終章 君がため その6
※ 注意 ※
今話は残酷な描写を含みます
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終章 君がため その6
禍国使節団の人々は芙の部下が一人残り、道程を共にする事ととした。
「では、後は頼む」
馬上の人となった竹青年の言葉に、使節団の人々も深々と頭を下げる。
芙を先導役とし、薔姫の手綱は珊がとり、虚海は竹青年と同乗する。
「行くぞ!」
芙の言葉に、馬たちが嘶きをもって応えた。
遮二無二、夜を徹して駆けに駆けた。
幾ら薔姫が真より馬術に優れていると言っても、所詮はまだ女童の年の頃だ。馬上で食事をとり睡眠まで揺られながら、という決死行に近い強行軍を、当初、珊も芙も竹青年も、口を揃えて反対した。
確かに、危篤の床に臥している真の元に急がなくてならない。
だがせめて夜だけは身体をきちんと休めるべきであり、でなくては、まだ病み上がりの彼女の方こそ禍国に到着する前に潰れてしまう。
「駄目だよう、姫様! 姫様まで調子悪くなっちゃたらどうするつもりなのさ!?」
「そうです。真殿に対して申し訳がたちません」
「姫様、何卒お考え直しを」
大人たちに上から物を言われて、む、とした薔姫の後押しをしたのは、意外にも虚海であった。阿呆たれどもばっかやな、と鼻糞を穿りながら毒づいてみせる。
「そんなもん、姫さんがやる、ちゅうとるのや。外野がやいやい言うもんやないわ」
「お爺ちゃん!」
珊が金切り声で睨み付ける。
が、虚海は、のほっ、とひとつ呑気に笑い、瓢箪型の徳利を傾けた。
「何の為にこの虚海様が一緒に居ると思うとるんや。大丈夫や。こらあかん、言う時はちゃんと止めたる」
「でも、でもさっ!」
「嬢ちゃん、あんたさんやったら、分かるやろ?」
「へっ……? な、何を、さ?」
「蔦さんに何言われても飛び出して此処まで来たあんたさんやったら、分かったれるやろ?」
「……お爺ちゃん……ずるいよ、もう……」
空になった徳利を背後に投げ捨てつつ、虚海は珊に片目を閉じてみせる。
途端に、珊の胸中に虚海から言われた言葉が蘇る。
――どうしようもないくらい好きになったらええ……。
やめとけ、言われて諦められるくらいやったら、本気で好いとる訳やあらへん。
どないしょ・こないしよ、云うてうろうろするのは、本物の好きやない証拠や。
其れを糧に、珊は主である蔦の静止を振り切って飛び出してきたのだ。
――お爺ちゃんにそれ言われちゃったら、あたい、反対できるわけないじゃないよぅ!
珊は胸を大きく揺らした。
桜の苗木を傍らに置き、事の成り行きをずっと見守っていた薔姫は、くるりと此方を向いて片目を閉じてみせる虚海に涙を浮かべて抱きついた。
其れからは、とにもかくにも、馬を逞しく駆けさせた。
途中合流するまでの間など児戯に等しい位の強行軍である。
仕込まれている珊ですら手綱を握るのが辛い状態であったが、薔姫は一言も泣き言を口にしない。きゅ、と唇を固くして桜の苗木を抱きしめながら前を見据えている。
危険を顧みず深夜の街道を駆けられたのは、芙と彼の部下たちのお陰だった。
転寝をする薔姫を抱く珊も、釣られてうつらうつらと船を漕ぐのだが、そういう時、芙が手綱を握って共に駆けた。
膨大な医療用具を背負った芙の部下と竹青年に守られながら、虚海も隙間を見付けては睡眠をとった。
喩え細切れであろうとも、気を失う一歩手間のような眠りだとしても、寝ないよりはずっとよい。
こうして一行は、たった二日で禍国王都の正大門を潜ったのだった。
★★★
大門には克が待ち構えていた。
「おお、芙殿、薔姫様をよくぞお連れした! ……と、さ、さんん!? ……に、こ、こ、虚海殿ぉ!?」
余りにも早い到着に喜びよりも驚愕に硬直する克だった。が、ぶるり、と一つ大きく頭を振り次いで両の手で頬を挟み込むように思い切り叩いて気合を入れ直す。
「姫様、礼拝なき無礼、吃緊の時故、お許しを」
「克、ねえ、真は? 真は?」
気持ちの高ぶりから愁眉し、押し黙る薔姫に変わって、と言わんばかりに克に喰いつく珊を、まあ落ち着け、と克は宥める。
「虚海殿が来てくれて助かった。御典医殿らでは埒が明かんのだ」
渋面を作った克の眉間に寄った皺の深さに、真の容態は好転していないのだと分かる。
けっ、と虚海は吐き捨てた。
「そんなもん、瀬戸際に立ったこともあらへん、お上品な診察しかした事あらへんような奴らに、何とかなるかいな」
瓢箪型の徳利を肩に担ぎ上げながら、虚海がもう一度笑う。
「真さんは儂が助けたる。この虚海様に任せとけ。克さん、そんな事よりも、糟糠の妻が来とらっしゃるんや。早う案内したりぃ」
曇りのない瞳で、じ、と克を見詰め続けていた薔姫を、克は、此方へ、と迷いながらも戰の宮へと導き出した。
戰の離宮に到着すると、先ず、蓮才人が飛んできた。
「薔や!」
「……」
「薔、ああ、妾の薔や、薔、薔……」
形振り構わず裳裾を翻して、薔姫に抱きつく。
無言で抱かれる薔姫の姿に、蓮才人は、はらはらと涙を流した。
話には聞いて覚悟はしていたが、いざ、目の前で痩せ細った娘の姿を見るのはこの状況下では辛すぎる。親子であるというのに、どれだけぶりかに顔を合わせた愛しい娘の頬や額に、蓮才人はありったけの想いを込めて、何度も何度も口付けを落としていく。
「薔、来たか。お師匠も」
半歩遅れて、戰もやって来た。
本来であれば、虚海の無法は叱り飛ばさねばならぬ処だ、だが、今は心強い事此の上ない。
竹青年から虚海の荷物を受け取った克に、一足先に芙と共に真の診療室へと向かうように指示を出す。
だがやはり薔姫は、固まったまま、言葉なく戰を見上げている。
義理妹姫を励ますように、戰は何度も艶やかな前髪を撫でた。蓮才人も自分も震えながら、肩や腕、手の甲を何度も撫で摩った。
「薔、婿殿はきっと大丈夫ですから。気をしっかり持つのですよ、良いですね?」
「ああ、そうだとも。お師匠も来て下さったのだ。希望を持とう」
「……」
母である蓮才人は、手を繋ごうとする。
義理兄である戰は、手にした桜の苗木の鉢を取ろうとする。
だが、薔姫は無言で身を引いて其れらを躱した。
はっ、と戰は目を見張る。
改めて、目の前に佇む自分の義理妹姫を見る。
彼女は未だに裳着も済ませておらぬほど、成程、確かに幼い。
だが、彼女は信じているのだ。
5年もの長き年月、夫婦として縁を結んでより今日まで確かに添ってきた良人である真は、必ず助かると。
だから、無言で抗議し、抵抗したのだ。
大丈夫だ、希望を持とう、と言いつつも最初から真は助からぬもの、最早手の施しようがない、死に目に会わせてやれただけ、良かったのだと自らをも慰め、諦めている母と義理兄に。
「……薔」
「母上様、兄上様、私は大丈夫です。御二方こそ落ち着かれて下さい」
「薔……其方……」
「さあ、兄上様、私を良人の部屋に案内して下さい」
桜の若木を抱き、真は必ず助かるのだと信じて疑わない義理妹姫の姿を、戰はこの時、不謹慎であると理解しつつも、此の上もなく美しい、と思った。
★★★
真の診療が行われている部屋に、薔姫は案内された。
だが、戰はなかなか戸口を開けようとしない。
この期に及んで、真に合わせる事を躊躇しているのだ。
「兄上様……」
「薔、いいかい。真の容態は芙からも道々聞いてはいるだろうが……恐らく、薔が考えている以上に酷いものだ。其れでも」
いいのか、と念を押す戰に、薔姫は頷いてみせる。
「私、我が君に会いたい。会いたいから、此処まできたの、兄上様」
「……分かった」
戰は自らの手で、静かに、戸を開けた。
病人には澱み、篭った空気は良くない。
定期的に濁った空気を入れ替えている筈であるのに、むわ、と異様な、そして凄絶な臭気が鼻の奥を一気に突いてきた。耐えようもない生理的な悪寒と嘔吐感に襲われる。
――これ……膿の臭い……!
施薬院に何度も出入りしていたので、薔姫も多少の知識はある。
何かが、いや、確実に真の身体の一部が、膿を持って発熱しており臭気を発散させているのだ。其処へ、拭いきれない汗の饐えた臭いとなかなか止められなかった血の錆び付いた鉄を思わせる臭いと、薬の臭いが混ざり合っていて実に耐え難い。蠱毒の壺だとて、まだましなのでは、と思わせた。
反射的に、腹の奥から何かが、うっ、と込上げてくる。
顔の血の気が引いていき、兄である戰がその様子を見て再び躊躇を見せ始めたのを認めた薔姫は、兄上様、と戰の袖を引いて揺さぶった。
「薔、此方においで」
薔姫の背中に腕を回し、腰を抱く様にして戰は義理妹姫を部屋の中に誘う。
――我が君……。
肌を締め付けるような臭気の塊に、目の前の景色が色を失ってしまう。涙も出ていないのに、横たわっている真の姿が霞んでしまうのだ。おまけに、心の臓から全身に、どくり、どくり、と激しく波打ながら巡っている血の音が耳について、煩くて堪らない。
「お、お姫さん、来たんか」
既に腕を捲って、克と芙を下男扱いして真を覗き込んで診察していた虚海の背中が揺れている。立ち上がれない虚海は、真の寝台の上に上がって這いずる様にして診ている。
「……虚海様、我が君は……」
「こっち、来てくれんかな、お姫さん」
言われても、脚が動かない。苗木の緑に顔を埋め、その隙間から寝台を伺っている。
「儂が此れからする治療の説明、しときたいんや。来てんか、お姫さん」
覆い被せるように強い声の調子は、虚海の中の焦りを表していた。
こく、と小さな喉が鳴る。
薔姫の背中に回されていた戰の手がゆっくりと上下した。見上げると、無理をしなくていい、と義理兄の鎮痛な瞳の色が物語っている。
ふるふる、と薔姫は首を左右に振ってみせた。
そして、ゆっくりと、寝台に向かって歩いていく。
一歩一歩、確実に近づいている筈であるのに、何故かとても遠く感じて、ちっとも近づけていないのではないかという錯覚に陥ってしまう。
だが、饐えた臭気は、一歩ごとに確実に濃厚になっていっている。
此れは夢でも幻でもない。
現実、なのだ。
薔姫の亀の歩みに業を煮やしかけた虚海が表情を荒らげかけると、克が間に入った。
「虚海殿、姫様にも心構えは必要だ」
「……そやな、すまんかった克さん」
一刻を争うばかりに気が急いてしまい、薔姫の気持ちをおもいやってやれなかった自分に気が付いた虚海は、恥じ入ったのか肩を落とす。
すると、慌てて薔姫は駆け寄ってきた。
「違うわ、虚海様が悪いんじゃない」
寝台の縁に立ち虚海の腕を取ろうとした薔姫は、心構えをし直す余裕もないままに、彼の枯れ木のように横たわる真の姿を間近に見てしまった。
★★★
薔姫の喉の奥で、ひっ、と空気が裂けた。
――我が君……!
寝台の上の真の頬や額に乗せられた晒から透けてみる肌の色は、どす赤黒く変色していた。
痣になる程酷い打撲傷なのに腫れが酷くないのは、怪我をしてからずっと冷やし続けて来てくれたお陰だろう。だが沈殿した血の痕の下には、未だに悶々と熱を篭らせている。
余り格好に構わぬと言えども、身構えだけはきちんと整えている真であるが、衿は大きく開けられており褲褶も身に付けていないため、裸同然だ。申し訳程度の召物は粗い織りの麻衣なのは、汚されても惜しげもなく捨てられるからで、端から洗って再び使おうなどと思われていない。
腹部には矢張、内出血からの痣が其処彼処に浮いており、胸の中央には大きめの晒が当てられいた。滲んだ色目はまだ新しいものであるから、火傷用の塗布薬を虚海が施したのだろう。
右手には、一本一本の指に添え木が当てられており、手全体の骨が折れてしまっているのだと分かる。
そして身体中の傷、怪我という怪我に治療を施されているというのに、左腕だけは剥き出しだった。
「お姫さん、此処や。よう見てんか」
ごくり、と後から付いてきた珊の喉元が上下する。
悲鳴もあげられずよろめいた珊を、克が後ろから支えた。
しっかりしろ、お前が参っちまってどうする、と小声で珊を叱責する克の声は、だが、優しいものだった。克に支えられながら、でも、と珊は涙声を漏らす。
――こんなのって、ないよ!
曝された真の左腕は、皮までずるりと剥けた上に、爪をも溶かす高熱で肉を深く焼かれたせいで茶色を通り越して赤黒なっていた。
腐臭の源は、この左腕だったのだ。
火傷に合わぬ薬を使用したせいか、逆に毒素を溜め込んだ嚢胞があちこちに出来上がってしまったのだ。肉が腐り始めた処から自然と塊が潰れだし、染み出た体液は包帯と癒着する。乾燥してしまえば、交換する際に瘡蓋状になった箇所が破れて、いよいよ嚢胞から膿が爛れてしまい、益々、肉が傷み腐って行く。
この悪循環の成れの果てが、真の左腕の状態だった。
皆、言葉なく立ち尽くす。
どれほどの時間が経過しのか。
いや、然程の時は流れていなかったはずだ。だがいつの間にか、部屋には真の父親である兵部尚書・優も訪れていた。
優は一時的な離職を願い出て、其れが受理された状態であの後を過ごしている。
長子である右丞・鷹の失態を拭う為に職を辞する事も出来た。
が、今、此の様な怒涛の政変時に戰の最大の後見である自分が政界から去る訳にはいかない。
また幾ら戰が、右丞を死を持って償わせた故、一門に累を及ぼさぬ、罪咎を郎党にも背負わせぬ、と定めたとしても父親である以上、ある程度の罪過の肩代わりをせねば示しがつかない。
但し、蟄居閉門までは申し出なかった為、一日一度は必ず戰の宮を訪ねて様子を伺う日々を送っていた。
兵部尚書の官服を脱ぎ、簡素な織りの真白な深衣を纏い、共も連れずに訪問も告げず、ただ一人きりにて、宮の周囲をぐるりと回る。
無論、離宮の中に通されはしない。
番兵に、声も掛けられない。
其れでも何度も何度も回っては、やがて来た時と同じように言葉もなく静かに去っていく。哀愁漂う優の宮参りは既に王都の町雀たちの嘴に登り出していた。
そんな優であったが、今日は違った。
克が竹を優の邸宅に走らせて薔姫と虚海の到着を伝えさせたのだ。駆け付けた優を蓮才人が招き入れて呉れたお陰で、数日ぶりの対面が叶ったのだった。
だが折角の対面であるのに、其処に溢れる喜びも感動もない。漂うのは悲愴感しかなかった。曝け出された真の左腕の状態を、間近で見た優は目を固く閉じて天井を仰ぎ、ぐ・と息を止める。
――最早、何をどうしても助からぬ……!
戦場で怪我を負った者が最も恐れるのは傷が膿を持ち、その毒素が全身に回る事だ。
肉体や神経だけでなく、精神までをも毒素に苛まされ、その内に深く侵食され乗っ取られ、霊鬼や屍鬼宛らと化してしまう。やがて彼らは、人間らしさの全てを手放して死んでいく。多くの部下たちをそうして見送って来た。
手塩に掛けてきた未来ある若者たちを亡くした喪失感は常に大きく、其の度に言い表しようの無い寂寥感に打ちのめされ続けてきた。
だが、其れは己の愛おしき者がその立場に在らぬという、身勝手な安堵感の裏返しであったのだと思い知った。
――こんな事になるのであれば、もっと早く、息子として愛してやれば良かった……。
河国戦の折、下肢に重症を負った杢に対して態度が真を傷付けてしまったと、分かっていた。
判ってはいたが、家門を率いる長としての誇りや沽券、そして兵部を統率する尚書としての貫目や威信が、素直に息子を案じてやる事を邪魔をした。
――だが、なんだったというのだ。
そんな無駄な鎧で自分を守ってなどいるから、一番大切にせねばならぬ者を見送らねばならなくなるとは……!
優が身震いする気配を感じた珊は見上げて、ぎょっとした。
唇の端から赤い糸をだらだらと滴らし、カッ、と目を見開き顳かみ幾重にも青い筋を走らせている優が、其処にいた。
息子の死期を悟り、だが戰の眼前で泣く事は主君である彼の無能を言い立てる行為であるが故に、優は堪えに堪えていた。
★★★
おぉ……、と蓮才人が袖で口元を覆い隠して小さく呻いた。
失神しかけて、ふらりと足元を覚束無くさせた蓮才人を竹青年が慌てて支える。
「虚海様、我が君の、その腕……」
「見ての通りや。最初の肝心要の処を間違うてしもうたんやな。このまんま放っといたら、何れ、そぉ遠ない内に肉が全部腐ってまって腕が捥げ落ちてまうやろ」
流石に薔姫を前に、腕を捥ぎ落とす前に命を落とす、とまでは虚海も口に出来なかった。
だが、利発で聡明な薔姫には、虚海の目の動きで解ってしまっていた。
――我が君……!
「そ、そんな!? 真の手がなくなっちゃうなんて、そんなの駄目だよ! ねえ、何とか真を助けてあげられないの!? ねえ、お爺ちゃん、お爺ちゃんなら出来るんでしょ? ねえってば!」
克の腕の中で藻掻く珊が、涙を振り切って叫ぶ。
無茶言うな、と窘めつつも、克もまた期待から縋るような眸で虚海を見詰めた。
いや、克だけでなく、部屋に居合わせる全員が――
戰が、優が、蓮才人が、珊が、芙が、竹青年が、そして薔姫の視線が、虚海の口元に集中する。
助手役らしい下女が一人、手に盆を持って入室してきた。
盆の上には、晒と小さな壺、そして先が殊更細く削られている箸が幾つも用意してある。
下女を手招きし、盆を受け取って手元に寄せると虚海は胸を張った。
「そうや、儂なら出来る」
きっぱりと言い切る虚海の手を珊が取る。顔を濡らしている涙が顎を伝って、ぽとり、と傷痕だらけの虚海の手の甲に落ちた。
「ほ、本当ッ!? お爺ちゃん、それ本当に本当ッ!?」
「こんな時に嘘云うてどないすんのや。儂やったら出来る」
「虚海様。一体、どうするの?」
「お姫さんも、嬢ちゃんも、此処見てみ」
手招きする虚海の元に、薔姫はゆっくりとではあるが歩み寄った。
珊は腰が引けてしまっているのか膝が笑ってしまっているのか、克に抱かれていても、がくがくと震えるばかりだ。
此処や、と虚海が指を指す。
一際大きな嚢胞だった。
どろり、と黄色い膿が、つんと鼻につく臭気を放って垂れてきている。
焼け爛れた肉と膿が入り混じってふやけている胞内に、何かが見えた。
小さく細長く白いそれは、もぞもぞ、もそもそ、と蠢いていた。
「こ、こがい、さま……こ、これ・って……」
がちがちと歯を鳴らしながらも気丈に尋ねてくる薔姫の手を、虚海は、傷痕だらけの枯れ木のような手で優しく包み込んだ。
「ほぅや、蛆や」
ひゃっ、と珊が息を飲み、遂に蓮才人が気を失った。
★★★
虚海の言葉が終わるや否や、優が抜刀して真に向かって突き進んだ。
喩え片腕を無くしてもいい。
生きてくれるのであれば。
命が繋がるのであれば。
腕の一本や二本と引き換えに生き延びるのと、昏く消え去るまま生命を見送るのと、どうして比べられようか。
だが、蛆虫に身体を喰われている現状を黙って見過ごす事など、優には我慢がならなかった。
――蜀に身体を喰われて死なせる位であれば、いっその事私の手で……!
だが優の前に同じく抜刀した戰が立ち塞がった。剣が月と星の様に煌き瞬き、刃が打ち合う。
きゃん! と火花の悲鳴が散り、鍛えの弱い優の剣の方が折れて飛んだ。
芙が蓮才人を、克が珊を庇う中、戰が叫ぶ。
「やめよ、兵部尚書!」
「お退き下さい、陛下!」
互いに一歩も引かぬ二人の間に、すたすたと割り込む小さな影があった。
「薔! 退きなさい!」
「お退き下さい、姫様!」
戰と優が怒鳴るより早く薔姫の小さな手が燕のように翻り、ぱぁん! ぱぁん! と乾いた音が走る。
大の男の頬が、少女に打たれて高らかに鳴ったのだ。
微かな反響音を引き摺りながら、戰と優の身体がふらついて離れる。
頬を叩かれた肉体的な衝撃よりも、精神的な動揺の方が大きかった。
「しょ、薔……」
「ひめさま……」
「兄上様、お義理父様、お静かになさって下さい。虚海様のご説明が聞こえないでしょう?」
りん、と張った声で幼い薔姫に正され、戰と優はばつが悪そうに互いに顔を見合わせる。
そしてごそごそと身体を揺すりながら、何方からともなく剣を鞘に仕舞った。ちん、と鈴の音に似た音が上がる。
刃が鞘に完全に吸い込まれるのを見届けてから、薔姫は虚海に向き直った。
「虚海様、どういう事なの? 我が君の手……に、あんな……」
驚かせてまって御免やで、お姫さん、と虚海は身体を小さくさせた。
「やけどな、皆が汚らしい、云うて嫌うこの蛆が、真さんを助けてくれるんや」
「……え?」
「真さんの腕に出来てまったこの膿の詰まった嚢胞はやな、皆も薄々気が付いとるように、命に関わるもんや。膿の毒を全身に回らせてまったら、流石に儂でも手の出し様がない。一刻も早う、膿を出したらなあかん」
うん、と薔姫が答える。
「そこでや。皆が糞虫、ちゅうて嫌う蛆がやぞ、真さんを救ってくれるんや」
戰と優が、そんな馬鹿なと言いたげに眉を跳ね上げ顔を赤くし突進仕掛ける。だが、キッ、と薔姫に睨まれて、うぐ、と息を呑みつつ脚を止めた。
「虚海様、うじ……むし、が、我が君を助けてくれる、ってどういう事なの?」
「ええか、お姫さん。蛆ちゅう蜀はやな、傷んだ肉しか食いよらへん。身体を腐らせてってまう糞憎たらしい膿やら腐った肉やらだけを、や」
「……虚海様、それって……」
ほうや、と虚海は薔姫の手を取り直す。
「こんだけ複雑に入り組んで傷んでもうては、いっくら儂でも、あかん処だけ上手いこと掻き出すなんぞ、流石に出来へん。やけど、蛆は腐ったもんしか口にせえへん。逆に云や、綺麗な処、生きとる、正常な肉には手を出さへん」
この蛆にや、真さんの身体の悪い処を全部喰わせてまうのや、と言いながら虚海は薔姫の手を、固く握り締める。
「虫に喰わせるだと!? そんな事が許せると思うのか!」
頭に血が昇って抑制が効かなくなった優が叫けびながら、虚海の胸倉を掴み上げる。
勢いで薔姫が跳ね飛ばされ、横たわる真の隣に、きゃ、と小さく叫んで倒れ伏した。
「大体、生きている肉は喰わんなどと信じられるものか! 虫の動きを予測など何故出来る!? そもそも穢れた汚らしい虫に喰わせなどしたら、それこそ身体に毒が蔓延して屍鬼に取り憑かれるわ!」
「喧しいわい! ちっとは黙っとらんか、この糞親父が!」
怒鳴り返してきた虚海に、むう、と優が上体を反らした。
衿首を掴んでいた手が胸元を開けてしまっている事に気が付いた優は視線を落として、はっ、と息を飲んだ。
動きが止まった優の手を、虚海は半分程の太さしかない腕で乱雑に振りほどく。
そして、乱れた衿を自ら寛げて上半身を諸肌脱ぎにしてみせた。
身体中に、無数の傷痕が走っている。
鞭打たれた古傷であり、死線の淵を彷徨い歩いたであろうと察して余りある程の深い痕であった。
★★★
「お師匠……」
「ほうや。10年以上前、皇子さんの元を放逐される時にやられた時のもんや」
優の目の前で、凄まじい傷痕をぺちぺちと叩きながら、虚海はふん、と鼻息を吐いた。
虚海に与えられた刑罰が宮刑のうちでも最も重い腐刑であったのは、周知の事実だ。
生活も態度も一見だらし無さそうな虚海であるが、喩え暑い盛りの真夏であっても衣服を乱す事はしなかった。未だに疼く傷痕に薬を塗る時も、戸を固く閉ざして篭もり、決して肌を見せることはなかったのはこの醜い傷痕を晒すのを慮っての、いや恥じての事だった。
「儂がこんだけの傷を背負い込んで生き残れたんは、蛆のお陰や! 蛆が儂の身体に出来た膿や腐った肉を喰らい尽くしてくれたお陰で、生き延びたんや! ええか、糞親父! 儂ゃ何も思い付きで蛆に肉を喰わせえ、言うとるんやないわい! 手前の躰で経験しとるんで、真さんにゃこの方法が一番ええ、て診たてたんや! ど素人が感情的になってがたがた抜かすんやないわ、此の糞田分け!」
幾重に重なりあう剥き出しの傷痕は、死線の淵を彷徨うという言葉すらも安く思える、其れ程重いものだ。
言葉を失って立ち尽くす優の肩に手を置いた戰は、お師匠、服を着て下さい、と落ち着いた声音で告げる。
虚海は無言で服を整えると、お姫さん、と優しく薔姫に声を掛けた。
「せやけど、お姫さん。この治療方法はええ事ばっかりや、あらへんのや。蛆に喰われるとな、そらぁもう、気が狂った方が楽なんやないか、ちゅうほど痛うてかなわんし、何よりも我慢ならんのが痒さや。治療しとる間、真さんは、呻くやろ、喚くやろ、叫ぶやろ、暴れるやろ。そんでも足らん位、きつい治療法なんや」
「……」
「で、でも、お爺ちゃん……その方法だったら、助かる……ん、でしょ?」
恐る恐る問う珊に、ほうや、と虚海は酔を感じさせぬ力強さで答える。
「お姫さん」
「……はい……」
「真さんの正室さんはお姫さんや。やで、真さんの全てを決めるんはお姫さんしかおらん」
「……」
「どないする、お姫さん。正室さんとして、答えてくれへんか」
真の隣で横になりながら、薔姫は彼の息遣いに耳を傾けた。暫く、真の乱れた息に聞き入っていた薔姫だったが、やがて身体を起こして座り直すと、ぽつり、と呟く。
「……私は、我が君の、正室……」
小さな声にも関わらず、洞窟の中の湧水に岩から滴り落ちた水滴が落ちる音が広がるように、部屋中に響き渡る。
「……虚海様」
「なんやいな、お姫さん」
「常に良人と共にあり内助するのが妻の努めです。でも、私には我が君を助けて差し上げられない。だから、虚海様」
薔姫の声が、えっ……えっ……という嗚咽にとって変わられ始める。
そして薔姫は徐に真の肩口に突っ伏すと、号泣した。
「お願い……! 我が君を、助けて……!」
どんな方法でもいいの。
どんな姿になってもいいの。
助かってくれればそれでいいの。
だからお願い!
虚海様、我が君を死なせないで……!
真の肩に取り縋って泣く薔姫の背中を、戰が優しく撫でる。
「お願い……お願い、虚海様……!」
「お姫さん、任しとけ。助けたる、真さんは儂が必ず助けたる。そんで絶対にまた、真さんにお姫さんに、姫、ちゅうて呼ばせてみせたる」
薔、と戰に声を掛けられた薔姫が、身体を起こしざまに、泣きじゃくりながら義理兄に抱きついてきた。
哀哭する義理妹姫を腕に収めながら、戰は天井を仰ぐ事で涙が流れていくのを耐える。
「お姫さん、信じたってくれ、儂が真さん助けたる。何があっても助けたる。信じたってくれ」
虚海も涙声になりながら、薔姫の髪を何度も撫でた。




