16 燃える山河 その4-1
16 燃える山河 その4-1
背後から強襲してきた飛燕軍を、界燕軍は真っ向から迎え討った。
「弓を射よ! 有りったけ射かけよ!」
「此れしきの柵、何程の事やあらん! 続け、我と共に乗り越えぇい!」
数の上で劣る兵力しか率いていない界燕軍であったが、兵も馬も気力と体力は充実している。
対しての飛燕軍は崖っぷちの瀬戸際に立たされた者の背水の勢いがある。
双方の激突は、濁流の中で揉み合いながら互いをぶつけ合う巨木宛らだった。
ぐお! と喧騒の空気が砂埃と共に持ち上がる。
続いて、わあ! という勢いのある声が爆ぜた。
とうとう飛燕軍が界燕軍が建てていた馬防柵を破り、陣内に入ったのだ。堰を破った洪水のように、飛燕軍は界燕軍の中央を突破する。
「界燕、何処だっ! 貴様の素首、貰い受けに来てやったぞおっ!」
剣を振り翳しながら、飛燕が怒号を発する。
しかし、界燕は姿を見せない。
防御している軍の中央を飛燕は突破しつつ、飛燕は首を廻らし界燕の姿を探し求める。其の間にも、飛燕軍はぐんぐんと界燕軍を割って行く。まるで、鉈を喰らった丸太が割けて薪となるようだ。
「界燕、姿を見せよ! 勝負しろ!」
遂に、郡府の城壁が肉眼で捉えられる位置にまで飛燕軍は迫った。
反撃の一手の機会を今か今かと待ちわびていた郡府の見張櫓の番兵たちは、今こそ、と目を輝かせる。
「城門を開けよ! 陛下と合流するのだ!」
番兵たちの言葉を待ち侘びていた騎馬隊たちが、扉が開くのももどかしそうに息を荒げる。
ごすり、と鈍い音をたてて門を横一文字に閉ざしていた閂が外されるや否や、轡を揃えたいた筈の馬は我先にと城外に飛び出した。
「界燕軍を挟みうちにするのだ!」
「一兵たりとも逃すな!」
「裏切り者どもを許すな!」
「反逆者・界燕を討ちとれ!」
だがしかし、飛燕軍が血気盛んに叫び合うのは、実は互いに互いを嗾け合わねば気力が途絶えてしまうからだった。
この一戦に掛ける、といえば聞こえは良い。が、とどのつまり最早後がないのだ。負けは即ち死に直結する。恐るべき現実を直視せずに済む方法はただ一つ。言葉通りに界燕軍を壊滅させ、彼らの兵糧と飲料を奪う。此れしかないのだ。
飛び出した騎馬隊を援護せんと、弓隊も城壁から身を乗り出して矢をありったけ仕掛け始めた。
本来は自軍が攻め手であった時に開けた穴を防御する為に残してきた弓隊であったが、今や立派な援護射撃となっていた。
背後からの強力な加勢に力を得た騎馬隊は、剣を煌かせて突っ走る。
中央を突破された形となった界燕軍の右手の背後に飛燕軍が、そして左手には郡府からの軍が喰らい付いていく。
★★★
――勝った!
飛燕は勝利を確信した。
界燕軍は木端の如くに散る事も出来ず、薙ぎ払われるのを待つ芦の如くに棒立ちとなっている。
「界燕、姿を見せよ!」
勝ち誇り、大将格である異腹腹の界燕の姿を探し求めて周囲を見渡した。
界燕の軍旗が、大海原でか細く戦ぐ雑草の如くに揺れているのを発見した飛燕は、ぎろり、と眼光を鋭くした。
「界燕! 臆病風に吹かれ一騎打ちを回避せんとする腹ならば、是非もない! 貴様の軍旗を即刻貰い受けるぞ!」
勝ちに逸る飛燕が、界燕の軍旗に向かって一直線に駆け出した。
次の瞬間。
おう! と空気が震え、土煙が弧を描いて空目掛けて幾筋も上り出した。
続いて、ぐわあ! と群府内から命の刹那にある者が放つ断末魔の悲鳴が持ち上がったかと思うと、城壁に掲げられていた軍旗が、次々に折られて行く。
界燕軍を円形状に包み込む形で陣を展開し掛けていた飛燕軍は、馬の馬蹄の音を止め、剣も閃きを失い矢尻も地に落として茫然と立ち尽くす。
「な、何だ!? 一体何事が起きた!?」
誰も飛燕の疑問に答える者はいない。
そうこうする間にも、最後の一本が虚しく引き摺り倒された。
凍りつく飛燕軍の眼前で、新たな旗が一斉に掲げられた。
風に靡く軍旗は燕国王弟である――界燕、其の人が率いると証だてする印のものだった。
「ま、まさかっ……!? そんな、まさかっ……!」
信じられぬ、信じるものか! と唾を飛ばして地団太を踏む飛燕王の前に、悠々と一騎の影が立ちはだかる。
「そのまさか、だ。兄王よ。幾ら郡府と云えども、背後にも目を光らせておくべきでしたな」
「貴様! 界燕!」
したり顔で鼻を鳴らして嘲笑う界燕に、飛燕は歯噛みするしかない。
剛国へと続く裏手側公道の封鎖が解けたと知った界燕は、二手に分けた兵を其方に走らせていたのだ。
正面からの血戦一筋と血道を上げて喘いでいた飛燕軍は、背後にまで気を巡らせておく余裕などなかった。
ましてや、もう一歩で界燕軍を殲滅し、謀反人である界燕其の人を捕える手前が見えている状況にまで追い詰めてもおり、群府の守りは堅牢であると勝手に思い込んでもいた。更に、背後を突くという策を弄された界燕軍が、同じ策を講じてくるなどと誰が想像しよう。
飛燕軍は、完全に背後の注意を怠っていた。
何よりも飛燕の最大の手抜かりを犯した箇所を挙げるとするならば、異腹弟である界燕を見縊っていた、そして自身を侮られている事実を知りぬき、それすら活用してみせた界燕の読みの正確さに軍配が上がったのだ。
「勝ちを焦り、一刻も早く戦果を収めんと猪突し続けるしかなかった兄上、貴方の余裕のなさが此の負けを招いたのだ」
「おのれ、界燕!」
うぬ! と飛燕は剣を閃かせた。
「皆! 我に続けぇ! 界燕を討ち取った者には褒美は望むまま与えるぞ!」
吠えながら手綱を握り直おし界燕に向け真直ぐに馬首を巡らせる。
しかし、此処まで勇猛果敢に従ってきた部下たちの気勢が一気に萎んだ。いや、気力が、というよりも戦意が全く喪失してしまっていた。腕をだらりとさげ、上目遣いに互いの表情を探り合っているかと思えば、ちらちらと城壁の上ではためく軍旗を見上げては重い溜息を吐いている。
漸く、飛燕は気が付いた。
軍旗が奪われる――それは即ち戦に置いて負けを意味する。
まして倒された軍旗は王直属の将兵の者ばかり、風を受けんと生き残っているのは大国旗を兼ねる飛燕王の大旗のみだ。
彼らの中では、飛燕王のみが生捕間際の野良犬同然に追い込まれているものと映っているのだ。
兵士たちの萎えた戦意に気が付いてしまった飛燕王の体内を、絶望が一気に満ちて動きを絡め取った。翳した剣に付着した血糊が、ぬら、と糸を引いて垂れて柄にまで到達し手指を汚す不快感にも、飛燕は動けない。
「最早、郡府は我が手に堕ちた。此の上は兄上、貴方の首を貰い受けるのみ」
「界燕、貴様ぁ!」
「どうです? 貴方が大人しく首を差し出されるのであれば、率いておられる兵は将校であろうと一兵卒であろうと、皆等しく命を安堵すると約しましょう」
「何だと貴様! 王である我が率いし精鋭軍を愚弄するか!?」
背筋を反らせて、界燕は余裕たっぷりに飛燕を見下す。
そして飛燕は、眦から血の涙を流さんばかりに界燕を睨み付けながらも、己の王としての権威が完全に失墜したのだと悟らざるを得なかった。
味方の目にも敵の目にも、王者の名は飛燕ではなく界燕に代替わりしているのだと。
★★★
飛燕は一度天を仰ぐようにすると、目を閉じた。
暫くそのまま、何かを堪えるようにしていたが、突然、かっと目を見開いた。剣をびゅ、と勢いよく振り切り付着していた血糊を飛ばして鞘の中に剣をしまうと馬を下り、どかり、と其の場で胡座をかいた。よかろう、と界燕を睨み上げる。
「此の上は同じ燕国の民同士、根幹を同じくする族同士で消耗し合う愚行を犯して国力を萎え衰えさせるべきではない。界燕、其方が天涯の主である天帝の寵児であったようだ」
飛燕の云う通りだった。
此れ以上、身内の同士討ちを繰り広げていては、露国、剛国、そして東燕に付け入る隙を与えてしまう。
敗北と、そして天帝の名を出してじゅぜんの意思を示し、思い切りよく負けを認めた飛燕の態度に、界燕は心底ほっとした表情を浮かべた。
「分って下さいましたか、兄上。では、兄上の首を頂戴致します」
飛燕の背後から、界燕の部下が左右の腕をとった。ぐ、と背中を押された飛燕は前のめりの姿勢となり、首を長く差し出す格好となった。
馬から降りた界燕は、己の甲冑を守る長套で剣の汚れを拭い清めた。そして、横から兄王・飛燕の首を切り落とさんと振りかぶる。
きらり、と剣が燕のように一閃して飛燕の首目掛けて振り落とされんとする、まさにその瞬間。
「界燕!」
飛燕の腕が、ぐわん、と回転して背後から彼を抑えつけていた者たちを跳ね飛ばした。其のままの勢いで抜刀した飛燕は界燕の腹を横薙ぎにしてくれん、と真正面から突っ込む。
予想していなかった事態に恐慌を来しながらも、界燕は剣をそのまま打ち下ろした。どかり、と飛燕の右肩に剣が斧のように打ち込まれる。
どば! と血が噴き上がった。それでも飛燕は怯まない。
界燕の腹をめがけて剣を横に払いにくる。
「かいえぇぇぇんっ!」
しかし、すんでの処で界燕は命を拾った。
飛燕の背中に、どすどすと音を立てて矢が幾本も付き立てられたのだ。
然もそれは、自らが率いてきた軍から届くものだった。
ぐはぁ、と喉の奥から大量の血の色の息を吐きだし、飛燕は動きを止めた。
よろめく飛燕の足元に、剣ががちゃり、と落ちるや、剣を奪えと自軍の兵士たちが、わっ! と一斉に殺到した。
一方で飛燕の軍旗の持手もまた、多くの兵士に襲われていた。
命を惜しむ兵士が軍旗を手放すと、餌に集る蟻の勢いで、わっと兵が手を伸ばす。そして、巣穴に運ばれて行く虫の死骸のように、軍旗は界燕の前に差し出された。
矢を受けて姿勢を崩した飛燕は、自軍に小突かれて膝を折る。膝が折れたとみると更に容赦なく首根っこを掴まれ地べたに這い蹲らされた。
「見下げ果てたものですな、兄上、何という醜態を晒されるのか」
ぜいぜいと喉を鳴らしながら、界燕は飛燕に歩み寄った。背中に数本の矢を受けてた飛燕の方こそ、地べたに這いながら、何度も喉を鳴らしながら奥に溜まった血の塊を吐き出していた。
嘲り笑う界燕に、飛燕は力を無くしていく眼で、其れでも睨み続ける。しかし、己の軍旗を手にして頤を跳ね上げて笑う弟の姿を捉えると、瞳の力は一気に暗くなった。
ごふり、とくぐもった音を撒き散らしながら血を吐きだした飛燕の首筋に、界燕は余裕の笑みで剣の先を定めた。
「さらばです、兄上。己の迂闊さを袖を咬みでもして呪い嘆きながら、燕国が私のものとなっていく様を見ているがよろしい」
どかり、と鈍い音が響き渡る。
界燕が、地に剣がまで到達した手ごたえを感じると、ぶしゃあ! と血が四方八方に飛び散った。
がふっ……! と悲鳴にならなかった息を吐ききると、飛燕の双眸からは永遠に生命の光が失われていった。
黒眼が色を失い濁るのを見届けた後、界燕は、沓先で兄王の顎を突いた。
ぐら、ぐら、と首は頼りなく揺れた。張りのなさは、演技などではなかった。兄王・飛燕の生命の炎を燃やし続ける糸が切れた証拠であった。
ふっ、と界燕は、笑いながら飛びずさる。
――やった……! やっと、兄を倒したぞ!
兄弟親類縁者の中で他の誰でもない、私が!
此の私、界燕の此の手で倒したのだ!
「勝鬨をあげよ!」
命令しつつ、界燕は再び兄の死骸に飛びつくと何度も何度も身体を蹴りあげた。爪先をまだ流れ続ける血の色に染め上げながら、笑いながら蹴りあげた。
界燕の異様な姿に慄きながらも、勝鬨を! の号令が将兵の口から発せられる。
勝利を告げる勝鬨を耳に心地よく感じ取りながら、界燕は飛燕の首から血が流れなくなるまで、遺体を蹴って傷め続けていた。
★★★
芙の部下である薙から、界燕軍が勝利したとの報が真たちの元に齎された。
「其れで、界燕殿の軍は勝利した後、どう動きましたか?」
広げられた地図の上に、ちょん、と膝を揃えて座っていた真はずりずりと下がっった。場所を譲られた薙は腕を伸ばして、烈が開いた群府をまず指さす。
「勝利を得た界燕軍は、郡府を接収した後、一兵も残さず自身の領地に向け撤収を開始されました」
「一兵も残さず?」
芙が眉と語尾を微かに上げた。
苦労の果てに手に入れた土地だ、此のまま捨て置くなどと俄かには信じがたい、と云うのが芙だけでなく彼の仲間たちの見解だった。
しかし真にとっては予想道りだったのだろう、そうですか、とあっさり言うなり飛燕軍が逗留場所にしていた城と郡府の間を指を何度も往復させる。
「真殿は本気で彼らが軍を引いたと思っておられるのですか?」
「はい、今の界燕殿にとって大切なのは、出来そこないの何の為に築城されたのだか皆目見当もつかない郡府などではありませんから」
すらりとした口調で何気に王弟・烈の郡府を痛烈に皮肉る真に、芙は苦笑する。
「では何を目的とされていると?」
「飛燕王が残された印璽を全て我が物にする事ですかね」
地図から視線も上げずに答える真に、あっ!? となった芙と薙は顔を見合わせた。
確かに言われてみれば、ただの戦であれば大将旗を奪えば勝利の証だてとなる。
だが界燕にとっては其れだけでは足りない、というよりもあの程度の小さな領地を燕国のもとしても意味などないのだ。
芙も、『郡府』という言葉に目を奪われ過ぎていた。
元々あの地は何の変哲もない荒地に過ぎなかったではないか。闘の命令により郡府が開かれたせいで俄かに着目されただけで、実は燕国にとっても然したる重要性がある訳ではない。
界燕にとっては、己の尊号を王弟ではなく『国王』とする事こそ必至なのだ。
飛燕が王都より奪取してきた4つの印璽、此れを抑えて界燕は新たなる王として速やかに即位の儀を行う必要がある。
謀略に嵌めて兄王・飛燕を討ったと知られた後では界燕は、謀反人、王をしいぎゃくした只の簒奪者に過ぎない。王位を狙う他の兄弟たちに挙兵の口実を与えてしまうのだ。
「其れにどのみち、群府に水はないのですから逗留しても無意味でしょう。飛燕王が率いていた軍と合わせて2万に下がったのですから、蓄えの事も鑑みれば、精々、一泊する程度ですよ」
それに、と真は言葉を区切る。
「ご自身が敵の裏をかいた界燕殿は、今、どの方面に向けても要らぬ疑心に囚われておいでの筈です」
「自分も他の御兄弟より、闇討ちの目にあうと?」
「と、同時に同様に理由から、どの御兄弟をも出し抜いて次代の王となるのは自身を置いておらぬ、と思っておらるでしょうね」
薙が黒眼を寄せる。
芙や薙にしてみれば、何を買い被っているというか過剰に自惚れているのか、と失笑するしかない。
「まあ、烈殿下の軍が何処から目を光らせているのか、と怯えてもおられるでしょうし。どちらにせよ、普通に考えても此処は引くのが上等の策なのは確かですよ」
往復させていた指を止めると、それに、そういう御方でなければ私の策は通用しませんし、と真も微かに笑う。
「さて、早速ですが此方も動くと致しましょう。芙、斬殿下に出立する前にお話ししたい事があるのでお部屋に伺いたい、と伝えて来てくれませんか?」
分りました、と一言残すと、芙は姿を消した。
★★★
真の命令を受けた芙からの伝言を舎人から受けた斬は、そうか、とだけ短く答えた。
「では、お通しするように――いや、此方から伺うと真殿にお伝えせよ」
ふふん、と嘲笑う声が、これ見よがしに斬の背中に投げつけられる。
「御苦労な事だな、斬よ。折角の初陣であるというのに、他国の、しかも訳の分からん男の風下に立ち、言い成りに動かねばならんとはな」
肩越しに振り返りながら、斬は短く嘆息した。
「我が主上、兄王陛下の御命令とあらば私如きが否やと拒むなど、あり得ません。奴の言い成りとなり死ね、と云うのが陛下の御存念であるのなら、臣たる私は粛々として従うのみです」
まだ少年らしい青さの残る額に、斬は興奮の汗を滲ませる。
花梨の木で作られている、すっきりとした造りの椅子に座り馬乳酒を満たした大振りの椀を傾けながら、ふん、ともう一度鼻で笑うのは斬の異母兄にあたる烈だった。
酔いに任せた濁った息を吐きながら、座れ、と烈に命じられて、向かい合うように用意されている自分の椅子に戻った斬は眉を顰めた。
――祭国群王髄一の身内である真とかいう漢が来てから、烈兄上はずっかりおかしくなられた。
生来、烈は激情型の人物として知られていたが、其れは好漢として受け止められる範囲のものだった。
騎馬の民の漢は押し並べて競うように気性が荒く、烈のような直情に過ぎる男の方が見出されやすく、且つ又愛される傾向にある。事実、何といってもその危うさを伴う激しさをこそ、国王であり異腹兄である闘は重用している。
――しかし、あの男。
真という漢が姿を見せてから、全てが悪しき方向へと転がっているようにしか思えない。
杞憂であれば良い、と当初は遠くから眺めていた斬だったが、当事者としてこのように巻き込まれてしまった以上は、看過出来なくなってきていた。
★★★
空になった自分の椀に、波が立つほど馬乳酒を注ぎ入れながら此方を見据える烈の視線には、嫉妬と憤怒が交互に織り込まれているのが、はっきりと見て取れる。
怒りの色は、闘の配下の者でありながら、あの真とかいう男に従い、片棒を担ぐのかという場違いなものであり、嫉妬は無論、喩え二百騎であろうとも兄王の勅命を得て陣を持つ栄誉に対してだ。鬱屈した烈の内情は、全てにおいて、自分が最も兄王・闘に近くそして寵愛されているのだと感じられねばならない、許せなくなっており、其れは年を追う毎に酷くなっている印象を受けた。
「だが、斬よ。真とやらの負けは見えている。斯様な下らぬ戦に付き合い赴かねばならぬとは、実に無念であろう?」
口角に薄っぺらい笑みを浮かべている烈の姿を、斬は見苦しい、と思った。
「確かに。二百騎程度で万の兵を相手に勝てるなどと侮ってもおりませんし、無論、自惚れてもおりません。ですが、兄上、此の私とて剛国王陛下と血を同じくする王族の端くれ。たかが燕国相手に私は恐れなどは抱きませんし、遅れを取るつもりも毛頭ありません」
「そうか、何とも実に頼もしい弟御に育ったものだ。ならば其の心意気に見合った良い初陣を飾るがいい」
薄ら笑いを浮かべ肩を揺らす烈に、然し乍ら、と斬は続ける。
「あの男に負けが見える条件を出され飲まずにいられぬ立場に追い込まれたのは、他ならぬ烈兄上ではありませんか」
思わず売り言葉に買い言葉の勢いで、深く考えずに口にしてしまった斬は、自分が取り返しのつかない過ちを犯したのだと気が付いた。何故なら烈が、名の示す通り烈火の如くに怒り狂い、馬乳酒を満たした椀を自分に投げつけてきたからだ。
「貴様! 誰に向かって物を言っている!」
全身に独特のとろみと臭いのある乳白色の液体が、斬の頭から顔面から腹から全身を隈なく濡らした斬は、この始末をどうしてくれようか、と頭を悩ませた。
斬は八品の采女を母とする身であり、正七品であった烈の母親よりも更に身分が低い。というよりも正直、最下層だ。下手をしなくとも其処らの豪族の方が、余程身分が正しいと云える。
其れでも、王子として兵を任され国王・闘の声掛かりにての初陣となる栄誉を得た。
兄弟の中で最も信任厚きと自負する烈にとって、突然の斬の台頭は許されざるべきものだった。
「兄上、お考え違いをなされてはなりません」
手の甲で顔に付着した酒を拭いとった斬は、眦を吊り上げて烈の腕を捩り上げる。
「私とて、剛国王・闘陛下の王弟の一人。兄上と、身分血筋に差はありません」
鍛えぬいている烈に堪えるような痛みを与えられる筈もないが、行動に出ずにはいられなかった弟の怒りの深さに、ほう? と烈は刮目した。
年若い、と云うよりもまだ少年の身である斬は、此れまで烈に対して従順だった。
喩え僅かでも反目する姿勢など見せた事がない。
その斬が、自分に対して対等に睨みを利かせてくるなど、烈には正に霹靂と云えた。
一瞬、怯んだように目を向き仰け反った烈であったが、ふん、と勢いよく腕を振り払う。胸板の厚さも腕周りも、斬は烈に到底及ばない。引きずられるようにして、前のめりにつんのめった斬の背中に、烈は残忍な嗤い声を落とした。きっ、と肩越しに振り返り睨む斬を、烈は更に嗤う。
「何だ? 怒ったのか? 此の私に対して? 貴様如きがか?」
煽る様に腹を抱えて嗤う烈に、斬は顔を赤くして飛び掛かりかける。残忍な光を目の端に湛えて烈は斬が殴り掛かろうとするままにさせた。
――此れでよい。
斬が上官である私を殴れば、兄上は軍紀に正して咎めねばならぬ。
2百騎の兵馬は当然、とりあげられるだろう。
――さすれば真とやらは出兵はおろか、策を遂行する事叶わぬ。
兄上の前で存分に恥をかけ、真とやら。
にやり、と口角を持ち上げた烈と、怒りに白目を赤くしている斬の間に、お二人とも、と嘆息に近い小声が割り込んだ。
「幾ら兄弟仲がおよろしいといえども、お戯れは程々に。其処までになさっておいて下さい」




