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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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22 罪と咎と罰 その3

22 罪と咎と罰 その3



「更に帝室の血を引かずして袞冕こんべんを纏う大罪! 12章は天涯の主たる天帝により帝王の証として授かるし玉体こそ纏うべきもの! 卑しき身にて袖を通し帝を称するとは言語道断! 万死に値する罪、七世先の魂までをもって贖うがいい!」

 容赦のない戰の断罪の言葉が王の間を駆け抜ける。

「戯け者が!妾が後楯になればこそ、この3年間無事に生き延びて来られたのじゃぞ! 其の恩義を忘れ何たる言い種じゃ! 捉えよ! 妾を侮辱せし罪を思い知るのじゃ!」


 戰の命令に力を得た兵仗や殿侍たちは、一斉に動き出した。見苦しい巨体をぶるぶると震わせる安に、我先にと向かっていく。

 彼らの表情には喜びの笑みが浮かんでいた。

 己の職務に誇りを抱いて動くなど、一体何時以来であろうか?

 皇帝宛らの威風で命を下して呉れた皇子・戰に感動振奮せぬ方がどうかしている、とばかりに奮起して迫り来る兵仗らに安は蒼白となった。

「な、何をしやるのじゃ!? わ、妾を誰と思うておるのじゃ! だ、代帝じゃ! 妾は代帝・安じゃぞ!? 禍国の今上帝なのじゃぞ!?」

 唾を飛ばし袖から覗く白く弛んだ腕をぶるんぶるんと撓ませて、安は叫ぶ。玉座の背によじ登った安を引き摺り下ろそうと、兵仗たちの腕が幾重にも重なって伸びる。

 沓先で指を蹴り飛ばて抵抗しながら、不埒者めら、触るでないわぁ! と、我儘放題の餓鬼の様に安は喚き散らす。


 安の醜態を前に、皇太子・天も大司徒・充も、二位の君・乱も帳内・中も、身動きを封じられていた。

 しかし天と乱と、そして充と中とでは受取り方がまるで違っていた。

 皇子たちには余裕があり、その叔父たちには此のままでは破滅に向かう、何としてでも阻止せねばという絶望一歩手前の悲壮感に額をくすませて沈んでいる。


 顔色を失くす叔父たちを余所に、もう天と乱は緊張感を解きかけている。

 ――此のまま安叔母だけに全ての災厄を押し付けてこと(・・)が過ぎ去ってくれれば。

 今まで戰の奴は、最後まで追い詰め退路を断ち進路を奪う事は決してしなかった。

 私の肩に皇太子としての尊号が残っているのが良い証拠だ。

 ああそして、代帝なぞと烏滸がましく名乗りのさばっていた叔母さえ、あの白豚のようなでかい尻を上げていなくなってくれれば。

 皇帝の座を巡る双六すごろくは仕切り直しとなる。

 賽子さいころの目を一から振らねばならなくなる。

 と、なれば皇太子の地位を剥奪される事なく此処まできた私が、一番近い升目から賽子さいころを振れるではないか。

 にやり、と天は嗤う。

 ――自分もまだ、皇帝の座が手に届く範疇内に在る。

 此れまでも自分たちを追い落とす機会は、幾らでもあった。

 だが、句国との戦の後ですら、安叔母と義理兄上あにうえを生き残らせたではないか。

 つまりは、最後まで手を下す度胸なぞありはせんのさ、恐ろしがっておるのさ、同族落としの汚名を着るのを。

 そんな戰の奴が糾弾するとは、ましてや帝室より追い落とすなどとは到底思えん。

 結局、奴は許すに決まっているのだ、甘甘にしか生きられれぬのさ弟殿は。

 なぁに、義理兄上あにうえと戰、二人で精々、頭を噛み砕きあう蛇の如くにやりあってくれ。

 私は其の方らの尻尾を軽々掴んで捨て、玉座に就くことにするさ。

 爪を喰みながら、ふふん、と乱は目を細める。


 其れは奇妙な自信だった。

 今迄、散々自分たちは戰の権勢も地位も名誉も命も宿星すらもわんと血道を上げ躍起になってきたと言うのに、戰は牙を剥く事はしなかった。

 皇帝の座に座らねば命運尽きる位置に居ながら、最も巨大な敵である自分たちに、戰はとどめをさそうとはしなかった。

 戦勝につぐ戦勝、輝かしい実績をもってすれば幾らでも出来た筈であるのに、結局戰は、常に己より兄弟を優先し続けたのだ。

 だから今回もそうなる――と、皇太子も二位の君も余裕をもって眺めているのだ。


 そんな2人に色を失くしているのは帳内、そして彼よりも一段深い位置に居るのが大司徒だった。

 ――何を糞呑気に構えておるのか。

 自分たちの都合のいい方に事が転ぶと信じて疑わぬ見事過ぎる能天気さに、充は憚りも忘れて盛大に舌打ちした。

 ――先程、安を糾弾した際、皇子・戰は大司徒一門(・・・・・)、とはっきりと口にしたではないか。

 何を聞いて見ていのだ、か? か?

 貴様らの脳は中身がちゃんと詰まっているのか?

 其の方らの母の血は何処から来た?

 其の方らの後見人の家門は何処だ?

 都合の良い事しか、見ず、聞かず、事実すら捻じ曲げて受け取る安楽さは確かに傀儡の帝王としては最高であるが、今、此の場では蹴り飛ばして踏み潰してやりたい馬鹿者でしかない。


 ちらり、と皇子・戰の横顔を盗み見る。

 と、気配を察知したのか、ぎろり、と目玉が動いて此方を真っ直ぐに睨み据えてきた。皇子戰の本気がぎりぎりと腹を抉ってくる。

 私を罰する意思ありと意思表示した――あの(・・)皇子・戰が!

 ――此れまで、こんな事は一度たりとてなかった。

 決して歯向かう事も抵抗する事すら知らぬとばかりに大人しくしていた相手を調子にのって甚振り続けていたが、実は青龍の逆鱗の真ん前で唾を吐き土を蹴っていたのだと思い知らされた。


 ――どうする、どうする、どうする……!



 ★★★



「よるなぁ! えぇい、よ、寄るな! 寄るなと云うておるに、何故聞かぬ!」

 妹の安は兵仗たちに取り囲まれながらも、まだ抗い続けている。


 玉座の背に四肢を絡めて喚き続ける醜態は、だがまだ安が己の立場を理解している証拠だった。

 安は皇后から皇太后へとなれる身分と云えども、太子となる皇子を産む事が出来なかった。それ故の危うさから、代帝などという詭弁を弄して身を大きく見せていただけだ。その分厚い衣が剥がれ落ちる時が、全てのものからの失墜と同義語である以上、誇りも何もかなぐり捨てて足掻くのは当然であろう。

「嫌じゃ! 嫌じゃあぁ! 誰ぞ助けよ! 妾を助けよ!」

 ちら、と隣を伺うと、弟である中も微妙な表情で腰を浮き立たせていた。

 どう出れば良いか、あぐねているのがありありと分かる。だが中には、自分とは違い、微かな希望に依り掛かった余裕が微妙に顔を覗かせているのが癪に障る。


 ――中の奴め。

 もしも皇子戰が一族郎党に連座の責を問う、とでも宣言した場合、直系の家門を継ぐ自分もその血を引く娘・寧も同じく拘囚人となる。

 だが、其れは中も、中の娘である貴妃・明とても同罪だ。

 そして皇子・戰が、己が妃と我が子を貶めた咎を贖わせんとした場合、二位の君・乱はまず確実に縄に掛けられる。

 しかも乱は大令の言葉であるとして、兆をも巻き込んでいる。

 ちちちっ、と大司徒は舌打ちを激しく続ける。

 ――だが……。

 皇太子・天は明確な讒言を口にはしていない分、天は首の皮一枚で生き残るやもしれぬ。

 天は言葉を濁して誘導しはしたが、乱のように直接的な表現で貶めてはいないからだ。

 ――天の奴が生き延びれば、中と寧もと、我らの門閥に属する者共が救済を願い出るに違いない。

 あの甘い皇子・戰の事だ。今でこそ怒り我を失っておるが、落ち着きを取り戻しさえすれば生来の甘さも戻り、命を安堵されるやもしれん。

 そうなれば頭上に皇帝もして至尊の冠を抱くのは、正式に父帝・景より正式に立太子され印綬を授かっている天、という流れになる。

 この戰の糾弾より安が皇太后の地位より転落するのは明白、なれば天は母である徳妃寧を国母であるとし、堂々と三夫人の位の母へ、改めて国母のみならず皇太后の称号をも贈るだろう。

 ――天の奴を切り捨てたが故に、此の私が政治の表舞台から姿を消す……だと?

 だが其の悪酔が見せる悪夢の様な恐ろしげな世界がすぐ傍で大口を開けて待ち構えているのだ。牙を研ぎ澄まし、長く、粘液を纏った舌で此方を絡め取ってやろうと虎視眈々と睨め付けているのだ。


 中が、こそりと何か天に耳打ちする。

 すると益々持って天はお気楽気分丸出しになり、玉座に蝸牛の様に張り付いて離れない安の醜態を見物し始めたではないか。恐らく、今しがた己が描いたものを吹き込まれたに違いない。その証拠に中は此方をゆっくり見、にやぁり……と殊更に薄く笑ってみせている。

 ――糞おのれらめがぁっ!!

 叫びかけた充の脚を止めたのは、安の悲鳴だった。

 安はまだ、しつこく玉座に張り付いている。

 戰の赦しが出たとはいえ、兵仗たちの身分で玉座を穢す不敬を犯せるわけがない。まして、玉体を包む神聖なる袞衣になど触れられようか。剣も棍棒も使えない兵仗たちは、恐ろしげな声をあげ遠巻きに柄を鳴らして腕を振り、安が自ら降りるように仕向けるしか手段がない。

 安も其れが分かっているからこそ、玉座にへばり付いてこの事態を逃れようと足掻き続ける。

「あ、彼方へ行け! 行けと言うておるのじゃ! しっ、ししっ!」

 片手をぶんぶんと振る様子はまるで、尻に噛み付こうと狙いすます野犬を追い払っているようで哀れというより滑稽さしかない。


「見苦しいぞ、安。大人しく縛につけ」

「喧しい! 属国に堕ちた国の婢を先妣せんぴとした卑しき血が流れておる癖に!」

 優が憤怒も露わに進み出かけると、戰が腕で止めた。


「禍国帝室の尊き血を皇帝・景陛下より継ぎし皇子・戰として許す! どの様な手段を用いていもよい! 玉座を穢せし賊臣・安を引き摺り下ろし捕えよ!」



 ★★★



 この上更に、産みの母親までもを賤しめられて激昂せぬ方がどうかしている。

 朗らかな人柄で知られる戰が、声をあらげて眦を裂き息遣いを乱して叫ぶ姿は、帝王の御使である龍が鱗を逆立てて雷を放っているかのようだった。

 偃月刀えんげつとうに飾られた金の房が、戰の放った怒号の気合に共鳴してぶわり、と身を膨らませる。

 ひぎぃ! と恐怖に引き攣り涎を垂らしつつ安は悲鳴を上げる。

「く、くくく、来るでない! 来るな! 来るなと云うておろうに!」

 ぶんぶんと見境なく、やたらめったらに腕を激しく振りたくる。

 肘掛の部分に爪先を掛けて更に上に登ろうとした、まさにその時。

 安は、己の身体が如何に愚鈍な動きしか出来ぬ肥大しきった肉の塊に過ぎぬかを思い知らされた。持ち上げた筈の足は僅かにも上がっておらず、逆に沓裏は肘掛の背の部分を強く押した。安の巨体はぐらりと傾き、ひぎゃあぁぁっ! と淫らな叫び声を上げると同時に、ぶよぶよと肉の詰まった指が背凭れからも離れる。


「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あああああああああああひぎゃああああああああああ!」

 絶叫と共に安の身体は玉座より浮いた。

 背凭れより引き剥がされた安が、床目掛けて落ちていく。どすり、と米袋を落としたかのような重い音が響き渡った。壇上の床に、背中から落ちたのだ。

 だが其れだけ止まらない。体重が平均的な女性の倍近くある安の身体は、落下により転がる速度を余計に得てしまっていた。勢いのまま、安の身体は壇上から更に階段を一段一段鞠のように弾みながら、遂に皇子たちが立つ壇下へと転がり落ちた。

 あぐ、うぐ、あぐ、おぐ、と喘ぎ、痛みに身悶えしながら安は半分白目を剥いていた。唇の端には涎が泡となって浮かび、弛んだ頬の肉がびくびくと痙攣を起こしている。

「た、たすけ、たすけ、たすけ・るのじゃ……は、はよう……はよ、う……い、いたい、いたい、いたい……し、しぬる、こ、このままでは、わ、妾は、し、死ぬ、死んで……しまう……し、死ぬのはいやじゃ、嫌じゃ、嫌じゃ、は、はよう、早う助けよ、助けぬか、い、い、いたい、いたい、痛い、痛い痛い痛い痛いぃぃぃぃぃぃ~!!」


 びくびくと戦慄きながら、痛い痛いと涎の泡と共にぶつぶつと呪禁のようにこぼし続ける。

 浅ましくも醜い醜態を晒し続ける安を前に、品位の低い母を持つ皇子や王子たちは愕然とした。

 今、この場でこの愚かな女を罰しておかねば、禍国はたしかに滅びの一途を辿るだろう。

 いや、既に衰退の途に首を突っ込んでいるのかもしれない。

 兵部尚書の地位に優がついてより十数年。

 そして皇子・戰が軍畑に身を投じてより禍国はほぼ負けを知らずにいる。

 だが、この二人が居なくなればどうなるというのか?

 誰が隣接する列強よりこの国を守るのか?

 郡王となった戰が、自領を攻めらでもしたら幾ら本国を救えと命じられたといえども、宗主国と崇める国とはいえ祭国が許すまい。

 そうなった時、祭国を引き連れて郡王がこの国を攻めるとは限らない。

 何としてでも戰を祭国郡王としてではなく、禍国帝室の血を引く皇子として自覚させて引き留めておかねば自分たちこそが危うくなるのだと、今更、皇子たちは肺腑が千切れそうな危機感と共に思い知ったのだ。


「囚えよ。いずれ正式に全ての罪に問う」

「や、やかま・しいわぁ! わ、妾を誰と心得ておる! 代帝じゃ! 帝に代わりて禍国を統べし貴き身じゃ! 其れを罪に問うとは何たる無礼! 何たる不敬! 其の方こそが業火に焼かれる罪に落ちよおっ!!」

 痛みが過ぎて意識が戻ってきたのか、両腕を取られた安はまだ口角に泡の玉をこびり着かせてはいるが、徐々に言葉をはっきりとさせだした。何という、あろう事か極端に肉のついた身体は背骨や臓腑を守って、さしたる損害を与えはしなかったのである。

 玉座がある壇上から落ちた事により、兵仗たちが一斉に安に向かって突進した。腕や脚をとり、安に縄目をかける。


「何をするのじゃ! やめよ、やめぬか! ええ、この糞虫どもめ、離せと云うておるに!」

 ぶんぶんと身体をくねらせる安の巨体が、遂に持ち上げられた。まるで、蟻によって巣に運ばれる芋虫の様だ。

「せぇぇぇんっ! この所業の罪! 覚えおくがいいわぁっ! 覚えておくのじゃぞ、この下郎めがぁっ!」


 安の身体は、灯火もない真暗な昏い回廊に引き摺り込まれていく。

 まるで彼女のくらい未来を暗示してるかのようだった。



 ★★★



 全身をじりじりと脂汗に浸しながら、大司徒・充は妹の恥ずべき姿を見送った。

 ふと気が付けば、彼の奥に立つ皇太子・天も、弟の帳内・中も、娘である徳妃・寧も、にやにやと薄ら笑いで見送っているではないか。

 ――安を軽侮できるような立場か。

 だが、彼らは自分と二位の君・乱と貴妃・明よりは格段に立場が良い。

 おのれ、と大司徒は舌打ちし、その音に呼び出されたかのように、戰が彼らの方に振り返る。

 6尺三寸を超える偉丈夫である戰の沓先が、じり、と鳴った。


 兄上、と戰が更に一歩を踏み出した。

 この期に及んでもまだ、へらへらとしている天と乱に、其々の背後で控える充と中は此の時ばかりは互いの顔を見合わせた。

 久しく真正面から見た事がなかったが、嫌になる程、自分たちは似ているのだと自覚する。

 顔付きだけではない。

 考え方――そう、権力に対しての執着の度合いまでも。

 我こそが一門の長として全ての栄耀を手にする選ばれし者であるという自負と、何事にも一歩及ばぬが故に英華を根刮ぎ己のものとせねば気が済まぬという意地との違いこそあれ、天と乱は皇帝の座を長らく求めてきた。其れは退っ引きならぬ皇子・戰の立場からは、到底推し量りもならぬものだろう。


 ――全てを我が手に、の意味が違うがな。

 だが、視線が絡んだのも一瞬の事であった。

 ちっ、と充は舌打ちし、はっ、と中は肩を揺らして視線の結び目を断ち切った。今、此の時も自分たちの間の政争は終結を見ていない。

 食うか食われるか。

 己の一生と家門の永代を賭けた正念場なのだ。

 ――今は、中なんぞを相手にしている暇なぞないわ。

 自嘲を込めて充は姿勢を正す。

 相変わらず、皇子・戰は此方を睨んでくる。真っ向から挑んでくる姿は麒麟児とはかくなる者と、讃えたくなる。敵対する皇子とはいえ、惚れ惚れと見惚れずにはいられない。誰であろうとも彼の優位性、比肩する者などない類い稀なる天賦の才に疑いなど持ちようもない。正に天帝より賜った天与の資と言えよう。

 先天的な技倆の差、即ち、俊秀さ、智嚢ちのう、俊傑さ、聡慧さをいとも容易く宿星として身に纏い生まれてこようとは。

 天涯の主人あるじである天帝を筆頭に瑞獣たちにまで如何に愛されているか。

 英邁な君主として立つと生まれながらに確約されている者と、凡庸以下に生まれついたどうにも救いようがない者との間に産まれた当然の格差は、かくも無慈悲であるのかと実感させられる。


 ――だが、嘆いていてどうとなるものではない。

 糞の役にもたたぬ皇子であろうと、兎に角に役立って貰わねばならぬ。

 刑部尚書は今、充の息子である大保の屋敷に向かっているのが唯一の救いと言えた。

 安の奴が己の譫妄せんもうをそのままぶつけたのが、よもやこのような形で功を奏するとは。皇子として郡王として刑部に命じたくとも、機能するには暫くの間は時間を稼げよう。

 ――その間になんとか事態を打破せねば。

 このような形で何十年と君臨してきた政界から追われてたまるものか。

 自分を誰だと思っている。

 大司徒だ。

 三槐さんかいを束ねる長として、皇帝の背後に影として侍り、事実上この禍国を牛耳ってきたのは誰でもない。

 此の私だ。

 ――私は生き延びる。

 私が生き延びるとは即ち、禍国が息づき動き続けるという事にほかならぬ。

 だが禍国を動かすには皇帝がおらねばならぬのだ、傀儡としての玉体・・が。

 その中身のないうつほの玉体となるべき二位の君・乱は、戰の怨讐の波に此れだけ当てられていてもまだ、彼は手を下さないという根拠のない自信に余裕を見せている。いや、乱だけでなく、皇太子・天などは更にゆったりと構え楽しみ出している。


 ――馬鹿皇子どもめ。

 己の身の危険を察知するくらいの脳も持ち合わせておらぬのか。

 乱は言うに及ばず、天とても戰と彼の御子である星皇子と妃である椿姫をそしはしりしたのだ。喩え高位の妃を母としていようとも同罪として断されても文句は言えないのだと、何故、臓腑に恐れを抱かない。

 充は盛大に舌打ちする。

 その様子を、貴妃・明とそして僅かに離れた場所から、実娘である徳妃・寧が明白に媚びる姿勢で伺っていた。子供たちよりも何よりも、自分たちの身の危険を感じているのだ。

 幾ら代帝という殻をひん剥いても、安が嘗て皇后であったという事実は曲げようもない。皇太后として国母としての御名御璽を保持していたのだ。その彼女を、戰は一切の妥協も譲歩も見せることなく、果断に罪を迫った。つまり、安より品位の低い自分たちも当然、同様に脅かされるのだという恐怖心が寧と明の間には渦巻いていたのだ。


 確かに此れまで皇子・戰は、確かに天と乱が鷹揚に構えるだけの事があった。

 兄弟である彼らを最後まで追い詰めることはしなかった。

 其れは皇子・戰の最良の魅力であり最大の長所であった。無論、自分たちが付け入る隙という意味合いで、であるが。

 だが、今の皇子・戰はたがが外れている。身体しんたいの内に密かに飼っていた龍がを怒らせて飛び出してきたのようだ。恐れを抱かずへらへらとしている天と乱のお気楽な能天気さがいっそ羨ましい。


 不意に皇子・戰が背後の兵部尚書・優に視線を送った。

「兵部尚書」

「は」

 宰相にして兵部尚書の地位にある優は、流石に武人として勇を誇る一門の血筋らしく年齢の割に肩幅の広さや胸の厚み、腰周りや太腿の頑強さは目を見張るものがある。だが、その優すら、戰の堂々たる体躯の前には童の人形のようなものだった。

「刑部尚書に遣いを出せ」

「は」

 漲る喜びを力にかえた優の声音は嘗てない程の強さがある。直様、指示を出す背にも此処で一気にか勝負をつけてくれよう、という気概と胆気とに満ち溢れている。


「大司徒・充。及び帳内・中よ」

 戰に名を呼ばれた充と中は、来たか、と身構える。

 此の時になってやっと、天と乱は、彼ら二人が何故、戰に呼びつけられねばならぬのか、という不満をと尖らせた唇にのせてきた。

「其の方ら、何故、私に名を呼ばれたか分かっておるな?」

「はい」

「はは」

 互いに恭しく礼拝と共に返答を返す。


 この上は、逆らう様子を見せるのは得策ではない。

 恭順の姿勢を貫き通すに限る。能天気な皇子たちの目算通りに動くのは癪に障るが、服従の姿勢を取るものには強い姿勢で臨めぬ、踏み込めぬ性質を利用するしかない。

 生き延びれば良いのだ、首さえ繋がっておれば機会など幾らでも作り出せる。

 此の場を凌ぎさえすればよい、場を変えて糾弾さえできれば、どうとでもなる。


 だが駆け引きを持ち掛ける暇を、戰は大司徒・充にも帳内・中にも与えなかった。


「其の方らの主人あるじたる皇子・天と皇子・乱の罪を問う。反駁、抗弁の類いの一切を認めぬ」




※ 注意 ※


今話は作中に差別用語がございます


しかしこれは、あくまでも作品を描く上で必要なものと作者が判断した為のものであり、これにより差別を増長し促すものではありません


ご理解賜りますよう、お願い申し上げます


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