体に長衣を羽織って外に飛び出す。人だかりが見える楼閣に向けて駆け、一気に見張台にまで攀じ登った。
「何処だ、火は何処にあるっ!」
松明が燃やされた見張台は、互いの顔が識別出来る位には明るい。
界燕自らが出張って来た事に驚きを隠せず、ぎょっとしつつも番兵たちはあそこです! と闇の先を指さした。
指が指し示す先には、確かに微かではあるが行軍用の松明らしき明りが揺れている。
しかも、かなりの速度で移動しているではないか。
――此処まで来てっ……!
ちぃっ、と界燕は舌打ちした。
「斥候は放ったか?」
返事を待つまでもなく、探りに出た斥候が戻ってきた。
「何の明りだ? よもや王都を目指しておるのでは?」
「はい、そのよもやであるように思われます」
うぅぬぬ、と呻きながら、界燕は更に移動している松明を睨む。
この時間帯に暗闇に紛れて王都を目指している目的など一つしかない。
西燕の王都を抑え、印璽を奪い王者を名乗らんと目論む輩だ。
つまり、界燕の功績を罪科に変えて漁夫の利を貪ろうという兄弟に違いない。
――何処の誰だ!
いや、そもそも何処から情報が漏れた?
此処まできて己の利を攫われるなど、あってたまるか!
界燕の顳を、冷や汗が流れていく。
「旗印は?」
「そ、其れが、その……」
言い淀む斥候に、界燕は苛立たしげに片眉を跳ね上げる。
「一瞬でも時間が惜しい時にうろうろするな。はっきり申せ」
「『業』の文字に御座います……ご、業燕殿のものです!」
「何だとぉ!?」
斥候の言葉に界燕は脳天から落雷を受けとめたかのような衝撃を受けた。
――業燕、だと!?
まさか東燕側に、私の動きが漏れたというのか?
王都を今一歩とする此処まで来ての恐れていた事態に、界燕は一瞬で蒼白となる。
が、一呼吸の後には興奮で赤黒くなった。
「ふん、丁度良いではないか! 此処で業燕を討取れば東燕の武の一角を占める者が減る! 東燕側に圧力をかける良い機会だ!」
甲冑の用意をせよ! と界燕は声を張り上げた。
「騎馬隊! 打って出るぞ! 奇襲をかけんとしている者は速度を重んじるあまり注意を怠るものだ! 奴らの背後を突いてやるのだ! 具足を用意しろ! 」
見張台から文字通り飛び降りた界燕は、周囲の兵たちを自ら叩き起しながら自らも甲冑を纏うべく足早に部屋に消えていった。
★★★
部屋に戻ると、界燕はいの一番に飛燕王の影武者役を押し付けている男の処へと向かった。
「起きろ」
男は褥に酒と珍味、そして女を何人も連れ込んでいた。全裸に近いあられもない姿は、痴態におぼれていたのであろう。
だが影武者としての旨味を存分に満喫していた男は、界燕の血相に仰天して飛び起きた。女たちも悲鳴を上げて部屋から飛び出していく。
「業燕の奴が王都に向かっている」
界燕の一言に何が起こっているのか一瞬で悟った影武者は、饐えた酒の臭いのする涎を口の端から流しながら、ぶるぶると震えだした。
「分るな? この距離から逆算すると、奴らは程無く野営をし、夜明けと共に王都の城門を破る算段だろう」
恐怖に言葉を忘れてしまったのか、影武者の男は涙ながらに両手を組み合わせて、こくこくと首を縦に振るばかりだ。
言い成り人形としては出来が良すぎる影武者に、界燕は苦笑する。
兄王を討取った後、どういう流れで此の男を影武者としたのか、実は界燕はよく思い出せない。興奮していたせいもあるが、扱い易さと従順な点において、この男は影武者と成るべくして生まれたのではと錯覚させる程だった。
――此の男ならば、印璽を我が物とした後に罪を擦り付けて密かに消すのも簡単だろう。
尽くしている界燕によもや、こんな風に腹の底でほくそ笑まれているなどと思いもしていないのだろう、影武者は泣き縋る。
「か、界燕様! は、話が違うではありませんか! 何の苦労もない、王都に着けば褒美を呉れるというから私は王様の影を引き受けたのであります! こ、こんな、此のように業燕様に攻められるなど、聞いておりません! わ、私は、い、如何にすれば宜しいのですかっ!?」
「恐れるな。飛燕王の命令により、この界燕が打って出る。なぁに、全軍とこの城に逗留させている軍を全て連れて行くのだ。直ぐにかたはつく。飛燕王は変わらずこの城に留まり、朗報を待っておればよい。いいな?」
ぎろり、と上目遣いに睨まれた影武者は、それ以外の動きを忘れたかのように、こくこくと何度も頷いてばかりいる。
「では、飛燕王よ。命令に従い、弟たる此の界燕、逆賊どもを一掃して参ります」
最礼拝を恭しく影武者に捧げると、界燕は胸を張って厩へと歩いて行く。
――もう直ぐだ。
燕国王の印璽は、もう間も無く、私の手に入る。
「この界燕こそが、燕国王となる」
――燕国王……悪くない響きだ。
独りごちつつにやけそうになる頬を、界燕は必死に引き締めていた。
★★★
「門をぉ、開けえぇいっ!」
界燕が威勢よく開門を命じると、待ってましたとばかりに閂が外された。
「良いか! この勝負、早さが勝利を左右する! 半瞬でも早く奴らに最後尾に辿り着き、尻を矢襖代わりにしてやるのだ!」
おう! と騎馬隊が腕を振り上げて呼応する。満足気に頷き、手綱を握り直すと界燕は戦扇の代わりに剥き身とした剣を振り回した。
「出陣っ!」
闇に紛れて界燕の軍は出陣していった。
夜陰を味方にしての奇襲である為、当然の事ながら軍旗は持たない。
界燕にしてみれば堂々と押し立ててゆきたかったのは山々なのであるが、致し方ない事だった。
――まあ、良い。
業燕のそっ首を取る事が出来るのだ。
それ以上望むのは、此の夜闇の中の戦では、贅沢というものだろう。
兄王・飛燕を打ち取り、今こうして東燕側の将の一人にして王座を狙う兄弟の一人をまた屠り去る。
自分の未来が煌々と明るく照らされて行くのを実感するのは悪くない、と云うよりも心底愉快でならない。
湧き上がってくる異様な笑いを堪えるのに苦心しつつ、界燕は馬を走らせていた。
ある程度まで距離を詰めると、界燕は改めて斥候を放った。
「どうだ?」
「はい、どうやら此の先の泉をにて幾ばくか小休止を得るようです」
「そうか」
矢張り敵は油断しきっている。
其れは好都合、と界燕が口にせずとも軍の中に同じ気運が満ちた。
騎乗! と界燕が号令を発するまでもなく我先にと馬に飛び乗る。
「良いか、此れより一気に間合いを詰め奇襲をかける! 業燕が首を得た者には褒賞は望むまま与える! 皆、励むがいい!」
おう! と怒号にて呼応しつつ、界燕軍は闇夜に染まった大地を揺るがしつつ業燕軍を目指して馬脚を逞しくさせ、駆けに駆けた。
斥候の導きにより、業燕軍が休息を取っている場所を目視できる位置にまで辿り着いた。
「此方に御座います」
流石に界燕軍の方も明かりは全て消し、馬も並足以下として息を潜めて気配を悟られぬにして間合いを徐々に詰めていく。
様子を伺うと、甲冑を解きこそしないが兵士たちは水の補給と干し肉の食事を終え、仮眠を取り始めているようだった。
その証拠に、馬の嘶きや草を踏みしめる足音が時折する程度で、人が動いている気配はない。
此処で休息を得て、明日、万を期して王都に仕掛ける腹つもりなのだろう。
何もかも、界燕の読み通りだった。
――馬鹿めが、そうはさせるか。
我が戦果の餌食としてくれる。
界燕は舌舐めずりした。業燕軍が猛獣除けに闇を照らしている微かな光の中は、界燕にとっては王座と印璽の輝きに見えている。
片手をあげ、背後に従う騎馬隊に突撃の合図をしようと構える。
「突撃ぃ!」
勝利を確信した界燕は、部下たちを殊更煽る命令を下す。
「戦果を上げた者には望むままの褒美が待ち受けているぞ!」
「おお!」
界燕のその一言を待ち詫びていた軍は、一気に殺気を開放し山津波のように馬を踊らせる。
界燕軍は奇声を発しつつ、野営地に突撃を開始した。
 




