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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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21 魔窟 その2-2

21魔窟 その2-2

 


 視告朔こくさくの場にて郡王・戰を糾弾し、完全に息の根を止めてやるのだと意気込んでいた大司徒・充は、いつも通りの、緩い慣例を連ねていくだけの朝議に肩透かしを喰らった。

 と、同時に、折角の機会を気紛れでぶち壊すつもりであるのかと、ムラムラと怒りが込み上げてきた。怒りの対象である妹、尊大不遜にも代帝を名乗る安は、つまらなさそうに玉座に踏ん反り、あまつさえ欠伸までしてみせた。


 ――この機会を逃しては、兵部尚書を筆頭とした郡王の臣に下りし者らを一掃し尽くす機はないというのに……!

 政治を身を飾る装飾品としか考えておらぬ女如きの玩具にされるを、止められなかったあの時の愚が、今更ながらに悔やまれる。

 

 郡王に止めを刺す役を担うからこそ、己はより引き立つ。

 追い詰められ、自暴自棄となるしかない末路を歩む郡王の息の根を、公的な場で、誰の目にも明らかにして、止める。

 二位の君と揶揄されてきた皇子・乱に一気に注目を集めるに此れ以上の場はあるまいとしていたところだったのだ。


 ――其れを、よくも。

 その場をも奪った代帝・安の愚かさに、充は腹の内で、あらん限りの罵詈雑言を浴びせかけた。

 ――妹の分際で一門に仇なすとは……。

 安め、此れまでの実家の恩も忘れ、よくも恥知らずな事が出来たものだ!

 誰のお陰で、不器量な姫一人をやっと産むのがせいぜいだった役立たずの腹の女が、後宮で生き延びてこられたと思っている!

 目尻に刻まれた皺は一層深くなり、その一本一本に、充は怒りを刻んで妹である安を睨みつける。


 その妹――

 現在は代帝を名乗り兄の上座に大股開きで座る安は、今も面白くもなさそうに、九寺からの奏上に耳を傾けている。

 郡王の妃となった祭国の女王――今は大上王であるが――郡王妃・椿姫が持参金として捧げたという紗という織物でできた衣を、指先で摘んで、ねちねちと衣擦れの音をたてながら、ねばっこく弄り倒している。

 折角の薄絹が、変に縒れてしまってもお構いなしである。いや、寧ろ、其れを楽しんでいるようにも思えた。

 崩れていく絹糸とたおやかさを失っていく衣に、誰か(・・)、を重ね合わせているのだろうか?

 歪に歪んだ、何処か勝ち誇ったような表情からは、そうとしか思えない。

 奥歯を噛み締めながら、充は代帝などと大それた名乗りを上げる妹を睨み据えつつ、閉場となった視告朔こくさくから一旦、引き下がらねばならなかった。


 ――まあ、よい。

 王族内のみの争いに終始するとしても、内容は須らく書き記されるのだ。

 いざとなれば、二位の君こそが至尊の冠を抱くに相応しき皇子であると大司徒の名をもって新たに場を設け知らしめれば良い。


 ――寧ろ、其の方が我には都合が良いか……。

 己に言い聞かせつつ、充は二位の君、皇子・乱が待つ部屋へと下がっていった。



 ★★★



 まるで拷問のような時間を過ごした為、思っていたよりも大司徒・充は、精神的な疲弊を感じた。

 正直な処、会いたくもなのだが、後見となると知らしめた以上、何も言わず下がる訳にもいかない。

 充は、重い足を引きずりつつ二位の君・乱の部屋を訪ねた。


「おお、叔父上様」

 充の姿を認めた貴妃・明は、まるで初めて口にするおやつを前にした童子のような顔ばせで駆け寄ってきた。

 貴妃・明は、既に皇后に近しい出で立ちで部屋を彼方此方に浮かれさざめき歩いていた処であった。ずるずると裳裾を引きずる瓜のように丸い身体は、跳ねた方が早いであろう、と嫌味の一つも言いたくなる。

 何とか言葉を飲み込んだ充は、視線を巡らせた。乱の姿が見当たらない。

「皇子様は何処に?」

「おぉ、叔父上様、どうぞ此方に」

 手を握らんばかりに浮かれながら、貴妃・明は誘う。

 案内された部屋の奥では、新たに設えさせたのであろう、冴え冴えとした輝きを放つ玉座を模した椅子に皇子・乱が尊大な態度で踏ん反りかえって座っていた。


「叔父上、よう参られた」

 礼拝を捧げながらも、大司徒・充はこの親子の浮かれるようと阿呆面に、脳天が焼かれそうな怒りを感じた。

 ――この糞田分けどもめが!

 先程、視告朔こくさくの場にて己を怒りによる焼き討ちにしかけた妹・安と、既に天下国家を手中に収めたかのように振舞う甥・乱の姿が、何故か似ている。この奇妙な血族のなせる技に、いよいよ苛立ちを覚えながら充は腹の底で毒付いた。

 ――これが同じ一門の血を引くのかと思うと反吐が出る!

 煮え滾るはらわたを押さえ込もうと、充は礼拝を更に深くした。そして、落ち着くために深く嘆息を繰り返す。 


 ――唯一の救いは、兆の奴が悪戯に出張って来なかった事だが。

 此れまでの兆であれば、此度の召し上げに対して己こそが、と我が物顔で息巻いた筈だ。だが身構えていた充の予想に反して、兆はいともあっさりと引き下がった。だけでなく、充に乱の後見の全てを託した。

「我が一門の同胞全てを統べし父上様の威光の前に平伏し、乱殿下が栄光を掴まれる御道筋を託しまして御座います。父上様、何卒、我が殿下をお守り下さいますよう」

 跪き、更に叩頭せんばかりに平伏し、涙まで流しながら兆は切々と訴えた。

 その素直過ぎる我が子の姿に一応、表面上は感動しつつも、一抹の不安と、其れを凌駕する気色悪さを充は覚えた。

 が、充は、眼前で平伏する息子を、父として褒めた。

 褒めねば、己はただ、父であるが故に、一門の長であるが故に、そして大司徒であるが故に、血を分け与えた息子が此れまで労を厭わず捧げてきた忠義と功を横合いから素知らぬ顔で搾取したも同然であると取られてしまう。

「二位の君の後ろ盾として、影となり寄り添い続けた其方の此れまでの力添えがあればこそ、今日、この日がある。其方のこれまでの尽力が、此度の儀を呼び寄せたのだ」

「有難う御座います、父上様に斯様に認められし事、帛を潤してなお飽き足らぬ涙が喜びを表しております。殿下のお傍に仕えし日々を胸に、私は下がります。どうか父上様、父上様も殿下の御為を、それ一心のみにてお仕えあるよう、伏してお頼み申し上げます」

 充の言葉に、兆は感涙に咽びながらとうとう額を床に打ち付けた。


 ――傍目には、伝承にでもなりそうな感動を呼び起こす場であったのであろうがな。

 だが、私の目は騙されぬぞ、兆。

 その涙の向こうに、何を見、何を企んおる。


 退室した兆は、己の部屋へと一直線に向かったという。

 ますますもって兆の事を、出来の良い孝行息子を演じているのだ、と充は猜疑の目でしか見られない。此れまで、何十年と政治の荒波を渡りきってきた自負と本能が、そう告げている。

 ――まあ、いい。

 待っておるがよい。

 乱を皇帝の座に据えし後は、兆よ。

 其方にも、今、言葉にした通り、望むままの未来を呉れてやろう。


 大司徒・充は、臍の周りに嗤い声を隠しながら、二重、三重に重なった弛んだ腹の肉を折り曲げる。


「皇子・乱殿下。代帝陛下の命に御座います。どうか、王の間へ」

 礼拝の姿勢を逆に有り難く充は感じていた。

 笑いを堪えている為、鬼瓦を砕く亀裂のような青筋が幾本も走った顳を見られずにすむ。声が震えているのを、感激と受け取っているのか、乱は、うむ、と尊大不遜に頷いてみせた。


「では、いざ参ろうではないか、叔父上」 



 ★★★



 視告朔こくさくの議が終わり、一旦、場を下がった代帝・安は巨大な餅を幾つも盛り合わせたかのような巨体を揺すりながら、椅子に座った。

 ふう、と大仰に胸を撫で擦る前に、心得ている宦官がさしはで仰いでくる。

 送られてくる微風そよかぜは、微かに白檀の薫りがした。

 白檀は、以前は楼国を経由して齎されていたのだが、2年前に蒙国にその地を奪われてから、極端に手に入れにくくなっていた。その為、貴重な品として価値が上がり続けている。

 商人たちの手腕云々でどうにかできる問題ではなく、朝貢品として入れられるのを待つしかないのが現状だった。故に、さしはといえど団扇の骨に白檀を使うなどという贅沢が許されるのは、安が代帝としてこの禍国に君臨しているからこそ、である。

 白檀の香りは涼やかで、遠くに感じるだけで心を洗われる心地に浸る事が出来る。だが安の顔ばせには、深い皺と生じる暗い影がみっちりと刻まれていた。


 ――全く……此れも務めとはいえ、下賤の者と会わねばならぬとは。

 気分が悪い事じゃわえ。

 弛んだ頬をもごもごとさせると安はやにわに、べっ、と遠慮なく唾を吐き捨てた。先頭で両膝をついて礼拝を捧げたままの内官の額に、べちゃ、と其れは張り付いた。

 以前の身分であれば、そう、皇后であればそして皇太后に下がったのであれば、安とて斯様な無作法はしない。皇帝の住まいである王城内にての犯意を示すなど、故意でないにしても後に何が起こるのか、想像するだに恐ろしい。

 しかし、今の自分は違う。

 己こそが禍国の至尊の冠を抱いている。帝室の頂点に立っているのだ。

 青ざめる事すら許されぬ内官の顔色がいつ変わるかと、安はにやり、と口角を持ち上げつつ横目にする。蛇に睨まれた蛙のような状態で、必死で堪えて固まる内官はそれはそれで楽しいらしく、安は、ほっほほほほ、と重なる縄のように見える皺が刻まれた喉元を晒して笑い声を上げた。


 香が焚かれ始めた。

 乳香を使った香煙の頂きが、団扇が起こす微風に仄かに揺蕩い、天井に届く寸前でしっとりと、けれど儚く消えていく。

 頤を跳ね上げ笑ったままの体勢で、その様に見入っていた安は、更に目を細めた。安には、薫り高い煙が薄れて消えゆく様が、彼女が呼びつけた、周囲を取り巻く一族郎党の魂の最後のように見えたのだ。


 ――何れ、わたし虚仮・・にしよった全ての奴を、この煙のように儚くしてくれるわえ。

 待っておれ。

 そして、せいぜいわたしを楽しませる事じゃ。

 喉元についた贅肉を揺らしながら笑い、すい、と手を伸ばす。

 心得ている女官が、按摩用の道具を掲げつつ静かに進み出てきた。

 香を楽しみつつ、指先を按摩させる。

 代帝となってから、安は惜しげもなく香を使いまくっている。国庫を圧迫するほどではないにしろ、その為に失われた黄金は膨大なものだ。贅沢を一つおかす度、安は、己こそが禍国の唯一不二の貴人であると実感するのだ。

 女官は、安の太い指先の皺を伸ばし、しなやかさを保つ効果のある蜜蝋も、同時に摺りこんでいく。

 ふと、女官が、見慣れぬ壺を取り出した。


 ――あれは……!

 あの、壺の花の絵!

 細めたのまま、蓋が開くの何とはなしに見詰めていた安は、壺に描かれている紋様を目にした瞬間、沸騰しすぎて蓋が吹き飛んだ薬缶の如きに猛り狂った。

 筋肉などついておらず柔らかい筈であるのに、安の太い腕は丸太のように、ぶるん、と野獣の如き唸りを上げた。

 女官の頬骨の上で安の拳が、がつり、と音をたてた。

 悲鳴を上げながら、女官は床に転がり倒れる。彼女を助けたくとも、許しがなくては女官や宦官たちは動けない。ただ、おろおろと視線を彷徨わせるばかりだ。

 無駄に肉が付いている者の常として安も多分に汗をかく体質なのだが、この時、汗も、びちゃ、びちゃ、と飛び散り、床で喘ぐ女官の顔に当たった。


「その壺を仕舞うのじゃ!」

 何が逆鱗に触れたのか分からない女官だったが、殴られた衝動で目眩を起こしながらも、それでも命令に従おうと必死で身を起こす。ふらふらしながら、小さな壺に手を伸ばした。

 しかし激しい目眩に負けた女官の身体が、ぐらり、と傾いだ。

 あぁっ! と皆が無作法も忘れて悲鳴をあげ、固唾を呑む前で、女官はそのまま前のめりに倒れ込んでしまった。

 腕がそよぎ、指先が、小さな壺に触れた。

 甲高い耳障りな音をたてて、按摩用に揃えられていた道具類がぶつかり合いながら床に散らばった。あるものは転がり、あるものは中身をぶちまけ、あるものは、けたたましい悲鳴に似た音をたてて割れる。

 女官が触れた小さな壺も、床に当たると敢え無く割れ散った。

 中身である紅も、無残に床に広がる。

 まるで、蛙が荷車に轢かれて潰れたかのように。


 その様子を目で追っていた安は、……くっ、と小さく喉を鳴らした。

 次の瞬間、立ち上がりながら腹を抱えて盛大に笑う。

 ぎしり、と椅子を唸らせて立ち上がり、割れた壺に歩み寄ると、脚を振り上げて踏みしいた。

 途端に、更に細かく砕ける音が靴裏でくぐもる。

 爪先を立てれば、びち、びちと、踵を立てれば、ぎち、ぎち、と音が鳴る。砂利粒程度にまで砕けても、安はその行為を止めなかった。


 ――許さぬわえ。

 決して、決して、許さぬわえ。

 安はぶつぶつと呟きだした。

 ――見ておれ、見ておれ、今に見ておりゃれ!

 お前たち全員、この壺のように塵芥・・にしてくれるわえ。

 絶対じゃ、絶対じゃ!

「いい気味じゃ! いい気味じゃ! わたしに楯突く者は、皆、こうしてくれる!」

 おーっほほほほ! と笑い、安はずりずりと靴裏を擦る。

 女官たちは、とうとう礼拝の姿勢を取らねば罰として背中や脹脛を鞭で打ち据えられると知りながらも、恐怖から、手を取り合って抱き寄らずにはいられなかった。


 安が、ぜいぜいとまるで野犬のように喉を鳴らしながら脚を外すと、其処には、元の形は壺であったなどと到底想像もできぬ程、跡形もなく潰された残骸があるばかりであった。

 安に殴らえた女官が、頬に手を当てつつ、砂利粒と化した壺を呆然と見つめた。


 とても――

 真っ赤な麗しい花が描かれていたとは思えない、哀れな壺の姿を。



 ★★★



 自室に戻った兆を追いかけるように、内官が面会人の到来を告げた。


「誰だ?」

 ぞんざいな口調が収まると、内官は厳かに口を開く。

「右丞様に御座います」

 ほう、ようやっと帰って来よったか、と兆は含み笑いをしながら手を振った。

 再び、慇懃な礼を残して内官が下がる。程なくして、右丞・鷹その人がのそり、と姿を現した。


 兆はふふん、と鼻を鳴らして、右丞・鷹の為体ていたらくを存分に嘲笑った。

 罪人として扱われた上に、強行軍による帰国、しかも拘囚人として囚獄ひとやの管轄下に入ってより、着替えも手水も与えられることがなかった為、先ず、体臭が酷い。

 もや(・・)が立ちそうなほど埃に塗れており、髪は汗の油でがびがびと音を立てそうな程、固まっている。裾は破れ、衿は垢の滲みがうき、虱と蚤がわいている。口を開ければ、黄色い歯垢が葉に纏わりつき、にちゃにちゃと音をたてる。

 ――気色の悪い……。

 一門を継ぐ嗣子がこのような為体であるとは。

 兵部尚書の奴め、見たら怒りで卒倒するな。

 くつくつと笑いながら、大令・中は椅子に深く腰掛け直した。


「戻ったか、右丞よ」

「は、はい……だ、大令様……のお陰をもちまして、う、右丞・鷹……た、只今、こうし……て、御元……に、戻り、まして……」

「挨拶はよい」

「しかし……」

 床に額を打ち付けんばかりになって平伏する鷹に、兆は静かに歩み寄った。

 ひっ、と喉の奥で鷹は息を呑む。

 怒りを買って当然の失態に次ぐ失態を、既に大令・兆は聞き及んでいることだろう。しかも、自分の帰国は、郡王・戰の命令を受けた囚獄ひとやが管理する拘囚人として、である。

 華々しく出立した数週間前の事を思えば、どの様な辱めと罵倒を受けても全てを受け入れねばならない。即刻命を召し上げられなかっただけでも、儲け物、なのだ。


 だが、右丞・鷹はこの罪は謂れ無きものであると信じて疑っていない。

「よく戻ってきた」

「……だ、だいれ……い、様……」

 感涙に咽び、声が出ない。


 ――濡れ衣なのだ。

 私は何の罪も犯してはいない!

 私を妬み、嫉む輩が、私を貶め、嘲り笑う為に陥れたのだ!

 そうだとも……。

 ――真。

 真、真だ、奴が……奴だ、あ奴のせいだ!!

 たかが側妾腹出の分際で!

 まやかし(・・・・)と偶然に支えられた功績を手離さぬために私を陥れた!


 腹の奥底を怒りでぐつぐつと滾らせ、鷹は異腹弟である真を悪し様に罵り倒す。

 人々は最早、鷹を哀れみ、そして謂れ無き罪状を晴らす為に協力せんとする、心強い目で見てくれるはない。

 罪に穢れた忌まわしき拘囚人、鷹にとっては信じられぬ、いや信じたくもないが、右丞に、とした名で呼ぶに違いない。

 事実、大令・兆の部屋に呼ばれるまでの間、何度その蔑みの瞳に晒された事か。

 地べたを這い蹲る公奴婢たちすら、含み笑いをして此方を見ていた。


 ――それ、あれに行くのは、愚かな罪人様だ。

 ――兵部尚書様のお力を、威光を、我が物と勘違いなされて居丈高に振る舞いなさるから、しっぺ返しを受けられたのだ。

 ――力に見合わぬ過分な出世をする心配がない我らには到底、想像もできぬ世界ではあるなあ……。

 ――ああ、怖や、怖や、地道に汗かき埃に塗れておる方がどれだけ気楽か知れぬ。

 ――全くだ、ああ、身分あるというのは、怖や、怖や……。

 ――なに、何度も言うが、御身分にみあったお力があれば良かったのさ……。

 ひそひそと無駄口を垂れ流すその口に、泥団子を突っ込んでやりたかった。

 何とか堪えたのは、この、不当すぎる罪に塗れた自身を救わんと大令・中が、動いて呉れたからこそ。

 己を罪なきと信じてくれたからこそ。

 そして、其れを周囲に知らしめるだけの権威が、大令という身分にあればこそ。

 右丞・鷹の中では、大令・中は、己を泥濘に塗れるを厭わず底より救い出してくれた勇者、此れ以上の存在はなき英雄に等しかった。


「こ、この右丞! 大令様の御為とあらば! 私は、わたし……は……この身も命をも、捨てる覚悟にて……!」

「よい」

 膝を落とし、右丞の肩を掴む。

「分かっておる、何も言うな。其方の気持ちは分かっておる」

「……だ、大令……さま、何と勿体無い……!」

 ぐ、と息を呑みながら鷹は思わず兆を見上げた。


「右丞よ」

「は、はい……」

「私への忠心、嬉しく思うぞ」

 は、はい! と潤んだ瞳で鷹は何度も頷き返す。


「右丞よ」

「は、は、はい!」

「早速ではあるのだが……私の役にたっては貰えぬであろうか?」

「は……は!?」

「此れは、其方の未来を救う為でもあるのだ……やってくれるであろうか?」


 も、勿論に御座います! と鷹は顔を赤くし唾を飛ばして叫ぶ。

 興奮に落ちた鷹は、もう、何も見えていない。

 只管に、大令への恩義と忠義を叫びつつける。


 その右丞・鷹の手の甲を揉むように摩りながら、兆は、にたり、と含み笑いをした。



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