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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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終章 君がため その1

※ 注意 ※


今話は残酷な描写を含みます

苦手な方はブラウザバックなさって下さい

終章 君がため その1



 男たちを全身叩きのめし地面に這い蹲らせると、芙は彼らを飛び越えて獄舎の奥へと走った。

 獄の扉が近づくにつれて、まるで地獄の釜が震えるような、呪詛のような、異様な呻き声が折り重なって響いてくるようになった。

 同時に、何かが焦げる異臭が鼻をついてくる。


 ――人肉が焼けている……臭い……だと!?

 どういう事だ!?

 辿り着いた獄内は、一部の壁と扉が柵状になっている為、伺う事が出来た。中の様子が視界に飛び込んできた途端、流石の芙も、ぐ、と息を呑み脚を止めた。

 禍々しいまでに巨大な鍋が、床に転がっている。

 其処から溢れたと思しき煮油が、じゅうじゅうと音をたてて地面を焼き、黒々とした臭気と蒸気を上げていた。その地面には、数名の男たちが悲鳴にもならぬ声を上げてのたうち回っているのだ。

 人肉が焼けた臭いが充満していたのは、高温の油を男たちが浴びたせいだったのだ!

 意識が飛びそうになる程の激烈な悪臭と、身体の自由を奪われる程の惨状とが広がっている。

 だが、怯んでなどはいられない。腕で顔面を覆い臭気を無駄に吸い込まぬように庇いつつ、芙は扉を脚で蹴り破った。


「真殿!」

 俯せに倒れている真らしき人物に、声を限りに叫びつつ駆け寄る。その芙に、異様な姿に成り果てた男が、本能的に助けを求めて手を伸ばしてきた。一瞬、誰だ!? と目を眇めたが、着用している衣服で品官が知れた。

 ――此奴……もしかして右丞……なのか!?

 男は顔を失っていたのだ。

 前頭部附近から肉と皮膚と髪とが高温の油で溶けており、熟れ過ぎて潰れて中身が蕩け出した柿のように焼けただれていたのだ。

 それが、目蓋を塞ぎ鼻を覆い隠し、頬に張り付く辺りまで垂れ下がっている。

 唯一識別できる唇は数倍に腫れ上がっており、巨大な芋虫状になって乗っかっている、という表現がしっくりくる。恐らく皮同士がくっつきあっているのだろう、真面に開く事も出来ないようで、ぶしゅぶしゅと吐息と唾を吐き出すのがやっとのようだった。

 ぐるり、と見回してみても、呻いている男たちも全身に大火傷を負っている。呻きながら地面を這いずりつつ、芙に向かって手を伸ばしてくる。それは泥人形に縋ってでも生き延びようとする、人間の本能だった。

 ――自業自得だろうが、手前勝手な事だ。

 生に対する執着は逸そ褒め讃えられる領域にあるのだろうが、此れまでの右丞の態度ややりようをつぶさに見てきた芙にとっては唾棄こそすれ、手を伸ばしてやる謂れなど何処にもない。


 侮蔑を込めて、ちっ、と舌打ちしつつ完全に無視して俯せになっていた男――近付いてみれば其れは矢張、真だった――を抱き上げる。

「真殿、真殿、大丈夫ですか? 返事を――」

 真を抱き上げた芙は、芙ほどの男が、其のまま硬直した。


 ――……酷い……!


 右丞・鷹は火傷によるものだったが、殴られ尽くした真の顔面も腫れ上がっていた。

 いや、面体だけではない。

 全身が赤黒く腫れ上がって熱を放出している。

 ――拷問……折檻による殴打のせいだ。

 はだけられ乱れた胸元には、家畜に押す際に使用される焼鏝の痕がくっきりと残っていた。砂が押し込められて更にその砂も熱を持ち体内で荒れている肌は、小さな炉のようにも見える。

 両の手は潰され、指はあらぬ方向に捻じ曲がっている。しかも、左腕は右丞たちと同じように油をかぶったらしく火傷を負っていた。衣服は焼け焦げ、皮膚処ろか爪まで溶けてなくなり、まるで木の棒のように、だらりと力ない。

 ――……畜生!

 俺が、俺がもう少し早く決断して動いていれば……!

 土蜘蛛に足止めを喰らっていなければ……!

 後悔してももう遅い。

 取り返しはつかない。

 過ぎ去った時間は盆に溢れた杯の水のように、二度と戻る事はない。

 硬直しつつも、口元に手を翳して息があるのを確かめ、手首に指の腹をあてて脈があるかを診るのは徹底して叩き込まれていた草としての反射的な行為だった。考える事なく動く自分の手と指に、自分を鍛えた蔦に感謝しつつ芙は自分を取り戻した。

 掌に、呼吸音が当たったのだ。


「真殿!?」

 そうだ、耳は――!?

 耳だけではない、目は!? 見えるのか、傷付ついていないのか!?

 口は!? よもや舌や歯を抜かれなどは……!?

「真殿!」

 もう一度叫ぶ。

 しかし、返答はない。

 助けを求める呻き声がひっきりなしに漏れる右丞や倒れ伏した男たちを捨て置いて獄の外に急ごうとする芙の耳が、新たな沓音を捉えた。

 今度は規律のある、一糸乱れぬものだった。



 ★★★



「芙殿!?」

 血腥ちなまぐさい獄舎内で真を抱いたままの芙の背中に、囚獄・徹の切羽詰まった声が刺さる。

 肩越しに見える徹たち一同は既に剣を抜いており、返り血を全身に浴びている。彼らも此処に来るまでに、幾人かと切り結んで来たのだ。


 芙の足元に転がる男たちに気が付いた徹が戦扇を振るうと、一人が先んじて駆け寄ってきた。片膝をついて、先ずは右丞を、続いて一人また一人と、ごろりと仰向けにして怪我の状態と顔とを確かめ、転がっている武器や拷問に使われたと思しき道具を改めていき、後を付いて歩きながら逐一木簡に書き留めていく係の者までいる。

 しっかりと鍛錬された行動を部下たちが命令もなくとる間に徹は、芙の腕の中にいる真の様子を頭の先から爪先まで視線を一巡させた。

 今は息がある。

 しかし、この先どうなるかは非常に危うい。

「呼び掛けに答えられたか?」

 徹の問いに芙は首を左右に振る。

 うむ、まずいな、と徹は言葉を苦くする。

「一先ず獄舎の薬房に運ぼう」

「御医師殿の腕は確かか」

 祭国の施薬院にいる虚海や那谷の腕を見ている芙は、彼ら以上の医師がいるとは思えなかった。

 赤斑瘡あかもがさを鎮めた施薬院の働きを、徹も知っている。囚獄に詰めている常駐の医師の腕は、お世辞にも胸を張れるような代物ではない。

 だが、今は芙を案じさせてしまう言葉は控えるべきだと判断した徹は、苦い思いを隠しながら嘘を吐いた。懐疑的になって真の治療を遅れさせてしまっては、本末転倒だ。

「此処で悪戯に時を潰すべきではない。殺してしまっては元も子も失う罪人も預かるのだ。御医師の腕は確かだ。任せよう」

 まだ納得していなさそうながら、芙は頷いた。

 真の息遣いがどんどんと細くなり、胸の上下運動が乱れ始めている。一刻を争うのは確かだった。


 此れ以上与えられる衝撃は少なくせねばならない。

 芙が腕の側にまわり、徹が脚を支える。掛け声もなく共に真を抱え上げると、獄舎の暗い通路に出る。

 ――早く治療を受けさせなければ。

 逸る心を抑えつつ、芙は真を揺らさぬよう、細心の注意を払いつつ出口に向かう。


「陛下と兵部尚書様にお知らせするのだ。刑部尚書様にも連絡を入れよ」

 真を気遣い、徹が抑えた声で命じる。

 小さく反響した声に、真の目蓋が、微かに震えた。



 ★★★



「陛下! お待ち下さい!」

「兵部尚書様、お気をお静め下さい!」

 戰と蓮才人の後に続いた優は、王の間の扉が閉ざされるやいなや、二人の前に飛び出し道を遮った。有るまじき不敬な行為を止められなかった克が、青ざめつつ追いかけてくる。


「陛下! 如何なるおつもりなのですか! どうか御存念を我らにお示し下さい!」

ぎりぎりの敬意を払い、優は戰の前に立ち塞がる。

しかし、戰は優の肩を押して先に進もうとする。かっ、と額に血を登らせた優は克が制止するも耳を貸そうとしない。陛下! と優は更に声を荒らげる。

「陛下! 事と次第によっては、陛下の首根っこをとっ捕まえて王の間に戻らせて頂きますぞ!」

切れた唇の端からは、未だに赤い血が筋となっている。ぐい、と手の甲を使って汚れを拭っても、直ぐにまた赤い筋がついてしまうのだ。

優の魂を込めた言葉にも、戰は反応をみせない。脚を止める事なく歩み続ける戰に、遂に優は怒りを爆発させた。


「何処へ行かれるおつもりですか! お待ち下さい、陛下!」

 優の怒号を受け、やっと戰の脚が止まる。

 だが鋭く切れ長のは何の意を含んでいるのか、いつもの明るさはない。熾火のような暗い灯火を宿している戰の視線に、克は、背筋に冷水を浴びせかけられたかのように思わず、ゾッと身震いした。

 しかし優も怯んではいられない。

 やっと、戰が脚を止めて呉れたのだ。

 此処まで来て、玉座を放置するなど有り得ない、あってはならないと説得せねばならない。

 情に訴えかけてでも力尽くででも、兎に角何でも良い。

 己こそが皇帝に相応しいのだと、玉座に就き、至尊の冠を抱き、帝室の霊廟に名を刻むのだと、宣言させねばならない。


「陛下! 陛下は自らの御命を救うと共に大望の道を叶えんとされておられたのではないのですか!?」

 何の為に、我らは忠誠を陛下に捧げんとしたのか!

 陛下こそが、我らの宿願を叶えて下さる希望の星であるからなのです!

 我らの宿望を共にと、陛下も志して下さっておられた筈ではないのですか!?

「だからこそ、この数年の全てを戦場いくさばと心得なされて過ごしておられたのではないのですか!? なのに何故なのです!?」

 克とは違い、血を沸騰させている優は弛む事無く、戰に迫る。


「この禍国帝室の頂点にお立ちになられるのは陛下以外になしと我々に夢見させたのは、何だったのですか!?」

 噛み付かんばかりになって、優は戰の衿首を掴む。

「今こそ、中華平原、天下大道に禍国に陛下此の人あり、との威を号令なされる刻ではないですか! 我々を失望させんで下さい!」


 優に言わせるだけ言わせきった戰は、大きな手で、ぐ、と優の肩を掴んだ。

 ぎち、と布が裂けかける音がする。

 いや、布ではない。

 優の肩肉、筋の部分に戰の指が断つ勢いでめり込んでいるのだ。

 だが、優は顔を顰めない。

 眉すら寄せない。鼻息も荒くしたまま、戰を見上げて睨み続ける。

 優とて、諦め切れるものではない。

 いや、諦めてどうするのだ、という方が正しいだろう。

 優だけでなく戰を敬慕し皇帝にと望んだ者にしてみれば――戰は己の立志を遮る曇天を突き破ってくる存在なのだ。

 周囲は全てみな此れ敵という状況の中、窒息しそうなほどの閉塞感を突き破る唯一絶対の光明なのだ。

身分が低いが故に門閥貴族出ないが故に、栄達揚名が叶わぬ者にとっては、戰とは正しく、雲を喰い破り暁天を、未来という黎明の光の矢を注いでくれる青龍の化身――


 希望、なのだ。


「陛下!」

 必死で食い下がる優に、戰は睨みをきかせたまま重苦しい声を放つ。


「今、此の場にて速やかに私が皇帝の座に付けば、私は、我が手、我が口をもって、奴らを赦さねばならなくなる」

 押し殺した戰の声には、明らかな殺気が篭っている。

 克だけでなく、優までもが、はっと身を引くほどに。


 ★★★



 やっと、二人は理解した。


 新たな帝室の門出には、皇帝の名をもって恩赦や特赦が下される。

 戰が皇帝の座に就けば当然、正妃である椿姫は皇后に立后され、そして長子である星は皇太子として立太子される。

 その慶事をもって、血を分けた兄たち、彼らにも英祖のすえとしての血が流れているのは揺ぎ無き事実として赦しを与えよと、兄弟たちと大司徒一門に連なる門閥貴族たちから、恩赦による放免を確実に奏上される。

 兄弟たちと貴族たちは雲海のように迫ってくる事だろう。

 そして戰は其れに逆らえない。

 事実を前面に押し出されて来られたならば、其れを弾く為の盾となる言葉も後見人も、戰は持っていない。

 皇后となる椿姫の実家である祭国は、禍国を宗主国として崇め仕えている国であるが故に政治に口は挟めない。迂闊に嘴を挟めば、まだ幼少である国王・学がどのような目にあわされるかしれたものではない。

 兵部尚書である優は、此れまでの実績はなる程、彼らに対抗しうる。

 だが門閥貴族が縦と横に張り巡らせた政治基盤の前では、脆弱過ぎる、脆過ぎるのだ。

 此れまでは大司徒が紡錘の役目を担い、彼らを一手に絡めて従えていた。が、そのつむ(・・)が無くなれば、ばらばらになった糸が彼方此方、思わぬ方向から絡まってくるのは必定だ。幾ら他の尚書が味方となってくれているとは言え、所詮は自分たちに旨みあればこその話だ。余計な苦労は背負い込むまい。

 となれば、優が一人でそれらを払わねばならなくなる。そうなれば、一体誰が国防を担うというのか。克と杢という武人が育ってきているとはいえ、彼らは祭国の臣下として席を入れている。禍国内において優のような政治力はない。

 兄皇子たちにしてみれば、自分たちの前に好んで立って戰の政敵となりたがる大司徒一門は利用価値がありこそすれ、捨てる謂れはない。大司徒一門には最大限に恩を売り、戰を牽制する盾となってくれるよう先導し、裏に回れば戰に取り入りお零れを掠めてゆくに決まっている。


「其れで良いのか兵部尚書」

「……陛下……」

 一度許せば、彼らは再び同じ過ちを、必ずやまた繰り返す。

 そして連綿と続くのだ。

 茶番、狂言に似た、愚かな血族内での政争が。

「兵部尚書よ、長き年月、志を共にする友垣と悔し涙を堪えつつ腸を煮え滾らせ、歯を食いしばって雌伏し続けたのは何の為だ?」

 許してはならない。 

「其れは……其れは……」

「大司徒一門を完全に屠る瞬間ときを確実に手にする為であろう? 違うのか?」

 此処で、今此処で、大司徒一門と兄二人を確実に仕留めねばならない。

「……」


 今度は優が押し黙る方になる。

 仮に戰以外の皇子が皇帝として即位した場合、これ幸いとばかりに戰に皇太子・天と二位の君・乱、そして大司徒一門を極刑もって断罪せよと十中八九、戰に命じてくる。

 歴史に名を残さぬ為に。

 正統な上位皇位継承権を持つ者を、己が身可愛さに異腹兄を手にかけた小心者の王者であると汚名を残さぬ為に。

 だからこれ幸いとばかりに、戰に全責任を背負わせて腐臭を放つ部位を全てどぶに捨て去るつもりなのだ。

 皇帝の座に就いた後、此処まで戰に虚仮にされた大司徒一門を庇護しようものなら、逆に自分たちの沽券に関わる。其れであるくらいなら、そもそも無駄にかしらを押さえつけ蛮夷宛らに意を押し付けて来る彼らなど、居ない方が楽に決まっている。

 戰には、此れまで通り諸外国の脅威より本土泰平を守るえきを担わせておけばよい。

 そうして素知らぬ顔で、自分たちは旨々と、新たな我が世の春に笑顔を振りまきながら謳歌する。自分たちさえ良ければ、全て世は事もなしとばかりに。


 しかし兄皇子たちを利用しなくては、戰の品位では皇太子・天と二位の君・乱、そして大司徒一門を完全に断つ事は出来ないのだ。

 当初、戰たちは弾劾を回避する事のみを目的としていた筈だった。

 一気に権力を奪った後の反撃と、そして彼らの息のかかった兄王子たちの門閥からの抵抗を思えば、完全に失脚させるまでしては此方もまた大きな傷を追うと目算したからだ。

 他国がこの政変の隙を虎視眈々と狙っている以上、それは得策ではないとしたからだ。

 代帝・安に次代の皇帝は戰であると定むる、と宣旨を下させつつ、何処かで隙あらばと虎視眈々と狙わせておいた方が、まだ、此方には予測が立てやすい。

 だが――出来なった。


「椿としゅんにかけられた嫌疑に、我を忘れた私の落ち度だ」

「陛下、そんな事はありません! 妃殿下と皇子様をあのような下劣な言葉で穢した奴らに怒りを覚えぬ方がどうかしておるのです! 罪に問うて当然でありましょう!」

「兵部尚書にそう言って貰えて、少し心が軽くなるよ」

 戰は云うが、硬い声が本心ではないと告げている。

 冷静さが戻ってきた今、優は、戰が己の怒りの正当性と愚かさに板挟みあっているのだと痛感した。

「兵部尚書、確かに私は禍国の王城内にて生き延びんが為、自ら皇帝の座を望んだ。しかし我が命を狙う兄二人と大司徒一門が潰えたのだ。玉座を我が手にと、そればかりに囚われる事はあるまい」

 皇帝となった後であれば、大司徒一門も皇太子・天も二位の君・乱も、徐々に徐々に、失脚させる手筈は組めたのだ。混乱を招かぬように、少しずつ。


「代帝・安の口から、次代の皇帝は祭国郡王・戰皇子であるとする宣旨を下す、と言わせられなかった、言わせる前に追い落とした、私の落ち度だ」

「陛下……」

「あの夜、密かに策をたてた時、真が言っていたではないか」

 指摘してくる可能性は充分にある。

 真が密かに宿星図と似姿図を用意させていた真意は其処にあった。

 怒りを爆発させる処を間違えてはならない――と。

 にも関わらず、歯止めが効かなかった。


「真の言った通りだ。耐えられなかった私の負けだ」

 優の心情を慮り、戰が嗜めるように先んじた。

「兵部尚書、真を責めてはいけないよ」

「陛下、しかし、しかし、あの馬鹿息子は……!」

 ――阿呆めが!

 分かっておったのなら、何故、私に言い含めておかなかった! 


「真がもしも、兵部尚書に私を止めよ、と頼んでおいたならば、どうしていた?」

 戰に優しく言われた優は、う、と言葉に詰まる。

「真も、其処までは言えなかったのだよ。今なら分かる。私に我慢を強い、兵部尚書に此れまでの全てを潰えさせる罪を犯させるかもしれない一言を」

「……陛下」

 もしも、代帝・安に戰をして次代の皇帝とする、と何としても宣言させてから糾弾せよ、戰の暴走を何が何でも止めるように、と真がしていたならばどうなっていただろうか。

 優の性格上、代帝・安に皇帝は戰とする、との一言を言わせんが為、追い詰めようと剣を勇ましく奮う可能性が高い。

 いや、してしまうだろう。

 だが、王の間にて臣下が剣を抜けばどうなるか?

 優が何十年と築き上げてた希望を其処で絶してしまう宣旨を、皇帝となった戰は第一に下さねばならなくなってしまう。

 一門、末籍に至るまで獄門につき、断絶せよ、と。

 その中には、当然、母親である好と妹である娃も含まれる。


「兵部尚書、認めるのだね。此れは真なりの、私への気遣い……いや、兵部尚書への親孝行なのだよ」

「そんなもの……陛下、陛下に死ねと言われるのであれば、私は……!」

 言葉だけでなく全身の力を抜いていく優に、何時もの軟らかな眼差しに戻って戰は言葉を継いだ。


「私には祭国がある。椿が、星が、義理母上が、真、薔姫、兵部尚書をはじめとした皆が居てくれる。今は其れで良い」

「へい……か」



 ★★★



「克、芙の部下を呼んで呉れないか。大保の元に向かった真が心配だ。兵部尚書、早く大司徒一門の問題を片付けてしまおう」

 ……はい、と短く応じた克は、ちらりと優の様子を伺った。

 肩を落として項垂れる優が、再び戰に飛び掛る事はない、と確かめた上でやっとこうべを垂れて足早に去って行く。

 優の肩の上で固く握り締められていた拳を、紐解くようにして一本一本の指を解しにかかる白い指の存在に、戰は視線を上げた。

 慈母の微笑みを湛えた蓮才人に、だが戰は、耐えられぬ、とばかりに眼を伏せる。

 彼女も、待ち望んでいた筈だ。

 自分が、皇帝として玉座に座る姿を双眸に焼き付ける日を。

 そして自分も願っていた。

 幼き日々、愛情と友愛をもって己を慈しみ、育て、影に日向になり、労を厭わず庇護し続けてきてくれた彼の人に、栄達を極めた己を見せる日を。


「申し訳、御座いません、義理母上ははうえ。ですが、ですが私は……」

「謝ってはなりません。戰、過ちを犯したと思っておらぬのならば、決して口にしてはなりません」

「……義理母上ははうえ

「時節を待ちましょう」

 はい、としか戰は答えられない。

 言葉を無くして立ち尽くす戰と優の元に、芙の部下と刑部尚書・平の部下を連れた克が怒涛の勢いで駆け戻ってきた。


「へ、陛下! ど、どうか此方に! 何卒、御急ぎを!」

「何だ、騒々しい。どうした」

 鼻の奥がぐずり、と鳴るのを堪える為に踏ん反り返る優に、礼儀も作法も既に頭にない克は覆い被さるように突進する。

「い、今直ぐに獄舎、いえ、囚獄の獄に一番近い薬房へ!」

「薬房?」

何をしに、と言いかける優の間の抜けた声を、悲鳴に近い芙と刑部尚書・平の部下の言葉が遮った。


「し、真殿が……!」

「囚獄の獄舎内にて、右丞様に……!」

「真!?」

「真が!? 鷹もだと!?」

 真と鷹の名が出るや、戰と優は半瞬置かずに囚獄に向かい駆け出していた。



 ★★★



 真の周辺には、3人もの医師が寄り集まって治療に当たっていた。

 火傷の治療を先に、いや打ち身の、いや骨折を早く、と互いに呟きながらその実、動こうとしない。

 手の施しようがない――と言えたら楽、というよりも悟って欲しいというのが偽らざる心情なのだろう。だが傍らに控えている芙が、火傷や打ち身に効く塗り薬や痛み止めの処方を知っているから用意させろと食い下がっていた。しかし、医師たちは芙の身分を小馬鹿にして彼の言うなりになるのを由とせず、動かないのだ。


「真!」

 叫び声と共に扉が開いた。

 勢いで扉が外れて壊れた。が、壊した当の本人は気に掛ける様子もみせず、診察用の寝台に横になっている真に駆け寄る。その人影が祭国郡王である戰と兵部尚書である優と知ると医師たちは、ぎょ、となりながらそそくさと礼拝の姿勢を取ろうとする。

「礼拝などよい! 真は! 真の容態はどうなのだ!?」

 真の手を握ろうとして、戰は息を飲んだ。

 右の手の五本の指はあらぬ方向に折れており、左の手の指に至ってはその上さらに火傷で皮膚を失い赤茶けた肉を剥き出しにしている。溶けて剥がれ落ちた皮膚と爪らしきものの塊が、焦げた衣服と共に診察台の傍らの台に無造作に固めて置かれて異臭を放っていた。


「……し……、んっ……!」

 名を呼びたいのに、声が出ない。

 喉が震え、魂が震え、怒りで何もかもが吹き飛んでしまい何もできない。

 腫れ上がって痣塗れになった頬に、手を伸ばすのもやっとだ。それとても、わなわなと震えてうまくいかない。

 唇を噛んで反対側に立ち尽くす芙に気が付いた戰は、の端に涙を浮かべて襟首をつかみにかかった。

「芙! 一体何をやっていた!」

 戰に激しく揺さぶられても全く抵抗せず、芙は項垂れたまま答えない。

「お前ほどの者がいながら何故、どうして此の様な事になった!? 何故だ!? 答えよ、芙!」

 芙が口答えしないのを良いことに、戰は責め立てる。

 すると下から、ぬぅ……と何か異質なものに手首を掴まれた。其れが、真の折れ曲がった右手だと理解すると、戰と芙の動きが固まった。

 ぎち、と戰の手首が絞まる音が不気味に響く。いや、音が鳴ったのは、戰の手首であるのか、其れとも真の指であるのか。

 つ……、と戰と芙、そして優の額に汗が流れる。


「……なんど……いえば……わか……て、く……ださ…………」

「真!? 真、分かるのか? 私の声が聞こえているのか!?」

「……だ……れ、か……ひとり……を……と……べつ……あ……つか……して、は……いけ……な……と……・あれ……ほ……」

 絶え絶えの息で、自由に動かぬ唇で、見開かぬ瞳で、必死に言葉を綴る真に、戰は縋った。

 ――生きている!

 生きていて呉れている!

 此れ以上、無茶をさせてはいけない。

 自分の為に命を削らせるような行為を続けさせてはいけない。

「……ふ……う、を……せ……めて、は……、い……け……な…………」

「真、真、分かった、もう喋るな、真」

「…………と……く、べ……あ……つ……か……い……して……は、……う……ら……み、を…………」

「分かった、済まない、私が悪かった、真、喋るな、もう喋るんじゃない」

 涙に濡れた戰の声に、にこ、と真の頬が動いた。

 だが、次の瞬間。

 其れまで半開きであったが、カッ、と見開かれた。

 同時に、ぐるりと黒目が反転し、白目となる。


「…………」

「し、真!?」

真の口内に唾の泡がふき始め、背筋が反り返り、がくがくと身体が痙攣を始める。

「真!? 真、どうした!?」

「殴打された衝撃のせいで全身の筋という筋、臓腑という臓腑が悶絶しておるのです!」

 優が真の肩を抑えながら叫んだ。戦場で同じような症例を見てきている優は、息子が命の瀬戸際に在るのだと瞬時に理解していた。


「典医を呼べ! 能書きを垂れるなら殴って黙らせよ! 黙って従わぬというのであれば首に縄をかけて引き摺って来るのだ! 行け、芙!」

 瘧の最中のようにがくがくと震え続ける真を抱きしめながら、戰が叫んだ。命を受けた芙が颯となって部屋を駆け抜ける。


 ずるり、と真の手が落ち、ごとり、と寝台の上で丸太のように転がった。

「真、死ぬな!」

 戰の悲痛な叫び声が薬房の一室を支配する。


 ――真!

 死ぬな!




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