11 舞姫
11 舞姫
祝いの席を盛り上げる雅楽の調べが、燃え上がる炎のように高揚していく。
各国各豪族たちの御使の思惑はどうであれ、祝膳と祝酒は人々の心を満たし麗し蕩けさせていく。
そんな中、つ、と露国の使者として罷り越した正妃・梔が立ち上がり、輪を胸に抱く椿姫の前に進み出た。
「椿姫様。此度の慶賀の席を借りまして遠国より里に一時帰り着きましたる倖いを得、こうして再び相見えましたる事、誠に歓喜に堪えませぬ」
「御姉様におかれましては、遠く蒙国へと去られし日まで可愛がって頂きました。其の御恩、この椿、一時たりとて忘れた事は御座いません」
感涙を零しながら、椿姫が胸の内の輪をあやす。ほほ……と梔は笑みで歪む口元を袖で隠しながら立ち上がった。
「天涯に聞こえし雄たる郡王・戰の妃となられてなお、未だ妾を姉とお慕いして下されるとは、望外の倖せ。この光輝なる誉望を得し妾の心を余す処なくお伝えしとう御座いますれば、一指の舞を献じる事をお許し下さいませ」
言うなり、梔姫は手にした肩巾をふわり、と大きく宙に漂わせる。
「郡王陛下」
「何か、梔姫」
「出来ますれば……祭国の地を踏んだ歓びをより鮮明に胸に刻みて国に帰りとう御座います。つきましては、椿姫様と久方ぶりに共に舞う栄誉を頂きとう御座います」
ぬ……、と戰は言葉に詰まった。
「お許し頂けませぬでしょうか?」
「赦しを与えるのは吝かではないのだが……」
それは、と流石の戰も口の中で躊躇の言葉を漏らした。隣で、睡魔に襲われだした二人の皇子をあやしながら、珍しく椿姫も困り果てていた。
椿姫は今、第三子を懐妊したばかりの大切な身体だ。
輪の時は悪阻のみだったが、此の先妊娠が進むにつれて星の時のような症状が出ないとは限らない。大事を思えば許せぬ処だ。だが、折角、根幹である母国の地にありながら、何の想いも抱く事無く帰国させてしまうのは心苦しい。
其れに梔姫がこの祭国を離れる原因となったのは、椿姫は兄王子の覺を失ったが彼女は父親である便を亡くした、あの内乱だ。
祭国の地など踏みたくなどなかったものを、と恨み辛みをぶつけられても当然である。なのに、こうして帰国を歓び倖せだとまで言い、感謝を舞にて捧げたいという。こんな申し出を断るなど、一門血族の縁を何よりも大切に思う椿姫に出来よう筈がなく、戰も妃である彼女の気持ちを鑑みれば無碍に断れない。
――だが……。
家臣団の中央に居る真に視線を向ける。
視線が合うと、真は目蓋を閉じる。注意せねば気がつかぬ程、首を微かに振ってみせた。
――やはり、真は反対か。
戰が憂いているのは、両の燕国と露国王との関係性だ。
露国王と近づけば東燕側としては面白くないであろうし、西燕側としては飛燕王と縁を結ぶ足掛かりと取るに違いない。
東燕と西燕、両の燕国と諍いを起こすべきではない今、椿姫の想いを優先出来ない。
★★★
戰の苦い思いを知ってか知らずか、す、と白く細い腕を天に向けると、梔姫は楽章に乗せて舞いだした。まるで、椿姫は必ず王座を降りて隣で舞うものと決めてかかっている態度だ。
くるり、くるり、と柳のようにしなやかに、細身の身体をくねらせて舞う合間合間に、さあ、と梔姫は誘う視線を椿姫に投げかけてくる。
腕の中の輪と隣に座らせた星は、この喧騒の中にあってもうとうととし始めているのであるが、椿姫は気持ちをそぞろにさせた。
――出来れば御姉様と共に舞って差し上げたい……でも……。
ちらり、と学と苑を伺うと、なりませぬ、と苑は視線で戒めてくる。
その奥に座す学は、鎮痛な表情だった。
椿姫を姉と慕う者の気持ちとしては、彼女の願いに首を縦に出来ない。
が、祭国の王者としては、此処で梔姫と共に舞って欲しい。
外交辞令が如何に大切であり、諸国戦乱の只中で燕国と微妙な関係が露見した今、露国王との誼は深くしておくべきだ。
梔姫という存在が椿姫の中で重い枷となっているのは、分かる。
――許して差し上げたい。
けれどあの姫君は、純粋に姉上様を思い懐かしんでの事であられるのか……?
梔姫の申し出を拒むは、王者としての直感のような物が、思い止まれと命じて来るからだ。
その証拠に梔姫が時折、自分をそして母の苑を睨んで来るのに学は気が付いている。
彼女の父親と自分の父親は一騎打ちにて事を決せんと挑み合い、共倒れとなり生命を散らした。
つまりは、互いに親の仇同士なのだ。
学には記憶に薄い事であるが、彼女は椿姫同様に、最も多感な時期の事件であり引金となり祖国を捨てねばならなくなった。
仇敵が今や、祖国の王として王座に在るのだ。
無関心無感情でいられよう筈がない。
――どうしたら……。
学の逡巡と戰の躊躇の出処は同じものなのだろう。
知らず、二人が迷いの視線を上げた瞬間の事だった。
「兄上様、姉上様に代わり、私が梔姫様と共に宴に華を添えとう御座います」
まるで雲の棚引きく隙間から陽が射したかのような、優艶な晶の煌きが、さぁっ、と流れ、舞い続ける梔姫の隣に、嫋やかな風が人の形を借りて現れた。
★★★
「姫っ!」
「――薔!」
真と戰が同時に叫んだ。
いや、真は辛うじて叫び声を飲み込む。
そう、梔姫に合わせて舞い始めたのは、薔姫だった。
艶然にして華麗、高雅にして妖艶な女性の艶やか且つ蠱惑的な面を全面に押し出した梔姫の舞に対し、薔姫の舞は嬋媛にして優美、清淑にして楚々とした少女期にしか持ち得ない爽やかな春風の如き明るい魅惑に溢れるものだった。
どちらがより優れているのかを判断するのは野暮の骨頂というものだ。
しかし薔姫が舞台の中央に現れると、明らかに雅楽の音が変調した。
梔姫が舞っていた時よりも一段、曲想が明るく軽やかなものとなった。
まるで薔姫の髪の揺らめき、弾ける笑みの輝き、弾む爪先が描く弧の動き、伸びる白い指先が紡ぐ空の細波が、彼女の舞自体が曲を奏でているかのような、いや曲想に彼女から溶け込んでいったかのように思える程の一体感を産んだ。
薔姫が舞の園に加わるまで、己を目立たせるばかりの舞を演じてる事に終始していた梔姫すら、大きく包み込みこまれていく。
やがて、演目が終わりを告げた。
しぃん……と音を失くした世界の中、梔姫と薔姫は、共に礼を捧げていく。
最後に、王座にある学と戰、そして椿姫に礼拝を捧げ終えると、静寂を破り、蒼天をも破れろとばかりの激しい拍手と喝采が巻き起こった。
「素晴らしい、実に素晴らしい! まさに穢れなき天女の舞と言えますな!」
微酔い気分の勢いも借りているのだろう、句国の使者である姜が岩石のような身体を揺すって手を叩きまくって感動の号砲を発している。
「流石、郡王陛下の義理妹姫様だ! 美しい! 実にお美しい姫君だ! 清楚にして可憐! 清純にして無垢! かの舞を前にしては、天帝の御元に侍る妖精も裸足で天涯に逃げ帰りましょうぞ!」
姜に引き摺られ各国の使者たちも、剛国王弟・烈すらも舞を褒め称え始める。
一応、誰が何方がどの様に、とは口にしないだけの能力は、酔っていても皆持ち合わせているらしく、場を濁す事にはならなかったのが救いだった。
が、衒いもなく素直な笑みを浮かべて手を伸ばした薔姫に、梔姫は、ぎりっ、と真っ赤な唇を噛み締めつつ狐のような鋭い一睨みを残して、己に用意された座に戻った。
その後は、つん、と氷柱とのような硬い表情なのを取り繕う余裕もみせない。
明らかに、自身の舞が薔姫の其れに喰われた事に立腹していた。
★★★
王座の隣席から自ら降りた薔姫は元の席に戻るような無作法はせず、一礼を戰と椿姫に其々捧げると、家臣団の方へと下がった。
心得ている克と杢が、芙に命じて彼女用の席を新たに用意して呉れている。
「有難う」
武官用の玄端に身に纏った二人は、いいえ、と異口同音に答える。一方は明るく屈託なく、一方は一見無表情ながらも瞳は柔らかくと、対照的な笑みを残して自席へと戻っていく。
まだ、息が上がって激しく波打つ胸元を抑えながら、薔姫はちらり、と良人である真の方を覗き見てみたが、俯いている彼の表情は前に座る克の肩に隠れて見えない。
――もう、克ってば……。
嘆息しつつ、姿勢を正す。あまり良人の方ばかりを見ていて咎められても恥ずかしい。
でも……我が君、私の舞を見て、なんて思ったかしら。
素敵だって、思ってくれたら……。
――うれしい……な……。
嫁いできたばかりの頃は、椿姫に新しく舞を習う度に真の袖を引っ張っては、見ててね! と念押ししつつ舞ったものだ。
「我が君、どうだった? 上手に舞えていた?」
舞い終えると駆け寄り、はしたなくも弾む息のまま真を見上げて感想を強請る。そうすると、真はいつも、腰を下ろして目線を同じにして、前髪を撫でながら褒めて呉れるのだ。
「上手くなられましたね、姫。素晴らしい舞いでしたよ」
「本当? ね、本当に上手になってる?」
「はい、本当ですよ。私は冗談は大好きですけど、嘘をつくのは好きじゃないですから」
言葉を聴き終わる前に飛び付いて抱きつくと、おやおや、元気ですねえ、と笑いながらぽんぽんと背中を軽く叩いてくれる手の温もりをもう一度味わいたくて、椿姫に次々と舞を教えて貰ったものだ。お陰で、ぐんぐん上達して今では恥ずかしくない程度にまでには慣れたと自惚れ半分だが自負している。
――懐かしいな……。
淫れた前髪を整える振りをしながら、そっと髪に触れてみる。さら、と風になびく音がした。
今も蔦や椿姫に舞を習ってはいるが、昔のように真に上達を褒めて欲しくて見せる機会はなくなってしまった。真が担っている仕事も彼の体調も、其れを許して呉れないのだ。
――でも……。
椿姫が舞を受けても断っても此の場を収められないと分かると、反射的というか本能的にというか、考える前に身体が動いていた。
椿姫のようにとまではいかなくとも、祭国の為に何か一役を担いたかった。
純粋に、其れだけだった。
しかし舞い始めると、ただ真に見て欲しくて、ただ彼に舞いを認めて欲しいという思いに頭の先から指先から爪先まで、目蓋の先でそよぐ睫毛の先端までもが支配されていた。
誰にも褒めて貰わなくても、素晴らしいと言って貰えなくても構わない。
ただ、真に一言、素晴らしかったですよ、と言って欲しかった。
――うぅん、そうじゃない、そうじゃなくて……。
綺麗、って言って欲しい……な……。
もう一度、ちらり、と真の方を覗き見る。
正しい姿勢で座り直した克の身体の向こうに、まだ微かに俯き加減の真が見えた。先程とは違い、真の表情がはっきりと見える。
「我が君っ……」
思わず声を上げかけて、はっ、となった薔姫は飲み込んだ。
そして、身体ごと戰たちがいる王座へと向きを変える。その顔ばせは酷く青ざめており、肩と膝の上できちんと揃えられている白い手もかたかたと震えて始めている。
「薔姫様……?」
薔姫の元に梅の甘露煮を落とした清水を運んできた蔦が、異変に気が付き、彼女の髪を整えるふりをしながら声を掛けてきた。
「如何なされました? よもや、体調が優れませぬのですか?」
月の障を迎えたばかりの少女は訪れが不順であるのはよくある事だ。青ざめている彼女を見て、もしや、と気を回して呉れた蔦に、ううん、と慌てて薔姫は顔を振った。
「違うの、本当に何でもないの、御免なさい、蔦」
「なれど姫様、御気分が優れられぬでしたら、お下がりになられました方がお宜しいのでは?」
杯を差し出しながら、震える白い手を包み込むように握って気遣ってくれる蔦に、有難う、と薔姫は微笑んだ。
「平気。本当に大丈夫なの。だから、気にしないで宴の方に集中して?」
「姫様、しかしご無理だけは……」
本当に平気だから、さあ行って? と何とか蔦を追い返す。
蔦も、薔姫ばかりに気を配ってばかりはいられなかった。珊も身重となった大事な身体の為、此度の宴は遠慮している。珊の助け手をなくしての座の切り盛りに、珍しく蔦はきりきりとしていたのだ。
薔姫の様子を伺いつつ、それでは……と後ろ髪を引かれながら蔦は立ち上がり、去っていった。
後姿を見送りつつ、ほう、と一息つき、手にした清水を口に含んだ。青梅の香は爽やかに喉を潤して呉れる筈であろうに、しかし薔姫の口は、何の旨みも感じていなかった。
ちらり、ともう一度、瞳のみを動かして、真の方を伺う。
俯き加減で拳を口元に当てている真は、苦々しい――というよりも、はっきりと不快感を顕にして、じ、と薔姫が舞っていた辺りを睨み付けていた。
★★★
数日が過ぎた。
盛大な式典が終わった翌日から各国の使者は、早々に各々の国を目指して帰路についた。
あれ程の饗宴の最中にありながらも夜が更けて座が開けば、別の場所で戰や真は樽俎の場を設けて密談に励んでいたのか、あの日は帰らなかった。
その為、真が何に不快感を示していたのか、薔姫は聞けずじまいでいた。
というよりも、翌日も夕方遅くにやっと帰って来たと思ったら、帰宅の挨拶のみで直ぐに部屋にこもってしまったのだ。
其れからの真は素っ気ないというか、明らかに距離をとっているというか、自分に向き合って呉れないし、会話らしい会話もして呉れない。
身支度や食事、薬湯の世話も芙の部下たちに横取りされてしまうし、城での世話も陸少年に完全にとって変わられてしまうし、そもそも一緒に城に上がろうと思ってみても、早朝にさっさと一人で登城されてしまうしで、顔を合わせる機会すら奪われてしまっているのだ。
無言のまま明白に自分を除外しに掛かってくる真に、怒るよりも恐怖心が襲ってくる。
――我が君……。
私、何か、いけないことしちゃったの……?
尋ねられればよいのだが、その一言を交わす事すら出来ずに日が過ぎていく。
あの日から、真だけでなく城の中の空気も、何かが違う、と深く薔姫は感じていた。
其れが何であるのか、薔姫には良く言葉に出来ない。
勿論、義理兄である戰も、学も、杢も克も、通や類、蔦たちも、普段と変わらない態度のように見える。
だが、何かが違うのだ。
其れが何であるのかが、恐い。
怖くて、つい、真を問い詰めたくなる。
――でも……。
我が君が何も言わないのなら、何も聞かないでおこう……。
嘘が付けない真は、嘘で取り繕う事が出来ない。
嘘をつくくらいならば、きちんと話が出来る時期が来るまで口を噤んでいる。
自分の良人はそういう人だ。
だから、自分に出来る事は黙って真が話してくれるまで信じて待つ事だ。
大きく身体をしならせて、息を吸っては吐き、を繰り返す。
薔姫が、知らぬ内に身に着けた、気持ちを入れ替える時の儀式のようなものだった。
ふと、玄関の方で人の気配がしたように思い顔を上げる。耳を澄ますと、やはり、真が城から帰って来たらしい。芙の部下と何やら一言二言、言葉を交わしているのが聞こえてきた。
――今日は、いつも通りに帰って来てくれているんだ……。
ほっとしつつも、それでも帰宅の挨拶もないのかと思うと肩が下がってい。くが、せめて、此れくらいなら、と真の薬湯を入れようと厨に向かう。
「よし!」
両手で顔を挟むようにして、ぱん! と頬を叩いて薔姫は気合を入れた。
★★★
薬湯を入れ廊下を歩いていると真が篭っている書院から何か、ふんっ、ふんっ、と気合のようなものが聞こえたような気がした。
不思議に思って小首を傾げつつ耳を澄ますと、今度ははっきりと、よっ、ほっ、やっ、とっ、という奇妙な気合のような掛け声のような声が聞こえてきた。
「我が君……?」
気になって、こそり、と戸を開いて見る。すると部屋の中央で、真が右手に耳掃除用の棒を持ちながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「……」
何と声を掛ければいいのか思い倦ねて無言で立ち尽くしていると、不意に、真は姿勢を崩してぱったりと倒れた。床に大の字になった真と、ぱちり、と視線があう。
「あ……」
「……あ」
二人の間に、気まずさの成分を含む微妙な空気が流れる。暫し、無言で空気の流れに浸っていた二人だったが、薔姫の方が気を利かせた。
「我が君、なあに、どうしたの?」
静かに部屋の中に入り机の上に薬湯を置いて、まだ床に倒れたままの真の傍に膝を揃えて座る。いやぁ……と前髪をくしゃくしゃと引っ掻き回しながら、いや……そのですね、と真は苦笑いする。
「ちょっと、耳が痒くなったので、掃除をしようかな、と思いまして……」
真の耳垢はかさかさと乾いているのだが、人より溜まり易い質らしく、ひと月に一度は掃除をしないと突然痒みが襲ってきてのたうち回る事になるのだ。
そう言えば、義父である優が訪ねてきたり自身の初他火もあり、休む間もなく星と輪の祝の席もあり、この1ヶ月近くばたばたし続けて気に掛けていなかったのを思い出した。
「左側なのでしょう? 危ないわ、呼んでくれたら良かったのに」
「……我慢が出来なかったのですよ」
面目ありません、と小声で呟く真は、苦笑いと苦虫を噛んだ表情の中間あたりの、微妙な表情をしている。うふ、と小さく肩を揺らして薔姫は立ち上がり、小さな行李箱を手にして戻ってきた。そしてまだ握っている耳垢を掻き出す棒をそっと受け取り、揃えた膝をぽんぽん、と叩く。
「はい、横になって?」
躊躇しつつも、真は薔姫の小さな膝にじり寄る。
が、其れ以上近寄ろうとしない。
「我が君、ほら、早く横になって?」
薔姫が重ねて誘うと、真はまだ逡巡しつつも頭を擡げさせて小さな膝に乗せた。
薔姫は行李の蓋を開けると、中から大きさを揃えて切ってある晒を取り出した。耳掻き棒に晒を巻き付ける。
「じっとしててね?」
「……はい」
左耳は耳の奥に怪我をして耳癈なりかけた事もあり、掃除には得に注意が必要だ。なので、3年前から真の耳掃除はこうして薔姫が請け負っている。
薔姫の膝の上に横になった真は、自然と目蓋を閉じる。
癖のある髪が自然に耳朶に触って邪魔をしてくるので、薔姫は指先で耳の後ろに払いつつ耳掻き棒を動かし始めた。ゆっくりとした動きを堪能しているのか、真はぴくりともしない。
「はい、我が君、終わったわ」
一刻近くも垢の汚れを耳掻き棒で拭っていた薔姫だったが、此れでお仕舞い、と笑い、ふぅっ……と耳朶に息を吹き掛ける。何時もなら、擽ったいですよ、と真は慌てて飛び起きるのだが、今日はぴくりとも動かない。
「……我が君? どうしたの?」
覆い被さりながら真の表情を覗き込むと、気持ち良さそうに寝入っていた。
「……もう」
呆れつつも、癖のある髪を撫で弄りながら真の寝顔に見入る。
長い髪に隠れて普段は然程気にならないが、よく見てみれば、額や生え際にも傷痕が残っている。
遣る瀬無い気持ちを隠す為に痕をゆっくりと撫でると、真にとっては気持ちがよいのだろう。寝息がより一層、伸びやで穏やかなものとなっていく。
3年前の事変以来、周囲が思っている以上に真は疲れが溜まり易くなっている。
特に祝の席を執り行う数日前まで自分の初他火祝いで連日連夜、慣れぬ宴の取り仕切りで奮戦したのだから仕方のない事だろう。気になる事があると根を詰めて突き詰めねば気が済まない性格が禍いしているのもあるのだろうが、それに加えて、義父である優が祭国に訪れた前後あたりから王城の空気がぴりぴりとしていた。
禍国周辺だけでなく祭国をも狙った、ざわざわとした不穏な空気が忍び寄って来ているのかもしれない、と薔姫はふと思い当たった。
「……我が君?」
もしかして、話せないのは、そのせい……なの?
膝の上で横向きに眠っている真の横顔が、微かに顰め面になった。
不機嫌そうに、もぞもぞと身動ぎする。どうやら寝にくくなったようで、姿勢を変えて心地いい地点を探しているようだ。ごそごそと大腿に頬を擦り付けるように身動ぎし続けていたが、ある一点に顳が当たると途端に頬を緩ませて、すぅ、と息を整えて再び寝入っていった。
合わせた太股と太股の間に頬を押し付けて俯せ状態になって、自分の膝を左腕で抱き抱えるような姿勢で眠っている真は、滑稽というか子供が母親に何か物を強請って駄々を捏ねて悔し涙に暮れている姿勢に酷似している。
うふ、と笑いながら薔姫は真の額を一撫でして、背筋を伸ばした。
開いた戸口から風が運んでくる豊かな緑の香りが、風鎮を軽やかに叩いて涼し気な音を奏でて続けている。足早にやって来る夏の気配を感じていると、膝の上の頭が、ごそり、と動いた。
額を太股にごそごそと擦り付けるようにして、幾度も身動ぎを繰り返していたが、やがてもっさりと前髪を毛羽立たせて真は頭を上げてきた。
視線を下げると、胡乱げというか寝ぼけ眼の真と眸が合った。
「……ああ……姫……? ……いや、どうも……済みません……でした……」
「うぅん」
まだ眠いのか寝ぼけ眼で、もごもごと口ので謝りながら真はゆっくりと身体を起こそうとする。謝ってはいるが、自分が何をしていたのか理解しているのかどうかも怪しい、ぼぅっとした口調だ。
手を貸すともう一度、済みません、と今度は照れながら謝ってきた。やっと意識がはっきりしてきたと見える。
照れ隠しなのか、おどけた顔をしてみせる真に薔姫も笑みを零す。
一頻り笑い合っていると、急に真が態度を改めて姿勢を正してきた。
「……姫」
「なあに?」
「その……」
「……なあに?」
なかなか要領を得ない真の態度に、薔姫は、何故か胸の鼓動が一段早く、とくとくと忙しなくなるのを感じていた。
「どうしたの、我が君? なあに? 何か、お話があるの?」
膝を寄せてにじり寄り、覆い被せるように次々と尋ねてみる。が、真は、僅かに唇を噛むようにして口を固く閉ざしてしまった。
「我が君……?」
真の膝に手を添えて、軽く揺さぶってみる。
しかし、真は視線を反らせて小さく嘆息したのみだった。
折角の爽やかな風の流れの中に、気まずい空気が紛れて流れていく。
見上げる真の顔は、照れているようにも戸惑っているようにも、困っているようにも見える。
「……いえ……その、今夜の御飯は何かな……、と思っただけです……」
やっと答えてくれた真は、それだけを絞り出すように口にしたのだった。
「……そう?」
小首を傾げる薔姫に、はい、と真は頼り無げに答える。
家路に着こうと誘う郷愁をおびた鳥の鳴き声と、軽やかな風鎮の音、相反する二つの音が向き合う二人の間で絡みあった。