終章 君がため その5
終章 君がため その5
兄二人と大司徒一門の末を意気揚々と言い付ける平の姿を最後まで見届けた戰は、彼らの罵詈罵倒を背中に浴びつつ獄舎を後にした。
そしてその足で義理の母親である蓮才人の住まいを訪れる。
彼女に頬を叩かれる覚悟でいた。
胸倉を捕まえて、罵詈雑言を浴びせかけられるものであると思っていた。
娘の良人である真を、何故、どうして守ってやれなかったのだと、それを自分で告げずに真の父である兵部尚書の口から言わせるなど言語道断と責め立てられるものと思っていた。
だが意外にも義理母である蓮才人は、戰を優しく迎え入れた。
花畑に戰を連れ出し、暫し、二人きりで風に身を任せる。
「皇子や」
「……はい」
「どの皇子様が皇帝の座に就かれようとも、いよいよもって私ども、後宮の妃たちも退官致さねばなりませぬ」
「……はい」
皇帝の代が変われば、当然、後宮も持ち主を変える。
残る事が許されるのは、新たな皇帝の母親と、彼女が許した極僅かな妃だけだ。蓮才人も、こうなった以上は後宮に留まる事は出来ない。
この数年、幾ら蓮才人が後宮内で勢力を伸ばしていたとしても、其れは矢張、女の園の内のみの話だ。蓮才人がこつこつと独自に作り上げ広げてきた人脈は、何時か戰が皇帝となった時に役に立つと思えばこそであった。だが戰が新皇帝とならぬとなった今、全く意味のないものとなってしまった。
後宮の妃たちはそれぞれの品位に合わせた離職金と其れまでに溜め込んだ金と財宝を手にして故郷に帰るか、外に宮を建てた息子たちに引き取られて行くのが常である。蓮才人の場合は戰に頼って彼の所有する離宮へ移るか、若しくは戰の領土である祭国へと下るしかない。
冷たくなりかけている風に豊かな鼈甲色の髪を嬲らせながら戰は、申し訳御座いません義理母上、と呻いた。蓮才人は、慈母の笑みを湛えて首を左右に振った。
「よいのです。皇子が皇帝として玉座にあらぬのに王宮に残って、何とするというのです?」
住まいとして与えられている棟は、喧騒の只中にある。
其れはそうだろう。新たな皇帝が自らの後宮を開く、と宣言して彼の妃たちに改めて品官を与える典礼を行うまでに、ここを引き払わねばならないのだから。しかしその騒ぎを何処か子供の舞の練習のような可笑しみを見ているかのように蓮才人は静かに見守っている。
暫し静かな時間が流れたが、やがて蓮才人は、静かに背の高い草の中に身を屈めた。
「此処を離れるのは、惜しくも悔しくもありませぬ。故に皇子や、其方が私に対して済まぬと思う必要はありませんよ?」
「……義理母上……」
「……なれど、哀しく寂しい……」
たった五年という短い年月でしかなかったが、彼女の最愛の娘である薔姫が最も愉しみ嬉んだ、思いでの詰まった花畑だ。愛し子に会えぬ日々の胸潰れる哀しさを、母でありながら成長を見守ってやれぬ寂しさを、此処で癒していたのだろうと思うと、気にするなと言われれば言われる程、言葉もなく居た堪れなくなる。
――私が皇帝の座に就いてさえいれば……。
だが、それでは大司徒一門を潰えさせる事は叶わなかった。
そうだ、だから私は誓ったのではないか。
――必ずや、此処に戻る。
ぐ、と戰が固めた拳を、蓮才人は白く細い指でとった。
彼の妃である椿姫とはまた違う優しさだ。
血の通いこそないが母として自分を慈しんで呉れている優しい人の手は、何時もいつでも戰のささくれだった神経を宥めてくれる。
「皇子や。悲しまないで。苦しまないで。私は貴方の傍で大っぴらに暮らす事も叶う身となれたのですよ? 何をその様に萎れることがあると云うのです?」
「義理母上……」
「ですから此れから其方ら夫妻には、存分に親孝行して頂きますよ?」
「……はい、義理母上。覚悟しておきます」
微かに笑い声を零して佇む二人に、遠慮がちに克が出立の準備が整った旨を告げた。
宮に向かうのであれば、一刻も早い方が良い。
頷きながら克の肩の奥に、兵部尚書・優が礼拝を捧げて待ち構えているのを見て取り、戰はほっと息を吐いた。
未だ衝撃冷めやらぬのは顔色の悪さから当然と言える。
当然だ。
今こうしている間にも、長子である鷹は、焼け爛れた身体を鼠や鳥に喰われており、最も愛情を注いでた息子である真は、生死の境を彷徨っている。だが、自身を失わずに既に立ち直り、毅然とした態度を見せているのは流石だった。
「陛下、参りましょう」
何れ新皇帝が即位した時、祭国郡王としての地位を剥奪される恐れがないとはいえない。
無論、妃である椿姫が現国王である学の叔母である以上、手を出すとは思えない。天や乱が帝位に就いたとしても同様であったろうが、逆に剛国、露国、燕国との国境を抱えている祭国に赴任させたまま、いい様に扱き使ってやろうと無理難題を押し付けてくるに違いない。艱難辛苦を乗り越えて新皇帝の地盤が磐石となった時点で、難癖を付けて可能性の方が高いだろう。
兎に角。
ありとあらゆる事態に備える為には己の身内を確かめ身辺を固める必要がある。
それには王城は広すぎる。
宮なれば、彼らの父帝であった先皇帝・景の声掛かりにて建てられたものだ。何れ祭国に蓮才人を呼び寄せるとしても兄皇子たちも迂闊に手を出せまい。
「真の居る我が宮に参りましょう、義理母上。時も、希少な薬草の数々を用意させて宮に向かっている事でしょう。必ずや真を助けねば。義理母上。私を助けて下さいますか?」
「おやおや、小無のない御人ですこと。もう御自身が父親となられたというのに、まだまだ甘え盛りのなりをなされるとは」
戰が最礼拝を捧げると、蓮才人は大輪の花のような笑みを浮かべた。
★★★
戰一行が離宮に到着すると、其処は蜂の巣を啄いたかのような騒々しさに溢れかえっていた。
蝉騒、とはよく言い表したもので、正に真夏の炎天下に世を謳歌する蝉よりも囂しい。
先に来ていた芙が彼らを無言で出迎える。
が、表情は暗く堅い。
「礼拝などいい。真の元へ」
釣られて固くなった戰の声音に、蓮才人が心細そうに見上げた。
真の為に戰が用意させたのは、元々は皇帝が行幸した際に寝所とする部屋だった。
本来であれば譲り受けた時点で己の寝所とすべきだったのであろうが、戰は無駄に広いのを嫌ったのだ。だがそのお陰で何人もの医師や薬師たちが下男たちを引き連れて出入りしても、互いの行動を邪魔してしまう事も袖が触れ合う事もない。
その部屋の奥に置かれた、大の大人が4~5人は楽に横になれそうな程、大きな寝台に真は横たえられていた。まるで羽虫が飛び交うように医師たちは周囲を忙しなく動き回っていたのだが、戰の到着を伝えられて慌てて礼拝の姿勢をとった。
「……真!」
戰を突き飛ばす勢いで、優が寝台に取り縋った。
場所を移動させたせいで、呼吸は更にか細く途切れがちとなっている。熱も一段上がったのだろう、身体全体から蒸気をあげそうなほど、細く乱れた息は熱を篭らせている。
「真は、息子の容態はどうなのだ!? 助かるのか!?」
「お、お静かに。お助けする為に、我らも力の及ぶ限り、させて頂いております故」
優の形相に、医師も助手たちも下男たちも、恐怖から腰を砕けさせた。
しかし優は、克に腕を引かれて芙に間に入られても、なかなか引き下がろうとしなかった。
「やめないか、兵部尚書」
「……は」
戰に窘められるような視線を向けられて、やっと部屋の隅にまで下がり、医師たちは明白に安堵感を顕にし、真の治療を再開した。
彼らも遊んでいる訳ではない。
寧ろ逆だ。
制約なしに薬が使えるとあって、医師たちも必死の治療に当たってはいるのだ。時が連絡を入れた為、虚海と那谷が属していた薬房からも続々と応援が駆けつけてきて呉れている。
両の手は、包帯で此れでもか、言わんばかりにぐるぐる巻きにされていた。
特に右手は膨れ上がっていた。折れて捻じ曲がった指を一本一本広げて戻し、添え木で固定しているせいだろう。
顔面の腫れと擦過傷を抑える為に、晒の上から塗布薬が施されている。
腹部は殴打による打撲熱も酷い為、濡らした晒が更に当てられた。
左腕の火傷は、爪が溶けて爛れた表皮を留めておけぬ程酷いものであった為、骨折の方は手の施しようがないとみたのか、兎も角冷やせとばかりに火傷用の塗布薬を塗った上から、革袋に冷水を入れた水枕が与えられていた。
「……助かるのだろうな?」
「……」
ぎろりと睨む戰に、此れまで典医と町医という垣根を越えて治療に当たっていた医師たちは、妙な連帯感をもち一斉に押し黙る。沈黙に耐えられぬのか、蓮才人が袖で口元を覆った。
「答えよ」
凄む戰に、恐れながら、と典医がおずおずと前に進み出た。其れでも此の場を収める損な役を買って出たのは、彼の自尊心故だろう。
「我々も誠心誠意、務めさせて頂いております。ですが、陛下にお言葉を返すだけの確証を我らは得られませぬ。此の上は、いつ急変しても後悔が残りませぬよう、知古の方々にお知らせを……」
典医の言葉が終わる前に抜刀した戰を、ひらり、と蝶のように蓮才人が舞って間に入った。義理の母に身体を張って止められた戰は、ぐ、と喉をひくつかせる。
「御医師殿に恨みをぶつけて何とするのですか。皇子や、情けない」
「……義理母上……」
顔を赤黒くして、剣の柄をこれでもかと握り締める戰の手を、蓮才人は涙にくれながら撫でる。
「皇子や、御医師殿のお言葉を聞いたであろう? お願いです。どうか、私の娘を呼び寄せてやって」
「……義理母上……」
「婿殿に逢わせずじまいで永久の別れになるなど……余りにも切ない。お願いです。どうか、どうか私の娘を、薔を呼び寄せてやって」
振り上げた剣をゆっくりと鞘に納めると、戰は影に潜むようにして控えていた芙を呼んだ。
「……芙、祭国に急ぎ戻り、薔姫を呼んできて呉れないか」
「承知致しました」
部屋の換気の為に開けられていた小窓から、ふ、とまだ色付かぬ小さな紅葉が舞い込んできた。
皆がその葉に一瞬、気を取られている間に、芙は姿を消していた。
★★★
垢染みのある着古した着物に身を包み、雑に結い上げた髪には飾りの笄の一つもない女が、初めて恋を知ったばかりの小娘のように頬を赤らめて郡王・戰の宮の前に立っていた。
「青はん、この御恩は一生忘れまへん」
「……もう暫くすると時という商人が仕入れた薬を持って来るそうだ。何か問われたら、其れに先んじて来たと下女だと云えばよい、との大保様のお言葉だ」
「本当に、感謝の言葉もありまへん。青はん、おおきに、おおきに」
両の手を摺り合わせた後、質素な身成をした女はぴょこんと女童のように小さく頭を下げた。そして、女は郡王・戰の持つ宮の中にそそくさと消えていった。
腕を組んで女を見送った、青、と呼ばれた女は細い一重瞼の奥から、ふん……と嘲笑めいた輝きをうっすらと放った。
自分の事を、悦びに弾んだ声で「青」と呼んだ女が消えていった使用人専用の戸口を、土蜘蛛は暫くの間、ぼんやりと見詰めていた。が、どうやらばれて叩き出される様子はなさそうだった。薄化粧処ろか唇に紅の一指も入れなかった女は、元々の肌が地黒であったお陰でか、疑われる事なく場に馴染めたらしい。
――御職を張る身だと散々自慢してきたというのに……。
男の姿を、一目見たい。
男の傍に、ただ居たい。
それだけの為に、華麗で雅びやかな衣装も、煌びやかな装飾品も、粋な立ち振る舞いも、何もかも捨てて埃と煤とに汚れた下女風に姿かたちを変えた。
――分からん……。
許しを得ずに郡王の屋敷に入ったなどと発覚すれば、どの様な折檻が待ち受けているか。
いや罰を受けて王都より放逐されるのが目に見えているというのに、彼女は、棺桶に首まで浸かった男を一目見たいと求めて、郡王の館を目指したのだ。
「大保様の策を一度も覆す事が出来ぬ程度の男に、血道を上げるとは……信じられぬわ」
――結局は、只の莫連女だった、という事か。
大保・受の屋敷の母屋から対屋に移るや否や、土蜘蛛は妓女である白に腕を掴まれた。
「青はん! ああ、青はん! あんたさんの事、待っとんや!」
「……何じゃ」
素人女ならざる切羽詰まった形相に、土蜘蛛ほどの手練も動きを止められた。
「真さん、どないならはったんや? 助かったんか? 助かったんやろ? なあ教えて!?」
鼻の上に小皺の波を寄せて明白に嫌味たらたらに、土蜘蛛は言葉を並べた。
右丞に捕まったまま、囚獄の獄舎内にて折檻を受けて大怪我を負い、既に虫の息だと云う事。
何時命が果てようともおかしくない状況だと云う事。
故に、王宮に務める典薬寮の典医たちにも見放されて郡王の離宮へと移された、とぞんざいに口にすると、白は涙で化粧が斑になった顔面を覆い、金切り声を上げた。
鼻白む土蜘蛛の襟元を掴み激しく揺らしながら、白は喚いた。
「青はん、お願いや! うち、どうしても真さんに会いたい! お傍にいたいんや! 云う事叶えてくれるんやったら、うち、どんな事でも言うこと聞くわ!」
地べたに這い蹲れ云うのやったら一晩中でもやる!
王都中裸踊りせえ云うのやったら、何往復でもやる!
有り金全部差し出せ云うのやったら、此の先のお給金もあんたさんのもんにしたったらええ!
やで、お願いや!
「青はん。うちを郡王陛下のお屋敷に忍び込めるようにしたって! 此の通りや!」
手を合わせつつ白に泣き縋られたが、土蜘蛛は腕を払って捨て置くつもりだった。
後腐れなく抱ける妓女だからといえども、大保様のお情けを頂戴しておきながら別の男の元に走るのに私を頼るなど。
――本当に馬鹿な女だ。
嘲笑って縋る白を袖ごと振り払おうと思った処に、共に屋敷に戻った敬慕する大保・受の声がかかった。
「助けてやるがいい」
厚塗りした化粧の下で、まるで無垢な少女のように笑顔を弾けさせた白が、土蜘蛛には何故か眩しく見えた。
其れがまた、悔しくて堪らなかった。
――大保様は白が申し出ると判っていらっしゃったのだ。
自分は、白のように先読みされる程、彼の心の中に別け入った存在なのであろうか……。
ちりちりと胸が痛む。
だが大保・受の命令は命令だ。
仕方なく、土蜘蛛は化粧を落とさせ、香の薫りを染み抜きするように消し、華美に飾り立てる装飾の類の一切合切を捨てさせ、其処らにいた下女をとっ捕まえて着物を交換させた。
他人が身につけていたもの、しかも脱ぎ捨てたままの衣服を着ろ、と言われても普通の者は直ぐに手が出せるものではない。
だが、白は唯々諾々と従った。半時辰もせぬ間に、下女になりきった白は、郡王・戰の宮の前に立っていた。
――大保様が助けてやれ、とお許し下さったからだという、御恩を忘れるんじゃない。
大保の屋敷を目指して踵を返しかけた土蜘蛛は、もう一度、肩越しに戸口を見る。
――……あの男も、いるのだろうか……。
名前を呼ばれて心弾む事はないのか、と問うた男の姿が思い浮かぶ。
そうすると、白の言動にもやりと詰まっていた胸の遣えが、溜飲が下がる思いがした。
ふん……と鼻を鳴らして、しん、と静まった戸口を暫し凝視していたが、やがて気配も残さず、いつの間にか土蜘蛛の姿は消えていた。
★★★
ごとん……ごととん……。
車輪が鳴る馬車に揺られながら、薔姫は傍らに置いた桜の木の苗に手を伸ばした。
薄桃色の帛に包まれているそれを、目蓋を伏せながらそっと抱き抱える。
その向こう側にある小さな覗き窓から、涼しい風がそよぎ入ってきた。
長い睫毛を風になぶらせながら目を開けて外の様子を伺ってれば、空は雲ひとつなくよく晴れ渡っている。
所謂、天高し蒼穹の秋空――『秋旻』、だ。
――我が君……私が来ちゃった、って知ったら、なんて顔をするかしら?
何て言うかしら?
驚くかしら?
……驚く……わよね。
……怒る? ……かしら?
其れとも……怒るに怒れず、と云うよりも呆れちゃう……?
項あたりの後れ毛をかきあげながら、そんなに私は信用がありませんかねえ? と照れ臭そうに桜の苗木を受け取ってくれる姿が思い浮かぶ。
――それから、こう言うのよ。
小さな花に顔を寄せて、綺麗ですね、有難う御座います、春のお花見もいいですが、秋のお花見もおつなものですね――って。
其れからきっと、おやつのおねだりまでするのよ。
乳餅と蕎麦皮の胡麻味噌餡包みがいいと思いませんか、って。
甘い物好きの真が実に幸せそうにおやつを口に運ぶ姿を思い浮かべて、ふふ、と小さな笑みを零していると、態とらしい咳払いが聞こえてきた。
思わず、ん? と反対側の席に寝そべって瓢箪型の徳利を傾けている虚海の、悪戯小僧のような眸と視線があった。片目を閉じてみせる虚海の口元は、優しく笑っている。薔姫は、小さな肩を更に窄めて、うふ、と笑った。
――此れで何度目かしら?
恥ずかしく思いながらもやめられない。
秋日和の爽やかな空に、小鳥が追いかけてきては抜かしていく鳴き声が聞こえてくる。
「姫様ぁ、大丈夫? 疲れたり、気持ち悪くなっちゃったりしてない?」
御者台から、珊の、彼女らしい底抜けに明るい声が掛かる。
「うん、大丈夫よ、珊。ありがとう」
見える筈もないのだが、ついつい首を亀のように伸ばして其処に座っているであろう珊の背中を思い浮かべながら礼を言うと、そっか、良かったよう、という明るく溌剌とした声が返って来た。
「ついでに、お爺ちゃんは? やたら静かだけどさ。どうしてんの? 生きてる?」
「何やいな、嬢ちゃん。儂ゃお姫さんのついでかいな」
「ついでで何が悪いんだよぅ。こっそり強いお酒入れてきちゃってるの、知ってんだよ? 悪酔いしないでよね?」
「何やいな、ばれとったんか。嬢ちゃんにゃ本当、敵わんで全く……」
ガックリ、と態とらしく首を折りながら、大仰に虚海が嘆息する。
追い打ちをかけるように、カラカラと屈託なく笑う珊の声が清く澄んだ秋空に舞い上がり、ぴちちち……と小鳥の鳴き声が追いかけて行く。
★★★
桜の苗木を抱きしめながら、小鳥たちの鳴き声に耳を傾けて楽しんでいると、不意に、ふご、ずご、と何かが擦れる音が覆い被さってきた。驚きながら周囲を見回すと、肩肘をついた姿勢で虚海が軽い鼾をかきながら、うとうととし始めているではないか。
――もう、虚海様ったら。
「虚海様? ね、ねえ? 風が冷たくなってきてるから、こんな変な寝方をしていたら風邪をひいちゃうわ」
肩を揺すってみても、ふごぅ、ずごぅ、と鼾は高くなるばかりだ。
「ね? 虚海様、ねえってば」
「姫様? お爺ちゃんどうかしたの?」
「珊……どうしよう……? あのね、虚海様、寝ちゃったの」
あはは、お爺ちゃんらしいね、と珊は陽気に笑っているが、目の前にしている薔姫にとっては笑い事ではない。
もう、と呆れつつ、膝にかけていた布を取って肩にかけてやる。もぞもぞと芋虫のように身動ぎした虚海は、寝易い姿勢を見付けたのか、再び鼾をかきだした。ぷっ、と吹き出す声が馬車の壁を隔てて聞こえてくる。
だが、こうして虚海が馬車の揺れを揺り篭にして寝入ってしまうのは、極度の疲れからきていた。
祭国を出発してから三日が経っているのだが、良い天気の日が続いた事もあり、朝は夜明け直後に宿舎を出て、夕方も陽が山に隠れるぎりぎりの際まで馬車に揺られて、一心に禍国を目指しているのだ。
一緒に禍国に行く、と言って呉れた使節団の人々の中で身体の自由が効く者は馬を貸与えて、兎に角、道を急いでいる。
速度としては、下手をすれば行軍に近い強行軍だ。誰の目にも疲弊の色が浮かんでいる。
当然、其れは薔姫にも言える事だった。
朝晩に風が涼しくよくそよぐようになったからか、禍国に向かい出してから、その時間帯に咳が出るようになっている。よく寝ているつもりなのに、すっきりと起きられないし喘鳴こそでないが咳が止まらないのは、身体がまだ休息を欲している証拠だろう。
「姫様こそ、お辛くはありませんか?」
「うん、大丈夫よ。有難う、気にかけてくれて」
薔姫の体調を気にして声をかけてきたのは、警護と馬の世話に就いて呉れている青年だ。普段は克の側での副官勤め、といえば聞こえはいいが、ぶっちゃけた話、何かと瞬間的に沸騰して飛び出しする上官の歯止め役の仕事を専らとしている。名前を、竹、と云う。
祭国に来る前から上司と部下のような間柄だったようだが、長く居たせいだろうか、克に似て真面目なのは良いが命令する際の声がいちいち大きいのが玉に瑕だった。その為、何か命令をする度に、姫様の耳が痛くなっちゃったらどうすんさ! と珊にこっ酷く叱られて、しゅん、と肩を落としてしょぼくれる様子は、矢張、克を彷彿とさせる。
虚海が冷えないように、と苗木を抱きあげて小窓を閉めようと側に躙り寄ると、その、克の部下の竹青年が騎馬で並走しているのが見えた。
「ね、禍国まで、あとどれ位で着くかしら?」
「そうですね、早馬車より時間と距離を稼いでおりますので、あと4~5日もあれば」
背筋を伸ばして馬を操る竹青年は、嫌そうな素振りも見せずに実直謹厳そのものの態度で答えてくれた。
「そう……有難う」
いいえ、と頭を振る青年に軽く手を振って応えてから、薔姫は窓を閉めた。
実は、日に何度も何度も聞いて確かめているのだ。それでも、毎回、誠実に答えてくれるのに甘えて、つい、聞いてしまう。
――あと、4~5日……。
禍国と祭国の間に横たわる旅程は、早馬車を使用したとしても10日は確実に費やす。
自分のような子供連れでありながら3日も日程を短縮出来るのなら相当に頑張ったと言えるだろう。
――でも……。
もっと。
もっと早く禍国に着きたい。
我が君に、早く会いたい。
――……会いたい……。
会いたい、会いたいよ、ねえ、我が君……。
萎れていきそうな心を気遣うように、桜の花弁が薔姫の頬を微かに擽る。
同時に、むにゃ、と虚海が意味のない寝言を呟いた。
★★★
克の部下である竹青年が、この先の関で馬を変える予定ですので其処まで参りましょう、と、もうひと踏ん張りを提案してくれて馬を追ってくれた。
その為この日は、陽がとっぷりと暮れてもまだ馬車を走らせた。
おかげで関に到着してみれば、黄昏を3刻近くも過ぎてしまっていた。虚海だけでなく、薔姫も珊も極度に疲弊しきり、道中の明るさがかき消えて言葉も出ない。
用意されていた宿舎に入ると、県令がすっ飛んできた。
「や、宜しゅう御座いました。すれ違いにならずに済みました」
「何がです?」
此れまで乗ってきた馬を厩番に預け、用意されている新しい馬を下調べしに行こうとしていた竹青年は汗と埃で汚れ切った袖をぐい、と引かれて目を丸くした。
「実はですな、王都より郡王陛下の御使者殿が参っておられるのです」
「御使者? 王都から?」
聞きつけた珊と薔姫、虚海が遠巻きに見守る中、はい、と県令は頷く。
「名は? 何と名乗っておられるのです?」
「は、其れがその、芙様と名乗っておられるのですが……」
――芙!?
四人は額を突き合わせて顔を見合わせた。
次の瞬間には、竹は片手に虚海を、片手に県令を掻っ攫うようにして抱き上げ、芙殿が居られる部屋は何処だあ!? と叫ぶ。
釣られた県令が大声で、彼方です! と叫び返すと同時に、全員、県令宅に向かって走り出していた。
★★★
関の哨舎と一直線の動線上にある邸宅の裏門から、中に入る。
直ぐ北の対屋が現れたのは、非常時に備えての事だろう。
「こ、此方にて」
竹青年に抱き抱えられたままの県令に促され、対屋に入る。
瀟洒な造りであるのは、歓待用も兼ねているのだろう。県令の家付きの資人が、主人の為体に驚きつつも、お待ちかねに御座います、と奥の間に誘った。
奥の間は、流石に華美さを取り払い、落ち着いた雰囲気がある。
その、戸口の端にひっそりと気配もなく向けられている背中には、県令以外の皆が見覚えがあり、薔姫も珊も竹も、皆、あっ!? となって立ち竦くんだ。
「お久しぶりに御座います、姫様」
「ふ、芙!? ほ、本当に芙なの!? な、なんで!? ねえ、どうして芙がこんな処に居るんだよう!?」
珊が泡を喰って頓狂な声を出す。
芙の名を出されても、まさか、と思いたかった彼らは信じようとしなかったのだ。
だが、姿を目にした以上は受け入れなくてはならない。
竹はぽかんと口を開いた拍子に手を緩めてしまい、抱き抱えていた県令が床に向かって柿の実かなにかのように、ぼとり、と落下した。県令がけたたましく抗議の悲鳴をあげてくるが、竹はまだ正気が戻らない。
「ほ、竹さん、早よ儂も下ろしたってくれ」
虚海が泡を食って脚をばたつかせているが、其れでもまだ竹青年は、ぼーっと突っ立ったままだ。
浮き足立つ大人たちの中、薔姫だけが、小さな腕に桜の苗木をぎゅ、と抱き抱えて唇を固く結び直して芙の前に進み出た。
「……姫様」
「芙……我が君に何があったの? 我が君と何時も一緒にいた貴方が此処に来ているなんて」
虚海と珊、竹青年の視線が、一気に言い淀む芙と薔姫の間を交互しつつ集まった。
「何があったの? 何も無ければ芙が、我が君やお義理兄上様のお傍を離れるなんておかしいもの。ねえ、一体何があったの?」
自分の姿を見て取り乱すか、驚き喜ぶか、その何方かを想定していたのだろう。
珍しく、芙は二の句を告げないでいる。
――いっそ、罵倒するように強い口調で詰め寄って下されれば。
自分から視線を外そうとしない薔姫の曇りのない瞳に目眩を覚えながら、芙は唇を噛み締めた。
「芙、ねえ、何があったの? 言って。いいえ、言いなさい」
「……」
「そうだよう、芙。何があったんだよう! 黙ってちゃ分かんないよ! 言ってよ! ねえってば!」
だが、珊の云うように、何時までも黙っている訳にはいかない。
胸元に飛び込んで衿首を掴んできた妹分の珊の手首を静かにとりながら、横に膝行らせると、芙は薔姫に向かって膝を揃えて座り直した。
そして真っ直ぐに薔姫の眸を見詰めた後、平伏叩頭する。
「姫奥様」
ごく、と珊は音をたてて生唾を飲み込むと、膝を使って薔姫に躙り寄りその膝と腰を支えるようにして抱きついた。
「……芙、我が君に何かあったの? 何があったの?」
「どうか、落ち着いてお聞き下さい」
かなりの間、逡巡していた芙だったが、平伏したまま重苦しそうに口を開く。
「真殿が……」
「我が君が?」
「真殿は――」
「我が君は?」
「……右丞・鷹の私怨からの拷問を受けられ――……今、意識を失っておられます」
さぁっ、と水が引くように薔姫の顔色がなくなる。
「今日・明日以降の御命を確約致し兼ねまする、との御典医殿のお言葉にて、こうして私が姫奥様をお迎えにあがりまして御座います」
何卒、私と共に禍国にある郡王陛下の宮に御急ぎ下さいますよう、と云う芙の言葉に、ふっ……と薔姫は意識を失くし、身体が糸で操る玩具のように頽れる。慌てて珊が飛び出して、どっと汗をかいた薔姫の小さな額を胸に抱きとめる。
「なんでっ!? どうしてぇ!? 芙の馬鹿ぁ!」
珊の、悲痛な叫び声が部屋の天井を突き破らんばかりに上がった。




