22 罪と咎と罰 その5
22 罪と咎と罰 その5
幾重にも重なる沓音に兆は眉を顰めた。
――何だ、騒々しい……。
やがて沓音に追い立てられた舎人たちの叫び声と下男たちの悲鳴が其処彼処で上がり、入り混じり始める。
高らかな沓音は、波濤の様に部屋を狙って迫ってくるのだと気が付いた兆は、思わず腰を浮かした。ほぼ同時に、舎人が倒けつ転びつしつつ飛び込んでくる。
「何事だ!」
「も、申し上げます! それがその、刑部より囚獄様が刑部尚書様の御意をもって、此方を改めると仰られ……!」
「何ぃ!?」
――刑部が動いている、だと!?
どういう事なのだ!?
「お、お早く此の場よりお隠れに!」
「ば、馬鹿者、逃れると言って何処にだ!?」
「と、兎に角、とにかくお早く、おはや……くひぃぃぃぃ、出たァ!?」
舎人の悲鳴と同時に、徹と名乗る囚獄がずい、と身を乗り出してきた。
「御無礼は平にご容赦下さりますよう。私は刑部にて囚獄に就きし徹と申す者に御座います。以後、大令様が何事か刑部に物申すお構えになられる御意をお示しになられるのであらば、我が名をお出し下さいますよう」
「さ、さ、下がられよ! 刑部の、お、御方々よ、だ、だい、だい、大令様はお忙しき御身にて……!」
途切れがちの息を整え整え必死になって言い募る舎人の努力も虚しく、囚獄は岩石と見紛う一団を引き連れている為、戸口は落石にあった洞窟のように塞がれてしまっている。
何処にも逃れられない。
逃れるのであれば、堂々と押し入ってきた彼らを口先で撃退するしかないのだ。
ちぃ、と兆は舌打ちをした。
――只の囚獄であれば、口先でどうとでもかわせる。
しかし、相手が獄舎を借り受けた囚獄であろうとは!
平静を装いつつも、額に汗粒がふつふつと姿を現し、脇が嫌な湿り気を帯びてくるのを感じる。
既に獄には右丞めが陣取り、真とやらを連れ込み責苦にかけている。
家門が常に頼りにする囚獄に頼んでは、父である大司徒や義理父である先大令に要らぬ腹を探られる恐れが有るやもしれぬ、と敢えて関係のない囚獄を求めたのだが、其れが徒になろうとは!
――いや……待てよ?
目蓋に太い眉を乗せて眼を剥き、ぎろぎろと此方を睨んでくる囚獄は、入室の際に必ず示さねばならぬ断罪を掲げてはいなかったではないか?
そうと気が付いた兆は、微かにであるが冷静さを取り戻した。そして余裕を引き寄せようと、浮き足立った己の失態を逆に腹の底で嘲り笑った。
――そうだ、此奴やが仔細に至るまで事を知っておると決まった訳ではない。
まだ私に何の罪に問うかと奴らは口にしておらぬではないか。
彼是と口にしては逆にいらぬ尾を踏まれる。
落ち着け、落ち着くのだ。
★★★
「刑部が我が礼部に何用であるか」
殊更に六部の名を出す。
今この場にて自分は大令・兆として罪に問われているのではない。
六部内の礼部と刑部との確執である、と周囲に知らしめ印象を刷り込ませる為に六部の名を出したのだ。
「大令様。此度、囚獄をお借り上げになられておられる筈で御座いましょう。然し乍ら何故に、獄にお出ましなっておられませぬのか?」
――矢張か!
此奴らは其処を小突いてきておるだけか!
兆の中に、僅かではあるが希望の火が灯った。
「私は大令であるぞ? 品位卑しき身ではない。雲上を許されし高貴な身の私が、政務には手を抜けると思うのか? 礼部において我が身の変わりのない大事の身であるが故、幾ら囚獄を借り受けたとは言え、ずっと獄舎に張り付いてなどおられる筈がなかろうが。囚獄よ、立会人の立場からの範疇を超えた差し出口だぞ」
ぎろ、と睨みを呉れるが徹は意に介さない。
「では、借り上げなされた獄は未だ使用する意はない、と仰られるのでありますな?」
「怨を抱いたままには出来ぬ故、怒りを正当に晴らすべく囚獄を借り受けたのは確かである。だが正当な手続きを踏んだ筈だ。刑部にとって何か不都合があったというのか?」
「……」
「獄舎を何時使うのか使わぬのかを決めるのは、我の自由であろう? 囚獄は其処まで差し出がましい……いや、面倒を見てくれるというのか?」
「本来であれば、囚獄程度が意見をするなど差し出口も過ぎる事に御座います。ですが、嘴を挟まねばならぬ仕儀と相成りまして」
「ほう?」
囚獄・徹の言上に、兆は場を持ち直しつつあると悟った。
――成る程なあ……。
口振りと態度から、この徹と名乗った囚獄は詳しい事は知らないようだと兆は確信した。
ならば此のまま、都合の良い事だけを切り張りして伝え悪いことは口を噤み、知らぬ存ぜぬで押し切ってしまえば良い。
――そうだ。
この機会を利用して右丞に罪を擦り付けてやれるではないか……。
兆は腹の奥底が痒くなるような愉快さを噛み締めつつ、ほくそ笑んだ。
★★★
「大令様が我が一門が預かる獄舎を借り受けなさり、我を見届人となされておられるからです。故に、我が獄が不当に利用されておるのを看過するわけにはまいりませぬ」
兆は意識を顔に総動員させて、一気に青ざめさせた。
囚獄・徹を初めとした刑部の面々の双眸が、顔色の動きにつられて光るのを確かめ、兆は己の身の勝利を確信した。
――流石、獄舎に張り付いて見張りをする程度の能しかない低俗な族だな。
よくも私の思い通りに、踊って呉れるものではないか、なあ?
愉悦に浸りたくなるのを必死で堪え、兆は崩れ落ちかける己を立て直す自分、と演じる。だが、そんな自分もまた愉快で堪らない。
「我が一門が与りし獄舎ではありますが、我が立ち会えぬ故、暫しの間、獄の使用は待つようにと命じた筈であるのに、何時の間にか獄が動き出しております。なれど大令様は獄舎に居られず、獄を御使用になられる素振りも見せてはおられませぬ。此れは一体、如何なる仕儀でありましょうか?」
「そ、其れは……」
下手をすると笑い声が漏れ出てしまうのを必死で飲み込むと、自然に言い淀むようになる。兆は己の芝居の才能にいっそ惚れ惚れとした。
「大令様が此方に居られるのならば、獄を使用しておられるのは何方なのですか?」
「……」
兆は息を止め、次いで仰々しく肩を上下させて盛大に溜息を吐いてみせた。
「……右丞だ」
「右丞様? 右丞様、ですと?」
丁度良い……実はな、と兆は訳有りげに肩を竦めつつ首を左右に振った。
「隠し仰せる訳ではないし、何よりも其の方らは刑部の者だ」
勿体ぶって前置きをする兆に、徹の顔面が食いついてきている。
親ほど年の離れた徹を手玉にとるのは、小気味良く痛快だった。
まるで――実父と養父を手玉にとっているかのように。
「我が部下である右丞・鷹を庇おうとした罪は認めよう。だが礼部が、この件に関して秘密裏に処理せんとしたのは、偏に、右丞の父君が兵部尚書殿である、という事実からだ」
「兵部尚書様をお庇いあられて、と言われますのか……?」
其れだけではない、と兆はゆっくりと頭を振った。
如何にも、事ここに至りてはいかんともしがたし、と言いたげに、である。
「郡王陛下に罪を問われて台獄におらねばならぬ身でありながら、赦しなく言葉も発せられぬ身でありながら、右丞の奴は品官が卑しき者を脅して獄を脱しただけでなく、私の名を謀り、誰ぞを私刑にかけんとしておるようなのだ」
殊更に名を暈しておいたが、囚獄・徹は明らかに右丞が誰に私憤私怨を抱いているのか、既に見当をつけているのは、明白に狼狽えて泳ぎだした視線が物語っている。
――右丞殿……と言えば、散々と悪態を付いていた相手がいるではないか。
徹は静かに目蓋の裏に、祭国の台獄からこの禍国の道程まで自身が引き受けてきた拘囚人が、唾を飛ばしてわめきたてる姿を思い浮かべていた。
「大令様」
「何だ?」
「……いえ、右丞様、といえば祭国郡王戰陛下の御身内の中でも一番の濃い御関係にある義理妹姫様の夫君であらせられる真殿という御方が異腹弟君にいらっしゃいますな?」
そうだな、と声に苦味が走らぬよう気を払いながら兆は答える。が、羹の鍋に放り込まれたかのような、鋭い痛みを伴う怒りが全身を貫いていた。
――側妾腹の出の癖に何が殿だ、御方だ。
郡王陛下の御身内などと称される身分か。
毒づきたくなるのを必死で堪える。せっかく、囚獄たちは右丞はもしや、と疑念の目を勝手に向け出して呉れているのだ。此処が肝要だ。
――此処で右丞に全ての罪を覆い被せてしまうのだ。
此方から言い出した事ではない分、怪しまれる事はない。
上手く切り抜ければ、郡王陛下にしがみつく不遜な輩どもを一気に蹴落とせる。
「事を下手に荒立てては、と実は此方も慎重に動いておった処でな。其の方が知っておるのであれば頼みとしやすい」
縋るような目付きをしだした兆に、徹は無骨そうな厚い唇を微かに引き締めた。
背後に従う男たちも、眼球をちろちろと動かして何やら意思の疎通を図っている。
此方の言葉が何処まで事実かどうか、信用に足るものであるかを探っているのだろう。
だが、兆には解っていた。
――奴らは、私の言葉を確かめねばならぬ。
確かる為に囚獄に戻れば、どうなるか……。
哄笑したくなるのを必死で堪えていると、肩が震えて顔が顰面になる。
それさえも、今の囚獄たちの目には必死で礼部内で右丞・鷹を引いては兵部尚書・優の身を慮っていたために耐えていたのだと映っているのだろう。
兆は早く囚獄たちを退室させて思う存分、笑い転げたくて仕方なかった。
★★★
「……承知仕りました。では確認の為に我らは一旦囚獄の敷地内に戻ります。が、仰られた通りに右丞殿が勝手に獄舎を使われたとして、です。其処に囚われておるのは誰か、お心当たりはないでしょうか?」
「すまぬ……それは此の場にては協力出来ぬようだ」
分かりました、と徹は意外に素直に引き下がった。
兆が表立って真の名を出さなかった事に、囚獄が明白にほっとした表情を見せている。
自分たちが出口を塞いでしまったので、この部屋には礼部付きの舎人や内官たちが多く残っている。彼らの耳に、兵部尚書の長子である右丞が事もあろうに祭国郡王である皇子・戰の身内となった異腹弟を私刑にかけようとしてると証拠を残してはならない。
――此のまま奴らが己の獄に戻り、そこで真とやらを右丞が責め苛み続けている処に出会せば……。
その場面を思い描いて、兆は恍惚となる。
どの様な言い逃れも申し開きも出来まい。
後は、私の思う壺だ。
兵部尚書を救うには、この私が必要となる。
策の通りに事が進むとは斯様に胸がすき、快哉を叫びたくなるのだな。
――多少、予定は狂ったが……。
兄上、感謝致しまするぞ。
くつくつと喉が鳴りそうになるのを必死で堪えつつ、一礼して退室しかける徹を兆は呼び止めた。
★★★
「刑部とても常に任務をこなす人員が少なく苦しかろう。斯様な折に此のような事を頼むのは気が引けるのだが……すまぬ、此方に来て貰えぬか? 見て、確かめて欲しい物があるのだ」
兆がくるりと背を向ける。
ついてくるのが当然、と言いたげだが、徹たちの身分では否やは口にできない。
顔を顰めて見合わせつつも、後をついていく。
執務室の隣に設えてある控えの間に、兆は入っていく。
彼の一門の栄耀栄華を示すように華美に走ったものであるかと思いきや、落ち着きと趣のある造りに徹たちは居心地の悪さを感じだ。徹たちの尻の落ち着きのなさになど気付かぬまま、兆は黒檀製の飾り棚の前にすたすたと歩み寄る。
「此れであるのだが」
指し示す先には、巨大な鳥の羽根を組んで作られた団扇が煌々とした白い輝きを放っていた。
見聞きした事もないが、えもいわれぬ高貴さと自然と醸し出される気品に、徹たちは一瞬、恍然となる。呆けたなりをふっ、と兆に鼻先で笑われて初めて自分たちの失態に気が付き、慌てて衣服の衿や裾を正したり咳払いしたりして取り繕う。
「大令様、此方は?」
「其の方らの身分では目にする機会なぞは有りはしないからな。存在を知らずとも咎め立て出来ぬか。此れはな、翳というのだ」
「こ、此れが!?」
幾ら品官が賤しくとも、翳という言葉とその意味くらいは知っている。
朝貢品として、遠き国より納められる逸品であることも知っている。
知っているからこそ、身分を当て擦りながら言い放つ兆に徹たちは反発心を覚えながらも、産まれて初めて見る翳なるものの姿に度肝を抜かれて言葉もなく硬直した。
此の場にいる徹は一番身分の高いが、囚獄でさえ品官は7品だ。特別な措置を得て王城への雲上を許される事はあっても、玉体の住まう正殿に上がることは許されない。だから殿上人が集う王の間のでしか拝謁の叶わぬ皇帝の持ち物を目にするなど、正しく雲の上の世界の出来事であり、死ぬまで縁のない世界であるのだ。
醜態だと分かっていながらも、皆、ぽかんと口を半開きにして翳に見入る。
神々しくも尊い有り様は、皇帝陛下の玉体を不快な熱より守る為にこそ、というのも頷ける。
――ですが、と徹が呻くように声を絞り出した。
「しかし……何故、翳が大令様の室にあるのですか?」
徹が疑念に溢れる湿った声音で問うと、兆は彼らかは見えぬ角度に顔を逸らして、にや、と口角を持ち上げた。
「無論、私が宝物殿より無断で持ち出したのではない。実は此れはな、我が父上が仕えし皇太子殿下の御生母に当たられる、徳妃・寧様の宮女から持ち込まれたものなのだ」
「徳妃様? 徳妃様の宮女がどうしたと?」
突然、思いもしなかった名前が飛び出してきて、徹たちの間に戸惑いの濁った空気が流れていく。
自分の思惑通りに事が運んでいる喜びがぞくぞくと背筋を上がる感覚に酔いながら、兆はそうだ、と頷く。
「我が礼部が預かりし宝物殿に保管されておったこの翳を、我を通さずに持ち出し、剰え勝手に利用しようとした不届きな輩がおるのだ」
「徳妃様がお命じあられた、と?」
徹が訝しげに眉を潜める。
何処からその情報を得たというのか?
後宮内において、確かに徳妃は数ある妃たちの中でも最も高品である三夫人の御位にあり、しかも皇太子の生母である。其の父親は禍国開闢以来の名門を仕切る大司徒・充であり、つまりは、後宮において最高の権勢を誇っていると言って良い。
しかしだからと言って、細部に至るまで力が及んでいる訳ではない。
大司徒・充は六部を切り離して九寺を味方につけた。
しかも礼部は特殊な性質である上に、大司徒・充と対立していた大令を弟の中が務めていたが故に、六部の中でも兵部と刑部と並び、最も大司徒の力が及んでおらぬ部署である。特に不浄職である刑部とは深い溝というか亀裂が入った付き合いしかない為、全容を知る者が圧倒的に少ない。囚獄という内側に篭る役に就いている徹たちには、尚更であった。
「無論、礼部の長である私が最も疑われる立場であることは、重々承知しておる。だが、知っての通り、私は最早、皇太子殿下とも二位の君とも繋がりがない身であるからな」
「では、一体何方が……」
指摘しようとした処を先んじて制された徹は、明らかに戸惑いに暮れる。言葉を失った徹たちの未熟さに、兆は内心で嘲り笑った。
「知らぬのか? 我が養父である先大令様は、今は皇太子殿下の元にて帳内として仕えておるのだぞ?」
「つまり、先大令・中様が、という事ですが?」
もしも先大令・中が己の残した派閥勢力を使い、礼部が執行すべき権限を犯したのが事実なのであれば、越権行為も甚だしい上に勝手に御物を持ち出した罪すら背負う事になる。
「さぁて、な? もしかしたら、今の皇太子殿下の後楯として豪腕を奮っておられる我が父が関わっておるのやもしれぬ。その辺は、己の罪に慄いて自主してきた女官を交えてよく調べるのだな」
兆が顎を刳ると、戸口を塞いでいた男たちの脇を摺り抜けるようにして、一人の女官がおずおずと進み出てきた。
俯いている為、前髪が垂れて表情は窺い知れないが、見え隠れする額は緊張からから、それとも悔恨からか、酷く青白い。
一言も発する事無く俯いたまま息を殺して肩を窄めて小さくなっている女官を前に、徹は鼻白んだ。
「其の方」
「……」
「見た処、内人のようだが……。娘、証言したとて其の方の罪は消えぬ。罰を与えられる事は承知の上での出頭であるのだな?」
徹が念押しすると、女官は凍えているかのように身体をぶるぶると震わせながら、小さく何度も首を縦に振った。腰に手を当て、そうか、分かったと徹は嘆息する。
「大令様、其れではこの女官は我々でお預かり致しても宜しいのでしょうか?」
「ああ、勿論だとも。良いようにしてやってくれ」
徹たちが一礼を施して部屋を去っていく。
波が引くように気配が一気に消えると、兆は思う存分、腹を抱えて笑いだした。
いい様だ!
父上!
そして義理父上!
右丞に兵部尚書!
そして、そして、そして――
真とやら!
突然、囚獄たちの襲撃に近い訪問を受けた時は、此れ程に上手くいくとは思ってもいなかった。
だが、天の星の動きは私に味方した。
全てが、思うように流れていく。
――此れで後は、右丞の阿呆と我が一門の馬鹿どもが揃って縛につけば万々歳、というわけだ。
「……うくっ……くっくっく……ふっふっふ……ふっはっはっはっ……、はぁ~っはっはははは! どうだぁ! ざまを見ろぉ!」
徐々に声を張り上げながら、兆は笑い転げる。
勝利は蠱惑的な輝きを放ちながら眼前にある。
そしてそれは、手を伸ばさずとも其の内に勝手に自らこの腕に転がり込んでくる。
――と、此の時の兆は確かに信じていた。
★★★
高い鐘の音が響きだした時、兆は油断しきっていた。
いや、油断という表現はおかしいかもしれない。
――己ほど瑕瑾なき者は、最早、禍国全土、いや中華平原を隈無く掬いあげたとしても見付けられまい。
兆の自己評価は行き着く処まで肥大していたのだった。
だから直ぐには鐘の音に気が付けなかった。漸く、執務室の戸や壁を微かに震わせている音に気が付いた兆は、天井を仰ぐようにして音を耳で追った。
「なんだ……?」
部屋の端に据え付けてある時香盤の灰の動きを見てみれば、先程から一刻程しか経っていない。
――よもや、此のような短時間で獄舎でのけりがついたというのか?
首を捻るばかりであるが、それ以外には考えられない。
すると、ばたばたと慌てふためいた舎人の脚音が此方に向かってくるではないか。やれやれ、と肩を竦めつつ首を振る。
――先程と変わらんではないか。
呆れつつも、此れで一つ、片がついたのだと思えば赦し与える為の笑も自然と溢れてくる。兆がゆっくりと椅子から立ち上がるのと、舎人が部屋に飛び込んで来るのとは、ほぼ同時であった。
「だ、だ、大令様! お、おに、おに、おにっ……!」
「落ち着かぬか、何だ」
苦笑しつつも、兆が舎人を宥めてやると舎人は何を暢気な事を仰せになられまするか! と逆上して、盛りの最中の猫のように毛を逆立てて叫んだ。
「そ、それ、それ、それ、それが、その、あの、その」
「落ち着けと言うに! 何を其の様に慌てておる!」
身分を弁えぬ舎人の逆上に、些か腹をたてた兆は眉根を寄せつつ声を荒げる。
「刑部です! 刑部が御史台を引き連れて此方に参られておられます! しかも、しかも刑部尚書様、御自らお出ましになられておられます!」
「何だと!?」
兆は机を飛び越え舎人の衿首を掴かむと、ぎりぎりと締め上げた。




