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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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16 燃える山河 その2-1

16 燃える山河 その2-1



 神殿から古い書簡が続々と持ち込まれてきた。

 最近になって城に上がりだした類の長男であるとみと次男のひろと三人で、記述を調べ上げて行く。兎も角、三人ともども読むのが早い。視線が上から下へと移動したかと思えば微かに横にずれる。目紛しい勢いで其れが数回繰り返されると、次の木簡へと手が伸びるのだ。

 しかも、古い記述であるから今の言葉では意味が通じぬ文も多々あるというのに古語にも精通している彼らは、ものともせずに読破していく。読み終えた書物と拾われた記述が書きなぐられて放り投げられた木簡は、散らかって何がどれやら判別不能になる前に、万事心得ている蔦が丁寧に揃えていた。この辺り、共に仕事をする機会が多い為であろうか、類たちのやり方は真に似てきている。


 古い記述の認証作業は彼らに任せるとして、戰と学、そして真は此の事実をどうすべきであるかを話し合う事になった。

「私は冷夏による被害は祭国一国に収まらないだろうと思っているのだが、真はどう見ている?」

「はい、私も同意見です。気候的に祭国と一番似通っている分、可能性が最も高いのは何といっても禍国です。他には、句国と剛国、河国も一部分かかってまいります。しかし山脈から以東である露国、契国、燕国、那国も被害無しなどではいられないでしょう」

 最も、燕国と那国は気候に大きな差がある。那国は南方にあり然程心配はないかもしれないし、元々極寒の地を抱える燕国は常日頃から備えができている可能性があった。


「そうか……。真」

「はい、戰様」

「真は如何にすべきであると思う?」

「どうすべきであるか。どの道を選び、どの道を捨てさるのか。お決めになられるのは、戰様と学様でなくてはなりません」

 一見、冷たいとも見える程突き放した声音で答える真に、そうだな、と戰も頷きつつ短く返した。

 冷夏からくる冷害、そして飢饉の可能性。

 此れを他国に伝えるべきであるのか、伝えるとして如何にすべきであるか。

 相手側が信じようが信じまいがどうでもよい、とするのであれば、冷害を大いなる天啓として利用もできよう。

 寧ろ国勢を強めたいのであれば、利用を躊躇すべきではない。

 各国が長く冷害と飢饉に苦しめば、備えを怠らなかった祭国に頼らざるを得なくなるのは、わらべでも解る道理だ。


「確かに、この事実を伝えずに捨て置けば、戦に頼らずに他国を靡かせる事が出来るかもしれない」

 戦を仕掛ける事を思えば、楽というのは奇妙な表現であるかもしれないが、自国の損失は長い目の差し引きで考察すれば、、なのかもしれない。

「だが」

 そう、だが、だ。

「けれど、私はそんな方法でこの平原を手に入れたくはない」

 きっぱりと言い放つ戰に、はい、私もです、と真も打って変わって朗らかに応じる。

 勿論、戦を仕掛けて泥沼の戦いの末に領土を得ても、結局は荒廃した寂寥たる地が広がるばかりとなってしまう。


「となれば、戰様、如何なされますか?」

「各国に使者を送ろうと思う。人選は成るべく少しでも縁のある者に任せる方が良いだろう」

「はい、私もそう思います。禍国本土には此度の本国からの使者殿への返信として戰様の親書扱いとし、句国には克殿を河国には杢殿を使者とされれば宜しいかと思います」

 露国へは群王妃として椿姫様の御名を、東燕へは祭国国王として学様の御名を以て、契国と那国へは群王という身分だけでなく禍国の皇子の立場を連ねて威を示す方が良いでしょう、と重ねて進言する真に、うん、と戰も頷いて同意する。


「しかし、問題は剛国だ」

「ですね」

 剛国王・闘の思惑がどうであれ、戦をしている場合ではない。

 何とか矛先を収めて貰わなければならないが、果たしてそうそう上手くいくものか。

「郡王殿、東燕との戦の先端が開いたばかりです。剛国王は我が国の話に耳を傾けてくれるでしょうか?」

 心配気な瞳で見上げてくる学に、そうだね、と戰も苦笑するしかない。

 両国とも元は騎馬の民だ。

 戦の結果を持って全てを決するをよしとする、猛勇の血を心身に流している血気盛んなうからだ。


「剛国こそ、使者次第だろうね」

「では、一体誰を使者に定められるのですか?」

 何処か不安げにそわそわとしている学に、落ち着くんだ、と戰が嗜めるように声を掛ける。

「先程、戰様が仰られたばかりです。その国に、少しでも縁のある者を選任すると」

「お師様?」


 今度ははっきりと不安の色が濃く出た震える声の学に、真はきっぱりと言い放った。

「剛国へは私が参ります」



 ★★★



 慌ただしく杢と克が呼ばれ、戰と真から仔細が説明された。

「頼む」

「承知致しました」

 戰の一言の命令に、杢も短く答える。そして直ぐさま立ち上がった。

 遣るべき事をやるのみ、とする淡々とした表情からは彼が何を思っているのかを推し量ろうとしても不可能だ。だが、生来鋭い瞳に、更に強い光が漲っている。それが杢の意思を表す全てだろう。

 杢の背中を追って、苑も立ち上がる。何時も気丈な母が、硬くこわく頬と眉を固め、それでいて瞳を潤ませているのに学は気付いていた。父である覚の思い出に浸り、自分に物語って呉れる時以外には見せぬ表情だ。

 学は何かもの言いたげに、少年らしい赤い唇を動かしかけた。が、結局言葉に出来ず、飲み込んでしまった。


「克殿も、宜しくお願いします」

「任せてくれ真殿、心配無用だ」

 一方の克は、というと此方はやる気満々、と言いたげに両手で頬を挟んでぱんぱんと張り手をかましている。真赤に染まり上がった頬に熱い目で、よっしゃあ! と気合を入れる。四股まで踏みそうな勢いだ。克もまた、出立の準備の為に其のまま部屋を飛び出して行った。

 一刻どころか、瞬きをする一瞬の間を争うのだ。

 だが、理由はそれのみではなかった。

 身重となった珊の身体と心情を思えば、戰も真も竹に命じるべきなのは判っている。

 克の動きが素早かったのは、真たちが逡巡し、矢張り竹に、と命令を撤回させぬ為だ。

 克も竹に不満があるわけではない。寧ろ、この3年の間に大きく成長したと思っている。陸少年に慕われるようになった事を見れば判るように、部下の心を掌握するだけの力量も付け始めた。後は経験を、特に克も通った事がないような経験を積ませて自信を深めてやるだけだ。

 だが竹では、此度の問題で、句国王・玖と宰相となったきょうを納得させるだけの力はない。

 役不足なのだ。

 確かに句国との戦いの折に見せた一万騎の脅威的な働きの中に、竹も居た。しかしあれは、克が万騎長であったから為せた技だ。

 片手で梢子棍しょうしこんを奮い勝利を我が手に手繰り寄せんと奮戦した克に、玖と姜、そして句国領民の心を動かしたのだ。直接見た訳ではない。が、伝聞だからこそまざまざと眼に浮かぶ勇姿が生む感動は、一生続くだろう。

 だから、克にしか成しえない。


 真が目配せをするまでもなく、蔦が克の後を追って部屋から姿を消していた。

 幾ら志を同じくする盟友の国々を救う為であろうとも、珊は、克と夫婦の縁を結んで3年目にして漸く授かった初めての子を宿したばかりなのだ。身も心も最も不安定な時期にあるというのに、良人おっとと離れ離れになる辛さを珊に味あわせねばならない。

 此れまでであれば、見知らぬ誰かを救う為に克が飛び出していったとしても、珊は明るく背中を押していただろう。

 だが今の彼女は、自分自身を克にこそ救って欲しい、と思っている筈だ。

 遣りきれぬ気持ちを癇癪玉として爆発させたとしても、後に残る後悔と自責の念に珊が押し潰されてしまわないようにするには、此処は親代わりとして20年近く共に暮らしてきた蔦の出番だろう。


 ぼんやりと義理兄である戰と学、そして真たちの遣り取りを見ていた薔姫は、不意に肩を叩かれて、えっ!? と視線を上げた。

「さあ、姫、私たちも家に戻りましょう。準備をしなくてはいけませんからね」

 準備……、と口の中でも掠れ声で呟く薔姫に、ええ、と真は明るく応える。


「克殿も杢殿も、明日明朝には出立します。私もです」

 手伝って下さいますか? と普段通り、部屋の片づけを手伝ってくれと頼む調子で云う真に、薔姫は頷く事が出来なかった。



 ★★★



 家に戻るなり大急ぎで旅支度を始めた真の周りを、娃は仔猫が額を擦り付けて甘えるようにひっついてくる。


「娃、そんなにくっ付いていられては、兄は準備が出来ませんよ」

 しかし、真だけでなく好や周囲の者が何を言っても普段と違う行動をしている兄に娃は興奮してしまい、ころころと仔犬が転がり戯れつくように傍を離れない。苦笑いしつつも、仕方ないですね、と真は娃の好きなようにさせた。こうなると、何を言っても聞かないのが娃だった。

「お兄ちゃま、何をご用意してるの? こんなにお荷物作って、何処かに行くの?」

「はい、そうですよ。父上も以前見廻っておられた国まで、ちょっと」

 癖のある妹の前髪を撫でてやりながら真が答えると、そうなの? と娃の顔が輝く。

「それじゃあ、御土産、いーっぱい買ってきてね」

「御土産、ですか?」

 目を丸くして真は振り返る。にこにこしながら、愛らしい妹は元気に頷いた。

「うん! 娃、可愛いお人形さんがいいな」


 ちゃっかりおねだりまでしてくる妹に、真は噴き出した。

 分りました、兄に任せて下さい、と笑いながら膝の上に乗せてやる。普段、妹を甘やかし過ぎる父・優を、やれやれ、と肩を竦めて呆れ眺めていた真であったが、今日ばかりは馬鹿が過ぎる父親の溺愛ぶりに感謝した。

 父である兵部尚書・優は視察の道すがら、可愛らしい人形や玩具、装飾品やきぬなど、女童が気に入りそうな小間物を片っ端から手に入れて、山となった荷物と共にこの祭国を訪れる。

「ほれ、娃。遠つ国の品だ、珍しいだろう」

「うん! お父ちゃま、有難う」

「そうかそうか、嬉しいか」

「うん、お父ちゃま、今日は何処のお国に行ってきたの? 娃、お他所よそのお国のお話、聞きたいな」

 優の太く逞しい腕に抱き上げられると、娃は砂埃と泥と汗で汚れた父親の頬に自分の桃色の頬を擦り寄せて甘える。これ、御父様はお疲れなのですよ、と娘を窘める母・好に手を振りながら、優は目尻を下げて娃を高い高いして笑うのだ。

「そうかそうか、ようし、では何処から話してやるとするかな」

「一杯聞きたい、全部聞きたい!」

「そうかそうか、うんうん、任せておけ」

 そんな会話が、娃と父の間には常に交わされる。

 娃にとって、父が何処か遠くを廻ってから家にやってくる生活が普通になっている。

 だから、真が遠くに行くのだと言っても、ピンと来ない。分るのは、遠くに行っては御土産を手に戻ってくる父親の姿だ。だから経験に準えて、出掛けていく真もまた、直ぐに戻ってくる、自分を喜ばせる御土産と一緒に、と信じて疑っていないのだ。


「お人形さん……ですか」

「うん! えっとね、可愛い赤いきぬを着たのがいいの。娃の分とね、あと三つね」

「他に三つも?」

「うん、あのね、丸とね、万とね、あとね、王妃様のお腹にいる赤ちゃんの分のも」

 丸や万は兎も角として、椿姫の腹に宿ったばかりの御子の分までねだる娃に新は噴き出した。

「おやおや、娃はもう椿姫様のお腹にいらっしゃる赤ちゃんは、王女様だと決めているのですが?」

「うん、だって、星皇子様も輪皇子様も男の子だから一緒にお人形さんで遊べなくって、つまんないんだもの。だから今度は絶対に王女様なの」

 王女様なの、ってそれは娃の希望ですよね、と真は苦笑する。


「あっ! 忘れてた!」

 手を合わせて娃は叫ぶと、真の膝の上で、くる、と向きを変えた。

「はい、今度は何ですか?」

「それとね、あとまだ三つ欲しいの」

「もうあと三つ?」

「珊姉ちゃまと福姉ちゃまの赤ちゃんの分のも」

「それじゃあ、あと二つですよね」

 妹の計算間違いを笑う真の頬を、違うもん三つであってるもん、と娃は小さな指でぎゅ、と撮んだ。頬を摘まれたまま、あいてて、と真は笑ったが、次の娃の一言で笑っていられなくなった。

「お兄ちゃまとお姉ちゃまの赤ちゃんの分もなの」


 思わず固まる真に構わず、娃はにこにことして続ける。

「ね、お兄ちゃまとお姉ちゃまの処には、何時、赤ちゃん来るの?」

「い、何時、って聞かれましてもですね……」

 無邪気に迫る娃に、真は二の句が継げない。

「お兄ちゃまもそういうの? お姉ちゃまに聞いてもね、ほっぺ真っ赤にしてるだけで、ちっとも教えてくれないのよ?」

 真が完全に凝り固まって動けなくなっていると、母親の好が助け舟に来てくれた。邪魔をしてばかりの娃を抱き上げる。其れでも娃は諦めない。


「ねえ、お兄ちゃま、いつ? 赤ちゃん、何時くるの?」

「さ、娃、此れ以上お兄様のお邪魔をしていてはいけませんよ。母様と一緒に参りましょう」

「やん、娃、もっと起きてるもん! お兄ちゃまと一緒にいるんだもん!」

「いけません。さ、もうお休みの時間です」

 やだぁ! と娃はじたばたと手を振り回して抵抗するが、好は問答無用で連れて行く。


 娃が居なくなると、此れまでの騒ぎはなんだったのかと言いたくなる程の静けさが部屋に訪れた。

 やれやれ、と苦笑しつつ前髪をくしゃくしゃと掻き回す。

 何時だったか、薔姫の様子がおかしかったというか、変にもじもじとして言葉を濁していた時があったのを真は思い出していた。


 ――此れだったのですね。

 姫も返答に困ったでしょうねえ。


 しかし笑い事ではない。

 全く誰に似たのか、娃は相当にしつこい質だ。

 返答に窮したであろうに助けを求める勇気が持てなかった薔姫に気がついてやれなかった事を、済まなく思い心の中で詫びを入れながら、真は荷造りに戻ったのだった。



 ★★★



 荷物と言っても今回は公式の任、使者として発つのだ。

 書簡類は城で戰が用意してくれる。着替えの他に薬湯が膨れ上がるのは仕方ないとしても信じられない量に荷物が膨れ上がっていくのは、私的な、というか気が付いた時に手控を残せるようにと新品の木簡を呆れるほど持って行くせいだ。

 実際、先の二つの戦の際に残した真の備忘録は相当な巻数に上っており、戦だけの記述のみならず気候風土などから始まり風習や特産物にまで細かく記載されている。外交を行う際、此れ以上の虎の巻はない、と言っても過言ではないだろう。

 ただ惜しむらくは、気になったその場その場で書くだけ書いて、書き散らされたまま放置されて累計体系的に整理されていない。毎度毎度、何か事ある毎に探しまくる手間を思い出せば、最初からきちんと整理して書き付ければよいものを其れをしないので、毎回毎回、手伝ってくれる薔姫に小言を貰っている真だった。最も、最近は類の息子たちが分類と写しの作業を暇を見つけては、担っていてくれているので、随分と楽にはなったのだが。


 蔦の一座の仲間が掻き集めて呉れた真新しい木簡の束を、縛ってある紐に緩みや撓みがないかをざっと触って調べながら袋に収めていく。愛用している硯箱の他に、携帯用の硯箱も用意した。此方は十露盤と小さな硯が二つあり、墨と朱墨と同時に使えるようになっている。更にもっと手荷物を減らせるようにと矢立も用意したし、筆巻きには太筆から細筆まで各種取り揃える周到さだ。

 

 ふと、風鎮の音に紛れて微かな衣擦れの音が届いたような気がして、真は振り返った。

 すると、戸口の傍に佇んでいた薔姫と目があった。薬湯の処方を記した木簡と晒を手に立っている。

「ああ、姫、手数をかけてしまいましたね、申し訳ありません」

 口元だけで緩やかに微笑む真に、薔姫は首を左右に振ってみせた。

 其れからは、何となく真も薔姫も言葉なく黙々と荷造りに勤しんだ。


「此処までの急な出立と言えば、5年前以来ですね」

「……うん、そうね」

 確かに、剛国王の因縁を解きに祭国に向かった時以来だ。

 ごそごそと、真が懐を探り出した。身を乗り出した薔姫の前に、丁寧に絹が張られた小箱が差し出される。小首を傾げながら受け取り、蓋を開ける。中には見覚えがある、上等な半紙が折りたたまれて眠っていた。

 手にとって広げると、嘗て『薔』と認めた書だった。


 ――懐かしい……。

 あの頃は、自分が手にしている紙や筆がどんなに高価なものかも知らなかった。

 あの時は、商人・時が連れて来た占師の卜占の言葉を疑いなく信じていられた。

 あの日の自分は、真や義理兄がどういう状況にあったのかを全く理解していなかった。

 自然に無事の帰宅を信じられて、無邪気にいってらっしゃいと言えた。

 それでも、幼いなりに懸命に良人おっとである真に尽くそうとしていた自分が此処に居るのかと思うと、きゅぅ、と胸が痛くなる。


 ――5年近くも前の拙い手なのに、未だに大切に仕舞って呉れていた、なんて……。

 視界が、温かく潤んでくる。

 真が手を差し出してきたので、慌てて書を元通り畳み直して小箱に収めて蓋をした。

 何とか作り笑いを浮かべて真の掌に乗せようとすると、一本一本が微妙に歪みをもった指をもつ右手の平の中央には、火膨れの痕がまだ微かに残っているのが見て取れた。



 ★★★



 薔姫は、一気に胸が詰まるのを覚えた。

 どうしてかは解らない。

 ただ、真の傷痕を見た途端、小箱を返すよりも彼の手に指に――

 全身に、触れたくて抱き締めたくて、堪らなくなった。


「我が君ぃ……!」

 叫ぶようにして、薔姫は真の胸に飛び込んだ。予想していたのだろう、多少ふらつきはしたが、真は薔姫をしっかりと抱きとめた。

「姫、私は戦に赴く訳ではありませんよ?」

「……うん」

「そうですね、娃ふうに言うのであれば、云わば剛国には『御使い』に行くだけなのですから」

「……うん」

「大丈夫、ですから」

「……うん」


 背中を撫で擦る手の暖かさと、頬を寄せている胸の温もりが、涙に濡れた心をじんわりと優しく包み込んでくる。心地よさに目蓋を閉じながら、薔姫は呟いた。

「……御免なさい、我が君……」

「何が、ですか?」

 だって、だって……、と薔姫は口籠る。

「……わらって……、おくり、だして……あげる、って、やくそく、だった・のに……」

 ぐす、と湿った音を鼻からたつ。

 いいんですよ、気にしていませんよ、と真は笑う。

 が、薔姫は激しく首を左右に振った。

 旅立つ時、別れの時、笑顔でいて欲しいとあれ程聞いていたのに、知っているのに――出来なかった。

 悔しいけれど、泣いてしまう自分に優しく甘い良人の態度が嬉しくて、また涙が出てきてしまう。


「別に困らなくていいのですよ、姫。それに、姫が教えてくれたんじゃないですか」

「……えっ……?」

 ぎこちなさと震えが残る真の右の指は、硬い。だが薔姫は、流れる涙を拭って呉れる手ほど暖かく柔らかく心を和ませてくれるものはない、と思った。

「守れない約束なら、また、約束し直せばいいのですよ」

「……」

「でしょう?」


 笑い声と一緒に、こつん、と硬いものが眉根の上辺りに当たる。

 真の額だ。

 そういえば、あかもがさで寝込んだ時、熱があるかどうかを測ろうと額を合わせてくれた。

 ――でも、ものすごく痛くて、泣いちゃったのよね……。

 今、合わせてくれた額は痛くない。

 近づいた分だけ、薄く開いた唇から洩れる息使い、長い睫毛が揺れる様まで見える。そ、と手を胸元にのばしてみると、とくとくという鼓動が伝わってきそうだった。


「……じゃあ……」

「はい?」

「……なんて、やくそく……しなおす……の……?」

 そうですねえ、と言いながら真が腕を遠慮がちに背中にまわしてくるのを感じた。

 とくん……――、と身体が波打った。

 ゆっくりと肩を引いて隙間をつくり、顔を見上げる。

 風鎮の音を背に、真っ直ぐ此方を見詰めている真の顔があった。


「帰ってくるまでに新しいおやつを考えてくれる、とかどうでしょうか?」

 真は至って真面目に答える。薔姫は噴き出した。

「やだ、もう、我が君……ったら……」

 忍ばせる事も堪える事も出来ず、くすくすと笑い声を洩らす。ぽりぽりと米神辺りを引っ掻きながら、真も笑った。


「で、どうなんですか? 作って、待っていてくれるのですか?」

「……うん……待ってる……」

 こくん、と頷く薔姫を腕に抱いた真は、あやす様に身体を揺らして、ああ、此れは帰ってくるのが楽しみでなりませんねえ、とまた笑った。



 ★★★



 翌日の昼過ぎ。

 真が剛国、克が句国、杢が河国、そして竹が選んだ早駆の腕の持ち主たちが禍国を始め近隣諸豪族の長への使者となるべく、慌ただしく出立の準備をしていた。


 克の片方の頬が赤く大きく腫れあがっているのに見送りに薔姫も椿姫も、目を丸くして言葉も出ない。

 珊は隣で素知らぬ顔でいる。身重の妻を気遣うあまり役目を伝えるのを渋った克が、業を煮やした珊から制裁の鉄拳を喰らったからだ、と蔦がこそりと教えて呉れた。

「お兄ちゃま、ね、お兄ちゃま? 娃とのお約束、忘れないでね?」

「はいはい、忘れていませんよ。赤いきぬのお人形さんを、娃の分の他にあと六つ、ですよね」

 うん! と元気よく答える娃に、硬く重苦しかったその場の雰囲気が和む。


「杢、克、皆も、相手方が直ぐに納得できる話ではない。進言は受け入れられず、事によれば談話すら困難を極めるだろう」

 一歩進み出た戰に、全員、礼拝を捧げる。

「だが、何とか飲み込んで貰えるように説得してくれ」

 頼む、と目を伏せる戰に、はっ、と杢と克が力強く応えると背後に揃った部下たちも倣う。


「真」

「はい、戰様」

「剛国には、芙と彼の仲間が居る。成るべく早く連絡を取り合うんだ、いいな」

「はい、分かっております」

「玖陛下は物分りの良い御方です。一時でも早く話を飲んで頂き、私も直ちに剛国に渡ります」

 珊に脇腹を肘で突かれて、任せてくれよ、と慌てて真の肩を叩く克に、頼りにしてます、と真が笑うと辺りに笑いの渦が上がった。


「卜占にて吉と出し刻限に御座います」

 しかし、最礼拝と共に蔦が厳かに告げると、しん……と水を打ったように静まり返った。


「騎乗!」

「行くぞ!」


 杢と克が同時に号令を掛けると、おお! と威勢の良い声で呼応し、皆、一斉に愛馬に騎乗する。

 但し真は馬に乗れぬ為、彼専用に4頭立ての戦車が用意された。台座に設えられた椅子に真が腰かけると、待ち構えていた克が腕を腕を上げる。


「出立!」


 弾かれた矢尻のように、城の正大門から騎馬が目的地に向け一斉に駆け出した。

 嘶きと蹄の音が、砂埃と共に風を蹴破って周囲にもうもうと立ち込める。

 真を乗せた戦車も、轟音を轟かせながら走って行く。


 あっと言う間に小さくなり、雲か埃か見定められぬ彼方へと消えて霞となっても、残された人々はその場を離れず、何時までも見送っていた。



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