6 いとし国
6 いとし国
長い一日が終わるかな、これで。
即位戴冠の儀式典礼は全て終焉をみせ、これからは夜が明けるまで祝賀の宴となる。皇室が直々に従える礼部尚書を筆頭として、王宮内の礼楽を万事正しく奏で続ける事だろう。
ふう、と肩を上下させた真の元に、ぶすっとした仏頂面の克が歩み寄ってきた。
「ご苦労様でした、克殿」
「とんでもない苦労だったぞ」
むっつりと克は答える。
博を捕縛したのは良いが、刑部省まで連れて行く間に暴れる暴れる、まるで嫉妬の為に狂乱状態に陥った女性並みの暴れっぷりに、ほぼ全員がそこかしこに引っかき傷を負っていた。克も無論、被害に遭っており、右頬に三本線が斜めにしっかりと走っている。
しかしなあ、と克は真を横目にしつつ、傷を負った頬を撫で回した。
「どうかなされましたか?」
「お前の頭の中は、一体どんな風に出来上がっているんだ?」
「はあ?」
「先般、祭国で剛国王陛下とやり合った時とよい、どんな『つくり』になっておれば、そのような恐ろしい口がきける」
「さてどうなのでしょう? 興味がおありなら、一度割って覗いてみますか?」
克が明白に顔を顰め、くすくすと真は笑った。
克のような、頭で考えるよりも身体を動かす方が理屈にあう人間には、真のように『唇で物事をたらし込む』人間の思考回路というものが、理解できない。
真にしたところで、克のような『本能の赴くままの行動が、実は一番理に適っていて考えない方がより万事うまく行く』人間の、神経回路も理解できない。
まあ、言ってしまえば『どっちもどっち』という事なのだが。
「だがまあ、これでやっと、郡王陛下のご身辺も少しは静かになろうというものだな、良かったよ、これで終わる。これで安心して、祭国に発てるというものだよ、なあ?」
いやに荒々しく、安堵の鼻息を克は吐き出す。
克にしても、戰の元に仕え出してから何かと心休まる事のない主人を案じ続けてきたのだ。だがこれで、全てが終わる。真にありもせぬ罪状を着せて縛に就かせ、取り調べもそこそこにその命を奪うつもりだったとみれば、黒幕はこれで決まりだ。
それに『開府儀同三司と同等のお力』と、博は言い切った。
開府儀同三司とは、つまり正一品従一位の三司、即ち『大尉』『司徒』『司空』の事を指し、その同等の力を持つと言えばこの三司の席が既に埋まりながらも、力等しい役職を与えねばならぬ時に臨時に置かれる臨時職、従一品従一位『令』。
そう、開府儀同三司と同等のお力とは、大令・中の事を指している。
大令・中を後ろ盾としているのは、戰の兄皇子・乱、その人だ。
一気に事が解決に向かうことに、克は良かった良かったと呑気に伸びをしつつ、無邪気に喜んでいる。
くしゃくしゃと、真は前髪をかきあげた。あちらに跳ね此方に跳ねして、随分くるくると奇妙な毛の癖がついてきてしまっている。
「何を仰っておられるのです? これで終わりになんて、誰がすると申しましたか?」
「はあ?」
「むしろ、これからが始まりですよ。折角、よい手駒が手に入ったのですから。博という方には、これから大いに活躍していただかねばなりません」
「あ? ……お、おい真殿、い、一体何を、か、考えておるのだ?」
「何って、当然、今回のこの事変を充分に有効活用させて頂く事をですよ」
「いや、有効活用もなにも……。大令・中殿が乱皇子様と共謀して、此れまでの事を仕組んできたのであろう? それを断罪すれば、全てが終わるではないか」
「ですから、これで全て終わらせてしまっては、勿体無いと申しているのですよ」
「――あ、う、はあ?」
「皇太子殿下にしてみれば、此れまで己の影に徹してきた弟の乱皇子が、実は己を追い落とし自ら皇太子の座に登ろうと画策しているなどと思いも寄らず、この事実をお知りになれれば怒り狂われるのは、必定。また乱皇子にしてみれば、郡王陛下の即位を止められないほど、皇太子殿下が愚兄であるならば早々に太子を退けと此方も怒り心頭でしょう」
「あ、ああそうだな、私もそう思う、しかしそれがどう……」
「互いに兄弟を疎ましく思われていても、此れまでは共通の『戰様』という賢弟を追い落とす事に目と心とを奪われていた為、互いをしっかり凝視する事なくこられた。しかし、今回のこの事変で、敵は戰様ではなく『兄と弟』とにすり替わったのです。」
「……」
「あの博という方には、天皇太子様と乱皇子様の目の前に、お互いにの尻尾を運ぶ役目を担って頂くつもりです。天皇太子様と乱皇子様とが、互いの尻尾を齧りあい、振り向きざまに顔を爪で削りしている間は、戰様は安心して手足を伸ばす事ができます」
「……」
この『戰が手足を伸ばす』というのは、彼が祭国にて椿姫と地盤を整える間の事を指し、天皇太子と乱皇子とが、尻尾を齧りあい顔を爪で削るとは、この禍国にて共食いをして勢力を削ぎあって貰う、という意味になる。
流石の克にも、この数ヶ月の真との付き合いで、彼の言いたい事は何となく分かる。
分かるが……。
「真・どの……その、なんだ」
「何ですか?」
「お主、疲れはせんのか?」
「何がですか?」
「そのなんだ、いつもそのように、頭の中でぐちゃぐちゃと物事を喧しく常に難しくしようと考えてばかりいて」
「まさか」
克の遠慮がちな言葉に、真はにっこりと笑った。
「楽しくて、仕方が無いですよ」
★★★
宴の席に出る為に新たな衣装に着替えると促されて部屋に戻ると、そこにもう一人自分が立っていた。椿姫が絶句していると、鏡写しのような美貌の少女は「あたいだよぅ、姫様、珊だよぅ」とぞんざいな口をきいてきた。
「あ……さ、珊だったの、驚いた……」
「なに? 自分の可愛さに惚れ惚れしちゃったの? 嫌だねえ、それ、姫様だから許される言葉だよぅ」
けらけらと明るい笑い声をあげながら、孔雀の羽飾りの団扇をばさばさと揺らす様子は、確かに姿は椿姫であっても珊だった。
「さ、ささっ! 時間がないからね、姫様も、とっとと脱ぐ脱ぐ!」
「え? え、ちょっと、珊!?」
「早く着替えるんだよぅ! 時間が勿体無いって言ってるの!」
「で、でも、どうして? どうしたの? また私に化けてるって、何かあったの?」
「う~ん、何かあったというよりも何かあるっていうのかな? 用があるんだってさ」
「私に? 何方が、どんな御用あるというの?」
「うん、まあ、ここから先はお相手に聞いてよぅ、ね?」
珊だけでなく、女官に化けた蔦の一座の娘たちの手により、見事な手際で、椿姫は町娘の装いにしたてあげられた。
そして愛らしい清楚な娘姿になった椿姫に、椿姫、いや椿新女王に化けた珊は「では私は宴に参りますわ。貴女も充分に楽しんでいらっしゃいな」と言い残して、しゃなりしゃなりと衣擦れの音を引き摺りながら、部屋を出て行った。
呆気にとられ、一人呆然と取り残された椿姫が所在無げに佇んでいると、部屋に秘密の合図がおくられて来た。蔦たちと連絡を取るために設けられたものだ。
「蔦?」
「はい、女王陛下」
するり、と気配を殺して蔦が部屋に忍び入ってきた。最礼拝の姿勢をとる蔦に、椿姫は困ったように眉根を寄せる。
「やめて、蔦。そんな風に呼ばないで」
「ですが、陛下は陛下であらせられます」
「いいの、今まで通りに呼んで下さい。貴方がたと、隔たりを持ちたくはないの」
椿姫の言葉に、無言で蔦は頭を下げた。隠れた彼の口元は、穏やかな喜びに柔らかくなっているが、椿姫は気がつかなかった。
「さて、では私どもも参りまするか、姫君様」
「あの、蔦」
「はい姫君様、如何なされましたでしょうか」
「珊も教えてはくれなかったのだけれど、一体何処に行くというの?」
「それは、着いてからのお楽しみ・に、御座いまするよ、姫君様」
悪戯ぽく笑い、蔦は軽く片目を閉じてみせた。
姿を認めて巨大な黒い躯を喜びに震わせている様子は、まだ出会って間もないとはとても思われない。戰が黒馬の顎に手をあてて撫でると、鼻腔を膨らませて鼻息を吹きかけてくる。手荒くも生臭い歓迎の風に戰が目を細めていると、背後から声をかけられた。
「おう、祭国郡王ともあろう者が、そのような粗末な着物に身を包んで厩なんぞに何用なのだ?」
ゆっくりと振り返った戰の視界に飛び込んできた声の主は、剛国王・闘であった。
「これは、剛国王」
闘が歩み寄ると、黒馬は突然鬣を逆立たせ、長い首を鞭のように唸らせ目を剥き、鋭い歯をむけてきた。明白に剥き出しにしてくる敵意に、流石の闘が苦笑する。
「此奴めが、此処まで育て上げ、連れて来てやった恩義なんぞ、すっかり忘れておるな」
「そんな事はあるまい」
明るく笑いながら、戰が飼葉をひと握り手にして口元に持って行ってやると、黒馬は機嫌をたちまちなおし、嬉しそうに葉を喰んだ。
「郡王よ、卿に会ったのは今日が初めてだが、どうもそのような気がしない。どうやら先般、卿の使者として祭国に参上した真とやらのせいかな」
「ああ、そういえば、あの折は真が使者にたちました」
闘には目もくれず、戰は黒馬に優しい視線を注ぎ続けている。ふん、と闘は態とらしく肩を上下させた。
「全く、あの真とやらには、ぐうの音も出ない程にしてやられた。――で」
「何か?」
「真とやらに、何か褒美をとらせてやったのか?」
肩を窄めながら、にやにやと笑いつつ闘が訊ねると、戰の顔色が変わった。ほう、と目を眇める。
一体全体、奴に何をくれてやったというのか。その答えを聞かねば収まらぬ、と熱いその思いだけで、戰を探して厩くんだりまで来たのだ。
さあ、答えろ祭国郡王よ。真とやらに何をくれてやった!?
「……しまった」
「ああ?」
「いやその……疲れたであろうから、いやという程休むといいと、暇をと言ってから……その後ずっと、その……」
「褒美をとらせるのを、忘れていたというのか?」
戰は大きな躰を小さくし、手で口元を覆い隠しながら、慌てた表情を隠そうと必死になっている。言葉への肯定を意味している戰の顔色に、闘は絶句し、そして一瞬の間の後に、弾けたように笑い出した。
「いやすまぬが、そんなに笑わないでくれないか、剛国王。自分で自分が情けなくてならないのだ」
「いや、私の方こそすまんな、郡王よ。別段、卿の事を嗤った訳ではないのだ」
「ん?」
いや、すまん、と闘は笑いつつ手を挙げて、戰に謝る。
そして此奴らには適わぬな、と何処か清々しい敗北を感じた。
「何でもない、此方の事だ。祭国郡王よ」
「何か」
「領国に参った折には、我が国にも顔を出せ。卿とは是非一度、ゆるりと話をしてみたい」
「良いですね」
穏やかに笑いながら、戰が答える。
「その時には、真も共に行かせて貰います」
「いや、奴は置いてこい」
訝しんで首を傾げる戰に、笑い声を残して、剛国王・闘は去っていった。
★★★
剛国王・闘が姿を消したのを見計らってから、蔦は椿姫の背中を静かに押した。
彼女の目の前では、戰が剛国王より贈られた巨躯を誇る黒馬に、轡と鞍とを付け終えたところだった。よく我慢した、偉いぞ、と褒めながら馬を撫でてやっている。
「どうぞ、姫君様」
「え……あの、でも」
「彼処でお待ちになられている方が、姫君様を呼ばれた御方にございまするよ、さあ、どうぞお行きになられませ」
蔦に重ねて言われ、椿姫は胸元に手を当てながら、きゅ・と小さく唇を固めてゆっくりと脚を踏み出した。靴の下で、溢れた飼葉がかさこそと微かな不満の音をたてる。戰が音に気が付いて、朗らかな笑顔を向けてきた。
「やあ、やっと来てくれたね、姫」
「は、はい、あの、皇子様」
どきどきと胸が高鳴ってくるのを痛いほど感じながらも、椿姫は期待に言葉を詰まらせた。
うん、と頷き、戰が手を差し伸べてくる。小首を傾げると、もう一度、戰は笑いかけてきた。
「この禍国で、3年もの間過ごしたというのに、貴女はこの国をしっかりと見た事がないだろう?」
「え? ええ」
確かに言われてみればそうだった。
この禍国に来て直ぐに、薔姫との介添として真の家に赴き、そして殆どを彼の家で過ごしている。時折、薔が王宮に里帰りする時や、彼女の母親である蓮才人の心使いで王族の行幸に伴い僅かに出掛ける事もあったが、希な事だった。
「最後に、せめてこの国も綺麗だという処を、見て欲しいと思ったんだよ」
差し伸べられた戰の手に、震えて冷えた白い指先を、そ……と静かに重ね合わせる。小さく細い椿姫の手をすっぽりと包んでもまだ余りあるほど、戰の掌は大きく、そして暖かだった。
ぐ・と力強く手を掴まれたと思うやいなや、それに数倍する力で引き寄せられた。
「きゃっ……!」
叫ぶ間も与えられず、椿姫は黒馬の背に乗せられており、彼女を包み込むようにして、戰も跨っていた。
「しっかりとつかまっていて」
言う間も、戰は轡も鞍も初めて身に付けた黒馬を走らせた。
今度こそ、椿姫は叫び声も上げられない。振り落とされぬようにする為には、戰の胸に縋り付いている他はないのだから。
しかし、不思議と怖くはなかった。戰の左腕が何時の間にか肩をしっかりと抱いて守ってくれている為、右腕だけで御している筈なのに黒馬は相当な速度でいながらも危なげなところを決してみせる事無く、まるでのんびりと歩むような確かさで駆けてゆく。腕の中で、戰を見上げると、実に楽しそうに前を見据えている。
真っ直ぐな、曇りのない眸で先を見詰める戰に抱かれながら、椿姫は、自分の気持ちをいやと言う程、思い知らされた。
漏れて、戰の耳にも届いてしまうのではと心配になるほどに、高まっていく胸の鼓動に。
あまりの速さに、門兵たちも咎めの言葉をかける暇すらなかった。
全てをけむに巻く、旋風のように黒馬は駆け抜けていく。
あっという間に、黒馬は王都の東端近にある小高い丘にたどり着いた。街中と違い、木々も残り草も豊かだ。遠くには東屋らしき建物も見える。どうやら、王都に住む人々の憩いの場であるようだった。
「此処ですか、皇子様」
弾む息で椿姫が問い掛けると、彼女を馬の背から降ろしながら戰は首を左右に振った。椿姫の背後にまわり、右手を彼女の肩に置き、左腕を頬に添えるように腕を伸ばしながら、戰は西の方角を指し示す。
「いや、違うよ椿姫」
「え? それでは、何処を……」
「此処から、西を向いて見ていてご覧」
「西を?」
もうすぐ日が西の彼方に沈む。
王宮から真っ直ぐに伸びる大路が、此処からははっきりと手に取るように見て取れる。戰が指差す方向を、素直にじっと見詰めていると、やがて、空が茜色から真紫へと変わり、路も同様の色に染まる頃合を見計らうかのように、その大路にポッ! と煌やきが点った。まるで、星が一足先に舞い降りてきたかのようだ。
「まあ……!」
椿姫の感嘆の声にのるように、灯火は順に走り路を浮かび上がらせる。呼応するかのように、街の家々にも灯が灯りだした。どれも皆、暖かい光だった。灯火の星海のような、王都の姿が広がる。空と地とに、揺らぐ光が共に競い合うように輝いている。
「綺麗……」
声も涙で濡らしながら、椿姫が呟く。胸の高さまでしかない椿姫を腰を屈めて見守りながら、戰は彼女が喜んでくれていることに満足していた。
★★★
「皇子様、有難うございます。禍国の良い思い出が出来ました」
「うん、喜んでくれて私も嬉しいよ、姫」
浮かんできた月明かりの下、並んで歩きながら王都を見下ろし、時に空を見上げたり遠く西方の影山を眺める。姫が転んではと気遣って丘の低い方に立ちながらも、戰の方が頭が上に来る。
有り得ない体格差に、椿姫はつい、笑みをこぼした。
「皇子様は、本当に背が高いのですね」
「あ、ああ、そうだね。母上の祖国の血かな?」
「楼国の、ですか?」
「うん、おそらくね」
楼国は、西と南の人種や文化の系統の違う国々との境界に成り立つ国だ。其れ故に、王侯貴族だけでなく庶民に至るまで、混血が進んでいる。言われてみれば、戰の彫りの深い顔立ちや骨の太い体躯などは、この中華の国々とは違うように思われた。西方人特有の、背が高く目鼻立ちの通った特徴が強い。よく見れば、瞳の色も髪の色も、自分などよりも明るい印象を受ける。それもやはり、西方人の血の成せる技なのかもしれない。
彼の母親である麗美人は、自分のように線の細い小柄な御方だったと蓮才人から聞き及んでいるが、戰はきっと交わった数代前の血が顕著に出た希な例だろう。
「幼い頃、此処からよく、西方を眺めていたんだ」
「まあ?」
「もしかしたら、母上の国が見えるのではないかと思ってね」
懐かしそうなそれでいて哀しげな声に、椿姫はどきりとした。
自分と祭国と違い、戰の母の国は攻め入られ、そして彼女は国の為に躰を皇帝・景に差し出した。
戰は、その事実の果てに産まれた自分を、どのように思っているのだろうか?
思うだけで、椿姫は胸が潰れるように痛んだ。
「今は、見えますか?」
「ん?」
「そんなに背が高くなられたのですから、お母様のお国が、見えますか?」
少し可笑しみにかえておどけてみせ、椿姫は涙を誤魔化した。
戰が声を上げて短く笑う。
「どうだろう? 確かめてみるかい、姫」
「――え?」
「私の見ているものを、確かめてみるかい?」
戰の大きな躯が視界からすっと音もなく消えた。慌てて、椿姫が目をまるくしていると、足元に膝を屈め大きな背中を此方に向けた戰がいた。
「み、皇子様?」
「乗って」
「……」
「さあ、ほら」
促す声に合わせて、広げられた戰の手の平がひらひらと踊り、誘っている。
思わず、くす・と小さく肩を窄めて椿姫は笑った。どうして、確かめてみるかという誘いが、背負うという行為に繋がるのだろう? ……でも、とても皇子様らしい、ととくとくと波打つ胸の奥の甘い疼きと共に、椿姫は思った。
意を決して、ゆっくりと戰の背中に近づき、そっと静かにまるで岩盤のようにしっかりと広いそこに身を委ねた。
椿姫の身体の重みを背中に感じ取ると、戰はゆっくりと膝を伸ばした。ふらつく事もなく、しっかりと足を踏みしめて立つ。
戰の肩越しに、椿姫のほんのりと桜色に色付いた頬があった。
「どうかな、姫、見えるかい?」
「どうでしょう、皇子様?」
おどけて問い掛ける戰に、椿姫もおどけかえす。
確かに身長差の分、視界は高い。いつも彼が眺めている風景は、世界は、自分の見ている位置よりも広くひろがっているようにも思える。
でも、と椿姫は思う。
此処から彼は、きっと楼国を見ていたに、感じていたに違いない。
禍国の栄華の象徴である王都の華やかな煌やきではなく、その更に西方に伸びる峰の連なりにひっそりと隠された、母の国に焦がれていたに違いない。
禍国の綺麗なところを見せると言いながらも、戰は、彼は、祖国を見ていない。
3年もお傍にいてずっと見詰めていた筈なのに。
私は皇子様の、何を見ていたの……?
胸の奥が、つきん、と痛んだ。
信じられない程近い位置にある、戰の横顔は美しく整ったままだった。けれど見える風景を心に深く・と、今、彼が願いつつ刻む世界は、星のように輝く灯火が泳ぐ王都ではなく、遥かな峯の向こうにある。
それを、教えて貰えただけで、それを知るのは自分だけだというだけで、椿姫は胸の痛みを取り去る事が出来た。今は、悲しみよりも喜びに浸りたいと、椿姫は思い、戰の広い肩に頬をのせた。
暫くそうして、二人で山の向こうを眺めていたが、ふいに、戰が顎を上げて椿姫の顔を、仰ぐように覗き込んできた。
「皇子様?」
きょとんとしつつ小首を傾げて見詰め直すと、戰が幾分慌てた様子で身体をゆすり、顔を赤くした。
「う、うん、姫……そ、その……」
「はい、なんでしょうか?」
「その……」
「はい」
「そのように、大きな瞳でこう……まじまじと見詰め返されては、その、や、や、やりにくいと言うか……」
「はい?」
戰の言葉の意味を掴めず、ますます大きな黒目をくりくりとさせていた椿姫だったが、漸く、戰の身体が少し捻られ此方を伺っているのに気が付き、あ……となる。白椿のように艶やかな頬を、赤椿のように染め変える。
「皇子様、あ、あの、はい、も、申し訳ありません、でした」
「いや、私こそ、さ、催促したようで、その」
「いえ、あの、ど、どうぞ……」
「う、うん」
瞳を閉じて、軽く息を吸い込み、呼吸を必死で整える椿姫の顔ばせが、自身のものではない熱い息がふきかけられるのを、感じ取った。
次の瞬間、更に熱い熱の塊が、遠慮がちに唇に触れてきた。思っていたよりも固くもごつごつもしていないそれは、逆に優しく絡みつくように押し当てられてくる。
うっとりとその行為に身を浸しながら、椿姫は泣きたいくらいの幸せな心持ちに揺蕩っていたが、突然、その甘い行いが断ち切られた。
慌てて閉じていた眸をあけると、硬い緊張に支配された戰の厳しい横顔がある。これまでとは種類の違う、胸の高鳴りが、椿姫を襲う。
「皇子様?」
「烽火だ」
椿姫をそれでも丁寧に大切に地面に降ろしながら、戰が呟いた。
声までが重く、硬い。彼の視線の先をたどると、確かに、それまではなかった明りが空に向かって数本あげられている。
戰の額から、頬を伝い、汗が流れ落ちていく。
明らかに、何か悪い事態を伝えてきているに違いない。それも、かなり重く重要な。
「済まない、姫。一刻も早く王宮に戻りたい」
「はい」
戰の言葉に、一も二もなく、椿姫は頷く。張り詰めた面持ちの戰は、有難うと短く答えるのがやっとだった。
★★★
王族だけが使用できる裏手門から密かに王宮に入り戻り、厩から自室まで殆ど駆け込むようにして戻ると、戰と椿姫を、見知った人物の後姿が出迎えた。
「真」
一言、戰が、その人の名を呼びかける。
癖のある髪を揺らしながら、その名の持ち主が振り返った。
「真、何があった。先程、西方より烽火が上がるのを見た」
「戰様、落ち着いて、よくお聞き下さい」
「何があったのだ、真、話せ」
刃のように鋭い言葉つきの戰に、椿姫が思わず彼を見上げた。視線の先の彼は、恐ろしい形相をしている。此れまで、一度たりとも見た事がない、深い心底からの怒りの表情だ。
知っている。
何が起こったのか、烽火の意味を彼は知っている。
知っていて、認めたくが無い故に、真にそれを告げさせようとしているのだ。
「いけません、皇子様、真様」
椿姫の制止の声を振り払うかのように、真は軽く目蓋を閉じて首を左右に振り、静かに答えた。
「楼国が、攻め滅ぼされました」




