22 罪と咎と罰 その1-2
22 罪と咎と罰 その1-2
右丞・鷹が拘囚人を捕らえ、囚獄内にある獄舎に入ったと知らせを受けた大令・兆は、そうか、と尤もらしく頷いた。
使いの資人が下がり気配が消えたのを確認してから漸く、ぶるり、と肩を揺らした。
続いて、くつくつと篭った笑い声が洩れ始めたかと思うと、やがて其れは哄笑の渦となった。
「はっはぁ! どうだ! やったぞ! やってやったぞ!」
――今頃、兵部尚書の側室の息子は、箍の外れた扉が強風に煽られて爆音を立てつつ右へ左へと身を揺さぶっている様に、殴られ蹴られして踊っているに違いない。
其れも、半分とはいえ実の兄に、だ。
「どんな拷問を掛けておるのやら」
想像を逞しくする必要もない。
鷹があの糞生意気な真とやらに、あの手この手と間断なく拷問を下す姿が容易に思い浮かぶ。
笑いが止まらない。
笑い過ぎて鳩尾が痛くなってえずき始めたが、其れでも笑い続ける。
――何れ、半死半生に落ち入るであろうな。
いや、右丞の奴が手加減などするか。
かたわにでも、もうなっておるやもしれぬな。
「……い~い気味だ……」
呟きながら、兆は呼吸を整えようと椅子から立ち上がった。
兄である受から、計画を打診された時は驚いたが、それ以上に不審感しか抱けなかった。胡乱げな表情を隠そうともせず、使者としてやってきた博と言う男が差し出した木簡を受け取った。
が、示されていた言葉に、心が激しく揺さぶられた。
――最早、父上たち老害とも云うべき世代が闊歩する時代では無い。
どきりとした。
気合も動揺も見せぬ、淡々とした書体には当て擦りでもなんでもなく、ただ、己の心の真実を書き綴ったのだと兆にも伝わった。
脳内で幾つもの算段が絡み合いつつ目紛しく疾走する。
確かに父である大司徒と義父である先大令中の動きを具に見張っていれば、此度の視告朔の場にて郡王陛下糾弾し、政治的に抹殺するつもりなのだろう。
――ならば、ついでに郡王陛下の最大の後見人である兵部尚書も。
諸共に首根を抑え込む、良い機会となるのか、此れは……?
見えてきた可能性に、兆はごくりと喉を鳴らして生唾を飲み下した。
冷静に考えれば、右丞・鷹も自分に疑いを持たれていると感じているに違いないのだ。
疑念を払拭する為にそして何よりも嫌っている弟である真とやらを、大っぴらに、そして手加減など加えもせずに、拷問にかける事が出来るとなれば此方の思うままに踊って呉れるに違いない。
――先ずは、私の名で囚獄を押さえる。
そして右丞を挑発し、弟である真とやらを捕らえさせ拷問に掛けさせる。
郡王陛下の御性格であれば、最大の身内である真とやらを不当に扱われて怒りを顕にせぬ筈が無い。
責任が奈辺にあるのかを徹底して追求するであろう。
右丞が私怨を晴らす為に私の名を騙り、己が囚われの主となる筈であった囚獄にて、真とやらを獄に繋げ拷問に掛ける。
既に祭国にて陛下の判断にて拘囚人となった身に有るまじき暴挙だ。
責任を問われるとなれば、父親である兵部尚書も連座させられるのは必定だ。
可能性が確かになればなる程、兆は己の納得をより確かなものにせんと、何度も何度も頷く。
――其処で私の出番となる。
弾む心を隠すつもりも無い兆は、鼻歌混じりに部屋ある飾り棚に歩み寄った。
不浄な穢れに満ちた不随の者を召し抱え続ける事は出来ない。
大切な臣である男を汚した者も赦せない。
咎人の罪は一門の連座も免れぬ大罪であり、だが責任を問えば最大勢力を誇る後見人を失う事になる。
――解決には、私と言う人物がどうしても必要となる。
礼部の最高峰に在る自分の力を借りれば或いは、真とやらに別の場所を用意してやれるやもしれぬ。
右丞鷹の失態と、私の名を騙った責任を兵部尚書にまで及ばぬ様にする為にも矢張私が必要だ。
――つまりは、私を臣下に加え随一の身であると公言しさえすれば、全ては陛下の良い様に廻るのだ。
郡王陛下は敏いお方だ。
「私を召し抱えさえすれば、直ぐにお解りになられよう……」
何者が、一番御身に必要であるのかを。
★★★
自分でも気が付かぬ内に、椅子から離れて執務室の隣の控えの間に来ていた。相当、浮かれていると自覚し、自戒せねば、とは思うものの、この解き放たれた鳥のように浮き立つ心は静まらない。
飾り棚に飾られている団扇の一つ手を伸ばす間にも、ふふ、鼻から笑みが抜けて行く。
団扇にしては神々しい白き輝きを放つそれは、翳と呼ばれる皇帝の座にある者のみが持つことを許される品であった・義父である中が自分を通して嘗ての人脈を辿り密かに手に入れさせ、徳妃寧を通じて郡王、戰に対して贈ろうとされていた品である。
「兄上も、存外えげつない策を用いるものよな」
白い羽根の優美さに眼を細めつつも、兆にはその真価は分からない。
分かるのは、朱雀の姿に憧れ身を変えたとかいう言い伝えのある、孔雀とか言う鳥の羽根をむしり取って並べ直しただけのこの翳が、自分に良い運気の風を運んで呉れると言うことだけだ。
――郡王陛下がこの様な物に縋り、己を大きく見せようなどと本気で信じるとは。
人物を観る目が御座いませんなあ、義理父上。
受の宴に誘い出された中は、今やすっかり日陰の存在に堕ちた皇太子・天の復権の為に授けた知恵が、実は踊らされているに過ぎず、正確には罠であるとすら気付けなかった。
郡王陛下が皇子として初陣を勝利で飾った祭国戦の中身を深く吟味する事無く、戦闘による勝利では無いのだから備忘録に勝利の二文字を残すべきでは無い、などと本気で熱弁を奮うような男だ。
――推して知るべしの能無し、だな。
歳の離れた実姉である、寧などもそうだ。
自分が三男坊と言うだけで、顔も名前も、碌に憶えてなどいないだろう。妃となるべく婦人として最高の教育を受けた筈が、だが姉である彼女の中に在るのは、醜いばかりの肥大しきった自尊心と底知れぬ自己顕示欲だけだ。
――何をどうすれば、あのような脳足りんな妃教育が出来るのか、此方が逆に知りたいわ。
事実上の国母に近い徳妃・寧自らが、品位の低い才人の部屋に出向くなど有り得ない。
ましてや、手ずから団扇を贈られれば、落涙は錦を潤して感激せぬ者があろうか?
何者であろうとも拝謝して、受け取らずにはいられまい。
特に、養育者である蓮才人に実の母親以上に孝心を持って支えている郡王陛下は、才人という身分から、今後を鑑みて義理母を護ろうと徳妃からの申し出を断れる筈が無い――
と、受は中に囁いた。
黄金虫がころりと腹を見せて転がる様に中は受の策に転び、その腹の上に徳妃寧は覆い被さった。
しかし、勇んで才人の住まいである棟に向かった徳妃寧は、受の言葉通りにならぬ郡王戰に鼻の穴から怒りを噴出させて退出してきたと女官の化けた草の女が仔細を伝えると、兆は失笑せずにはいられなかった。
――そんな訳があるか、何処まで馬鹿なのだ。
笑いすぎて、女官姿の草が置いていった翳が涙の膜で霞む。
自主する女官は、これまた周到な事に受が用意してあるという。
まさに至れり尽くせりな上に、一門の者が有する崑山脈より高い自尊心と虚栄心を巧みに突いて糸を括り付け、自在に操っている。
――後は、此れが知らぬ間に盗まれていたが、罪に怖れを抱いた女官の出頭により事が露見した、と頃合を見計らって刑部に申し出ればいい。
命じた皇太子・天も、二位の君・乱も。
実行に移した義父の中も、天の母である寧も、乱の母である明も。
家門の長であり己の父である大司徒・充も。
――一族郎党、仲良く死を賜り大罪人として消えていくが良いさ。
残る最大の実力者である郡王陛下の頭上に、皇帝のみが抱くを許される至尊の冠が輝く瞬間は近い。
其の時、最も近い位置で立つ事を許されるのは、この私。
大令・兆だ。
――此度ばかりは感謝致しまするぞ、兄上。
兆は、一点の滲みすらない完璧な美しさを死後も誇示する孔雀の白い羽根の一枚に手を伸ばし、指で弾いた。
★★★
大令・兆が借り受けた獄に拘囚人が入ったと連絡を受けた後、その獄舎を預かる囚獄・徹から突然、登城命令を下すよう求められた刑部尚書・平は、今日は何という日だ、と深い溜息を吐いた。
品位の低い彼らではあるが、其の携わる業務故に直接指示を求められる案件も多い。
雲上を許されていない品位である為、刑部に赴くには出頭という形式をとらねばならない。雲上せねばならぬ、退っ引きならない場合であるのに、自らを呼び出す命令を求め、その上で刑部尚書平から、ひとやに登城命令を下して呼び寄せるのである。
手間がかかる事この上ない。が、忌職故の悲しさだと、この煩雑さを口惜しく思いながらも皆、諦めをもって受け入れていた。
――しかし、囚獄の職に就いている者のうちで徹が己の獄を離れてまで登城を求めてくるとは。
何かあったのか、と平は訝しんだ。
徹が現在扱っているのは大令・兆の私怨を裁く為の事案だが、大令が拘囚人である右丞・鷹の見受けを勝手でた上に、何処でも良いからと空きのある囚獄を求めて来た報告を受けた時、平は首を捻った。
大司徒の一門だけでなく、囚獄を求める際には此れ迄はほぼ代々に渡り贔屓、と言うのも可笑しな話であるが獄舎は指定して使用するのが慣例だからだ。
庶民は特に拘りがないが、高官に成ればなるほど、単なる政権争いの果ての鬱憤晴らしとどう違うのか、判断が難しい案件が増える。下手に痛くも無い腹を探られたり、妙な疑いを重ねたりすれば別の思惑有りと見做されて逆に刑部から提訴の憂き目に遭う。
それ故、極秘裏若しくは重要な訴えであればあるほど、囚獄を指名するのだ。最も、囚獄の世話になること自体が、既に重大事なのだが、世襲制な上に一徹者揃いの彼らの厳しい鑑識能力をもって見届けられたのだという、証が彼らも欲しいのだ。
兵部尚書・優は囚獄を使わねばならぬような状態に陥った事が此れまでにない。
だから分からないだろうが、大令が囚獄を指名せずに誰でも良いからと申し出た事が、どれ程異様か判ろうと言うものだ。
――何があった?
平はすらすらと木簡の上に筆を走らせる。
ともあれ、徹が申し出て来るのだから余程の事であるのは確かだろう。
「命令書だ、行け」
緊急事案を扱う刺繍が入った舎人の袖口が木簡に伸び、礼拝の姿勢もそこそこに翻った。
★★★
――大保の屋敷がどうなったか……。
ええい、まだか!? まだ大保の屋敷から戻らぬのか!?
焦れながら連絡を待つなど、久しく味わった事がない。
囚獄・徹から報告を受けた平は、即断した。
己の代わりに大保の邸宅に送りだし、自分は王城内に留まったのだ。
が、こうなると矢張、自分も出張った方が良かったのかもしれないと、腹の底をじりじりと焼きながら思う。仕事も手につかず定刻の事案報告も耳に残らない。
今か今か、と待ち侘びていた平に、再び徹からの呼び出し要請が入ったと舎人が駆け込んできた。
「おお! 待ち侘びたぞ!」
今度は、最初から木簡を用意しておいた為、舎人は蜻蛉返りで退室する。
直ぐに対応できるよう、別室で待ち構えていたのだろう。ほぼ入れ替わり状態で徹が入室して来た。顔色も変えずに平は礼拝無用、と言い放つ。
「仔細を」
左右を確かめてから、徹はお赦しを、と背中を丸めて小さくしつつ平の耳元に忍び寄った。
ぼそぼそと低い声で徹が呟き始めると、平の額が見る間に曇り、眉間に深い皺が刻まれていく。だが最後まで話を聞き終える頃には、逆に全身をぎらぎらとした活力が漲っていた。
「よし、では其の方は、先ずは大令殿の執務室に赴き、右丞・鷹の件を罪に問え。其の上で己の預かる囚獄に出来るだけ速やかに戻り、獄内で行われていた全ての余す事なく細部に至るまで調べ、報告を上げよ」
「は」
徹が短く礼拝を捧げて殆ど翔けるようにして退室する背中を、平は一瞬、眩しく見詰めた。
しかし、直様舎人たちを数人呼び付けて命令を下し直す。
舎人たちの顔にも皆一様に、これまでに無い強い輝きが生じ、まるで弾む様に命令を遂行せん散って行く背を見て、平は今度は苦笑する。
が、直ぐに苦笑を収めると、平は握り拳を掌打ち付けて気合を入れた。
ばち、と掌が鳴り、続いて一つ一つの指の関節が、ぼきりごきり、と音を立てる。
「見ておれよ。此度こそ、一族郎党、根刮ぎ一網打尽にしてくれるわ」
平はふん、と鼻息荒く若造のような気合を入れながら、椅子を蹴倒し立ち上がった。
★★★
続いて掲げられた御子・星の宿星図が、父親である戰の其れの隣に並べられる。
「星と月が齎す運気の流れを精査するまでも御座いませぬ……」
恐らくは長老であろう、最も年嵩のいった星見と月読が惚れ惚れとした溜息と共に零した。
「我が宿星図と我が子、星の宿星図を其の方らは如何読み取る」
彼らの答えなど分かりきっている、と言わんばかりに戰は胸を張る。
「畏れながら郡王陛下、と胸元まで隠す長い白鬚の星見が礼拝を捧げつつ進み出た。
「如何だ。私と我が子星の運気。其の方らは何と読み解く?」
「は、其れでは、僭越ながら……。覇王として天下大道を征く者として、数多の星を背負われし陛下の宿星に御座いますが、和子様は正に! 陛下が布武されし大道を守り、中華平原に御血筋此れ有りと益々広めんとする星の巡りを得ておられます」
「――そうか」
「郡王陛下、誠に麗しき星々に恵まれしけいじの皇子様御誕生、そして帝室の益々の繁栄を齎されし事、此処にお慶び申し上げます」
「お慶び申し上げます」
星見と月読が、一斉に戰に礼拝を捧げる。
次いで皇子となった星の似姿図と宿星図にも礼拝を捧げる。
そして、代帝、安の前に平伏する。
「我ら一同の首と命、そして七世先の魂にかけて! 偉大なる皇帝・景陛下のお血筋と、正しく帝室の皇子様であらせられると、お認め下さいますよう」
平伏する星見たちの背中に、罵声と共に団扇が叩きつけられた。高い壇上になっている玉座から、安が、傍に控える女官が手にしていた団扇を引き千切る様にして奪い、叩き付けたのだ。
「認めぬ! 断じて認めぬ! この妾! この妾が――」
「何であると申すのか、安よ。答えるがいい」
地団駄を踏んで駄々を捏ねる幼児の様に只管に喚き散らす安に、戰は冷ややかに言い放った。
びし、と安の顳に太い筋が走り、眉間と額に刻まれた皺は一層濃くなる。
「戰よ。今、妾に何と言うたか」
――呼び捨てられた……!?
生まれて此の方、一門の男の他には夫であった景にしか許してはいない。
其れを、其れを!
高々、4品上の美人の腹出である男如きに呼び捨てられた、じゃとぉ!?
「郡王よ。妾の耳が可笑しゅうなったのか。今、其の方に呼び捨てられた様に聞こえたのじゃが」
「空耳でも何でもない。安よ。私は今、其の方の罪を此処に問う」
「……な~ん~じゃ~とぉぉぉぉぉ!?」
玉座から立ち上がり掛ける安を無視して、戰は、大司徒と彼が守る二位の君乱を睨む。
だが其の奥にいる皇太子・天と帳内・中には、其の視線は届かない。珍しく忌々しそうな様子を隠そうともしない戰に見えぬ様、天たちはこっそりと顔を見合わせ、にやりとほくそ笑んだ。
彼らは疑問有り、とだけしか奏上の際には口にしていない。
それ以上の事に及んで揶揄してはいないのだ。
戰の背後に控える兵部尚書・優の方が、余程、顔を赤くして怒りに全身の血を滾らせている。更に奥に控える武人と戰自身が戒める視線を送らねば、抜刀術を披露していたに違いない。
再び、戰と天の視線が、火花を散らさんとしているかの様に、激しく衝突したが、しかし其れも一瞬の事だった。
戰は目を見開き立ち尽くす大司徒と、おどおどと身を竦めてこの後に及んで身を竦めて大司徒の背に隠れようと姑息な試みに走っている乱を睨んでいる。彼らは、安にはない想像力が備わっていた。
故に、次に戰が何を言うつもりであるのかが、容易に想像出来たのだ。
「皇太后・安! 其の方、正統なる帝室の血筋を引き継ぎし我が子星の出生に疑いをを抱き、剰え、我が妃祭国の王女である椿の不貞を疑い、正妃の品性と婦徳に偽り有り、我が子の血筋に穢れ有りと愚弄したな」
一気に、だが、静かに。
音も無くひたひたと、しかし確実に身を沈めんと迫り来る満ち潮に似た底知れぬ迫力が産む恐怖は、王の間にいる全て者の心臓の動き肺臓動きすら止めんとしているかのようであった。
「安! 証拠も無く帝室の血に穢れ有りと口にし、愚弄せし其の方らの万死にも値する罪! 禍国皇帝・景陛下の血筋を引き継ぎ、手ずから祭国郡王としての戴冠の誉を得し皇子・戰の名に懸けて問う!」
安は、ひぃぃぃぃ! と玉座の背に縋り付いて叫び声を上げた。
★★★
戰が一歩前に足を踏み出すと、安は更に金切り声を上げた。
もはや恐慌状態に陥っている彼女の眸には、戰の姿は魂を闇の底に沈める悪鬼としか映っていない。いや、実際に戰は、憤懣の人型となっていた。
「く、くくく、来るな! 来るでない! え、えぇい! 兵仗どもらは何をしておる! わ、妾を護らぬか!」
玉座の背に縋ったまま、安は頑鈍に喚き散らす。
いや、縋ると言うよりはよじ登り始めている。沓を履いたまま座に乗り、玉座を乗り越えて戰から逃れようとしてるのだ。
「も、者共! こ、ここな痴れ者を、戰を囚えよ! この妾! 代帝であるこの妾を侮辱した下愚の輩を諸共囚えよ!」
頑冥不霊な顔相で醜くくも肉で弛んだ腕を晒して振り回しながら、安は唾を飛ばして命を下す。が、玉座を守るべく壇上に侍る兵仗たちが手にしている武具は、眉尖刀ではなく飾り物に近い偃月刀だった。
本来、演舞に使用される偃月刀で、数を頼みに立ち向かえというのか?
皇子・戰が腰に帯びている愛刀は、陽光の化身であるかのような研ぎ澄まされた熱く燦めく鉄の剣である事を、其れにより数多の敵を屠ってきた事を、そして勝利を自らの手でもぎ取って此処まで来た事を、この場にある者の中で、知らぬと口にする馬鹿はいない。
ほう? と片眉を持ち上げながら、戰が剣の柄に手を伸ばした。
ざわり、と空気が泡立ち、兵仗たちの吐く息が恐怖の色に染まる。
山のように微動だにせず屹立していた偃月刀雪が、わっ、と一気に崩の如きに崩れていく。
喩え数を頼みにしようとも、皇子・戰が相手では多勢に無勢になどなりはしない。
皇子・戰の剣技の力量は既に神の御業に近いと、童歌にまでなって讃えられている程なのだ。自分たち程度がいくら束になろうとも、其れこそ十把一絡げとして敢無く返り討ちに遭うのが関の山だ。しかも、皇子・戰だけではなく、背後に控えているのは禍国において最も数多くの戦功武功を打ちたて、門閥貴族外から始めて栄達を遂げた武辺の人、兵部尚書・優がいる。
立ち向かう気力が起こる方が、どうかしていると言うものだ。
果たして、深い湖の湖面に似た緑色をした戰の瞳が、ぎろり、と活力に満ちて煌めけば、百にも及ぶ偃月刀の刃は生気を無くしてくすみ、ゆらゆらと揺れ、刃先は遂に、だらり……と床に向かって項垂れる。
「な、何をしておるのじゃ! は、早う、此奴を! せ、戰の奴を囚えるのじゃあぁっ!」
背の部分によじ登って安は怒鳴り続ける。
その無様な巨体に安に、遂に戰が吼える。
「貴様こそ黙れ!」
「な、なっ、なっ、なっ、何じゃとぉ!」
戰の怒号に安は言葉を失い、無駄に白い肌を青白くさせ血の管が濁流のようにうねっている様をありありと浮き立たせる。
「つ、遂に気を狂わせよったか!? 気を違えよったか!? 妾は、妾が認めねば、誰であろうとも次代の皇帝の座に就けぬのじゃぞ!? その妾に歯向かうのか!? と、囚えよ、この異心を抱きし乱心者を早う囚えよ! 大逆不道の不義不忠の叛逆者、逆賊を囚えるのじゃ!」
「偉大なる先帝・景陛下の血を継ぎし皇子として、そして皇帝陛下が自らの手でお認めになられた最後の郡王として、この場に居る全ての兵仗、殿侍、衛兵、武器を携えし者に、戰の名において命じる! 帝室の血を一滴も引くことなく玉座に座りし大逆罪を犯せし大司徒一門の女、安を捕縛せよ!」
安の叫喚と、戰の咆哮の如き命令とが、同時にあがった。
※ 注意 ※
今回、作中に差別用語、表現が含まれております
しかしこれは、あくまでも作品を描く上で必要なものと作者が判断した為のものであり、これにより差別を増長し促すものではありません
ご理解賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます




