21 魔窟 その2-1
21 魔窟 その2-1
渋々ながら、徳妃・寧は下がっていった。
幾ら同族の一女人とはいえ、今の安は皇后ではなく代帝だ。
至尊の冠を頭上に抱く者に対して、謙らざるを得ない。
しかし去り際、徳妃は持ち込んだ品を戰に取らせてようと必死になった。
★★★
戰の前に身体を左右に大きく傾げながら進み出た徳妃は、礼拝の姿勢をとろうと、膝を折った。
途端、大腿の内側や膝の裏にまでみっちりと纏わりついた脂肪が邪魔をして、礼節の姿勢が取れない。ぐにゃり、とあられもなく姿勢を崩した徳妃はそのまま前のめりに倒れかけ、絹を裂くような悲鳴を上げた。
「――ひいぃっ!」
恐怖から目を閉じる事も出来なかった徳妃は顔面を床に打ち付けかける直前、がちり、と何か固く締まった力に支えられた事を知った。半瞬後には、その力強さの主とは、皇子・戰である事も。
徳妃・寧は、瘧に罹ったのではないか、と思われる程、身体が熱くなるのを感じた。
怒りの為に――である。
――卑しき属国の端女の血を引く下賤の者が、徳妃たる妾の身体に触れるとは、何たる事じゃ! 侮辱じゃ! これ以上ない侮辱じゃ!
徳妃・寧は危うく、無礼者! と戰を打ち据える処だった。
今までの彼女であれば、確実に、即座に戰を打って痛罵していた事だろう。堪えられたのは、偏に息子である天皇子への偏愛の成せる技だ。
――耐えねば。
妾の可愛い天の為に耐えねばならぬのじゃ。
天を皇帝の座に据えられるのであれば、妾は此奴らの沓の先の汚れを舐めとる事すら出来るわえ。
徳妃本人は至って優雅に笑みを刻んだつもりであるが、越え太って皺が深い頬を弛ませて口角を持ち上げられても醜悪さしか感じられない。女官や宦官たちが失笑半分、恐怖半分の奇妙な表情になるのを必死で堪えて震える中、徳妃・寧はずるずると身体を移動させ、戰の前で礼拝を捧げる。
先に戰の事を『玉体』と言い表したように、王座にのみ捧げる辞宜の手順を踏む徳妃を前に、背後に控える優が、不気味なものを見る目をしながら眉を顰める。
「陛下の心よりの御言葉、恐悦至極に存じます。先程も契国、河国と続く戦の戦勝の御祝を此方に用意させました由にて」
徳妃が屈めていた腰を微かに上げると、背後に控えていた女官たちの列が割れた。そして、箱を捧げ持つ女官が音も立てず、しずしずと進み出た。
「どうぞ、ご笑納下さりませ」
摺り足で徳妃の背後まで寄ると、女官は箱を一層高く捧げた。
「其れは?」
興味なさげに戰が問い掛けると、徳妃の眸が、ぬらぬらとした異様な輝きを放った。
「どうぞ、先ずはお受け取りを」
「……」
「中華平原に名をお馳せになられし郡王陛下に相応しい逸品に御座いますれば」
「……」
「ささ、遠慮のう」
身体を揺らすと、ぶるりぶるりと肉が震える音が聞こえてきそうだ。
実際、徳妃の背後で進物を掲げて控えている女官は、微かにであるが顔色を変えた。
「どうぞ。心を込めてご用意させて頂いた進物に御座います。何卒、ご笑納下さいませ」
何卒、と徳妃は戰に迫る。肉の塊である徳妃がずいずいと押してくる様は、異様で不気味な熱量を伴った迫力がある。
が、戰はまるで湧きでたばかりの清水のように冷ややかな態度で、いや、と手を振った。
「徳妃殿、其れこそこの様な次節に私に誼を通じたとあっては、この後の議に差し障りがあろう。皇太子殿下のお立場を第一に思われよ」
「その様に無体に仰られずに、どうぞ」
更に追いすがる徳妃は、とうとう女官が捧げ持つ進物箱を取り上げた。丁寧に結われた組紐を無理矢理解くと、美しい帛もはらりと地に落ち、細長い桐箱が姿を表した。
殴るように箱の蓋を取り外すと、徳妃は自ら戰に向かって進物箱を捧げた。
「何卒」
箱に収められていたのは、翳であった。
美しく光輝く孔雀の羽を使ってある。
飾りには水晶を惜しげもなくふんだんに散りばめられ、香木も使用し薫りまで漂わせている。
只の品ではない。
団扇、という形ではなく、翳であり、孔雀の羽で造られているのが問題だった。
翳は、本来皇帝しか持てぬものだ。翳本来の役目は、忌むべき穢を打ち祓う為のものと古来より定義されているからだ。玉体を健やかに保つため、常に魔や邪なものから護る為の品なのである。
そして孔雀だ。
孔雀は、何よりも益鳥として尊ばれている。美麗な出で立ちに似ず毒虫をも喰らい尽くすその姿に、天帝の意を受け御使いとして天翔する瑞獣、鳳凰が地上に降りた時の分身である、とされている。しかもこの翳に使われている羽は、只の孔雀の羽はない。一点の染みも汚れもない、真っ白な羽なのである。
珍しく、戰の中で怒りが激った。
彼の実母・麗美人と養母・蓮才人の祖国である楼国は、嘗て南方の国である羅紗埡国と正式な交易があり、唯一、この白羽の孔雀を手に入れられる国として周辺諸国では知られていた。
「徳妃殿」
「……はい、陛下」
明白な媚び諂いも此処まで徹底させれば、いっそ見事と褒め讃えたくなる、との言葉を戰は懸命に飲み込む。
「此方の翳は、臣より代帝陛下に拝謁を賜る為にも進貢せよと義理兄上が仰せである、と受け取って宜しいか?」
「――え?」
戰の答えが期待外れであったのだろう。 徳妃・寧は、分厚い唇をぽかん、とだらしなく開け放った。
次の瞬間、徳妃は赤かった顔を汗でぬめらせつつ白くさせた。
戰が、諸手を挙げて喜び、そしてうきうきと心弾ませて礼を述べつつ手にすると踏んでいたのだ。
――何故、断る?
よもや、翳を贈られし意味が分からぬような阿呆ではあるまいに。
皇后に迫る地位にあるこの徳妃・寧が、皇帝に最も相応しきは戰以外なし、と言外に仄めかしてやったのじゃ。
分からぬおつむではあるまいに。
徳妃であるこの妾に認められたのじゃ。
先帝陛下の第一皇子を産んだこの妾に認められたのじゃぞ?
――何故、喜ばぬ?
我が子・天は妾の褒め言葉をまるで宴の馳走のように喜び、もっともっとと強請ったものを、それを。
「でなくては玉座に在りし御方にのみ相応しき品が、郡王程度の私の目の前に差し出される事はない。王城内での私の立場と帰国の意図が奈辺にあるかを慮っての御心遣い、実に有難い。痛み入る、徳妃殿」
ぶよぶよとした顔面を赤黒く火照らせて、ま、待ちや! と徳妃は叫んだ。
「こ、此方の品は、郡王陛下の手に在るべき品、と思い取り寄せし品じゃ、何故、斯様な……」
珍しく戰が目を眇める。
濃い緑の縁を持つ瞳が、ぎらり、と鋭く――危険な光彩を放った。
「郡王の身分には過分な品を手にする危険が如何なるものであるか、長く後宮に在り我が父に仕えし御方の言葉とは思えぬ」
「へ、へい……か……」
「今であれば、見なかった事としておこう。義理兄上の為にも其のまま持ち帰られるがいい」
「へ、陛下、へいか、そ、そのっ……!」
「徳妃殿も異腹兄上と共に代帝陛下の御元に参らねばならぬ大事の身、早々に戻られ支度をなされよ」
「へ、へ、へ……」
「遅れては代帝陛下へ無礼、即ち帝室の尊厳を損なう行為とみなされる」
それ以上の言葉は無用と感じたのか、戰は芙に、徳妃殿が下がられる、送って行くように、と声をかけた。
★★★
徳妃・寧が渋々ながらも下がったのは、遅れては帝室の尊厳を損なう行為とみなされる、という一言が効いたからだ。
――何を考えての行動であるかは知れないが……。
戰は、徳妃一行が姿を消していく回廊の先を睨んだ。
彼女の長子にして皇太子である皇子・天を玉座に据える為にだけ、徳妃は動いている。
その天に不利に働く行為を、彼女が殊更好んで選ぶ訳が無い。
ずしずしと音をたてて巨体を揺らし徳妃が下がるのを見届けると、戰の周辺で張り詰めていた空気が、ほっ……と和らいだ。
「皇子や」
声を掛けられて、戰は義理の母である蓮才人が傍に居るのを失念していた事に気がついた。慌てて、笑顔を作り、取り繕う。彼女は、実の娘である薔姫と長く離れて胸を痛め続けている。その要因を作ったのは、自分だ。義理の息子として大切にしてくれているだけでも有難いというのに、これ以上、彼女の心に負担をかけたくはなかった。
「義理母上様、聞いての通りです。代帝は視告朔にて私の首を絞めるつもりではないらしい」
蓮才人は顔を引き締めて、こくり、と頷いた。
「義理母上様も御同席願う事になります。巻き込む形になってしまい、申し訳なく……」
「何を言うのです」
戰の頬が、蓮才人の手に包まれた。
「何を聞いていたのです。母というものは、子の為に在る。腹を痛めておらずとも、貴方は私の子。もっと甘えなさい」
「……しかし……」
「手間が省けた、と位に大きく、でんと構えておいでなさい」
「……義理母上」
「私の婿殿が傍に居られれば、きっとそう言いますよ?」
悪戯っぽく笑う声が、優しく頬を撫でていく。
蓮才人の細く白い手に己の無骨な手を重ね、はい、と戰は頷いた。
★★★
徳妃・寧が、太い脚をずりずりと引き摺りだした。
余りにも太り過ぎた上に常日頃の運動不足が祟ったのだ。自身の棟から蓮才人に与えられた棟に赴いた程度でもう、膝と足首、足裏に痛みが走りだしている。
「こ、これ、これ、輿を……よ、用意し……」
呼吸が荒くなり、最後まで言い切れない。
吐く息にまで、ぶよぶよとした脂が着いているのでは、と思わせるねっとりとした空気に、女官たちは顔を見合わせつつ後退った。
王城内にて輿に乗る事を許されるのは、皇帝及び皇后、皇太子、そして一品の位にある三婦人とその皇子までだ。徳妃・寧は、己に与えられた特権にあぐらをかき過ぎたが故に、無様な肉塊と化し醜悪な姿を晒しているという事を自覚していないらしい。
しかし、棟の中でまでは輿は使えない。あくまでも、棟から棟への移動の時にのみ許される。
だが、身分の卑しい皇子とも呼べぬ皇子や後宮内に居座るのも烏滸がましい下女風情に腰を降り頭を下げ続けたせいで、徳妃は肉体的にだけでなく、精神的にも限界に達していた。
――たかが、4品下の才人の棟なのじゃ。
輿を使ってなにが悪い。
「こっ、これ、な、何を、ぐずぐずして、お、おるの・じゃ! は、はよう……早う、用意……するのじゃっ!」
腕をぶるんぶるんと震えば、喉にまで着いた脂肪の為、切れた息が更に途切れる。
「こ、輿が来るまでの、あいだっ……い、椅子を此れに持ってまい……るのじゃ!」
ひぃ、はぁ、ふぅ、と悶えながら、徳妃は命じた。
女官たちが小波のように頭を次々と垂れていく。一番端に居た宦官にまで到達すると、やにわに全員が大きく礼をし、輿の用意をする為に内官たちは静かに下がっていった。
宦官が静かに進み出て四つん這いになると、ふん、と大きく鼻息を吐いた徳妃・寧は宣言もなくその背中にどかり、と腰を下ろした。
顔を赤くし、額に脂汗をぶわりと滲ませた宦官が奥歯を噛み締めて呻き声を堪えている。徳妃は、というと人心地が着いたとばかりに、大仰に胸元を押さえ、女官たちが団扇で送る微風にだらしなく頬を緩めている。
芙は礼拝を捧げた姿勢のまま、先程からずっと気になっている女官の動きを視線で追っていた。だらけた徳妃・寧の巨体の影に隠れるようにして、顔をしっかりとは見せない位置に、いつの間にか居る。
――あの女官……。
団扇を手にする一団の背後に控えている、戰に贈られる筈であった翳の入った箱を手にしていた女官だ。翳の入った箱は、内官たちが捧げ持っている。女官は列に戻り、変わりなく頭を垂れている。しかし、そのすっきりとした立ち振舞いが、どうにも浮いている。
――あの女官のあの身のこなし……。
芙と共に見送りに出た仲間も気が付いているのだろう。
ちらり、と芙を覗き見してくる。
女官は、長い裳裾を引き摺るように歩かねばならぬ為、独特の足捌きを習う。そして一律に配給される沓の底は高い上に支えが細く、その為に独特の音をたてる。
あのような、摺り足で音を立てずに歩く事は出来ない。どんなに静かに歩こうと心掛けていても音が鳴るような仕組みになっている。
禍国の王城に仕える女官たちは、音を立てぬように歩こうとするその姿、腰付きと膝と内股の動きの妙さこそを、美として尊んでいる。
あの姿勢でのあの動きを、女官はとらない。
いや――物理的にとれないのである。
澄ました顔付きの女官と、視線が合った。此れまで意図的に避けてきたのであろうに。その眸は、くふり、と嘲笑を刻んだ。
途端に、芙の中で、火炎が渦巻いた。
――女官ではない。
あの女だ。
鴻臚館の炎の中で対峙した、土蜘蛛と名乗った女の姿が脳裏に浮かぶ。
あの女が――王城に居る、だと?
徳妃たちのような特権に塗れた貴族階級の人間は、裏から裏に暗躍する影働きをする、根無しの自分たちのような者を不浄として忌み嫌う。
到底、土蜘蛛のような女を傍に侍らせるとは考えられない。
――では、あの女を使っているのは何者なのだ?
礼拝を捧げた袖の裏で芙は、仲間内でのみ伝わる、指で交わせる言葉を使い、指示を出した。
――あの女官を追え。
芙の指が動きを止めるのと、徳妃専用の輿が持ち込まれるのは、ほぼ同時であった。
★★★
徳妃・寧が部屋に入るや否や、息子である天が飛んできた。
「母上! 母上!」
「おぉ、おぉ、妾の天や」
子供のような素直な喜びの色を感じさせる息子の声音に、徳妃・寧の心は弾んだ。
しかし、親子の感激の時間は、持つことは叶わなかった。
水を差す人物が、この場に居たからだ。
「徳妃様、時間がありませぬ。首尾は如何であったのか、お話下さりますよう」
にちゃ、と音をたてて唇を開ける男に、無礼者! と唾を吐くように徳妃は叫びかけた。が、ぐっと堪える。今は、この男の協力なくして、天を玉座に就かせる事など叶わないのだと、徳妃とて悟っているからだ。
「叔父上様、其れが、じゃ」
「それが?」
「郡王の奴め、妾が贈りし翳を、にべもなく撥ね付けおったのじゃ」
途端に、不機嫌そうな顔付きになったのは、徳妃・寧の叔父にあたる――
そう、先大令・中だった。
「受け取らなんだのか?」
何故、無理矢理にでも押し付けてまいらなんだ、と詰る先大令・中の声音の成分には、その程度の働きも出来ぬのか、という明白な侮蔑をも込められていた。
――息子の為になるのであれば、どの様な事もやり遂げると抜かしておきながら。
この程度の働きも満足に出来ぬのか。
所詮は、親の権勢を盾に暴虐に振舞うしか脳がない、肥え太るだけが芸の女という訳か。
――期待を掛けた私が馬鹿者であったわ。
先大令・中は、露骨な落胆ぶりを隠そうともしない。
更に胸を悪くさせる要因として、中の怒りに対して、当の本人である皇太子・天がへらへらとしている事だ。
「何を笑っておられる」
「いや何……良いではないか、その様な事、瑣末な事だ」
「何? 何と言われるか」
「叔父上が万事諸事、須らく私に良いようにして下さるのであろう? 其れとも何か? 叔父上の手腕とは、一つ道が違えた程度で泡を食う、その程度のものであるとか?」
――言うに事欠いて!
何様のつもりだ!
最大の後ろ盾に見限られ、私に拾われねばこのまま異腹弟である乱に己の立場、地位、全てを浚われままになっておった処を!
この私が味方につかねば、このまま首切られるを待つばかりであったものを!
――それを、それを、この馬鹿は……!
天の言い様に、中はわなわなと戦慄いた。
危うく、怒りのままに怒鳴りかける処を、何とか、ぎりぎりの狭間で堪える。が、それでも袖に隠した握り拳がぶるぶると震えてしまう。
しかし一方の天は、と云うと、叔父である中が己の発言により肝を怒りに揺らしているのだと感じ取っているのだろう。
その上で、怒りのままに怒鳴りつけもしたり顔で諭しもならぬ、宙ぶらりんの身の上の己を鑑みて、必死で耐えている様を楽しんでいるようだった。
その証拠に、明け透けなまでの軽侮の視線を投げ付けてくる。
「乱の奴は、叔父上……ああ、この呼び方では何方の叔父上を呼んでいるものやら、分かり辛いな。大司徒と共に代帝の元に赴いたのか?」
顎を刳りながらぞんざいな口調で、部屋の隅に控える舎人に声をかける。
礼拝を捧げつつ、は、と短く答える舎人に天は矢張、ふん、と嘲笑う。
乱一派に押されて萎れかけていたが、天が生来持って生まれた粗放な性質が急激に首を擡げ始めている。
――阿呆めが。
異腹弟である乱を謗り、戰に誹謗の限りを浴びせかける天親子は、良い日和故に遊覧にでも出掛けようかという気楽さの中で手を取り合っている。
――自分の置かれた状況を理解していない莫連どもめ。
歯噛みする中に、ふふん、と鼻で笑いながら天が声を掛けた。
「では、叔父上、いや、我が叔父上にして我が帳内・中よ。いざ参らん」
居丈高に命じる天を、何時か首り殺してやる、と腹の底で誓いながら、中は天に礼拝を捧げ同意を示した。
※ 【 翳 】 団扇の事です
古代の中国を扱ったドラマや、大和朝廷初期の絵画なんかで、皇帝の背後で団扇みたいなのでひらひらされててますよね? あんな様な、皇帝や王様たち権力者専用の団扇みたいなの、と想像していただけるとよろしいかと……




