終章 君がため その10
終章 君がため その10
芸妓が取る礼の姿勢は、膝と腰を痛める。
しかし白は、受の姿が消えるまで、殿侍が礼拝を捧げ終えて別れを告げ道を引き返すまで、嫣然一笑を絶やさずその姿勢を貫いた。
同じように礼拝を捧げていた資人が、先に姿勢を正して白に声を掛ける。
「此れからどうするつもりだ」
「勿論、お店に戻りますぅ。その前に、青はんにもう一度お礼を言いとうて。本当、おおきに」
礼などいらぬ、と資人――の姿をした青が眉を顰める。
ふふ、と白が笑った。
化粧けもない見窄らしい下女のなりであるというのに、涼やかで恬然とした態度は流石に御職を張る芸妓としての一本筋の通った魅惑あるものだ。
「郡王の離宮には、お前が会いたがっていた男の正室も居たのだろう。何か一言、言ってやらなかったのか?」
青の言う処のあの男、つまり真の妻である薔姫の宿星が『男殺し』であるとは、禍国内で知らぬのは言葉を知らぬ赤子位なものだ。
――詰るなり謗るなり、幾らでも中傷してやればよいのだ。
どうせ姫と名のつくものは、甘やかされて我儘放題に振舞ういけ好かぬ小娘に違いないのだから。
染にしてやりたいあれもそれもを想定し、期待してる青の口調に、ふ、と白は流し目を送ってきた。
「最初はうちも、そのつもりやったんやけど」
袖で口元を隠して、ふふ、と白は含み笑いをする。
「けど、出来んかったわぁ」
答える白の口調は清々しい。青は、眉根を寄せた。
「何故だ? 若しくは、その正室とやらの目の前でその男を奪ってやれば良かったのだ。お前の手練手管とやらを使えば、簡単な事だろうが」
疲れた受の前で喚き散らして迷惑をかけるしか脳のない染姫を思い出しながらであったからか、青の口調は刺々しいものとなる。小指を立てて唇に当てながら、ふふ、と白は笑みを零す。
「青はんは、正直なお人やなあ」
「私の事などどうでもよいだろう。何故しなかった?」
唾を飛ばして詰問してくる青に、青はんは本当に素直すぎる可愛いお人やなあ、と白は歯を見せて笑う。
「うちにかて、女の矜持いうもんはある。女として汚れた仕事しとる云うて後ろ指さされとるけど、うちの中の女の部分が、それはやったらあかん、やったら負けや、女として負けや、いうたんやわ」
益々顔を顰める青に、白はとうとう、ほろほろと声を立てて笑い転げた。
常であれば怒りも顕に白を咎める青であるが、それすら出来ぬ程、戸惑っている。やがて笑いを収めた白は、胸元を抑えて呼吸を整えた。
そして、きゅ、と唇を引き締めて青を見詰める。
「青はん」
「何だ」
「青はんは、何で大保さんを好いとるの?」
其れは、と答えを逡巡する青に、白が破顔する。
「大保はんが、本当の漢はんやでやろ?」
「……」
「そやろ? うちにはよう判る。大保はんの成さりようは人に好かれるもんやない。せやけど、分かっとっても黙ってやり遂げる大保はんは、男の中の男はんや」
自分が褒められた訳でもないのに、頬が熱くなるのを青は感じた。
本当、青はんは素直で可愛いお人やねえ、と誂われても何故か怒りは湧いてこない。
「なら、青はんにも分かるやろ? 男はんが、大望の為に命張るんと同じや。女は、志に命捧げて駆ける男はんを生かす為に魂を賭けるんや」
白の言葉は、ずん、と青の肺腑を叩く。
一瞬で納得した。
しかし、という事は、あの男の正室は、そうだと言うのか、と言いかけて青は唇を結んだ。笑みを零している筈の白の頬に、見えない涙が流れているのを感じたからだ。
「あんお姫さんはなあ、青はん。どんな汚い事でも、口に出して言われへんような事でも平気で出来るのやわ。真さんの為や言われたら、其れこそ、膿も口で吸い出しますやろ」
白の言うことを、当初は信じがたそうに聞いていた青だったが、真剣な眼差しに寄せていた眉を開いた。
「青はん、女は好いた男はんの為にしか、本気の涙なんか流さへれへんやろ? あん御人はなあ、真さんの為に本気で泣きよってん。そんなん、見せつけられてもうたら、もうあかん。漢はんが主君に男惚れするのと同じや。あの小さいご正室はんは、うちを女惚れさせてしもうたんや」
そんなすごいお人に、うち、敵うわけ、あらへんやないの……、と言葉を消していく白の横顔を、美しい、と思わず見惚れていた青は、突然、子供のように邪気のない笑みを向けられた。
色の濃い肌に良く似合う。
これが、この女の本来の表情なのかもしれない、と青は思った。
「長々、らしゅうもなく、話し込んでしもうたわ。御免やして?」
目元に口元に、きり、と一本の筋が通り直し、芸妓・白の顔に戻った。
大保の屋敷に向き直ると、もう一度、白は礼を捧げる。
「お暇出来やしたら、青はん、本当、お店に来たって? 前も云うたけど、うちにお酒御馳走させたって?」
「……分かった」
白は白い歯を見せて笑い、青もまた目元を下げる。くるり、と背を向けた白を、青は無言で見送る。
――白よ、お前はまだいい。
此れであの男への諦めがついたのだろうから。
だが、私はお前が言ったように大保様に魂を賭け続ける。
利用されているのだと知っている。
それでもいい。
大保様が、初めてなのだ。
私の名前を、土蜘蛛ではなく『青』と読んで下さった初めての御方なのだ。
この気持ちは捨てられぬ。
族などいらぬ。
大保様さえおられれば良いのだ。
利用して頂ければお仕え出来るのであれば、お側に侍るのを許されるのならば。
この身もこの心も、幾らでも差し出せる。
主君に殉じてこそ男の本懐であるとするのならば、恋情に燃え尽きてこそ女の本望ではないか。
ゆったりと店への道を行く白の背中が見えなくなるまで、独り静かに佇んでいた青であったが、やがて人知れず消えていた。
★★★
店に戻ると、御付の妓に湯や着替え、化粧の用意をさせた。
たっぷり1時辰をかけて、白は芸妓の装いに戻る。
「御主御長姉様、只今、戻りましてん」
きり、と表情を引き締めて、変わらぬ挨拶を捧げる白に、よう戻りやしたなあ、と碧は答えた。
「あい、もう、吹っ切れましてん」
「初めて好いたお人追いかけるのは、やめやしたんか?」
あい、と白は朗らかに笑う。
「白、あんたはこのお店の御職や。そのあんたが本気で迫ったら、真さんかてちっとは心を揺るがせるやろ? それだけの房中術を、私はあんたに仕込んだつもりや。それに真さんのお相手は、あんな年の離れた、まだおぼぼに毛もよう生え揃わん、年端も行かん未通女はんや。そんなお人に、早々に負けを認めて帰ってきた云うのんか?」
何処か避難めいた碧の言い様は、青とよく似ている。
白は髪に差した簪を弄りながら、はい、と微笑んだ。
「そうどす」
「あんた程の妓がか?」
御主御長姉様、と白が嗜めるように首を傾げる。
それだけ見れば、久々の総揃えの衣装が重たくて適わない、と言いたげだ。
「御主御長姉様。子供やとか、年が離れとるとか、女としてどうとか、そんなもん、関係ないんや」
「……白?」
あんお人らはねえ
心で好きあっとるの
魂が結びあっとるのや
惹かれ星同士のお人らやの
そんなどうしようものう素敵なお人やらの間に、うちみたいな半端者なんぞが、どうやって割り込める言うの……
声を凍えさせる白に、ほうか、と言いながら碧は突然、下男を呼びつけた。命令を受けた下男が下がる姿も見えないのか、白は続ける。
「御主御長姉様」
「何や」
「もう、自分の中で勝手に造り上げた幻想の恋にうつつ抜かすのはやめにします」
芸妓言葉を捨てて、白はきっぱりと言い放った。
「此れからは芸一本に打ち込みます。『芸妓・白』として胸を張って生きて行きます。御主御長姉様、私を国一番の妓と謳われるよう、鍛え直して下さい」
これ以上はない、という見事さで、お願い致します、と白は礼を施した。
目を細めながら礼を受けた碧の前に、下男が最高級の茶道具を用意して再び現れる。
広げられた道具の前に、碧が座り直した。
ぴしり、とした矢尻のような空気を纏いながら、碧は茶を点てていく。
息もできない緊張感の中で点てられた茶を受け取った白は、おおきに、御主御長姉様頂きますぅ、と艶然とし、きりきりと切り込むような所作で茶を飲み干した。
「御主御長姉様」
「何や?」
「青、いう娘はんがうちを訪ねて来やしたら、お店で一等上等のお酒を振る舞ったって。勿論、うちの奢りや」
「……ええやろ、覚えといてやるわ」
「此の先、ずっと。お願いしますえ?」
「ええやろ。あんたにつけといてあげまひょ」
おおきに、と太い帯を撫でながら白は笑い、立ち上がりざまに下男に命ずる。
「ほな、うちをお呼びにならはった旦那さんの処に、案内してんか」
★★★
昏倒した後、殆ど気絶と言ってもよい状態で眠りについた真だったが、身体に触りはなさそうだ、と虚海は診断を下した。
「ほ、本当に大丈夫なのですか、お師匠」
「心配せんでもええ。見たとこ、目眩起こしとる感じでもなさそうやし、耳の調子も、まあ大丈夫そうやしな」
「虚海様、本当……?」
脈診をしていた真の腕を布団の中に直し入れながら、不幸中の幸いやったなあ、と虚海が瓢箪型の徳利を取り出す。
「ま、これは2週間、全く動かんと寝とったからやな。話しとる感じも、ぶっ倒れ方も、目眩があったらあんな転げ方せえへんわ。今までずっと寝とった分、身体の中も頭の中も、『起きて生きる』ちゅうことを忘れてしもうとるんや。此れから、ちょっとづつ慣らしていけば、まあ倒れることみたい、あらへんやろ」
ぽちゃり、と徳利の中身が波打つ。
「虚海様、それって……」
「真さん、もう峠越えはったわ。お姫さん、よぉ頑張った・云うて、真さん褒めたりぃ」
戰も優も、克も珊も、その場で一気に脱力して、へなへなと腰砕けに座り込む。
薔姫だけが、がくがくと膝を戦慄かせながらも何とか立っていた。虚海が、徳利を下ろして、細い枯れ木のような手を伸ばしてきた。
「真さんだけやのうて、お姫さんも、よぉ頑張ったなあ。偉かったで、ん?」
「……うん……」
「本当、頑張ったで、ようやった、ようやったなあ」
虚海に頭を撫でられて、やっと人心地がついたのか、真はもう何処にもいかないのだと実感したのか、薔姫は泣き笑いの表情で頷いてみせたのだった。
★★★
受が戰の宮を訪ねてくる、ほんの数刻前。
真は突如として目覚めた。
まるで、素潜りの水遊びをしている子供が水面に上がってきて息継ぎをするように、ふ、と強い息を吐いて正気を取り戻した真に真っ先に気が付いた薔姫は、抱きつき、声を張り上げて泣きに泣いた。
目を覚ましてもまだ夢醒めやらぬ状態と言おうか、視界が定まっていないせいか虚ろな表情であったが、真は、幼い妻の背に腕を回して抱き寄せようとし――
そして、自分の腕の状態を其処で初めて気がついた。
動かないどころではなく、もう、何を施しようもない、己の左の腕を。
真が言葉を失い、身体が固くしたのに気が付いた薔姫が、はっとして離れる。
しかし、薔姫の予想に反して、真は微笑んでいた。
「……姫」
「なあに、我が君」
「私はどの位、眠っていましたか?」
2週間、と薔姫が短く答えると、そうですか、と真は目を閉じる。
次に目蓋を開いた時には笑いながらも、眸が鋭く輝いていた。
強く野太く、煌々と燃える、生命の輝きだ。
「姫、戰様と、父上と克殿、芙を呼んできて下さい」
「分かったわ、待っていて」
身体は痛まないのか、辛くはないのか、などと一切尋ねない。
薔姫は、寝台から降りて後を虚海に任せると、義理兄である戰の部屋へと小走りに駆けていったのだった。
部屋に駆けつけた戰たちが驚愕に塊と化して動けずいると、薔姫の叱責が飛んだ。
「兄上様、戸惑っている暇があるのなら、早く」
「……あ、ああ」
診察しつつの虚海を交えて、直様、協議に入った。
2週間。
この間、意識を無くしていた真の身体の養生の為にと、蓮才人が自ら厨房にたち、重湯に近い粥を用意してくれた。ただし、大好きな卵と醤で味付けしてあるのは、娘から婿殿の好物を何度も聞かされていたお陰だろう。
死線を彷徨っていた者とは思えないしっかりとした様子で、真は此処までの経緯に耳を傾ける。
そして、戰が敷いた布石に聴き終えるやいなや、では、と切り出した。
「今日のうちに大保様を此方の宮に来て下さるように仕掛けましょう」
「しかし……」
躊躇する戰に、真が薔姫から差し出された匙から粥を啜りつつ、のんびりと笑う。
「戰様、姫の言葉を借りますが、逡巡している暇も惜しいのです。大保様の気勢を削ぐのであれば、奇襲こそ上策でしょう」
今度は虚海に視線を走らせる。
眼を覚まさない想定で動いていたのだ。
それに、正気を取り戻したとはいえ、重病人には変わりない。
何時もであれば、真の言葉に頼る。
――だが、いいのか。
頼りきっていたが故に、大保は真にめをつけたのだ。
此のまま、また、真を頼りにしていいのか。
肩に倚りかかるようにして寄ってきた虚海が、こそりと呟いた。
――皇子さん
此処は真さんの云う事聞いたれや
真さんの漢の見せ時なんや、分かったれ
甘えるとかそういうんやないのや
真さんは大保さんとのぅ、男同士の一対一の対決をしたい、云うとるのや
漢の一大事、大決戦やで?
誰も邪魔出来へんし、止めたらあかん
虚海の言葉を反芻するように、何度も何度も戰は呟いた。
そして、息を止めるようにして呼吸を整えると、戰は真に笑いかける。
「……分かったよ、真。芙、刑部尚書の処に走ってくれ」
「――は」
戰の言葉を受けて芙は疾風のように部屋を去り、一区切りがついた処で予定通りに受の来訪を受けたのだ。
★★★
「本当、間一髪やったなあ」
規則正しく上下し始めた真の胸元を見守る薔姫の背中を、じっと見詰めていた戰だったが、間に割って入って息子の寝顔をみる機会を伺い続けて隣にたつ優の肩を、ぽん、と叩いた。
「兵部尚書」
「――は?」
「今のうちにもう一度、兄たちの周辺を探らせておこう」
「……御意」
戰の言わんとする処を察しながらも、其れでも心残りを隠そうともせず、優は切なげに臥せる真を見る。そしてのんびりと徳利を傾け、豪快に喉を鳴らして中身を飲み下す虚海を、珍妙な顔付きで肩越しに見下ろした。
息子の命の恩人であるには変わりない、と言いたかったのか。
虚海に小さく頭を下げると、踵を返した戰の後に続いて部屋を出た。虚海も、診察を終えると道具を仕舞い、芙の仲間に背負われて部屋を出て行った。
そして真面目くさった神妙な顔付きで、寝入る真の様子をまだ見守っていた克の耳を、苛々を隠しもしない珊が引っ張る。
「――いっ、ぎっ!?」
必死になって悲鳴を飲み込む克の耳を引っこ抜く勢いで珊はずんずんと歩いて部屋を出た。部屋から相当離れてから、やっと珊は手を離す。
「ちょ……お前なあ、何するんだよ」
「馬鹿ねえ、真と姫様、二人っきりにしてあげなきゃ」
「あ……」
腰に手を当てて、でしょ? と勝ち誇る珊を前に、克は言葉もない。やっと、戰や優や虚海が部屋を出て行った意味が分かると、ごにょごにょと口の中で情けない声を出す。
「そりゃそうだが……」
不平不満を顕にしつつ真っ赤になった耳を摩る克は、今度は襟首をぐい、と引っ張られた。
「おわぁっ!?」
「克」
「あ、ああ?」
今度は素直に非を認めなかった事を兎や角言われるのかと身構える克に、珊は、にか、と口角を持ち上げて笑う。
「約束。ね、覚えてる?」
「……あ? ああ」
まるで、拾われるのを疑いもしていない仔犬のように、きらきらとした眸で珊は克を見上げてくる。
「じゃ、言ってよ?」
ごく、と克は生唾を飲み込んで、きょろきょろと左右を見渡す。
その後も、肩を揺すったり身体をもじもじとさせたりと、小忙しい動きをしてみせるばかりで一向に口を開こうとしない。
最初は、今か今かと殊勝にも乙女らしく待ち構えていた珊だったが、いつまで経ってもウジウジしているばかりで何もしようとしない克に、遂に爆発した。
「ちょっとお! いい加減にしなよ! 男が一度約束した事なんだから、はっきり言いなさいよ!」
言わないんだったら、このまま時のお爺ちゃんのお店に行くから! と踵を返した珊の手首を、慌てて克が取る。
「待て待て待て待て、ちょっと待て! な、何で其処で時の爺さんが出てくるんだ!?」
「何を待たなきゃ行けないんだよう。あたい、住む処ないんだって言ったじゃない。お爺ちゃんのお店で住み込みで働かせて貰えるように、頼んで来るんだよう」
「ば、馬鹿!」
掴んだ手首を引き寄せると、がば! と克は珊を抱き締めた。
「行く処がないなら、所帯持って一緒に住めばいいだろうが! 上さんになりゃあいい!」
真っ赤になってぶるぶる震えている顔と顳かみを見られたくないのか、克は凄まじい力で珊の首根っこを押さえつけて上向きの姿勢を取らせない。
色気もなにもなく、抱き締めたられた、というよりは羽交い締めにされて、きょとんとしていた珊だったが、やがて、……ぷっ、と小さく吹き出した。
「……ねえ」
「あ?」
語尾を上げて尋ねる珊には、俺はちゃんと言ったぞ? と唇を尖らせる克の顔が見えない。
「誰に、言ってるの?」
「――は?」
「だって、名前を言ってないじゃない? 誰と誰が所帯もって一緒にすむの? 誰が誰の上さんになるの?」
底意地の悪い響きのある珊の声音に、うっ……! と克が言葉に詰まる。
「ね、肝心な事言ってないよう? ねえ、誰と誰?」
「……う、その……」
「ね、言ってよ」
腕の力が緩んだ隙に、珊はするり、と克の胸から逃れた。そして、今度は自分から克に抱きつく。
「ちゃんと言って!」
「うおっ!?」
抱き止めた克が勢い余って、脚をよろめかせる。
が、珊は構わない。
そのまま、克を床に押し倒す。
克の後頭部と床が出会い頭に、ごん! と相当ないい音を周囲に響かせる。
「いってぇ!?」
良くなってきていた後頭部の傷を強か打ち付けた克は、ごろごろと転げまわって身悶えたいのに腹の上に珊に馬乗りになられていて出来ない。半分涙目になりながら、うぅ、と呻く。
克の惨状を全く無視して、珊は、ぐい、と覆い被さって更に迫る。
「ねえ、言ってってば!」
う~……と唸っていた克だったが、ねえ! と珊に更に迫られて遂に叫んだ。
「――お、俺! 俺とお前が所帯を持つんだ! 珊、お前は俺の上さんになりゃいい! 馬鹿な心配なんかしなくていい! ずっと俺と一緒にいろ! どうだ! ちゃんと言ったぞ! 聞いたか! こん畜生!」
「うん!」
珊が大きく頷いて、頬ずりしてくる。大いに照れながらも暫く珊の柔らかな頬を満喫していた克だったが、痛みを堪えきれなくなったのだろう。放り投げるようにして珊の身体を無理矢理、引き剥がした。
ぱっ、と身体の上から珊が飛び退くと、待ってましたとばかりに、克は後頭部を抑えてごろごろと転がりだした。
もう、格好つかないんだから、と笑いながら、珊は活の腕を、ぐい、と引っ張り上げた。
「ほら、床の上でごろごろしてないで。たんこぶ出来てそうじゃない? 見てあげる」
「……誰のせいだよ、誰の……」
「いいから、いいから、ほらほら!」
見繕った適当な部屋へと、珊は克の背中を押していく。押しながら、腰の帯を弄り始めている。
「へ? おい、珊? お前、何してんだ……?」
「ほらほら、早く服脱いで横になんなきゃね」
「おい!? 頭の怪我でなんで服を脱ぐ必要がある!?」
「いいじゃない、ついでだよぅ」
「何が何のついでだ! おい! こら、珊、やめろ、やめろって!」
「いやぁ~だよぅ」
顔だけでなく全身真っ赤になった克が、何やら喚き出した。だが、周囲に花を散らすように浮かれている珊は丸っきり無視して、克をぐいぐい部屋に押入れようとしている。
竹青年が、ちぇ、また芙殿に負けましたよ、隊長、不甲斐なさ過ぎますよ、とぶつぶつぼやきながら芙に何やら手渡している処など、必死の克には聞こえても見えてもいなかった。
★★★
部屋の中が、一気に、しぃんと静まり返る。
時は夜の帳が落かけており、秋の虫たちが残り僅かな恋の季節に、しんみりとした鳴き声を上げていた。
藍色の空に朧にかかる月は、まだ真珠と玻瓈の粉を混ぜ合わせたかのような輝きを放ってはいないが、その内、柔らかな光を届けてくれる事だろう。
薔姫は、眠る真の顔を、じ……と見詰める。
男にしては長い睫毛が、冷たくなりかけた夜風を受けている。
頬を啄いても眉根が寄らない程、真が深く寝入っているのを確かめてから薔姫はそっと音を立てないように立ち上がった。
部屋の隅に飾られている桜の苗木の前に立つ。
戰が、植木にあった鉢を用意して植え替えてくれたお陰で、葉のつき方も花の具合も良好だ。
花の蕾の一つに頬を寄せると、ぽ……と差し込んできた月明かりを受けて花弁が開いた。
思わず、頬が緩むと、背後で気配がたった。
「……ひめ……」
まるで蜉蝣かなにかの羽ばたきのようなか細い声だった。
薔姫は急いで鉢を抱え上げて、真の傍に駆け戻る。
「我が君、目が覚めたの? 気分はどう?」
……いいえ、と首を左右に振る真に、そう? と言いながら薔姫は腰掛けた。
「虚海様を呼びましょうか? お腹は空いていない? 何か作ってきましょうか?」
……いいえ、とまた真は首を左右に振った。
「……ひめ……」
「なぁに?」
「……もうしわけ……ありません……」
何が? と首を傾げる薔姫の前で、真が左腕を持ち上げようと身動ぎする。
慌てて、薔姫は真の肩を抑えてやめさせる。
「……やくそく……まもれなく……なって、しまいました……ね……」
春になったら、一緒に花を見ると約束したのに
どうにも、それまでに元気になれそうにありません
手を繋いで、歩くと約束したのに
もう、繋げなくなってしまいました……
ううん、いいの、と今度は薔姫が首を左右に振る。
そして、真の視界に開いたばかりの花が入るように、鉢を移動させる。
「ね、我が君、見える?」
……はい、と頷く真の頬に、薔姫は自分の頬を寄せる。
包帯で固められた左腕を撫でながら、まだ、腐臭の残る腕に負担が掛からないよう、優しく。
そして、隣に座り直しながら、左腕に腕を絡めた。
「……ひめ……?」
「守れなくなった約束なら、もう一度、約束し直せばいいのよ、我が君」
春に見られないのなら、今、一緒に見ましょう
元気になるまでの間、一緒に見ましょう
手を繋げないのなら、腕を組みましょう
いつでも、好きな時に
いっぱい、いっぱい、腕を組みましょう……
「……ね?」
寄せている頬が、暖かく濡れる。
「だから今は、ゆっくりと眠って?」
ひく、と喉仏をひくつかせならが流れる真の涙が、鼓動と共に伝わって来ている。
「……ね?」
もう一度、念を押すように尋ねると、……はい……と小さく真は答えた。
涙で濡れた真の頬に頬ずりするように、薔姫は抱きつく。
「……我が君?」
しかし、幾ら待っても次の言葉が紡がれない。
不思議に思って視線を上げると、真は涙を流しながら寝入っていた。
微かに開いた唇の隙間からは、規則的な寝息が漏れ始めている。
「……もう……」
言葉もなく存分に、堪能するまで寝顔を眺めている。と、だんだん眠気がうつってきた。……あふ、と薔姫は欠伸を一つ落とす。
行儀の悪さを見咎められる誰かが居るわけでもないのに、つい、きょろきょろと周囲を伺ってしまってから、うふ、と肩を竦めて薔姫は笑った。
それから沓を脱いで真が横たわる寝台の上に上がる。
真が被っている掛け布団を捲り上げると、一緒に横になる。
もぞもぞと胸元に寄り添うと、くぅくぅという息遣いと、とくとくという心の臓の音が、密着した薔姫の頬と身体に優しい体温と共に伝わってくる。
我が君
謝らなくていいのよ?
だって
我が君は嘘なんてついていないんだもの
見えるから
私には見えるから
我が君と一緒に歩くはずだった桜の並木
私には
目を閉じればいつでも見えるから
だから
我が君にも見せてあげる
私がいっぱい、いっぱい、
いっぱい、見せてあげる
ねえ、我が君
だから
春の日を懐って
一緒に眠りましょう?
夢の中では
手を、繋げるから……
肩に薄上掛をかけながら、薔姫は静かに目蓋を閉じる。
「おやすみなさい、我が君。お疲れ様でした」
★★★
先皇帝・景の崩御を発端とした禍国内の政変は、こうして幕を閉じた
新皇帝には建皇子が正式に第四代禍国皇帝として擁立され、大保・受を後見人として背後に控えることと定められた
同年、皇子・戰は改めて祭国郡王としての地位に冊封される
いよいよ祭国は、職貢を担う朝貢国として歩みすことになった
しかし
皇太子・天と二位の君・乱
二つの宿星はまだ輝きを失ってはいない
禍国は周辺諸国を巻き込んで落ちていくだろう
戦乱の時代へ
群雄割拠の時代へと
祭国も
また、戰も
共に渦中へと身を投じることとなる
祭国は
生き延びるのか
戰は
勝ち続けるのか
――真の走狗としての真価が問われる戦いが、今、此れより、はじまる――
覇王の走狗 六ノ戦 落花流水 了 ―― 第二部・終 ――
此れにて覇王の走狗、【 六ノ戦 落花流水 】は了となります。
落花流水の意味は実は二通りあります
落ちた花が水に従って流れる意で、ゆく春の景色
転じて、物事の衰えゆくことのたとえ
時がむなしく過ぎ去るたとえ
別離のたとえ
また、男女の気持ちが互いに通じ合い、相思相愛の状態にあること
散る花は流水に乗って流れ去りたいと思い、流れ去る水は落花を乗せて流れたいと思う心情を、それぞれ男と女に移し変えて生まれた語
転じて、水の流れに身をまかせたい落花を男に、落花を浮かべたい水の流れを女になぞらえて、男に女を思う情があれば、女もその男を慕う情が生ずるということ
『goo検索・新明解四字熟語辞典 ~http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E8%90%BD%E8%8A%B1%E6%B5%81%E6%B0%B4/m0u/ ~より抜粋』
落ちぶれていく禍国の状態を前者
そして真と薔姫をはじめとして、あちらこちらの男と女の恋模様を後者として
6章タイトルとさせていただきました
皆様にはどのように感じていただけたでしょうか?
そして六ノ戦をもって ― 第二部・終 ― となります。
第二部を表す言葉は何になりますでしょうか?
第一部が【 周星編 】とですから、【 天舞編 】でしょうか?
意味合いとしては、様々な星を背負った人々が動きだした、と。
真風に、簡単に言うと【 動乱編 】ですかね?(⇒なら最初からそう言え!
次章となります7章から第三部が始まります
【 七ノ戦 星火燎原 】
物語は、六ノ戦 落花流水の後、3年後より始まります
(第三部は一応、七ノ戦、八ノ戦の2章構成を予定しております)
連載開始は、いつもどおりの金曜更新から……といきたいところなのですが、どうなりますことやら……
引き続き、楽しんでいただけるように執筆していきたいとおもっております
応援、よろしくお願いいたします
最後となりましたが
ツイッターの作品宣伝に使用させていただいておりますイラストを、こうして本文に掲載することを快諾してくださった七ツ枝様に感謝を捧げます
素晴らしいイラストを本当にありがとうございました
KEY 拝
2016年7月19日




