16 燃える山河 その3-3
16 燃える山河 その3-3
「あ、あの、もし……」
「……」
「あ、あのぅ……ふ・う……さま……」
薬湯の用意を終えて鴻臚寺に戻ろうとしていた芙は、背後から呼び止められた。
実は返答をして何を揚げ足取られるかと警戒し答えずにいたのだが、声の主はおどおどしつつも諦めずにじりじりと追いすがってくる。まだ年若い、少女といっても通じる初々しい声音だった。
溜息を吐き、仕方なく振り返る。果たして、礼節正しく礼を捧げながらうら若い娘が共の女官を連れて立っていた。身形から、王宮の中でも品官の高い女官と知れる。
「ああ、照殿、何か御用ですか」
「……は、い、そのぅ……」
王弟・烈の正妃・瑛姫が輿入れ時に財産の一部として従わせてきていた、照だった。芙が真の薬湯の用意していると何処からか聞きつけて、必ず通らねばならない此処で待ち構えていたのだろう。
「照殿、何か御用でも」
「……は、はい……」
重ねて問うてみても、さっぱり要領を得ない。女性である自分から声を掛けたという事実に、今更ながらに羞恥心が呼び起されているのだろう、照は袖で顔を隠しながら、あの……と口籠り、もじもじと身を捩るばかりだ。芙は態とらしく、殊更大仰に嘆息してみせた。
「用がないのであれば申し訳ないが失礼する」
踵を返しかける芙に、今度は慌てて縋って来た。
「……あ、あの! あの……、ふ・芙様、お待ち下さい・ませ、あの……あの、実は、あ、あの、あの……、あの、その……」
――『あの、』ばかりで全く話が進まない。
芙は此れで何度目だ、と苦く思いつつ溜息を吐く。
珊や薔姫、福や鈿といった、気風の良いというかすっきりはきはきとした明るく裏表のない女性ばかりに囲まれていた弊害もあるが、どうにも芙はこういう手合というか、もじもじ・うじうじとして物事にはっきりしない女人は苦手だった。
★★★
数日前。
剛国群王であり王弟でもある烈の正妃・瑛姫の一行を救い群府を脱出した芙たち5人は、程無くして剛国本土を目指して駆ける真たちと合流した。
正直、手に余るというか瑛姫の我儘放題の御前様ぶりが鼻について、見放す気満々だった芙たち5人を苦笑いしつつも宥め賺して王都まで如何にかこうにか連れて来られたのは、正直、真のお陰だった。
「真殿、幾ら真殿といえども、彼の姫の御相手など無理です」
珍しく憤りを隠さない芙に、おやおや、と苦笑いしつつ真は肩をすくめてみせた。
「大丈夫ですよ。こう見えて横柄で驕慢な女性の相手は、芙たちよりも年期が入ってますので」
つん、と取り澄まして人を見下す態度を崩さぬ瑛姫は克の部下たちにも、速攻でしかも徹底的に嫌われてしまっていた。彼女の言い分に、と云うよりはっきりと我儘に耳を貸し、宥め透かしつつ相手を続けたのは真だけだったのだ。
――恩義のある真殿に礼も何も言って来ないな、と思っていたら、今頃か。
仲間たちが聞いたら今頃なんだ、とまたぞろ文句の発散場所になるな、と芙は苦笑いする。
「真殿に用がある、と云う申し出ならば、申し訳ないが面会を許す訳にはいかない」
ぴしりと芙は云い放つ。
別段、彼女に姑息な意地悪をしようという訳でなく、真のたてる計略が彼女らから漏れでもしたらことだからだ。
しかし照はまだ、いえ……あの、そんな……、とじめじめした言葉使いで俯いている。
芙ほどの男ですら、苛々を通り越して怒鳴りたくなってきた。
――珊と同じ年頃だろうに。
育ちの違いを差し引いても、こんなに違いが生じるものなのか。
芙は些かげんなりと肩を落とす。
照に従っていた女官も同じ思いなのだろう、じろ、と横目で彼女を睨むと手にした盆を、すい、と芙に向けて掲げてみせた。小振りだが細工の美しい菓子箱が載せてある。
「御用と云うほどのものでは御座いませぬ。我が主、烈王弟殿下の正妃・瑛姫様よりの褒美の品に御座いますれば、何卒、お目通りを願いたく」
褒美といいつつも、用と云うほどのものではない、と先んじて釘を指すとはな、と芙は内心で苦笑しきりだった。
つまりは、瑛姫は真に礼を尽くすつもりなど毛頭ないのだ。
歯牙にも掛けていないというより、はなから『命を救われた礼をせねば』という思いなど、全く悪気なく思い浮かばないのだ。
――王族らしいと言えば、らしい、そういう部類のというか御人種の方なのだな。
礼の品を揃えたのは、まず間違いなく此の照という瑛姫付の女官の一存であるに違いない。
他の女官たちの態度や表情からは、瑛姫に知れれば怒りの言葉を頂戴するだけだろうに、何を態々面倒な事をしかけるのか、と嫌味たらたらのものが伺える。
契国から瑛姫に従ってきた異国の女である照に上官面され、付き合わされている現状にも、大いに不服なのだろう。そう気が付けば、上から下から挟み込まれているのであろう照が不憫に思えてきて、余り強く突っぱねる言葉も言えなくなる。芙はなるべく、物腰を柔らかくした。
「御厚意、痛み入ります。しかし我々は此れより軍議に入らねばならないのです。ですから、喩え妃殿下の御使であろうとも、お通しする訳にはまいりません」
品は私から真殿に渡しておきましょう、と芙が申しでると、女官たちは明白にほっとしというか、いい加減で此れ以上、鄙者と関わるのは勘弁したい、という顔付になった。
「そうして下さりませ。お願い致しますわ」
片手を伸ばして盆を受け取ろうとした芙の前に、其れまでのぐずついた態度は何だったのかと目を剥く素早さで照が割り込んできた。
「芙様は御薬湯を手にしておられます故、お部屋の入口までは私が品を運びますわ」
火事場の馬鹿力と言おうか、口調まで、はっきりとしている。
そういえば群府内で初めて会った時も、彼女は奇妙にもこういうキリキリと凛々しくも勇ましい態度だったな、と芙は朧に思い出していた。
★★★
部屋の前まで来ると、照は芙と共に入りたがった。
「此れ以上はご容赦下さい」
頑として受け付けぬ芙の態度に、渋々、照は従った。途中、未練がましくというか後ろ髪を引かれる想いを隠そうともせずに何度も振り返ってくる。
――萎れておれば、仕方ない、と言って貰えると思っておられるな。
無視し続けると、とうとう諦めたのか、照は角を曲がって姿を消した。脚音が確実に消え去るまでその角をじっと睨み見張り続けていた芙は、不意にひょっこりと顔を出して様子を伺ってきた照と目があった。
じろ、と息を抑えて睨み据えると、流石に照も飛び上がり、ばたばたと脚音を残して去っていった。
溜息を吐いた。
愚図ついた今にも雨が降りそうな曇天のような態度の癖にいざとなると、巌も砕くというか、巖にまとわりついて染み入るような押しの強さを発揮する照は、どうにもこうにも相手をしにくい。
知らぬうちに、また溜息が出ていたのだろう、祭国から持ってきていた地図の上にどかりと腰をおろし、筆を片手に腕を組んで考え事をしていた真が顔を上げた。
「おや、芙、どうしたのですか?」
「はい、王弟殿下の正妃であられる瑛姫様付の宮女、照殿が先日の御礼代わりにと菓子を差し入れに来てくれたのです」
薬湯と共に箱を差し出しつつ伝えると、懲りない真は喜んで筆を止めて、はいはいのような格好で地図の上から下りた。
「真殿、差し出がましいようですが、お味の方には、余り期待されない方が宜しいのでは?」
一応、芙は釘を指す。何しろ剛国は、禍国や祭国とは根底から風習が違う。其れを真は食事の面で嫌というほど味わっているではないか。
「いえ、それでも元は契国の方がたですから」
何時もは、ちびりちびりと口に含んで一向に減らない薬湯だったが、今回はぐびり、と一気に飲み下した。そして捨てきれぬ期待感からか、揉み手をせんばかりの真の眼前で芙は菓子箱の蓋を開ける。
中には、酥皮でくるんだ揚げ菓子が敷き詰められていた。
綺麗に三列に並べられている処を見ると、列毎に味が違うのだろう。小皿に一つづつ取り上げて真に手渡すと、礼を云いつつ、処で、と真は待ちわびた様に芙の顔を覗き込んだ。
「群府の動きはどうですか?」
「はい、烈殿下が残してこられた兵は明日にも王都に帰着するようです」
「其れはまた、疾風迅雷の如しですねえ」
策の為に、怒り心頭ながらも兵を引かせる命令を下す烈の姿を思い浮かべて、真は童子のように笑う。
そして、小皿の上の揚げ酥皮を摘み上げた。お? と笑顔になりながら咀嚼しつつ、真は地図の上に這い戻る。まだ温かみの残るその中身は、真の好きな小豆餡だったのである。
「燕国側の動きはどうですか?」
「群府に籠城状態の飛燕王側は、既にもう限界を超えているようです」
「となると、飛燕王が仕掛けるとするならば、近日中……いえ、剛国の撤退と時同じくして、と見るべきでしょうね」
はい、と芙は頷く。
此れまで、西と東に別れて挟み撃ちにしていた一端である剛国側が兵を完全に引き上げた今、敵は王弟・界燕しかいない。飛燕王にしてみれば、敵は少ない方が良いに決まっているし、身内憎し悪しで兵を鼓舞しやすい。界燕にとっても、要らぬ横槍が入らず一直線に叩くだけの戦い易さがある。双方ともに、此処が最大の契機と云えるだろう。
「飛燕王と界燕殿の兵力は亀甲しておりますが、真殿どちらが勝利を得ると見ておられますか?」
さて、どうでしょうか、と真は項を掻きあげた。
「常識的に考えれば包囲する側である界燕殿ですが、追い込まれた飛燕王も侮れないと思われますけれど」
前方の界燕、後方の烈、と袋の鼠状態であった飛燕王にとって、一方の憂いがなくなった心理的負担の軽減は相当に大きい筈。勢いがついて当然な処ではある。
此処まで精神を磨り減らしてきた者と余裕を持って構えていた者の体力差は、無策のまま力押しで激突すればある時を境に、突然首を擡げてくる。飛燕王が、対処法を考案しているかどうかにかかっているが、怒りに我を忘れて冷静さをとっくに欠いてしまっている状態だ。
「と、なると……」
「まあ、有体に言わせて頂ければ、何方も何方でさして差がない方々である、という事ですよね」
飛燕王と界燕が耳にしたら、即刻抜刀して切掛に来そうな事をすらり、と言い放ちながら、二つ目の揚げ酥皮を口の中に放り込む。
食料と飲料水の不足から、飛燕王側は体力の限界が目に見えている恐怖の只中にあるだろう。しかし逆にそういう状況下にある者たちは、確かに芙の指摘通りに想像を絶する力を発揮するものだ。追い込まれた飛燕王の兵は、窮鼠猫を咬む、とばかりに界燕の兵に喰らい付くだろう。
剛国に西側公道を封鎖された状況下であろうとも、勝てないまでも勢力が拮抗している間はまだ保っていられるだろう。何か、そう精神を支えている何かが折られれば一気に傾れをうって総崩れになりはするだろうが。
「まあ此方としては、お借りする兵馬は極力無傷でお返ししたいですからね。燕国双方共倒れて下さるのが、一番望ましいのですけれど」
栗鼠のようにもごもごと頬を動かして、あ、此れは蓮の実の餡ですね、と真は笑顔になる。
「闘陛下がお貸し下さる兵は二百騎と聞いています」
非難めいた口調の芙に、ですよ、と真は明るく答える。
「2万・3万と景気良く貸し与えられた処で、百騎長や千騎長が此方の意を正しく伝達して下さるとは到底思えませんし、それならば目が届く人数の二百騎もあれば充分ですよ」
ひらひらと手を振る真に、しかし、とまだ芙は食い下がる。
せめて千騎にならなかったのか。百や二百で何ができるというのだ。
ものの手慰みにもなりはしない。
「騎長は闘陛下の異腹弟のお一人であらせられる、斬殿下が担われるそうですね?」
「……17になられたばかりであると聞いております」
与えられた兵を率いる王子がまた、年若く初陣前である事が気に入らないのか、芙は終始不機嫌だ。
「斬殿下の御年が気に入りませんか? 戰様の初陣に従った当時の私と同年齢ですよ?」
もう8年も前の事だが、当然自分も其れだけ年齢を重ねているのだな、と改めて思いつつ、芙を諫める。
「其れに誰しも、初めての戦というものがあるのですから。そうそう毛嫌いするというか、突っかかる必要はないと思いますよ?」
「真殿と斬殿下は別人です。御当人の出来が良いやら悪いやらなど知った事ではありませんが、赤の他人の力量に真殿の命運を賭けねばならないのが、我々は腹立たしいのです」
にべもなく正論で切って捨てる芙に、ですか、と真は呟きつつ、最後の揚げ酥皮を口に投げ入れる。最後の酥皮は、干し無花果を蜂蜜で戻して細かく刻んだものと小豆とを練り上げた餡だった。
さて、と真は地図の上で胡坐をかき、筆を取るとの柄でごりごりと後頭部を引っ掻いた。
「問題は、界燕殿に何処までの甲斐性がおありになられるか、ですが」
芙、隣にきて地図を覗き込む振りをして真をちらりと盗み見る。
此方の心配を余所に、小憎たらしくなる程、普段と変わりがない。
そう思えば頼もしいの一言しかないのだが、果たして、彼の心中はそう簡単に済んでいるものなのかどうか。
――先ず、此度の戦に真殿は本気で勝てると思っておられるのか。
此れまでの真の戦い方は、先ずは数の上で完全に圧倒する処から戦を始めていた。
数だけでなく、武器においても新兵器の投入や流言を利用するなど、相手の戦意を喪失させる事にも抜かりなく、戦う前から勝利が見える形を整えてからしか、戦を起こそうとしなかった。
しかし、今回は違う。
飛燕王と界燕が身内同士でぶつかり合ったとして、どれだけの兵馬の損失が出るものか知れないが、まさか半数を失うまではいかないだろう。
単純に考えて、二百の兵馬でその20ないし40倍以上の敵と見えねばならないのだ。
しかも、戦勝に意識は高揚しているだろう。
勢いに乗っている相手にどう戦うつもりでいるのか。
芙の懸念を察したのか、大丈夫ですよ、と真は笑った。
「まあ、口先三寸で奇策を弄した末の勝利など認めぬ! と烈殿下にはまた怒鳴られそうですけれどね」
そう言うと、真は筆を片手に木簡を口に咥えた四つん這いの格好で、地図の上をうろうろと徘徊し出した。
★★★
夜明けと共に、泡を食った伝令が飛燕の元に飛んできた。
「どうした」
口を動かすのも億劫だった。
何しろ昨日から、まともに水分を摂取していない。其れまで何とか押し留めていた兵の動揺は、水瓶が枯れるや否や高まる一方となり暴動一歩手前となっていた。
それはそうだろう。
自分たちは唾が乾いてねちょりと音をたて、糸となるまで渇きを覚えているというのに、眼前では獣である馬たちが悠々と桶から水を喰らって雫を滴らせているのだ。
この馬一頭を潰せば、どれ程の人間様の命が助かるか……!
ごくりと喉を鳴らして馬を睨み据える兵たちがギリギリで精神を保たせていたのは、両挟みとなっていたこの状況だ。騎馬なくして現状打破など出来ぬと誰の目にも明らかであったからだ。
そんな中、飛燕軍に齎されたのは――
背面の剛国軍が蟻が巣穴に姿を消したが如くに撤退した、という報だった。
耳にしても俄かには信じられず、飛燕は椅子から棒立ちとなった姿勢のまま凝り固まっていた。
「ま、まこ、まこと・であるの、か、それは!?」
知らず、動揺から吃ってしまう。しかし、伝令も周囲を固める将軍たちも誰も指摘もしなければ気にする様子もない。それどころではない、というのが、偽らざる本心であった。
「案内せよ!」
怒鳴る飛燕の前に飛び出した伝令は、其のまま駆け出す。飛燕もまた、何処に此れだけの余力を残していたのかと自分でも不思議に思えるほど漲る力を感じつつ、背中を追った。
物見櫓の一つに、伝令が飛び付いた。
上ではまるで、蜂の巣を突いたかのような騒ぎが沸いている。飛燕たちは、まるで餌に集る蟻の如きに取り付くと一気に梯子を攀じ登った。
あちらを! と指し示す伝令を跳ね飛ばし、飛燕は柵に取り付いた。かっ、と見開いた眼が血走り、わなわなと身体が震える。
「おおっ!?」
「へ、陛下!」
剛国へ向け西に伸びている狭い公道に姑息に影を落としていた、軍旗が、騎馬が、兵が、馬坊柵までもが姿を消しているではないか!
――勝てる!
瞬間的に、飛燕は己の勝利を確信した。
公道の東側に詰めている界燕は、剛国が撤退したなどとまだ気が付いておるまい。
西側を封鎖された袋小路の状態であったからこそ、籠城しか打つ手がなかったのだ。
――剛国が消えた今、背後から界燕を強襲する絶好の機会だ。
この機を逃せば、我が軍は食糧と飲料を求めて餓死するか狂死するしか、道は残されていない。
或いは大切な軍馬を殺せば、幾日かは食い繋ぎ命を長らえられるやもしれぬ。
だが、鍛え上げた軍馬は末端の兵士たちよりも価値ある財産だ。
奴らの魂を潤すために、大切な馬は殺せない。其れに最後の最後に特攻を仕掛けるにしても、騎馬無くしては話にならない。
――今が、ぎりぎりの瀬戸際だ。
確かに体力の限界はとうに向かえている。
だが、裏切り者の界燕憎しの気勢は未だに衰えておらず、然も剛国側の道は開けたのだ。籠城の果てに真正面からぶつかるしか術がなかった此れまでとは違うのだ。
「出陣するぞ!」
飛燕は振り返りざまに命令を下した。殆ど飛び降りる状態で、伝令は再び降りてしょうしゃへと走る。
「馬ぁひけぇ!」
具足の紐を結び直しながら、飛燕も櫓から一気に下ると自らの馬が繋がれている厩へと大股で歩いてゆく。
細かな軍議など、この際必要ない。
剛国が消えた西側より出でて東側公道に構えを取る界燕を挟みうちにする。
それだけで良い。
ただし、時間はかけられない。
人も馬も、気力体力ともに1じしん持てば良い方だろう。
長引かせては、この戦は負ける。
勝利は、生き延びるには、短期決戦、此れしかない。
鞍の置かれた愛馬にまたがると、飛燕は腕を振り上げた。
「行くぞ! 騎馬隊の半数、我についてまいれ! 残る半数は、我らが界燕と戦端を切り結んだ直後に門を開け放ち、一気に打って出よ! 今度は我々が奴らを挟みうちにするのだ!」
おお! という歓声が巻き上がった。
★★★
はためく軍旗の破裂音の中に、何か別種のものが混じり合っているように感じた界燕は、視線を上げた。
「何か聞こえなかったか?」
「は? いえ」
問い質した部下は、訝しみ首を捻るばかりだ。
「気のせいなのでは?」
飛燕王を包囲し始めてから、界燕は殆ど碌に休息をとっていない。
だが、疲れから来る気の迷いなどで済ませるにはいかなかった。
僅かな気の緩みであっても足元を掬われる。
其れが戦場なのだ。
しかも、相対しているのは例え権威は地に落ちているとはいえ、国王の名を冠する男だ。口にはせずとも、自分たちは反逆者、しいぎゃく者になるのではないかという怖れを、皆、胸に抱いている。
臆病風に吹かれる前に仕掛けるべきか。
界燕の悩み処だった。
群府の命綱である水を引き入れている暗渠が剛国王弟・烈の手により破壊されているのは、既に確認が取れている。
城内に残された飲料が如何ほどのものか知れないが、立ち上る飯炊き用の竈の煙の筋はこの二日でがくんと目減りした。つまり、米や麦を調理したくとも水がないのだ。
水を節約して回すにしても限界があるが、生米など口にすればそれこそ忽ちのうちに腹を下す。
誰か一人でも腹を下せば其処から一気に疫病が蔓延し、一万程度ならば下手をすれば半日でほぼ全軍がくたばり損ないになるだろう。
最も、疫病を態と発生させ、投石器などで人糞を此方の陣地に投げ入れようという作戦であるならば分らぬでもない。
が、流石に追い詰められたといえども、兄王・飛燕とて其処まで馬鹿な策を講じまい、と界燕は見ていた。今は敵と味方に分かれて入るが、元をただせば同じ燕国の民であるのは、自分たちだけでなく兄・飛燕王とて同じだからだ。
――しかし、飛燕兄の事だ。
兵たちに飲み水として与える位ならば、一万の馬を養う方に回すであろうな。
馬は大喰らいだ。
成年男子の7~10人分ある体重を維持せねばならぬのだから当然ではあるが、徐々に兵たちの間に不満が募ってきている処だろう。
――となると、弱り目が出始めた今はまだ、叩くべきではないか。
悶々とし始めたその時、伝令が切羽詰った表情で界燕の前に飛び込んできた。滝に打たれたばかりのような汗に全身を濡れそぼらせている。何事だ、と界燕が許しを与えて正す前に伝令は唾を飛ばして叫んだ。悲鳴に近い。
「も、申し上げます! て、敵軍が背後より迫ってきております!」
「何だと!?」
界燕も立ち上がる。
「敵は!? 東燕の奴らか!? よもや業燕ではあるまいな!?」
血の気を失った青い顔で叫ぶ界燕に、伝令も負けじと叫び返す。
「ひ、飛燕王です! 王自ら先陣に立ち、此方に迫って来ております!」
★★★
伝令の言葉により、界燕に従って来ていた者たちは立ち枯れた稲のように自失した。
身体から生気という色を失い、茫然とする。
が、微かに届く馬蹄の轟きが耳朶を打つと本能的に草木が芽吹くように正気を取り戻しす。
「馬の用意をせよ!」
界燕が腕を振り上げる。
「敵は一か八かの賭けに出たのだ! 背後からの敵である飛燕の奴は囮だ! 恐らく、我らが背中を見せた途端に群府の扉を開き討ちに来る筈だ! 背後の軍を抑えるに足る3分の一の兵よ、私と共に残れ! 余す3分の2は扉が開いた処を狙う為残れ!」
界燕の号令が、地面すれすれを飛行する燕の如きに広められる。
「皆の者、掛かれぇ! 此処が肝要ぞ! この一戦に我らの命運の全てがかかっていると心得よ!」
おお! と兵士たちも怒号で応じる。
「王なぞと名乗ろうが、何程のものやあらん! 蹴散らしてくれようぞ! 行くぞぉ!」




