9 燕国王妃・璃燕(りえん)
9 燕国王妃・璃燕
禍国と燕国は建国当初、啀み合う間柄であった。
両国とも水量豊かな雄河を吾が物とせんと、数代毎に騒乱を繰り返して領土を奪い合っていた。
が、祭国に郡王として戰が冊封され、且つまた先王太子の遺児である学が少年として即位した近年、良好な関係を築き始めている。
郡王と少年王、双方の足並み揃え協力一致の政策、長年の懸案であった雄河の治水政策を燕国も交えて国交を正常化させて共同で行う、と内々に調印した事により一気に親密はより一層増した。
★★★
燕国。
剛国や蒙国とはまた族的には根が違うが、実は古くまで遡れば毛烏素平原を疾駆する騎馬遊牧を基とした狩猟民を祖としている。遥かなる昔に分たれ彼の地に辿り着いたのだが、根幹を同じくする証に、毛氈を多用し胡服を身に付けるなど風習が蒙国と酷似していた。
しかし燕国は蒙国をはじめとした毛烏素平原に生きる遊牧の民とは一線を画した。
狩猟の時期は年間の一時期のみとし、農耕も積極的に取り入れたのだ。厳寒期が長すぎて、狩りに生きるには増えた民を養いきれない現実を見れば、国家としては当然の遍歴と言えるだろう。
農耕に関しては蕎麦と麦を中心とし、羊や山羊といった毛織物、毛氈などに使われる縮絨布を主としている。馴鹿を家畜としての肉食の主としており、山羊や羊の乳から乳酪も作る。狩りで得る糧としては近年は雄河を遡上してくる鮭などの魚が中心だ。
主食としては米よりも寒さに強い大麦や小麦を主とし、それら麦の7割程近くの産出量と同等に蕎麦も栽培する。国土の半分以上を長く厳しい雪に閉ざされる為、保存食も発達している。
米や綿や絹の織物は主に南端である祭国との国境付近で産し、交易品としての産物として保護されている。他に主たる産出品といえば独特の輝きを放つ瑠璃や瑪瑙など宝玉の他に、風雨と潮風に耐える巨船向きの巨木を多く産する。
しかし幾ら大地に根差した生活を手に入れたとはいえ、勇猛果断な騎馬の血は争えない。
剛国王・闘がまだ即位して間もない頃に合戦があった。
宣戦布告を受けた時、燕国側はのんびりと構えていた。
剛国の冬も厳しいものではあるが、燕国の比ではない。剛国の吹雪の礫など、燕国の者には微温湯に感じる程だ。秋の収穫を終えてからの開戦の口上であった為、攻撃を受けたとしても僅かな日数を持ち堪えれば剛国は退却せざるを得なくなる。
やがて時の王・臥燕の目論見通り、燕国に雪が礫となって渦巻く季節がやってきた。真冬に野戦の陣を張るなど狂気の沙汰でしかない。臥燕たちが見込んだ通りに、剛国は退却していった。
剛国王・闘は春が訪れるまでは来ない。
「然も、奴は露国まで相手にしておるそうではないか。一挙両得を夢見るは良いが、二兎追う者はを地で行くぞ」
嘲笑いながら、2ヶ月弱であったが猛攻を受けた兵馬を慰労した後、ゆるゆると来春に備えれば良かろう、と高を括っていた燕国王・臥燕は、数日後に剛国王・闘自ら指揮する大軍団に強襲を受け、あっけなく破れた。
剛国王・闘は、露国王・静に対して秘密裏の内に一時的な和睦を申し入れたのだ。
同時期、宣戦布告もなしに散々に露国内を荒らしてまわっていたのは、燕国王・臥燕を欺く為の手段の一つだったのである。それも露国に提示した条件は恒久的な和平ではないと名言してある辺りが、実に闘らしい。逆に言えば、この場限りの和睦であるからこそ露国王・静も割り切る事ができ、証として多額の和解金を受け取ったのであろう。
闘はこうして堂々と露国領内を横断して、一気に燕国を突いたのである。
騎馬の国・剛国の面目躍如といえる凄まじい、疾風怒濤の攻めだった。
よもや、長年の宿敵国の領土内を突っ切って来るとは思ってもいなかった燕国王・臥燕は、剛国王・闘の剣にかかりあえなく最期を遂げた。
剛国王・闘の治世の磐石化はこの戦の勝利によるところが大きい。
★★★
夫であり、国王である臥燕の生命の灯火が儚いものとなる頃。
未だ童子であった王太子・葵燕の生母であった王妃・璃燕は、自ら男物の甲冑を着込んだ。隙間に息子を押し込んで抱き抱えて守り、野生の順鹿の一群に身を隠すと、一路、王都を目指して退却、いや決死行を敢行した。夫である国王・臥燕の遺体を捨て置いての大反転である。
王都に到着した璃燕はその足で、己に付き従ってきた僅かな手勢を連れて王城の制圧に乗り出した。
王都全てを制覇する事は、100人にも満たぬ手勢では到底無理な話だ。だが、王の遠征にも尤もらしい言い訳を並べ立てて慰安にも訪れず、更には不在を良い事に我儘放題好き勝手に振舞っていた気の抜けた王城など、掌握するなど赤子の首を絞め上げるより容易であったのだ――
少なくとも、璃燕という豪胆無比の女には。
燕国では長らく、長子の妻は夫が身罷った場合その弟に嫁ぐ風習がある。
子があれば、当然連れ子として嫁す。長子、しかも男子のみが跡を継ぎ、一系のみの継承が許され分裂を認めぬものであるとされているからだ。次男以下の弟が正室を迎えていた場合は長子の妻を第一室とし、其れまで正室あった女は第二室に降りる。第二室となった女の子供は、長子の家門を継がぬとの誓をたてねばならない。
しかし王家に関しては、この限りではない。
長子の王が身罷った時、その子である王太子が幼少である場合も多い。
そうした場合はやはり、年長者が国を統率した方が効率が良いからだ。
だが、璃燕は一筋縄ではいかない女だった。
己の一族の安寧と国家の秩序の為に、娘として恋を知りつつも妃となり民を選びとったのだ。
――だのに女のしての閨での悦びを捨てて得た、正王妃の地位と権威を捨てよ、とな……?
順当に何の障害もなく、我が子に王位と栄えた国領を譲らんと自ら国政にも乗り出し、己の言なくして立ち回らぬ男どもの無様な姿も知った。
――私の何処がどう劣り、何故、耐えねばならぬというのか。
夫は死したが故に悔し涙を袖を噛んで耐えつつ、正統の権利をむざむざと手放すような気弱であえかな女ではなかった。
一気に王城に雪崩込んだ璃燕は、王弟であった飛燕の元に迫った。剣を抜いて鋒を喉元に突き付け、王位に無事に就きたくば、自らを第一室の正王妃とするように命じたのである。
血塗れの王妃・璃燕の形相は正に悪鬼であり、悪い酒を飲んで胸を焼いたような悪心に襲われた飛燕は剣を突き付けられたまま失禁して気を失った。正気を取り戻した時は既に遅く、何もかもが手遅れであった。彼の正妃は第二室扱いの王貴妃と身分を落とされており、更には王子も姫も尽くを一堂に押し込め閉門させ、璃燕の許可なくして王子たちが敷地内から出る事も、また飛燕が子らに面会する事も許さなかった。
飛燕が子らの生命の保証と自由を璃燕の足元に額を打ち付けて平伏して願うと、彼女は未だ甲冑に身を包んだまま冷徹に言い放った。
「我が子葵燕の生命の確証が得られるまで、妾が其方の正妃となり葵燕が再び王太子と定められぬうちは、妾この具足を解かぬ」
腰を抜かしたまま、飛燕は激しく首を上下に振った。
即位戴冠式など名ばかりの式典で新王を名乗った飛燕は、璃燕こそが正妃として認め、彼女と兄王・臥燕との間の王子・葵燕こそ正統なる王太子であると定めた。
しかし、その華々しい門出の日に璃燕は同席しなかった。
なんと、裏で飛燕の子ら全てを反逆の意思ありとして極刑に処す陣頭に立っていたのだ。
子等の命乞いをする王貴妃の悲鳴も虚しく、璃燕の命により子らを押し込めた御堂の周辺には炭が山と置かれて火が付けられた。
飛燕が戴冠式を終えて駆けつけた頃には、璃燕は王貴妃に蒸し焼きになった子らを一袋に纏めて放り投げて寄越した処だった。
「蒸し焼きになった際、腕や脚が混ざり合ってつきしまったようじゃ。子が可愛いければ組み立て直してやるがよい」
雅びやか王妃の装いのまま、璃燕は頬の肉ひとつ動かさず言い残して、その場を去った。
王貴妃は此のたった一日の出来事が元で、美しかった容貌を皺と染みだらけの老婆のように、豊かであった碧の黒髪も見るも無惨に総白髪へと衰えさせた。
「ね……聞こえない……? あなたには聞こえない……? 妾には聞こえてよ……王妃の嗤い声が聞こえるの……。ほら、ほら、……宝玉が擦れ合う音だわ……。ああ、妾の御子らを殺そうと……ほら、其処に……! ……くる……くるわ……、ほら、ほら……ほらぁ! 見て、見て、見てぇぇ! くるの、きてるの、やってくるのぉぉぉ~……! あはははははははは、いやぁ、きたぁぁぁぁ~!」
冬の隙間風のような、爪を立てて鐘の肌を引っ掻くような、甲高い悲鳴とも哄笑ともつかぬものを常にあげ続け、ふらふらと其処ら中を徘徊しまくる。王貴妃はこうして心を深く病み、程なく衰弱死した。
峻烈に過ぎる璃燕の態度に、飛燕が生命の危険を感じぬ方がどうかしていよう。
二人の間には亀裂が入り、やがて、国王・飛燕を主とする一派と、此方も王を名乗りだした璃燕と王母・葵燕と主とする一派、燕国は西と東に分たれた。
現在、露国と小競り合いを繰り返しているのが飛燕を一派の西燕、雄河河口寄りが祭国と近い璃燕一派の東燕と人々の間で呼ばれ出していた。
★★★
王妃・璃燕は深い溜息を吐いた。
仮初であるとは言え夫婦の縁を得た飛燕と露国、そして祭国の様子を探らせていた防人たちからの報告を其々の宦官より受け取り、竹簡に目を滑らせた後の事である。
祭国は兎も角、露国との戦いに躍起になっている夫・飛燕の愚かさは聞くに耐えない。
――だが、国力を二分した武力で露国を相手どって此処までやっておるのだから、褒めてやるべきなのやもしれぬ。
雄河の流れを利用した灌漑施設が完成すれば、燕国の国力も上がるというもの。
此れまでは僅かにしか栽培が出来なかったが、開墾して貴重な米と綿花の栽培面積を一挙に増やせる。
倍増どころか、幾つ掛け算する事になるのか……試算表を見た璃燕は、普段の冷徹な女帝の仮面を落として驚愕したものだ。
燕国が二分する前、飛燕の名で祭国との外交を担ってきた璃燕としては、してやったり、といった気分だ。
――何処の国でも女の地位は低いものだ。
だが、夫・臥燕が身罷った後、仮初の夫を抑えて我が子の将来に繋がる政治を行って来たのは、燕国を操舵してきたのは自分だという自負がある。
俗に垂簾聴政、睡蓮政治と言われているが、この時代の燕国は、禍国や祭国などと違い、高貴なる女性は顔を晒す真似は愚かで猥淫な行為であるとしていた。その為、王妃たちは垂らした御簾の影に身を隠す。御簾の奥にて政治など何も知らぬという顔で会話のみに静かに聴き入ればよい、とされてきた。
美とされる姿のまま璃燕は政治を行ってきたのだが、峻烈極まりない決断を行っても笑顔を崩さぬ故、御簾に隠れているのだと宦官たちは密かに揶揄していた。
最も、そんな宦官たちは即刻、男根のみならず首も胴体から切り離してやれと涼やかな声で命じるのが璃燕なのだが。
ふう、と璃燕は首を傾げつつ息を吐く。
女というだけで侮る者が多すぎるのは、実に息苦しい。
――その中で、祭国郡王・戰との駆け引きは実に面白いものよの。
男というだけで、政治という大海の只中に在りしを許されるとは、という思いばかりだった。灌漑施設建設の交渉を飛燕は何処まで見ていたのかは知らぬが、内外に成果と名が上がり出している以上、女如きに負けてはおられぬ、という発奮なのであろうか。
――漢としての矜持が、あれにもあったとは面白いものよ。
だとしたら、妾が居らねば、奴は漢にもなれなんだのか。
微妙な含み笑いが浮かんでくるのを、璃燕は己が威厳にかけて堪えた。
何にせよ、仮初の夫には露国を抑えていて貰わねばならぬ。
その後に、我が子葵燕が仮初の王・飛燕を併呑するその日まで。
★★★
ただ一つ璃燕が気掛かりとしているのは、夫・飛燕王でも剛国でも禍国でもない。
露国だ。
露国はこの10年近くの間、一度も大戦というものに手を出していない、というこの事実だ。
今現在、露国と西燕は睨み合ってはいるものの攻撃の手を出しているのは、専ら飛燕の方であり、露国は甲中に首を引っ込めた亀の如く徹底して守り固めて動こうとしない。
たまに挑発しに出て小競り合いのようなものはあるにしても、戦闘らしきものはない。
飛燕たち、西燕側が気が付いているのかどうかは知らないが、露国は燕国相手に国力を削ぐつもりはないのだろう。西燕から仕掛けられた事を幸いに、此方の領土を最終的に奪えれば良い、程度に鷹揚に構えられているのが癪に障る。
――露国王とて、癪に来ておるのは同じであろうがの。
我ら東燕側が、我が子葵燕を王として拝し一国を成すまでに変貌を遂げれば、怖気付いた飛燕は自ら露国の懐に飛び込んでくるに違いない。そう、両の燕国が再び一つとなりし日が来ぬ限り、露国とて恐るるに足らず、と見ている。
――済まぬな、露国王よ。
其方の思惑通りに事を運ばせてやる程、我が燕国、間抜けではない。
何れ一致した燕国に、露国は併呑されるであろうよ。
そして生まれ変わりし燕国王として改めて即位するのは、我が子である葵燕でなくてはならない。
その為には。
――飛燕、奴自らの手で印璽を此方に寄越さずにはいられぬようにせねば。
飛燕は王城を飛び出て西にある鎮護府を仮城としているのであるが、正当性を主張出来るよう、御璽のみならず王の印璽をも手にして去って行ったのだ。
通常、璽綬は六選一組として璽と定められているのであるが、内4つまでもを奪われた。璃燕が、印璽が捧げられている場所を分散しておかねば、全て奪われていた事であろう。その代わりと言ってはなんであるが、国王のみが持つことを許される大国旗は、王城の兵部を抑えていた此方に分があり奪われていない。正にすっぱりと勢力二分の痛み分けである。
均衡が取れている分、武勲なり内政外交面で諸国に名を知らしめる何かを成さねば何ともならぬまま、数年が過ぎているのである。
再び溜息を吐くと、暑いのか勘違いしたのか、宮女たちが翳を揺らがせ始めた。
苦笑しつつも、彼女たちの忠誠心と好意からなる労働の成果を身に浴びる。心地良い風は、仄かに白檀の香りが感じられた。
軽く目を閉じ、うっとりと風に当たっていると、宮女たちが立場も忘れて溜息を漏らした。
薄目を開けると、まだ若い宮女たちは慌てて肩を竦めて俯いた。
よいよい、と寛大に許しを与えながら、璃燕は白檀の香りを胸に吸い込む。
大年増の年齢を迎えたとはいえ、璃燕は然程、容色の衰えを自覚してはいない。
黒々とした髪には未だ白い物は見えず、目元や口元、眉間の皺も日々の肌の手入れを怠っていない成果が有り有りと見て取れる。常に武術で鍛えているせいか、身体は均整がとれて無駄な肉など一切なく引き締まっている。女性らしい丸みはないが、まるで野生の順鹿のような強かさと靭やかさがある。
だが年齢が近いせいか、何かと言うと隣国である祭国の少年王・学の生母である大宮・苑と比べられる。
其れがいちいち、癇に障る。
祭国の少年王の生母は、今は大宮だとか准后だとか身分を名乗っているらしい。
彼女の此れまで生き様というか遍歴は、如何にも悲恋や苦労話を好む男ども好みに寄りすぎて何処ぞの誰かの創りものなのではないか、と璃燕は一時、疑っていたものだった。
事実だと知った後は、鬱陶しさしか感じない。
曰く、良人一筋の貞淑な妻の鏡。
曰く、女で一つで見事に子を育て上げ、尚且つ、父王の意思を引き継がせる母として褒め讃えられるべし。
曰く、子を王とした後も決して国政に出しゃばらず、奥向に控え、嘗て采女として在った力を存分に発揮し、神事の一切を引き受ける女としての格式の高さ。
――邪魔臭い女よ。
ああ、喧しい位の賛辞を浴びて、誇らしい事であろうよ。
肘掛に置いた指を、とつとつと打ち付けて、苛々を表して璃燕であったが、やがて立ち上がった。
今の近隣諸国の彼女の評判はこうだ。
曰く、良人の死地を己の立身出世に最大に活用する豪胆妻。
曰く、息子を王と為さしめる為には夫の実弟に嫁す不貞をも辞さず、弟の室ら子らを憤死させても全く意に介さぬ猛母。
曰く、国を二分したばかりでなく権力を一手に握らんとして垂簾政治を行う強かな悍婦。
――全く、御立派な賛辞が有難過ぎて泣けてくるわ。
椅子から立ち上がった璃燕は、御簾を上げさせた。そして大股に明かりを取るための窓に寄る。外を覗くと、息子であり王である葵燕が、棒術の鍛錬を受けている最中であった。
剣術においても体術においても馬術においても、盛りの最中といえどもたかが女である自分に、葵燕は今だ一勝も得ていない。
母であるから遠慮してるのが明白に伝わってくる、其れが璃燕にはもどかしくてならなかった。
勝利を得るためであらば、会釈なくどの様な卑怯な手管も躊躇なく使う、葵燕のその歪んだ性根を璃燕は是としてる。
王者の負けとは即ち、国体の死である。
国体が死を迎えれば国が滅ぶ。
国は滅びては断じてならぬ。
ならば、滅びぬ為にありとあらゆる手段を講じ策を巡らせるのは必定であり、とやこう云われる筋合いはない、というのが璃燕の揺るぎない信念だ。
璃燕が見つめる窓の下で、葵燕が密かに手にした砂を師匠に投げつける。
葵燕は怯んだ隙を見逃さない。師匠の急所に棍棒で突風の如き突きを入れた。ぐち、と奇妙な音が鈍く響き、鵺もかくやと言わんばかりの盛大な悲鳴を上がる。師匠は泡を吹いて白目を剥き、仰向けにどすりと倒れると、動かなくなった。離れた場所で控えていた宦官たちが、慌てて駆け寄って解放し始めているといううのに、ぎらぎらとした眼付きで、ぬらぬらとした異様な笑みを浮かべて勝利を手にした喜びに浸る我が子・葵燕の姿に璃燕は微笑んだ。
「そうじゃ、其れでよい」
王者は何があろうとも勝たねばならぬ。
勝利に美しきも卑しきもない。
勝利の価値はどの様な策を用いようとも、変わりはしない。
勝利は勝利。
勝てば良い。
勝って利を手に入れさえすれば、何れ国歴に刻まれるのは賛辞のみと璃燕は経験から知っていた。
★★★
背後から宦官に声を掛けられた璃燕は窓から離れた。
祭国で行われる祭国郡王・戰に第二皇子生誕祝の席に向かう人選を行わねばならない。
祝賀とは名目上の事であり、宗主国の禍国の目を眩ませて、国策について話を詰めようという腹つもりを璃燕はしている。その席に璃燕は、此度は葵燕を遣わそうとしていた。
幼王と揶揄される葵燕は今年で12歳になる。
祭国の少年王と名を知られる学と同世代であり、この先の治世は何かと比べられる事は必死であろう。
此れまではまだ良かった。
――問題は此れからよの。
交渉事においては郡王が手綱を握っておったからの。
祭国郡王の祝賀が、近々行われると、内々に知らせが来た。勿論、正式なものではないが、此度は、親書に近い扱いで祭国国王・学の名を入れてきた。
少年王が国璽を押し、大権を行使してきた事に璃燕は衝撃と動揺を隠せない。
此れまで、雄河に関しての条約を結ぶなど外交事に関しては、今まで郡王・戰が国書を以て全てにおいて対応してきた。
だが、少年王・学のこの親書は、この先、自身が国益に関する外交交易その他を司ると宣言したようなものだ。
齢12にして諸国との政治の大海に自ら乗り入れて来るとは実に見上げた根性だ、と璃燕は感じた驚異をそのまま学の評価としていた。
高々、12歳の子供が、宗主国である大国禍国の目を眩ませようとしているのだ。
天晴れである、と言ってやりたくなる。
が、可愛い我が子の敵となりうるのだと意思表示した者をそのまま捨て置く訳にはいかない。当然、此れまでののんびりとした息子の帝王教育も改めねばならない。
――調度良い。
葵燕にもそろそろ政治とは如何なるものであるのかを叩き込んで、同時に少年王から初勝利をもぎ取らせてやろう。
宦官の後に続いて回廊を歩きながら、葵燕の雄叫びを耳にして目元を緩ませようとした璃燕は、自分の眉が険しい形で固まっていたのだと漸く気付いた。
やっと笑みを浮かべながら、回廊から見える鍛錬所の様子を垣間見る。
それにしても、少年王は実に恵まれたものよ。
姉と慕う椿姫を郡王の正妃とする幸運に恵まれたが故に、軍事・内政・外交・何れも全て最高のものを身に付けている後見人を得た。
葵燕には何とか祭国と縁を結ばせておきたいものであるがのう、と嘆息する。
少年王に姉か妹でもおれば、此処で許嫁にと申し出たい処であるが、生憎と彼は一人子である。
――誰ぞ、僅かながらの血でも良い、少年王の親類縁者を捕まえられぬものであるかの。
そしてふと、璃燕は遅まきながら浮かんだ自分の考えに、ふむ? と眉を開いた。
いやまて……。
祭国と縁を結ぶのであれば、いっその事、郡王其のものであれば良いのではないのか?
郡王・戰には未だ、正妃以外の妃がいない筈だ。
後宮を持っていない王者、というのは璃燕でなくとも世の女たちには凡ゆる意味で驚異だ。
確か年齢は25~26だったと聞いている。最も性欲を満たさずにはおられぬ男盛りの年齢に、幾ら平原一の美姫を妃としておるとはいえ、耐え切れぬものではなかろう。
何故、其処に考えが及ばなかったのか、と己の迂闊さがいっそ可愛く思えて璃燕は一人、くすり、と笑い声を零した。
璃燕自身は夫である臥燕に後宮の一人も持たせなかった、というより臥燕自体が固辞した。宮女に手を出したと知れば、その宮女に宮刑を与えて追い出し続ければ嫌でも大人しくなろうものだ。
「……ふむ……」
妾の縁者より選りすぐりの姫をたてるとするかの。
心はどうであれ、下半身にある『男』が我慢ならぬだろうて。
そもそも、平原一の美姫、淑女の鏡と謳われる妃が、後宮を持たせぬとは婦徳を失くした悋気の塊であると申し立てておるようなもの。
前妻が後妻を妬み嫉み、恥じらいを捨て家を傾けていくのは、由緒正しき血筋の姫であろうと何処ぞの婢どもであろうと、女である以上は変わるまい。
くすり、と璃燕は再び含み笑いを落とした。
早速、縁のある家門の者から、年頃の嬢を選りすぐらねばならぬな……忙しくなりそうだ。
気分よく回廊を歩きながら、ふと、璃燕はもう一つの可能性に気が付いた。
ぴたり、と脚を止めて、我が子・葵燕を舐めるように見詰める。
――おお、そうじゃ……。
確か郡王・戰には、義理の妹とかいう姫がおらなんだか……?
※ 馴鹿 ※
トナカイの事です




