終章 君がため その8
終章 君がため その8
「何?」
抱えの資人の申し出に、受は珍しく眉を顰めた。
対屋を与えて手当てさせている女童であるが、どうも体調が芳しくない、とおずおずと上申してきたのである。
「何処で手に入れたものやら、その、怪しげな薬を傷に塗っておったのですが……。いえ、その薬は薬湯とあっておりまして、実によう効いておったのですが、その、お気に触られたのか、御正室様にとりあげられてしまいまして……」
染の愚行を耳に入れても、受の表情は変わらない。またか、とも零さなくなってきてた。
「薬師や医師たちはどう診ておる」
「は、其れがその……」
王都一番と誉れ高い医師たち、彼こそは随一の腕の持ち主と評判の薬師たちは、挙って祭国郡王・戰の宮に集まっており、女童を診させようにも誰も掴まらぬのです、とまるで己の罪のように縮こまっている。
ふむ、と受は顰めた眉を解いて目を開いた。
あの政変から、実に2週間が経とうとしていた。
父親である大司徒・充と同腹弟である大令・兆を追い落とした受は、今や、大保という役職は臣籍にある者として最高位となっていた。
故に、日々忙しく王城内を駆け巡っている。
其れこそ休む間も無い程に、だ。
役目としては主に、次代の皇帝の選定と即位戴冠の儀式を担う役目である。
が、未だ、新帝は定まっていない。
つまり、皇帝として名乗りを誰も許されていない。
誰が最も相応しいかのか。
未だに論議に決着が付かない。
その間当然、玉座は空位のまま、2週間が過ぎ去ろうとしているのだ。
――皇后・安が代帝などと愚かしくも小賢しく名乗っておった時期を含めれば、空位は2年にも及ぶか。
含みのある笑いを、ふっ、と受は漏らした。
ともあれ。
そんな中、新皇帝に最も近い立場にいるのが、正に瓢箪から駒、勿怪の幸い的に俄然、力を得てきている淑妃・合腹の皇子・建である。
天や乱、そして大司徒・充や大令・中たちに歯牙にも掛けられなかったのは、母親である淑妃が大司徒一門に属しているからである。彼女が皇帝・景の傍に侍ったのは、大司徒側の勢力をより安定させる為に過ぎない。故に、彼女も皇子も、妃として皇子として最上の品位を得ておりながらも、影が薄かったのだ。
俄かに脚光を浴びる事になった合淑妃と建皇子は、既に皇帝となると定まったのだとばかりに専横に振る舞い出している。しかも、この数日で我が身内可愛やからの身贔屓の極意を会得したらしく、自身の家門に連なる者たちを次々と麾下として召抱えており、無造作に官位を与え出していた。一つには、此れまでの姻戚関係から大保・受が後見につく、という目算がある事も挙げられる。
そんな彼らを抑えてぎりぎりの線で統率が効くように腕を振るうのもまた、大保としての受の役目の一つでもあった。
此れまで贅沢というものを知らずに過ごしてきた者が、突然、考えうる限りの最高の権勢を与えらたのだ。意識が飛び、浮かれささめいても致し方ない事ではある。が、彼らの振る舞いは専権横暴が余りに過ぎた。
抑圧され不満が爆発仕掛けている各尚書を、受はよく抑えた。
だが世間を知らぬとは恐ろしい。
淑妃と皇子は、自分たちの鶏黍饗応のお陰で政争もなく事が潤滑に回りだしていると思い違いをし、ますます驕慢放縦に振舞う、という循環の図式が成り立ち出していた。
無論、此の流れこそが受の狙いのうちであったのだが、休む間もなく働き続けて邸宅にも戻る暇すらなくなってしまう程になるとは、誤算であった。休めぬ、という事はとどのつまり、自身の政治手腕が発揮できる状態であると言える。
――こんな流れになろうとは。
其れだけではない。
受自身も、政治、というものに面白味を感じ始めてのめり込みだしていた。
此処までの受の王城内での生とは、実に日陰にて絡繰の糸を手繰るようなものであった。
仕掛け糸を彼方此方に張り巡らせる奸計が主であり、到底、政治を担うとは言い難かった。
だが、実際に表舞台に立って指示を出し、報告を受け取り、人と物事に手を触れれば触れる程、想像以上の愉しさだった。丸で王城に染まぬは吃のせいか雛のせいか、と陰口を叩いていた者も、鎧を脱ぎ捨てた受の有能さを認めずにはいられなかった。
禍国は最早、屋台骨がどうこうという程度で済まぬ程に腐りきっている。
舵取り任されて共に沈没の憂き目を見る前に如何にして、可能な限りの旨みを手にして脱するかを画策しだしている輩ばかりだ。
渦中にて、突如として辣腕を振るいだした受に好奇の視線が集まりだすのは当然と言えば当然の事だった。気の早い者は、親類縁者から年若く見目の麗しい娘を寄り選り出しているという。無論、受の側室に差し出す為にである。正室の皇女・染姫が凄まじい悋気焼きでしかも易変の質の女性であると知られていると言うのに、取り入れる為にはありとあらゆる工作をせずにはいられないのだろう。何しろ、染は既に30を超えている。健康な子が望めるとは思えない。側妾腹と云えども、長子を産めば或いは……という計算が飛び交っている。
そんな彼らの周章狼狽ぶりを、受は苦笑いしつつ横目で通り過ぎる。
彼らの世話だけでなく、祭国にて起きた諸問題――即ち、赤斑瘡の発症から、台風による祭国の米の収穫量の激減、鴻臚館炎上などの諸々を彼らの目に触れさせる事なく、静かに収束させて行かねばならなかった。ちょうど、数日前に使節団が帰国したのだが、誰も問題にせぬように滞りなく解散させたのも、受の手腕である。
――陛下も手を出したかったであろうに、よくぞ堪えられた。
しかし、戰が堪える、という事は己が諸事に忙殺されるという事に他ならない。
忙しく難問であればあるほど、受の血は湧き、肉が躍った。
★★★
――実に面白いものだ。
父上や叔父上、まして兆如きが取り憑かれては逃れようがあるまい。
僅かでも突出した者は平らにしてやろうと手に手に槌をもって迫る癖に、それが折れぬと知れ渡れば、今度は周辺をよって集って掘り下げて、より高く見せようと動き出す。
それも勝手にだ。
見ている分には面白い。
――これが、己の力であると心得違いなどをするから、我が一門は狂ったのだ。
多少の狂いなどは横から牽制する者が現れ、勢力伯仲となれば解消する。
だが、一門は一気に頂点をとり、長くその座に居すぎた。
一門が亡ばねば政を我が物とせし悪しき循環は断ち切れぬは当然と頷かざるを得なくなる程に。
――父上たちが手放してなるものかと最後まで足掻いた意味が分かる。
率直な感想だった。
其れ程の面白味がある。
「面白い。実に面白い」
――私は溺れるつもりはないがな。
そして本当に、面白がっている場合ではなくなった。
大保という身分である己の屋敷に仕えている者は、喩え私奴婢であろうとも責任を負わねばならない。
――あの男、まだ生きておったのか。
素直に、驚きしかない。
あの男、とは無論、兵部尚書・優の側妾腹の息子、そして蓮才人の娘である薔姫を妻に迎えている、郡王・戰の身内である、真という名の男である。
とうに儚い存在になったものであろう、と思い込んでいた受にとっては、正に霹靂であった。
――よく、此処まで命を繋いでおるものだ。
見た目からして虫の息、棺桶に首まで浸かり、傍らには魂を運ぶ鬼が控えているような状態であった無残な姿を思い出す。その日のうちに鬼籍に入ったものだと思い、気にもしていなかった。
だがよくよく気を付けてみれば、様子を探らせる為に送り込んだ白が戻って来ていない。兵部尚書の側妾腹の息子・真に血道を上げている彼女の事だ。何事かあれば、自分を頼りに舞い戻って来る筈だと踏んでいたのだが、あれから一度も姿を見ていない。
――……ふむ……。
実は、父親である大司徒と叔父である先大令・中、同腹弟の大令・兆、同じ血を引く皇子・天と乱、叔母である安に姉の寧に従兄妹の明。
本日、彼らの処刑を執行致す、と刑部尚書・平が言い渡した。此れまで、奇妙に引き伸ばしてきた処を、突然であったのは何故か、と訝しむ節はある。
――よもや、とは思うが、皇子どもを密かに逃す手立てを講じる勢力が湧いてきたか?
それもまた由であったが、一応、王城内にある台獄に出向き、荒く編んだ麻の貫頭衣姿で喚き散らす面々を受は見届けた。
此れから彼らは、ひとまず王都中を引き摺り回されるのだ。
首から垂らした掛札には罪過が奈辺にあるかを認められており、人々に遍く咎と罰を知らせる為の処置だ。
市中の引き廻しが済めばやっと、其々の刑に合わせた場に送られていく。
さて、あの皇子どもは仕掛けに気が付けるか。
気が付けるまで、奴らの気が正気を保てば良いが。
出来ねば其処で終わりであるし、出来たとすれば、其れは其れでただ計画が粛々と進んでいるだけの事だ。
★★★
――一門とこの汚らわしい血を引く者の破滅衰退は、着々と進んでいる。
自分の描いた策の通りに物事は運んでいる。
此れで一区切りがついた、と屋敷に戻ってきた処にこの横槍だ。
――あの娘は別だ、見過ごす訳にはいくまい。
一門の咎の被害者でしかない。
正室である染の悋気焼きの被害者でしかなく、策の範疇外だ。だが、喩え僅かであろうとも関わりを持った者が想定外の事態に陥られるのは、受には我慢がならぬ。と言うよりも受け容れ難く、気持ちが悪い事だった。
兵部尚書の息子がよもや生き延びるとは思わず、事態に対する対応をしていなかったのは確かに迂闊であり、失態だった。まして、理療に此処まで医師が巻き込まれるとも思わなかった。
――いや、違うな。
親が憎ければ子も憎い、という人の偽らざる本心だろう。
幾ら郡王陛下が真とやらを助ける為に血道を上げておられようと、市井の人々に不便を強いる訳が無い。
私が大司徒一門の生き残りであるからだな。
要は、関わりあいになりたくない、大保と懇意にしているという噂をたてられたくないが為に、郡王陛下を盾にしているだけだろう。
だが。
――まさか、娘に満足な薬ひとつ与えてやれなくなるとは。
染の蒔いた種に、図らずも己が水をやってしまったとは不覚としか言い様がないが……。
己の過怠を難詰している場合ではない。今は、対屋で療養させている娘を助ける事を第一と考えてやらねば。
「そんなに怪我は悪いのか?」
「は……」
より詳しく説明させると、対屋の女童の背中の傷は今はまだ膿を持たずに済んではいる。
が、熱がなかなか引かず、結果的に体力を奪われ食欲も落ちてしまった。
屋敷お抱えの医師に診せて薬湯を調合させはしたのだが、身体の怪我の質に合わなかったようで快癒に向かう気配がない。
と、いう事は相当に悪いのだろう。
勿論、見た目にも痛ましい程に弱ってきており、此方の胸が切なくて潰れそうになります――と切々と訴えてくる。
「一朝一夕でどうこうなる訳ではない、と御医師様は仰られておられますが、膿を持てば床に臥す時間も長引き、そうなれば女童の体力が心配になる、と……」
要は手持ちの薬では埒が明かぬから、もっと良い薬を持つ薬房を抱えた医師を呼んできてくれ、と匙を投げた――振りをして、この家との縁を切りにかかってきた訳だ。
仕方無く街に出て、腕が確かであると有名な名医の門を叩けば、郡王陛下の御宮に呼ばれているだの薬が足りぬ故とても回りきれぬだのと門前払いを喰らってしまう。
ほとほと困りきった様子の資人が相談しに来た意を察した受は、目を細めた。
「良かろう。私が陛下の宮に出向き、医師殿を借り受けて来るとしよう」
「申し訳御座いませぬ。大保様に遣いをさせるなど……」
「よい。あれから一度も王城に上がられぬ郡王陛下に、兄皇子と我が一門に刑に服せよとの旨が刑部尚書殿が勅裁として示された旨と、また兵部尚書殿の御子息・右丞の末もお伝えせねばならぬ。陛下の宮をお尋ねせねばと思っておった処だ」
明白にほっと胸を撫で下ろしつつも、たかだか、女童風情を助ける為に郡王・戰の宮に赴き、ついでに用事も済ませてくるなどと不穏な言葉を吐いた主人に、ぎょっとする。
不逞の輩として、郡王・戰に誅されてもおかしくはないのだ。
聞かなかった事にせねば、と思う程強ばる顔ばせを見せぬよう、殊更に深々と礼拝を捧げる資人に、馬の用意を、と受は平然と言い付ける。
そして変わらぬ態度で、衣の召し替えの為に奥の間へと一人静かに去っていった。
★★★
大保の来訪がある、と告げに来た芙に、来たか、とだけ戰は答えた。
「資人を一人従えていらっしゃるだけです」
そうか、と戰は肘掛を掴んで背を逸らし、目を閉じる。
――大保よ、来る頃であると思っていたぞ。
町医たちの話しから、大保の屋敷に女童の怪我人が居る事は知っていた。
この政変により、町医者たちが軒並み足並みを揃えて、大保と関わりを持つことを自粛仕出していると芙からも聞いている。
町医者だけでなく、商人たちも必要最低限の付き合いしか保っていないようだ。
まだ、大司徒一門の粛清が済んだ訳ではない。
彼らが正式に流刑に処させるまで貫徹したとは言えぬからだ。
大保の屋敷と長く付き合いを持っていた町医から、女童の怪我は命に関わるものではないとも知らされてはいる。が、それでも女童の怪我の状態を思えば胸が痛んだ。
当然だった。
大保を誘き寄せるのに最も有効であるとはいえ、無辜の民を巻き込むのは戰の本意ではない。
――娘にも、真のように身を案じる者がいように。
世道人心が衰えれば億衆の民を率いて大道に立つなど、夢物語であると知っている。
だが翻り、時として非道の道に染まろうとも、由とせねばならぬとも知っている。
その上で尚、正道の輝きを発しせねば覇道は成せぬとも知っている。
蒙国皇帝・雷が己が国の安寧秩序を守る為に、母の国・楼国が犯した悪逆無道を壊滅せしめたように。
――だがそれでも。
矢張、自分には出来ない。
何度、鬼の心に徹しようとしても、自分には出来ない。
甘いのか、其れ共、所詮は王道を駆ける者としての資質に欠けているのか。
悩む戰の耳に、ふと、真の声が届いた――ように思えた。
――其れでいいじゃないですか
戰様
戰様の思うようになさって下さい
戰様らしく、お在り下さい
私は、戰様と共におります
何があろうと
最後まで――
「行こう」
――そうだな、真。
矢張、どう足掻いても私は私以上にはなれないよ。
一度、天を仰いで呼吸を整えると、戰は立ち上がる。
傍に従っていた優と克が礼拝を捧げた後、左右に続いた。
★★★
戰の居室して整えられている一室に向かう途中、庭を愛でる事ができる回廊を使用した。
ほう、と受は目を細める。
敷き詰められた玉砂利の紋様は、美雨が緩やかに集まり川となった水面に、密かに身を投じて舞う花片の魅力を余す処なく描ききってある。一日経てば、砂利を梳きなおして描き直される儚さもまた、美しさを高めてた。
脚をとめて見入っていた受であったが、促されて爪先を進めた。
通された一室には、既に戰が待ち構えていた。
左右には、優と克が控えている。
最礼拝を捧げながら進み出る受に、よい、と戰が手を振る。許しを与えられても無言を貫く姿勢に、優が眉根を寄せて苛立ちを見せた。
「受よ、何用か」
「は。実は、陛下にもお伝えせねばならぬと罷り越して御座います。先般、陛下の明敏なる御采配にて、天皇子様、乱皇子様、及び、安皇太后様、御生母様方であらせられる寧徳妃様と明貴妃様、そして我が一門に極刑が定められましたが、本日、刑部尚書・平様の名において、刑を発布する定刻をもって執行されてました」
「そうか」
「また、兵部尚書殿の御長子である右丞・鷹に御座いますが、二日前の未明に明烏に眸を突かれた折に嘴が脳まで到達したらしく、昨晩、息を引き取りまして御座います。遺体はまだ、晒し続けておりますが、何れ骨となるまで放置されると刑部より申し渡しがありました由、ご報告させて頂きたく」
「そうか」
隣に控えている優に何ら慮る様子も見せず、戰は淡々と答える。受は、ほう? と何処か楽しげに眉を戦慄かせる。
「よもや、陛下が彼処までなされるとは思ってもおりませんでしたが」
「だがそれも、其方の予測の内であろう、大保よ」
「――はい」
礼拝の姿勢を崩さぬままの大保の背後では、更に小さくなった資人が鋭い視線を隠しもしない。
「皇子様がたは王都を隈無く引き廻された後、天皇子様は備国との国境に、乱皇子様は那国との国境に向かわれます」
そうか、と戰は鷹揚に応える。ふっ、と受は短く笑った。
「考えられましたな」
戰が王城に留まり其処までを指示しておれば、他の皇子や後見者である貴族たちから穿った目で見られ決定が覆される恐れがあった筈である。
だが戰は、兄皇子たちの決定に全て従うという服従の意思を自ら離宮に蟄居する構えでもって示してみせた。淑妃たちの箍が外れても当然であるが、極刑の諸決定をじわりじわりと刑部尚書を使って導いた戰に、受は見直した、とでも言いたげだった。
確かに。
嘗ての戰であれば、此処まではやらなかっただろう。
自国の民を巻き添えにするなど、先ず以て、真が許さない。
離宮から一歩も出ずして、且つまた兵部尚書である優が殿上せぬ事を良いことに王城に残る兄皇子たちの専横が鼻持ちならぬ勢いで横行しているのを知りつつの戰の態度は、実に、望み通りの結果だと言えよう。
受は満足気に頬を緩ませる。
――甘さなど、覇道には不要。
真とやらを失い、私に全ての恨みが集約している今、陛下は覇を唱えるに怯えも躊躇もみせられぬ。
受の頬が和んだのを見て、戰が背を反らせつつ座り直した。尊大不遜な態度であるが、彼が行うと高潔清廉にしか受け取れない不思議がまた、受には心地良い。
「其方の望み、此れで全て叶えてやったのだ。喜ぶがいい」
「はい。では素直に。いよいよ陛下が覇道に挑まれ中華平原を臨まれるのかと思うと、僭越ながら我が身も血の滾りを覚えずにはいられませぬ」
にこやかに答える受に、よく言う、と克の目が眇められるが、受は一向に構う様子を見せない。寧ろ克が反応を見せた事をも、そうだ、存分に怨むがいい、と頼もしく感じているかのように目蓋を伏せる。
「陛下のお言葉の様子から、既に近隣諸国の方々には周知させておられるご様子ですが」
「そうだ。特に、剛国と露国、那国と河国には早馬を出してある。今頃、新帝の即位戴冠の儀に向かう準備よりも先に、戦路を定める協議でも始めているかもしれぬな」
「其れは其れは……周到綿密な事に御座います」
天と備国は句国との戦の折にて因縁がある。
乱もまた、河国とは関わり深き間柄だ。
二人の兄王子の宿星。
天地が入れ替わる程となられましても、その身を安んじると卜された皇太子・天。
乱れし世においてこそ、揺蕩う己を耐えてゆくであろうと占われた二位の君・乱。
彼らの宿星が、彼の地に放り込まれて黙っているであろうか?
いないだろう。
天と乱、二人を利用せんと、周辺諸国は垂涎三尺を隠しもせずに近づいてくるに違いない。
――乱世が来る――
其れも、途轍もなく大きな。
正しく、禍国成立期と同等、いや其れ以上の戦乱の世が来る。
疾風怒濤の時代の波を、淑妃腹の建皇子では乗り切れまい。
いや、誰であろうとも乗り切れない。
必ず、怒涛に飲み込まれる。
波濤を蹴破り、凪いだ海へとかえす偉業を成し得るのは、唯一不二、郡王・戰しか居ないと誰もが認める処となるのは必定だ。
やがて皇帝となった建皇子は内外に迫られて否応なしに譲位の意を示すしかなくなり――
戰に禅譲が成される。
無血、そして簒奪でも当然なく、戰は禍国皇帝の座に就くのだ。
あのまま、戰が皇帝の座に就けば禍国では兎も角、何処か周辺諸国では彼を貶める為に下克上を行った簒奪者としての汚名を着せるだろう。
地位と身分が低い彼が淑妃腹の皇子を抑えて帝位に就くのは余りにも不自然であり、他の皇子たちの攻めどころといえば其処しかないが、これ以上の急所はないからだ。
兄皇子たちが皇太子・天や二位の君・乱の地位を剥奪しての政権強奪と見做そうとするのは、当然ではある。が、其れを他国に指摘させてはならない。
――此れは布石なのだ。
ともあれ。
諸国には、この禍国を大いに揺さぶって貰わねばならぬ。
陛下は彼らを苦もなく撃破する。
そして彼らは痛感するのだ。
陛下こそが中華平原を統べる天帝の化身であらせられる、と。
覇道を征く陛下の膝下には、累々と並ぶことだろう。
陛下の威光に感服し平伏した諸王が。
汚泥を浴びながらもそれと看破させずに、飽く迄も綺羅の道を歩む。
――陛下は、かくあられるべし。
己の導きの通りに戰が心を定めて歩き出した事実が、受の痩せた頬を何時になく活気つかせていた。
★★★
珍しく興奮に紅潮している受の頬が引き締められるのを待ってから、戰が口を開いた。
「お前に褒められる謂れはない」
「其れでも良くおやりになられました」
一皮剥けた、褒美をとらす、と言いたげな受の言い様が優には気に入らない。ぎりぎりと歯噛みする上官の腕を克と芙が左右から必死で留める。
「ですが、まだ、足りませぬ」
「そうか。何が足らぬと申すのか」
「分かっておいででしょう」
確かに、確実に戦乱という地獄の釜の炎を熾すのであれば、此れだけでは足りない。
天皇子を送るのであれば備国ではなく剛国と句国との国境方が確実であり、河国よりは那国と契国との国境の方が、より確実に戦乱を引き寄せる。
備国国境では、句国と契国に阻まれる恐れ有りと動かぬ恐れがあり、同様に、那国国境では、河国と陽国に挟み撃ちにされると危ぶんで見て見ぬふりをすかもしれないからだ。
加えて、事態を収拾させる為に戰が動けば動く程、王城内において受が孤立化する手段を講じておかねばならない。受の専横が招いたのだと皇帝が罪を被せる為には、各尚書との連携を断ち切らせ、しかも九寺と疎遠にさせねばならない。
だが、其れがない。
逃げ道を用意してある。
自分が出て行かずとも、禍国が立ち直る要素を残してあるのだ。
――何故だ。
陛下は、私を怨んでおられる筈だ。
決して手心など加えられぬ程に、自身を見失われる程に、私を誅さずにはいられぬ程に、怨んでおられる筈。
なのに何故、禍国にも私にも、逃げ場を与えられるのか。
内面に深く渦巻き高く逆巻く感情を推し量らんと、じ、と見据える受の前で、つ、と戰が立ち上がった。
6尺を超える美丈夫である戰が両足を踏み締めて立つと、其れだけで龍が首を聳えさせて天帝に伺いをたてているかのような畏怖を醸す。
「場を変える。ついてくるがいい」
返答も待たずに大股に歩き出す戰の後に、受は静かに従った。
★★★
「何方に」
と受が尋ねる必要はなかった。
戰が爪先を向ける先など、尋ねるまでもない。
――真とやらの処か。
あやつは今、どの様な姿なのか。
流石の受も、興味が先立つ。
受の興味を引き連れて、戰は宮の奥へ奥へと進んで行く。
生き延びていたとしても、凄惨な姿を晒している事だろう。
白が未だに帰らない事が気にかかるが、血も肉も膿爛れ、顕になった骨は砕ける勢いで傷んでいるに違いない。
あの飄飄踉踉とした雰囲気を纏った青年が死線を彷徨っているのか、と思うと命運の風が授けたものとはいえ、憐憫を誘う。
視界の先に見えていた戰の踵が止まるのを見て、受も脚を止める。
離宮の造りから、先皇帝・景が自身の寝所として造設させた部屋であろう事は分かる。
礼節に則り、俯き加減で戰に続く受の鼻先が、異様な臭気を捉えた。
――腐臭、いや……死臭か。
成程、真とやら既にもう……。
廊下にまで漂うこの腐臭からして、真とやらが生命を狩るに鬼が持つ壺の奥に魂を全て突っ込んだでから、さして時はたっておるまい。
――だが、遺体と会わせてどうなさるおつもりなのか。
私が後悔の涙を流すような殊勝な人物ではないと、既に身を持って散々に堪えておられようものを。
意味も無く、奇妙な笑いが込み上がる。
と当時に、妓女である白が再び思い出された。
死が確実であるというのに諦めもせず戻らぬというのではなく、あの女、真とやらの最後を看取るつもりであるのか。其処まで健気な女であったのかと思うと可愛げと同時に哀れを誘う。郡王の義理の妹を正室として娶っている男とはいえ、白の手練手管をもってすれば篭絡するなど蚊を潰すよりも簡単な事であろうに。
戰が無言で部屋に入った。
従ってきた克もまた、無言で受に入室するように礼を捧げる。
視線で克の労を労いながら、戰の後に続いた受であったが、ふ、と息を止めた。
予想通り、部屋は蛻の殻だった。
ただ、強烈な腐臭が漂っている。
しかし其処に人が今し方まで在ったかのような存在感が、寝台の上には残されていた。
溢れ出した膿。濁りきった血。
爛れて崩れ落ちた肉片。
大量に汚物が付着した晒と敷布が放置されたままだ。
長く人が横臥していた証として、布団にはくっきりと身の丈から筋肉の形まで分かる窪みが残されている。丸で死者の生へ執着を逐一縫いとっているかのようだ。
――死んだ、真とやらの残火か。
何の感慨もなく、受は、ただ、そう思った。
ただ一つ言える事とは、あの真という青年は郡王・戰の傍に居てはならぬ存在である、ということだけだ。
――あの男が居ては、陛下は非道になりきれぬ。
覇道を歩む為に必要不可欠なものが、郡王陛下には決定的に欠落している。
其れは友愛で自国を包む事でも、慈悲で他国の民を庇う事でも、惻隠の情を示しつつ人々の敬愛を集める事ではない。
惜しむらくは、今までの陛下は、正しき『怨』とは何たるかをお知りになられなかった。
――怨み――
陛下の怨みは国の正義。
晴らす為には、身内の骨すら武器に変えて立ち上がる思いを知られねばならぬ。
自国の民の悲哀と悲嘆に憐憫を抱き、攻め入る他国の民の心情を念頭に置き、憂慮煩悶する必要などはないのだ。
――あの兆ですら、父に阻害され私という長子に道を阻まれた怨みがあればこそ、彼処まで動いたのだ。
だから奪ったのだ。
真とやらを奪った私への怨み。
如何程の力を生むのか。
想像に難くない。
――此の部屋を私に見せられた。
という事は、陛下はいよいよもって覇道を極められる決意を固められたか。
手緩さを戒めると改めて私に宣言されるおつもりだったか。
受の中には、満足しかない。
ただ、真を想っていた白が感慨悲慟に暮れているか、と多少心が動く。その程度、しかし受には瑣末な事だった。
「何をつっ立っている。此方だ」
目を細めていた受は、嗜めるような口調の戰に顔を上げた。
歩を進める戰の後を、訝しみながらもついていく。
不意に、戰の脚が止まった。
と、同時に身体を横に移動させる。
俄かに開けた視界の先に居る人物を見た途端、受の鼓動がずくり、と天を突く勢いで高まり、そして止まった。




