16 燃える山河 その1-2
16 燃える山河 その1-2
着々と進む軍備の影で、界燕は密かに異腹兄である飛燕を見ていた。
ただ、見ていた。
兄の立ち振る舞い、声音、仕草。
どういう状況でどういった態度をとるのか。
どの様な策を用いてどう打開しようとし、相手の次の手にどの様な対応をとるつもりであるのかを、備に。
自分たち兄弟の長兄であり国王であった臥燕が此の世を去り、王妃であり王母であり国母であり義理姉である璃燕により己が妃と子を亡き者とされ窮地に追い込まれてより、飛燕は劇的に変化した。
それまでの、たどたどしい動きをみせる家鴨のような怯えをみせなくなり、王者の風格を纏いだした。
そして思う。
――成程、曲りなりにも、あの王妃の夫として褥を共にしただけの事はあるな。
あの加虐嗜愛の強いことこの上ない、璃燕義理姉の教育の賜物と云う訳か。
――どんな仕込まれ方をしたのやら、だな。
実に羨ましい、と申し上げておくべきでしょうかな、異腹兄上。
くつくつと零れそうになる笑い声を必死で堪えて、界燕は己の武具の調整にも余念ない。
「界燕よ」
不意に名を呼ばれても、界燕は狼狽し挙動不審になることはない。
はい、と速やかに立ち上がり飛燕の前に跪く。
「どうだ。軍備はよく整っておるか」
「はい、陛下。滞りなく」
「意気は揚っておるか」
「はい、陛下。陛下の御名を汚す輩を討つ喜びに、皆、沸き立っております」
ふむ、と満足を顕に何度も頷く飛燕の前で、界燕は目を伏せる。片膝を付く界燕に覆い被さるようにして、飛燕が耳元で囁く。
「当初の予定通りだ。其方に露国の使者を命じる」
「身に余る誉、此の上ない栄誉を賜り恐悦至極に存じ上げます」
「だがよいな、此れは密命である。何処から情報が漏れるとも限らぬ。露国に漏れる程度の事はどうとでもなろうが、璃燕の奴が嗅ぎつけでもしたらやっかいだ。仲間内であろうとも、決して気取られてはならん。夢々、忘れるでないぞ」
「はい、陛下」
界燕は深々と神戸を垂れる。
飛燕の立てた策とは、こうだ。
2万の騎兵をもって、王弟・烈が治める剛国領へと進軍する。
途中、界燕は離脱し、二万のうちから一万騎を率いて露国へと向かい、互いに不可侵の密約を結ぶ。
界燕が露国より戻り合流せんと馬を走らせる間に、飛燕は正面から剛国郡府に仕掛けて意識を此方に集中させる。
数日の後、正面部隊である飛燕に意識を集中させている烈の背後から、露国領内の近道用いて界燕が突撃を開始、同時に飛燕も打って出て挟み撃ちとする。
飛燕軍一万騎のみで郡府を破れれはそれで良し、だが攻略しきれず睨み合いとなったとしても峡谷を抜ける険阻な道を行かねば剛国本領へとは戻れない。
郡府は、狭隘な一本径上の土地に築かれている。
逃げ場などない。
兄である剛国王・闘に援軍要請をする間もなく、烈は谷間を埋める木端の一欠片となるだろう。
「有り難き仕合せ。臣・界燕、陛下の御恩に報いる為に此の身と魂、擲つ所存に御座います」
項垂れるように頭を下げる界燕に、再び飛燕は満足気に頷き、その場を去った。
引き摺る程長い外套の裾が視界から消えてから、たっぷり10を数えて後に界燕は密かに薄い笑みを零した。
「界燕様、下知を」
小走りに駆けてきた部下に、界燕は静かに命じる。
「良いか、二万の騎馬軍団を二手に分けよと陛下は命じられた」
「はい」
「兵は陛下と私が率いる事になる。私は陛下の命を受け、露国に向かい休戦不侵の盟約を結びに行く。此れは出立直前まで極秘事項だ。故に、人選は私が行う。選ばれた者には直接、通達をするようにしろ」
「はい」
「然し、何方の軍に就こうとも、皆、心して掛かるよう徹底するのだ」
「はい、殿下。相手は剛国。此度の作戦は迅速に動く事こそが肝要と胸に刻みます」
興奮と緊張に頬を紅葉した紅葉のように赤くしている部下に急ぎ行くように命じた界燕は、彼の姿が見えなくなると北叟笑んだ。
「あのような策略とも呼べぬ策にて本気で勝利を得られるとでも思っているのか、あの男は」
界燕は飛燕の稚拙な策が図に乗り、戦が有利に運び必勝を得るなどと露ほども信じていない。
――まあそのお陰で、合理的に異腹兄上を屠る事が出来るのだからな。
「私は深く感謝すべきなのでしょうなぁ、異腹兄上」
くっく、と喉の奥で笑いをくぐもらせる。
戦場にての死は誉である、とする平原の習いは燕国とて同じだ。
――なれば此度の戦にて命を落とそうと、誰一人とて異腹兄上を誹謗中傷する者はおりますまい。
寧ろ、賞賛の嵐となりましょうぞ。
口内の笑いが喉の奥を刺激したが、界燕は軽く手の甲を当てて咳を堪えた。眸だけが弓張月のように科っているのが不気味だ。
異腹兄・飛燕が居る限り、界燕に燕国の王座は回ってこない。
王座を狙う競合相手となる兄弟の数は、他国同様、燕国も多分に漏れず相当数にのぼる。
その中でも、現・王妃である璃燕の次の伴侶となり、国王を名乗る時宜を狙える位置と立場とに在る者は限られてくる。
最も有力なのは、自分と、璃燕の傍に侍る事を選択した業燕だ。
――まあ、業燕程度の男などは璃燕の足の裏で甚振られながら、この戦で飛燕兄が戦死するよう祈る位のものであろうがなぁ。
だが、私は違うぞ。
異腹兄上、貴方が愚かにも二つに分けた両の燕国。
此の私の手で手繰り寄せ、再び一つに纏めあげて見せましょうぞ。
「冥府の鬼どもに甚振られながら、歯軋りしつつ見ているがいいぞ、飛燕異腹兄上ぇ……」
ぽつりと呟きを落とした界燕であったが、だが彼の声を誰一人として耳にしてはいなかった。
★★★
格子窓から溢れる光に、風に乗って飛ぶ蜻蛉の赤い影が幾筋か混じる。
だが、大保は情緒ある光景に目もくれない。
仕事となれば実直謹厳な男であり、冗談の一つも零さない。
しかしこの勤勉さが、王城内において下士官たちより評価され信望を得たうえに敬服され始めていた。既に他国にも禍国廷臣のうち有能な臣の一人と言えば誰であるか、と問われれば、大保・受である、と名を挙げられる程に名声が広まっていた。無論、本人は預かり知らぬ処の話であるし、知った処で浮かれたり喜んだりするような可愛げのある男ではないのであるが。
執務室で受が務めに精を出していると、資人が恭しく声を掛けていた。
「何事か」
資人も既に主人の癖を心得ている。燕国、正しくは王妃・璃燕からの使者が届いた、と事実を軽易に伝えるのみだ。
「ほう?」
流石の受も、今度ばかりは予想だにしていなかったのだろう。決済を求める木簡に目を通していたが、視線を上向かせながら片眉を微かに持ち上げて見せた。
「御使者殿は何と云う御方か」
「は、燕国の王室のお一人、業燕様と名乗っておられます」
「王家の御方であるというのか?」
王族自らが使者にたつとは。
ない事はないが、燕国は元来、禍国を敵視して久しい。
「燕国と我が国は、質となる可能性がないとは言い切れぬ国交状態にある。余程の事がなければ、王族の者を遣わさぬだろう」
「は、其れが……業燕様は、自宮をされておられるようでして……」
「何?」
自宮とは自ら男性器を落として羅刹となるべき道を自ら選びとり、宦官の地位を得た者を差す。
王家の男子がそのような屈辱を選び取るとは、とどのつまりは臣下となるしか生き延び術がなかったのだろう。
しかし、宦官とはいえ王族は王族だ。
王家に名を連ねる者が自ら馬を駆けさせてきたのだ。
「おいそれと扱えぬな」
成程、如何に応対すべきであるのか、荷が勝ち過ぎる問題であるな。
「判断が付き兼ねる……か」
如何にすべきであるかと大保・受の元に伺いをたてに来た資人に、ふむ、と受は首を捻る。
木簡を机の上の決定済の書を連ね置く為の箱に木簡を収め、入れ替わりに資人から通信使の名を連ねてある竹簡と巻物を受け取る。竹簡の筆頭には確かに業燕の名があり、巻を解けぬが表装の龍虎の刺繍からみて、燕国側からの書は先ず間違いなく国書扱いだ。
通信使の名は、業と認めてあった。
続く燕国の璽からすれば成程、業燕と読める。
燕国の王族はこの平原には珍しく、自らの名前の後ろに国名を連ねて名乗る。
だとすれば確かに業燕と名乗るからには、確かに王家の一人なのであろう。
――だが、王家の者が宦官になっているとは考え難いな。
何を目論んでいる?
目論見があるとして、それは波乱含みの自国内においてか、それとも薄っぺらな安寧秩序が保たれた此の禍国にか。
受は、左の肩肘をつき頬を乗せた。
右の指先は、とつとつと音を立てて机の上を叩いている。紫檀製のすらりと磨きの入った逸品であるが、此の数年で随分と使い込まれて一気に風合が増していた。
「ふむ……まあ良いだろう。此処であれこれと詮索していても埒が明かぬ。許す故、謁見の間に続く控えの棟に御使者殿をお通しせよ」
「は」
下がりかける資人に、ああ其れと、と呼び止める。
「陛下にお出ましあるようお伝えせよ」
「――は、はい?」
不敬である事も忘れて聞きなおす舎人に、受は、ふ……と短く笑った。
「手当たり次第に後宮に収めさせた女の腹の上で、腰を動かすばかりが皇帝の役割ではないからな。偶には皇帝らしく働いて貰おうではないか」
受の不敬極まる言葉遣いに、舎人は言葉を無くして立ち尽くし蒼白となった。
だが、受は実に詰らなさそうに小さな欠伸を一つ落として椅子から立ち上がり、さっさと謁見の間へと向かい出していた。
★★★
受の要請を受けて、渋々、といった様子で皇帝・建は姿を現した。
深酒と大食を重ねて、美姫と昼夜問わず戯れ続ける怠惰な生活を送り続けているせいであろう、肌はくすみ目の下には濃い隈が浮いている。一回りも二回りも肥太った身体からは、香では隠しきれぬ強い饐えた臭いが漂っていた。
玉体を収める為の絢爛豪華な椅子に蹌踉めきながらも何とか達し、深く腰掛ける。
ふう、と溜息が出るのは明らかに不摂生からくる運動不足によるものだ。
「陛下、御足労をおかけ致しました。臣の不敬をお許し下さいますよう」
最礼拝を捧げつつも、大保は眉一つ動かさぬ無表情な上に、口調は全く恐れ入っておらず棒のように抑揚がない。
建は、以前から目をつけていた柳のような細腰の宮女を漸く召し上げて後宮としたばかりだった。
折角お楽しみの最中であったというのに、下らぬ用向きで邪魔だてをしたにも関わらず、しゃあしゃあとした受の態度に建は明白に不機嫌を顔面に張り付けてみせた。
――大保の奴め。いい気になりおって。
我を何と心得おるか。
平原一の名を欲しいままにする禍国の皇帝ぞ。
ほんの3年前、天皇子や乱皇子が健在であった頃には次期皇帝の座を狙えるなど夢にも思わなかった建は、母后である淑妃と共に怯えて丸くなった猫の如きに逼塞した生活を送っていたものが、一度甘い汁の味を覚えれば尊大不遜な態度に拍車がかかるのは早かった。
しかし、大保の方は建の態度がどうであろうとも特に感慨も落胆も覚えない。
禍国の皇帝に戰が就く迄の繋ぎとなる皇子など、名前と顔が違うだけで誰がなろうと然したる差などないからであり、故に、大保の態度はどの皇子相手であろうとも変化は一切ない。
「陛下、隣国である燕国より国書が届いております。使者には王族のお一人が立たれております故、陛下の御尊顔と御言葉をかの者に是非賜りたく」
受が手を振るうと、内官が高杯の上に巻物を乗せてしずしずと寄って来た。
国書が届けられ使者は王族であり、しかもそれが隣国の燕国であると聞かされれば、建も口を閉じるしかない。
最初からそう言えばよいものを、と建は態と大保の耳に届くように毒付く。
それでも矢張、表情を全く変えず、大保は差し出された高杯より巻物をとって建の前に示した。
顎を刳って巻物の紐を解くように建が命じると、一礼して受は命令を遂行した。しゅるり、と衣擦れ似た音をたてて巻物は綻びるように長い身を顕にした。
どうぞ、と建が読み易い位置で、受は広げた巻物を支えて立つ。
眉を顰めて巻物の文面を読みすすめていた建の顔ばせが、やがて、徐々に色を無くしていった。
かと思うと、一気に怒りに顔が赤らんだ。
「燕国の阿呆どもめが! 何を考えておるのだ!」
発情した牛のように鼻息を荒げて、椅子から立ち上がりざまに叫ぶ。
建が激昂するのを待っていたかのように、恐れながら失礼致します、と受は抑揚なく申し出て書を己の読み易いように持ち直した。
そして、文面に視線を走らせる。
立ち上がった建は、いや待て、と芝居掛かって自らの言葉を否定する。
「寧ろ此れは、戰の奴を懲らしめてやれる良い機会であるかもしれん」
自信たっぷりに胸を張る建に、ほう? と楽しげに受は眉を上下させ口角を持ち上げた。何時もは愚鈍な動きの癖に、こういう時だけは目敏い建は受の笑みを見逃さない。
「大保! 何を笑っておる!」
「いえ何も。陛下に於かれましては、どうやら上策が胸の内にお有りのようですので、私如きが嘴を挟む余地など御座いませぬ」
持ち上げられて、建はころり、と態度を軟化させた。ふん、と鼻息を付いて椅子に腰掛け直すと、もう一度書を見せよ、と尊大に受に命じる。
「大保よ、此の申し出を受けるよう、祭国郡王・戰に使者をたてよ」
「は」
短く答えながら、矢張何も解ってはおらぬか、と受は呟いた。奇妙なところで耳敏い建は、聞き逃さない。ひくり、と耳朶を蠢かせる。
「大保よ、今、何と云った?」
「いえ、何も」
「いや、云ったぞ。何だ、存念があるというのならば許す故、遺憾無く申せ」
「では、遠慮なく」
固辞は三度は行うのが礼節であるというのに、あっさりと受は答えた。
ぐい、と身を乗り出してきた受に建は思わず仰け反った。鼻息だけが荒いままの建に、受はそっと耳打ちをした。こそこそと枯葉が踊るような音が建の耳朶を擽る。
肩を揺らして痒そうにしていた建であったが、受の進言を聴き終えると、此れまで赤くしていた顔ばせは一気に蒼白となった。
――赤くなったかと思えば今度は青くなったか。忙しい事よな。
今度は心の内で呟きながら、受は軽く眸を細めた。がくがくと震えだした建に、如何なされますか、と変わらぬ平坦な声を掛ける。
「ど、どうする、どうする、どうすればよいのか、大保よ! な、何とかしろ、何とか!」
「何とかせよ、とは陛下、つまり私にこの問題の全てを預からせて頂く、という事で相違御座いませぬか?」
「そ、そうだ! 大保に任せる! 何とかせよ!」
「では、善処致します」
ぞんざいな一礼をする受に、建は目で縋りながら、こくこくと何度も頷いてみせた。
★★★
久しぶりの休みに、縁側に腰を落ち着かせた真はのんびりと庭を眺めていた。
夏至を迎え、夏越の祓いが済んだというのに曇天が続いている。
例年よりも梅雨の肌寒さが長引くのかもしれないな、と真は雲の張った空を見上げる。
雨こそ降らないが空気は湿気で重く冷えており、風が涼しいのだ。
過ごし易い、と言えば過ごし易い。
3年前の大火傷の痕は、暑さ寒さに過敏過ぎるほど反応する。何しろ表皮が爛れて剥がれてしまっているのだ。どんなに暑くても汗をかいて身体を保つ事も出来ないし、寒さは針のように直接神経に突き刺さる。
空を見上げている真の視界に、すい、すい、と赤い筋が流れていった。
脇で、かちん、かろん、と風鎮が鳴いた。表情を和ませながら視線をずらすと、風鎮を吊るす為に結わえている紐の先に、赤い筋の正体である蜻蛉が停まっていた。
「お兄ちゃま、ね、お兄ちゃま」
庭の方から何時もとは違う、こそこそとした声を掛けられた真が慌てて振り向くと、虫籠を手にぶら下げた娃がにこにこしながら立っている。
「娃? どうしましたか?」
「ね、其処にいる蜻蛉さん、獲って?」
小さな手で指差す先には、真が見ていた蜻蛉の姿がある。
ようし、と小さく呟いて立ち上がり、そろりそろりと脚音を忍ばせて蜻蛉に近付いた。ゆっくりと右手を伸ばし狙いを定めると、すい、と一気に横薙ぎに振るう。
「お兄ちゃま、捕まえた? 捕まえられたの?」
興奮して駆け寄ってくる娃に答えず、ほら、と真は手を差し出してみせた。
透明な美しい羽をちりちりと羽ばたかせて藻掻く蜻蛉が、真の右手に捉えられている。
わっ! と笑顔を弾けさせて、娃は籠を差し出した。
「お兄ちゃま、すごい!」
「まあ、ざっとこんなものです。此れでも兄はですね、娃くらいの頃は結構な悪童でご近所界隈でも有名だったので……」
「お兄ちゃま、早く早く、蜻蛉さん、籠に入れて」
「……娃……兄の話……聞いてませんね……」
苦笑しつつ蓋を開けて、娃にせがまれるまま真は蜻蛉を虫籠に放った。暫く、よたよたとしていた蜻蛉だが、直ぐに落ち着いて格子状の枠に掴まり羽を休めだした。わぁ、と目を輝かせる娃の前髪を、真は優しく撫でる。
「お兄ちゃま、有難う」
「いいえ、どういたしまして。でも、娃、なるべく早く逃がしてあげて下さいね」
「うん! お母ちゃまに見せたらお空に放してあげる!」
虫籠を掲げながら、わあい! と飛び跳ねる娃はすっかり普段通りだ。
「お兄ちゃま、後でね!」
「はいはい」
手を振って見送る真に、くる、と娃は肩越しに振り返った。
「お兄ちゃま! お返事は、一回!」
そのまま娃は、ぱたぱたと脚音を立てて庭から勝手口の方へと姿を消した。
はいはいはい、申し訳ありませんでした、と妹を見送った真は、今後は廊下の方から声を掛けられた。
「我が君、何をしてたの?」
手に盆を持っている薔姫に、……あ、いえ、とばつが悪そうに真は笑った。
「娃にせがまれて、蜻蛉を掴まえてあげたのですよ」
「そうなの?」
薔姫も笑みを浮かべながら、真の隣に膝をついた。
「今年は、もう風にのって山から下りてくる気の早い蜻蛉が多いのですって」
「へえ?」
「苑様に教えて頂いたの。ほら、見えるでしょう? あの西側の峰」
薔姫が指を差す方向に、確かに山が見える。祭国に入国した時から、あの山の百合根には随分と世話になっている。
「あの山から、ですか?」
「うん、祭国の蜻蛉の殆どはね、あの山から風に乗って下りてくるんですって」
流石、若い頃に采女として神殿に仕えていただけの事はあり、苑は季節の変わり目や動植物の変化に目敏い。
「そうなのですか?」
「この間、皆で、それじゃあ今年は蜻蛉の当たり年ね、って皆で話していたのよ」
「確かに、今年はよく見かけますね」
答えつつも、真の気持ちは既に薔姫が手にするお盆の上の皿の中身に集中しているようだ。肩を窄めて、うふ、と笑う。
★★★
――良かった、何時もの我が君で。
数日前、再び仏頂面に戻ってしまった真に薔姫は内心、ひどく項垂れていた。
また、変に避けられてしまう日が続くのかもしれない、と戦々恐々としていたのだ。
が、思いもかけず心配は解消された。
義理兄である戰が、帰り際にこっそりと寄って来て真に頭を下げてきたのだ。何の事やらさっぱり解らない薔姫の前で、お互いに奇妙な照れの入った微妙な空気の中で戰と真の謝り合戦が始まり、一刻ばかり其れは続いた。
呆れた薔姫が止めに入らなかったら、夜中になっても続いていただろう。どうやら、珍しい事に戰と真が喧嘩したらしい、とまでは察したが、薔姫は深く詮索するのはやめる事にした。話したくないから、自分が戻って来た時に真は渋面でいたのだ。
――私に変に追求されたくないのね。
聞かれたくないのなら、聞かない方がいい。
聞いて仲が拗れるよりは、其の方がずっといい。
確かに何でも話して欲しいとは思う。
でも、もしかしたら、この間のように無自覚なだけのかも知れない。
――待ってみよう、もう少し。
だって、私は我が君の妻なのですもの。
「今日のおやつは何ですか?」
「おやつじゃなくて、軽いお食事にしたの。我が君、ここの処、あまり食べていなかったでしょう?」
剛国王弟・烈と東燕の飛燕王との戦に対する警戒と、学がこなさねばならぬ神事も加わり忙しくしていたせいで、確かにこの数日間いい加減な食事になっていた。夏越の祓えが済んだからこそ、こうして一息付けているのだ。
「姫は何でもお見通しなんですねえ」
苦笑いしつつ、鼻の下を伸ばして盆の上の皿を覗き込む。
皿には、二つに割って焼いた茄子に胡桃と胡麻を混ぜた甘味噌を盛り、更に表面を焦がす程度に焼いてあった。
「茄子ですか? 早いですね?」
「うん、お家のはまだ植えたばかりだけど、豊から春茄子を沢山貰ったの」
美味しそうでしょう? と笑い掛けながら小皿に一切れ取分ける。更に菜箸で一口大に細かくして掬い易くしてから、小匙を添えて真に差し出す。
「有難う御座います」
仔犬が尻尾を振って餌に飛び付くように、いそいそと真は小皿を受け取った。
甘味噌乗せの焼き茄子は、まだ、ほかほかと暖かい湯気を上げている。器用に吊っている左腕の上を机代わりにして小皿を置くと、頂きます、と軽く頭を下げる。
小匙で茄子を掬いとり、口に運ぶ。
「美味しい?」
「ええ、美味しいです。姫、また料理の腕を上げましたねえ」
好物の胡桃の甘味噌の焦げ目が香ばしく、食欲をそそる。掬う匙の動きが止まらない。次々と茄子を口に放り込む真を見て、ぷっ、と薔姫は小さく吹き出した。
「お褒めにあずかり、光栄ですわ」
麦湯の用意をしながら茶化しながら応える薔姫に、いやいや、と真は小匙を咥えて手を振った。
「本当ですよ? 本当に姫の作る甘味噌は最高、いえ、天涯一と思っているのですよ?」
「はいはい」
頬を膨らませて味わっていると、ふい、と蜻蛉が二人の前を横切っていった。
「本当に、今年は蜻蛉が多いですね」
「そうね」
二人同時に、空を見上げる。
曇天の隙間から、微かに陽の光が筋状に溢れている。
が、青空は見えない。
すぅ、と通り過ぎた蜻蛉の後から風が駆け抜け、かちん、かろん、と風鎮が鳴く。
「雨は降らないけど、曇って湿気が多くて、小肌寒いからかしら?」
「ですね。姫、身体の調子はどうですか?」
うん、平気、と目を細めて笑ってみせる。
「確かに喘鳴は出てはいなさそうですが……」
「大丈夫よ、其れこそ、我が君は?」
「はい、幾分じくじく痛みますが、大丈夫ですよ」
あっという間に取り分けた分を食べ尽くしてしまった真に苦笑しながら、薔姫は皿の上に残りの焼き茄子を盛り付ける。
ふと、彼女の口から呟きが零れ出た。
「半夏生を迎えたばかりなのに……何だか、風だけなら秋みたいな涼しさね」
薔姫から皿を受け取った真は、はっ、と身体を固くした。
「……我が君?」
「姫、今、何と言いましたか?」
「えっ……? 半夏生を迎えたばかりなのに、って」
「その後です。何と言いましたか?」
「何だか、秋みたいね、って」
小皿を盆に戻すと、真は縁側から飛び降りた。
「我が君? どうしたの?」
小首を捻りながら真の背中に声をかけるが、真には聞こえていない。
素足のまま庭の真ん中まで出て、大きく空を仰ぐ。
真の頭上では、蜻蛉が赤い水溜りを作って揺蕩っていた。




