8 備国王(ひこくおう)・弋(いき)
8 備国王・弋
「よくも飽きずに日がな一日、女の匂いと喧騒の中に暮らしておられるものだ」
王城の一角から届く嬌声を眺めるように耳を傾けつつ、備国王・弋は呆れ果てていた。
図々しさと厚かましさしかない喧騒とは対照的に、弋の膝の上では愛らしく愚図る彼の王子がいる。まだ漸く首が座ったばかりの可愛い盛りの息子の機嫌を弋があやしてとっていると、隣に控えていた女が、あら、と科を作り艶然とした微笑を口元に浮かべた。
「では……妾の元に足繁くお通い下さります今の陛下は、どう御説明なさいますの……?」
婕妤、と弋は声を凄ませる。
「吾を、あのような人外の豚と同一にするのか?」
明白に声を熱くして不機嫌を眉間の縦皺として浮かべた弋に、ほほ……と女は肩をくねらせながら笑い転げる。
「とんでもない事に御座います……。陛下は此の世で最も高貴にして尊き御方……。何者をも並び立つ事、叶いませぬ……。あのような卑しき豚の話題を陛下が口になされるのが、悔しかっただけ……愚かな女の、只の悋気焼きに御座いますわ……何卒、御目零し下さりませ……」
「分かっておれば良い。其れと」
「其れと……?」
「其方の悋気焼きは可愛げがある故、許す」
あら……、と声を震わせ瞳を潤ませる女に、弋は鼻息を荒くする。
腕に抱いていた王子を婕妤と呼んだ女の手に押し付けた。乳母が呼ばれ、未だにぐずぐずと泣き続ける王子は隣室へと連れ去られるように姿を消した。
部屋の中に二人きりとなると、弋は深く椅子に腰掛ける。
背後から、女は抱きつくようにして腕を伸ばし、弋の胸元から肩へ、そして二の腕へと指を這わせる。
「婕妤」
「はい、陛下……」
「其方を、此度、貴姬の位にする」
まあ、と女の顔ばせが輝いた。
「其方は、吾の御子を産んだ。褒美をとらせて遣わせねば、国王としての威厳に関わる。百日祝の席にて、正式に貴姬の座に据える故、今から儀に備えて万端整えておけ」
「嬉しゅう御座いますわ……でも……」
「でも、何だ?」
全面に歓びを顕にすると思っていた女が愁眉に身体をくねらせているのが気に入らず、弋は不快感を隠そうともせず眉根を寄せる。
「宜しいのでしょうか……」
「何がだ」
「妾のような、大年増の女が、三夫人の御位の一員となるなど……。他の後宮のお妃様がたが……お許しになられますまいに……」
何だと? と弋は顔を赤黒くして怒りを顕にする。
確かに、婕妤と呼ばれた女は顔付きも躰つきも雰囲気も何もかもが若くは見えるが、其れでも30を越えている頃のようだ。今年35歳となった男盛りの弋が、彼女ばかりを寵愛する態度は、多くの優れた後胤を残す事も重大な使命である王者には相応しくないと映るのは当然だった。
「まして……国一番の重臣の愛娘でもあらせられる王妃様の、御心中は如何許りでありましょうや……。流れ者の婢であった、卑しく身分も後ろ盾もない妾をお取り立てなどなさっては……、陛下が王妃様をはじめとした、お妃様がたの後見たる古きよりお仕えなさる御家臣様の御不興を買ってしまわれますわ……。陛下を苦しめてまで出世するなど……、妾、心苦しゅう御座います……」
「吾を何と心得るか。備国の王者だ。王が許すと一度口にした事は覆らぬ」
弋は太い眉を跳ね上げて、童子のように呼吸を荒らげて怒る。
「まして、家臣や妃なぞからの抵抗を、何故、吾が恐れねばならぬ。奴らこそ、吾の意に反した不遜なる態度の末を思い、縮み上がらねばならぬだろうが」
女は弋の頬に手を這わせて、申し訳御座いませぬ、と鈴の音のようなころころとした笑い声を上げる。腰が蛇のようにうねり、つつ、と指先が弋の顎まで彷徨った。
「陛下は此の世で最も神聖にして不可侵の貴き御方……。妾の無礼……、何卒お許し下さいませ……」
「分かれば良い」
声音は怒気を含みつつも、弋の視線はしどけなく開かれた胸元に落ちる。
隠そうともしない期待感から弋の喉仏が音をたてて上下し、婕妤の眸が弓形になる。
★★★
備国王・弋。
在位4年、王妃腹である事に加え長子であり、生まれながらにして王太子であった。
背丈は高い方ではないが、その分、鍛え抜いた身体が巌のように立派で目を引く。彫りが深く目鼻立ちがはっきりとしており、特に濃い眉と広い額、しっかりとした顎が男らしさを臭わせている。
王者として申し分のない立派な風貌の弋あるが、しかし彼の即位は、血と屈辱、国を上げての汚点、恥曝しであり、永遠に拭い取れぬ汚辱であり会稽と共にあった。
備国は崑山脈を跨いで平原と毛烏素砂漠に国領を有している。
根幹としては蒙国と同根であり、風俗儀礼なども近しい。
但し、蒙国が長く遊牧の民として生き、巨大な天幕式家屋の包をこよなく愛していたのに対して、備国は早くから定住の道を選んだ。代々、崑山脈を越えて平原の支配への欲を有していたからだ。最も、背後にある蒙国という超大国の軍事協力を当て込んでの事であるから、相当に手前勝手というか身の程知らずと言おうか。所詮は他国の力を己の力と履き違えての横暴不遜な大儀の押したてなど瓦、解するのは時間の問題だった。
己の身の丈を弁えぬ欲深さの応報を被る事になったのは、父王・域の代だ。
弋の父王である域は剛国内が未だ乱れているとの家臣からの進言を受け、一代の英雄たらんと国王旗を翻して大進撃に打って出た。
当初のうち、其れは上手く図に乗っているように思えた。事実、剛国が所有する領土を次々と掠め取っていったのだ。
しかし、それは剛国王・闘の罠だったのだ。
快進撃が続き討伐が成功し続けるにつけ、戦線は細長くまるで筒型の罠に嵌った鰻のように伸びに伸びた。
備国王・域は、補給路を確保する手間をかけるより、剛国内で略奪を行う事で補っていた。
そうする事で、兵士たちの意気を高めてもいたのだ。
実際に剛国のみならず、契国に戦を仕掛けて国王不在の句国の領土をも捥ぎ獲らんと、兵士たちの意気は燃え出づる太陽の如くに揚々としていた。
しかし、気が付くべきであったのだ。
剛国の兵士たちが、距離を稼げる騎馬のみの編成でいることに。録に戦いもせず、直様、轡を返して遁走し続ける事に。
相手は、殆ど死者を出していないという事実に。
邑という邑には人一人おらず蛻の殻であるという事に。
行く先々で食料が豊富に手に入り、其れらは毒に冒されておらぬ不思議に。
すっかり気を許して尊大に振る舞い出していた域はある日、真夜中まで宴会を開かせた。
備国軍が酒気に沈み泥のような眠りに陥った深夜、一気反転し大反撃に討って出た剛国王・闘の一大騎馬軍団の前に根刮ぎ薙ぎ払われた。
それでなくとも視野の狭まる山間部にてしかも深夜に突撃を仕掛けるなどと思ってもおらず、具足を解いて深く寝入っていた備国軍は、山津波に飲み込まれる蟻宛らに蹴散らされていく。
我が生命を済う事こそ至上とばかりに、臣下を部下を仲間を見捨て間一髪で脱出した域を、剛国王・闘は執拗に、四方八方から枝葉を伸ばして絡めるように攻めに攻めてくる。
数日間も日を跨ぎ、駆けに駆け、寝食を忘れて只管に後退に専念した備国は、やがて隊列も糞もへったくれもない、見知らぬ一軍と思わぬ正面衝突を起こす事になった。
其れが当時、禍国の皇太子であった皇子・天が率いる同じく敗走の軍だった。
決死の軍団と化した備国軍は、大将旗から相手が禍国皇太子であると知ると恐慌状態に陥った。
闇雲に兵馬を突き動かし、作戦も何もなくなっていた。
国土へ、本国へ、祖国である備国へ。
剣を振るい、弓を引き、矛を払い、馬に鞭打つ。
正に一心不乱だった。
大混乱の中、備国が有する崑山脈への抜け道へと先頭集団が到達し、開いた血路を域は全身を血でどす黒く染め上げながら通り抜けきり、生命を拾った。
しかし、王城に帰りついた域を待ち受けていたのは、執拗に行われる剛国からの追求の手であった。
強弁に声高に迫る外的圧力に、結局、国を護る為に域は屈した。
剛国王・闘からの屈辱的な申し出の数々の全てを呑んだのである。
――吾が父王は愚か者だった。
蒙国などの協力を当て込み、録に作戦も立てずに剛国に攻侵した当然の報いだ。
だが、どんなに暗愚で例えようもない程、蒙昧であろうとも、敬愛せねばならぬ実父である事に変わりない。
「良いか、弋よ。我の国葬などする必要はない。その金があるならば、暇があるならば、全てを剛国王・闘を討伐する為の雌伏の為に使うのだ」
怒りの為であろうか、強い目眩と動悸を訴えた直後に昏倒した域は、弋に受禅した数日後に帰らぬ人となった。
息子の腕を強く握り締めながら、呪詛の言葉を遺言としての憤死である。
――言われぬまでもない、糞戯けの馬鹿親父めが。
言いざまに唾を吐き捨てられたならば、何程楽であったか。
崑山脈を超えた国領の全てを剛国王にまんまと掠め取られ、屈服した証として朝貢品を年4回納めならなくなった。
多くの兵馬を失い貴重な拠点の数々を奪われ、国の面汚しをして此の世をさっさと去っておきながら、この上、父親面して命令してくるのかと思うと反吐が出る。
――剛国王より受けしこの恥辱は決して忘れてはならぬ。
領民どもにもこの屈辱を忘れさせてはならぬ。其れには吾が、父王を如何に処すかにかかっている。
弋は決断した。
父王・域の遺言を逆手に取り、葬儀を行わなかったのである。
歴代の王墓領に埋葬してやっただけ有難いと思えとばかりに、喪にも服さなかった。
此れには臣下一同、皆、度肝抜かれた。
そして彼らは勝手に理解した。
――父王陛下の仇を、仇敵である剛国王を討ち取り復讐を成し遂げる事こそを、弋陛下は国葬と成すと思っておられるのだ。
歯を食いしばりこの痛みと苦しみに耐えて耐えて耐え抜いた先に、剛国王・闘の首を墓前に捧げる。
無言を貫く弋の姿勢に、父王・域の時代から仕える臣たちは皆、一致して事に当たり新王をを盛り立てるべく常に団結した。
――父上は、よい臣下に恵まれていたというのに生かせなかった。
父を滅ぼしたのは、父自身の無能さだ。
弋にとって、父王・域とは、無能者がなまじ王などに就いたが故の末路を見せ付けるだけの存在となった。
★★★
婕妤に背後から抱きつかれ、甘い女の香りに目を細めていた弋は、再び耳に届いた一際高い喧騒に、眉を顰めた。
「此処は騒がしいな」
申し訳御座いませぬ……、と婕妤も細い眉を寄せる。
「此処最近は、とみに。彼の御人のお住まいであらせられる棟と、妾が頂いておりますお部屋は、然程近いという訳ではないのですが」
「よい。貴姬となれば、別堂を建てられる。大殿に最も近い土地を呉れてやる故、良き棟を建てるがよい」
まあ……、と女は愁眉を開いた。
「宜しいのですか……?」
「我が息子を産んだ褒美だ」
「ああ、陛下……勿体無う御座います……」
「我が御子の為にも、良き環境を整えてやらねばならん。其方の子ではなく、王の子だ。遠慮など、かえって不敬の極みであるぞ」
「……はい、陛下……お言葉、嬉しゅう頂戴致します……」
耳に届く乱痴気騒ぎに、弋はいよいよ眉の間の溝を深くしながら女の肩を抱き寄せる。
心得ている女は、弋の広く分厚い胸にしな垂れかかった。
ふわり、と蠱惑的な香が鼻腔を擽った。髪にまで薫香を染み入らせている婕妤の女としての抜かりのなさに満足しつつ、弋は眇めた視線を遠い棟から響く音に巡らせた。
――皇子・天よ。
貴様が禍国の太子でなければ、とうの昔に豚のように切り刻んで屠ってやっている処だ。
★★★
騒ぎを起こしている主は、3年前までは平原随一と謳われる超大国禍国の皇太子の身分であった天という男だ。
3年前に禍国内で政変が起こり、皇太子の地位にあった寧徳妃の長子であった皇子・天は国境を固める公奴婢の一粒という卑しき身分に落されて流れてきた。
当然、此れを不服とした天は幾度となく脱走を試みる。だが、皇子時代、怠惰な生活を送り続けてきた脆弱な肉体だ。捉えられては折檻を受ける、の繰り返しであった。
その皇子・天を拾ったのは、偶然の産物だ。
2年ほど前、弋が句国へ何度目かの示威行為に出た時の事であった。
国境に固められていた禍国の奴婢たちが徒党を組んで脱走劇を図り、備国軍に句国軍の弱点を教えると喚きたてながら投降してきたのだ。その内の一人に、というよりも中心人物として担ぎ上げられて、皇子・天がいたである。
半信半疑ながらも、言葉の真偽を確かめる為に呼びよせると、嘗て、甕に手足を付けたような馬にも跨がれぬ不細工な肥太り具合であった天が、枯れ木のようにやせ細って転がっていた。落ち窪んだ眼球付近の深い皺と濃い隈取が、霊鬼のような醜悪さを増幅させている。
弋の前に現れた皇子・天は、広角の端に唾の泡を浮かべながら、祖国である禍国への恨み辛みを喚きたて始めた。
曰く、現皇帝を名乗る建の即位は不当なものであり、玉座は先々代の皇帝より正式に皇太子の地位を得ていた己のものである。
曰く、奴の扱いを行う不心得者どもの巣窟から逃げ出してきた己を救った備国王を高く評価する。
曰く、この不遇の時代を囲う己を済う気骨ある真実の漢を探してたのであるが、其の栄誉を、其方に与えるとしよう……。
一体どの口から出たと、逆に言葉を失った弋であるが、一気に捲し立てた乱調な皇子・天の言葉から、禍国内で起きた政変とはどうやら伝え聞くよりも深刻かつ重篤なものであると知れた。
「では、我が国が貴殿を救い、正統なる禍国の皇帝として即位するに協力し成功したあかつきには、何を得られるのか」
「中華平原一と謳われる禍国の同盟筆頭国として認めよう」
痩せ細った身体を反り返えさせるのは、せめてもの虚勢なのだろう。
だが、滑稽にしか映らない。
浮かんでくる失笑を堪えて、弋は皇子・天を本国へと送り、王城内にて賓客扱いにて囲う事とした。
★★★
後の2年間の天皇子の行動は想像に容易い。
一気に淫れ膿んだ生活に溺れ、王都を追放される前と同様に、いやそれ以上に太るような怠惰な生活にどっぷりと浸かっている。
――とんだ厄介拾いだ。
あの男を利用するその日まで、餌を与え続けて生かし続けてやらねばならんとは。
しかし弋は焦っていた。
句国のへ陽動行為を此の4年間、幾度となく繰り返してはいるものの本格的な戦へと発展する気配が見えてこないのである。
句国側が迂闊な動きをしてこないのだ。
兵馬を国境付近に差し向け、盛大に軍事演習をしてみせるだけだ。
互いに牽制し、微かな小競り合いに発展する事はあったとしても其れ以上は踏み入らない。
剛国に奪われた国領の差分を先ずは句国より奪う為、弋は嘗て剛国王・闘が採った策を使う事にした。
即ち、仮初めの勝利を与え父王に剛国王何ほどのものぞという慢心を植え付けたように、句国に対して備国軍は攻め入らぬという暗黙の了解と安堵を長き時間をかけゆっくりと刷り込ませていくつもりだったのだが、とんだ誤算だった。
備国と同時期に代替わりを行った句国だが、現国王である玖は、良く言えば国内整備に重きを置き、領民の生活の充実に向け国力を高める為の国策を摂っている。
国境を固め、同盟国である禍国への随従の姿勢を強くし、朝貢を怠らない。
つまり、悪く言えば禍国を殻にして蝸牛のように内側に篭り、地力を蓄える事に専念しているのだ。
当初、弟王子に太子の座を奪われるような碌でもない腰抜けだと、弋は句国王・玖を軽く見ていた。
――凡庸な男であろうと侮っていた吾が見る目を、変えねばならんな。
剛国王・闘と同じ策を用いた弋であるが、句国は備国の挑発行為に乗る、愚かしい隙を見せた事がこの4年間、一度もないのだ。
一度や二度であるならば、耐えも出来ようが、しかし4年近くも穴熊もかくやと思われる程に逼塞するとは、流石に弋も臣下も思っていなかった。
――どうして、月並庸劣と侮り見下せようか。
備国が剛国を真似たように、句国は露国を真似て堪えに堪えているとも言えた。
攻めは兎も角として、守りを真似るなど、しかも4年もの長きに渡り保ち続けるなど、余程の胆力がなければ成し得ない。
人は華々しさに目を奪われるものだが、実際に人物の評価とは実に地味で地道な作業にこそ目を向けるべきであると弋は思っている。持論に照らし合わせれば、句国王・玖は一廉の人物として評価せねばならない。
ぎち、と手摺を軋ませながら弋は立ち上がり、騒ぎのする方向へと向き直る。
背後から婕妤が寄り添い、腕を絡めてきたが、弋は微かに横目でみて笑う飲みで此れを許した。
考え事をしている最中に女に絡まれて疎ましく思うのは、男の余裕の無さの現れであり、恥ずべき事であると弋は思っている。女の好きにさせながら、弋は再び己の考えに沈む。
――句国王が此処まで耐えられる理由があるとすれば、考えられる理由として挙げられるのは一つしかない。
句国王・玖が見ているのは、敬意を払っているのは禍国皇帝・建ではない、という事だ。
禍国を拠り所としているのでない。
皇帝の座を譲った祭国郡王・戰、奴にこそ句国王・玖は傾倒している。
郡王・戰という存在が在ればこそ、句国王・玖は備国の執拗に過ぎる挑発行為に耐えに耐えて平然としていられるのだ。
――禍国に腰を屈める姿を見せておれば、郡王と只の盟友以上の間柄になっておるのに気が付かれぬとでも思っているのか、馬鹿め。
弋としては、句国王・玖に侮られているようにも思えて腹立たしい。
禍国に対して決して頭を上げぬ句国であるが、弱小国である祭国に対しては同等の国交を開いている。
交易品として、各国が垂涎三尺垂らして見詰める軍用種牡馬を何頭も送っているのだ。
加えて、稲作に対して遅れている祭国に、作業に長けた選りすぐりの士たちを群を連ねて送り込んでもいる。
祭国からは返礼に、蕎麦や絹織物が交易品として贈られているという。
治水に関しては大河に近い分、進んだ技術を持ち合わせている祭国は、其れら技術をやはり技能に長けた士たちを送ってやり取りをも繰り返しているのだとも知っている。
――禍国本土の大夫どもは糞馬鹿どもの集まりか。
此れに関しては、弋はいっそ、禍国の皇帝・建という男が情けなくも哀れに思えてならない。
放っておけば、此のまま祭国と句国は双方の力を合わせ続ける。その先に見えるのは、二国を以て禍国を挟み撃ちにする図形だと何故気が付かないのか。
最も、備国としては祭国と句国が禍国を喰らってくれた方が都合がよい。
戦火を広げるに夢中になっている処を、崑山脈を越えて、疲弊しきった句国と禍国を一気に突けば一挙両得以上の成果を挙げられる。
寧ろ句国王・玖が此方の思惑に乗らぬ今、積極的にその時節を待っていると言ってよい。
――今の禍国は盲と唖の集団だ、句国と剛国を相手にするより余程攻めるに易い。
弋は禍国に攻め入った後、皇帝として安穏としている建を廃して天を新たな皇帝に据えた後に、禍国皇帝の座を正式に禅譲させる想定をしている。
今の世に乱立している樹立して百年程度であったり数代しか続かず国名が変わる国家の殆どは、他国から攻め入られ滅ぼされ、国王は受禅を迫られて国を明け渡している。
この際に、禅譲でなければ先の国王の怨敵が呪詛となり、新たなる国を呪い殺すと信じられているからだ。
簒奪は、血の繋がりがなくとも極力避けねばならない。
国王とは、天涯の主たる天帝に愛されてこそ就けると強く信じられている崑山脈以東の中華平原では、他国と言えども王を戦場以外で無下に殺してはならない。
喩え一時であろうとも天帝の愛を受けた王という存在を、国譲りという径を残さず生命を奪っては、結局は自身に其の詛が跳ね返ると頑なに信じている領民が多く在る。
故に、其処に付け入られて抵抗の憂き目にあうのは必定だからだ。
禍国という地は元々は小さな国から出発した新興国であるが、逆に此の思想を上手く利用してきたからこそ此処まで巨大化できたとも言える。
弋も馬鹿ではない。
折角手に入れた禍国という豊かな地を、血を滴らせて使い物にならなくする気はさらさらない。
使えるものは蚤でも蟻でも利用せねば、阿呆だろう。
まして、その王宮は一都に匹敵する規模を持つと謳われる禍国。
その中央に、恬然と輝く玉座に、無傷で座る姿を見せ付ければ、誰が平原一の覇者たる者か瞭然ではないか。
――馬鹿めが。
だがまあ、せいぜい、効果的に利用させてもらうとするさ。
利用価値がなくなれば、また元の木阿弥となるだけの男の今に、そう熱り立つ事もあるまい。
★★★
衿の間から忍び寄る白く細い指の動きに、ん? と弋は目を細めた。
「どうした?」
「こうすると、陛下の御心が手に取るように伝わって来るように思えるのです」
そうか、と弋は破顔する。男以上に女は下心なくして動かぬ生き物であると弋は思っているが、其れを隠そうともしない婕妤を、弋は面白味のある女とみている。見てくれを静かにしていれば佳い女と信じて疑わぬ後宮の妃たちと、婕妤は明らかに一線を画していた。
「婕妤よ」
「はい」
「其方が望んでいる、句国王と禍国の皇子の破滅は近いぞ」
まあ、本当ですか? と婕妤は弋の首筋に縋り付く。子供を産んだばかりとは思えない細い腰を弋は抱き寄せる。
「お前に嘘などついて、吾になんの得がある。必ず、其方が望んだ句国王の首と禍国の皇子・戰の首を揃えて其方に呉れてやる」
「まあ陛下、なんて嬉しいお言葉……」
「お前も、吾の御子をどんどん産むがいい。何れ、其方が産んだ王子を王太子とし、其方を王母としてやろう」
「まあ……?」
「其れが其方の望みであろうが、蜜よ」
はい……、と婕妤――蜜と呼ばれた女は嗤った。




