20 想う その2
20 想う その2
「な、な、何やって、かっ!?」
吃りながら叫ぶ虚海は、掲げていた瓢箪型の徳利を取り落とす程の取り乱しようだ。
「あ~あぁ、ちょっと、何やってんのお爺ちゃん。大好きなお酒なのに、勿体無い事しちゃ駄目だよぅ」
明るい調子で言いながら、珊はひょい、と徳利取り上げた。はい、お爺ちゃん、と何時もの笑顔で手渡すと、虚海は、ばっ! と勢いよく徳利を奪うと、酒の唾を飛ばして捲し立てた。
「勿体無い、や、あらへんわい! 嬢ちゃん! 何を急に糞飛んでもない事をぬかすんや!」
簾のような顔の傷の赤みを更に深くして怒鳴る虚海に、ん~? と小さく伸びをしながら、珊は何処かのんびりと答える。
「本当はさ、使節団が禍国に戻る時にさ、こっそり紛れてついて行っちゃうつもりだったんだ。でも、何かもう出来なさそうな感じだし、ならいいや、もう勝手に行っちゃえ! って思ってさ」
えへ、と屈託なく笑う珊の眼前が急に暗くなった。珍しく、音を立てて椅子から立ち上がった蔦が立ち塞がったのである。
「珊」
「あん、主様、何だよう。怖い顔、しないでよ」
「何を阿呆な事云わしゃっとるのや。一座の主として、勝手しやるお人をよう許しゃらりまへんえ?」
低い声で凄む蔦にも珊は一向に堪えていないらしい。にこ、と珊は笑顔を向ける。
「いいよ、別に許して貰えなくても。言ったでしょ? 勝手に行っちゃうって。あたいの勝手なんだから、主様にお伺いなんてたてるつもりなんて、ないよぅ~だ」
小鼻の先に皺を寄せて、べ~だ、と珊は舌を突き出す。珊! と怒鳴る蔦の手を、珊はにこにこしながら握った。
「ね、主様、聞いて? あたいね、この三日間、すっごい変だったんだ」
「……急に、何を言わしゃるのや」
「いいから、聞いてよぅ。皇子様と真と一緒にさ、あいつが行っちゃってからさ、何か、こう、ずっと変だったんだ」
★★★
珊の言うところの『あいつ』が誰なのか、皆にはもう解っていた。
そう、『あいつ』とは克の事であり、珊はこの3日間、身体に染み付いた癖で何かというと珊は克の住んでいる寮に顔を出しに行ってしまっていたのだ。
弁当のおかずを作りすぎた。
新しいおやつをつくってみた。
いい織ができたから衿を付け替えてやる。
そろそろ季節の変わり目だから着物の入れ替えを手伝ってやる。
何もなくても頓珍漢な空回りなあいつの世話をしてやらないと、気になって仕方ない、とばかりに何時ものように克の住まいに突進していく。が、もぬけの殻の住まいを前に克は居ないのだ、という事実に、はた、と気がついて悄気返る。そしてぶつぶつ口の中で文句を言いつつ、腹癒せに小石を蹴り上げながら帰ってくる、という行為を珊は繰り返していた。
肩を下げてすごすごと克の部屋から帰る彼女の姿を、一番痛ましく思いつつ影で見守っていたの蔦は、珍しく言葉に詰まる。
「……珊」
「あいつの部屋に行くとさ、汗くっさい臭いは残ってんのにあいつは居ないの。しっかりする、とか言ってる傍からドジ踏んで失敗ばっかりしてる姿が見えてきそうなのに、俺って駄目だなあとか誤魔化して笑う声とか聞こえてきそうなのに、そんな情けないあいつをぶん殴ってやりたいのに、あいつってば居ないんだよ。ねえ主様、卑怯臭いと思わない?」
「克殿が帰らっしゃるまで待ちゃ宜しいだけの事や」
「そんな呑気にだらだら待ってなんて、いられないよぅ。だってさ、あたいの腕がさ、疼いてんの。あいつの馬鹿面に、気合の一発入れてやらなきゃ! って」
「そちゃ、その程度の理由で禍国に行く、と言わしゃるのかえ?」
「駄目? 何て聞かないよ。だってもう、行く、って決めちゃったんだもん」
きらきらと輝く眸で笑う珊は、蔦にも眩しく映る。
「何……て、言うのかなあ? う~んとね、身体ん中が空っぽになっちゃってさ。もう、あいつの事以外、何も考えられないの。それでね、あいつのことちょっとでも思い出すとさ、こう、胸の奥がむずむずしちゃって、じっとしてらんないんだ」
しかし、彼の立場で珊の身勝手を許すわけにはいかない。
「だから、一人に禍国に行く、言わしゃるのかえ? 姫様方が我慢しておわしゃるのやえ? そや云うのに、此方さん御一人で勝手しゃっしゃるおつもりかえ?」
許しゃりまへん、と胸を反らせて怒る蔦に、珊は、あん、と肩をくねらせた。
「だって、あたい、物分りのいいお姫様じゃないもん。其処らに塵芥みたいに捨てられてた子で、今じゃ頭の緩い遊女だからね。いいじゃない別に勝手にしたってさ」
「一座の主として、珊、此方さんの身勝手はよう許しゃらん、云うたら、そちゃ、どうしゃっしゃるおつもりや?」
「許して貰わなくたって別にいいよ。それなら一座抜けるだけだから」
★★★
本当に、その程度の事はどうでもいい、と重大事だと思っていないのだろう。
その証拠に珊は、すら、と言ってのけた。
珊の思い切りの良さに蔦が胸を張った姿勢のまま思わず仰け反ると、くすん、と仔犬のように鼻を鳴らして珊は笑った。
「珊、一座抜けて、どうしゃっしゃるおつもりなのや」
「だからさ、何度も言ってるじゃない。あいつの所に行くだけだ、って」
「行って、どうしゃっしゃるおつもりや?」
「別に? どうもしないよ?」
思わぬ珊の答えに、は!? と蔦が目を丸くする。えへへ、と珊は笑いながら、蔦の手をぶんぶんと上下に勢いよく振った。
「だって! あいつの所に行きたいだけなんだもん。その先の事なんて考えてないよ」
呆気に取られている蔦をそのままに、珊は、くる、と虚海の方を肩越しに振り返った。
「いつだったかさ、お爺ちゃん、言ってくれたよね? 教えてくれたよね?」
「は~ん?」
「どうしようもないくらい好きになったらええって。やめとけ、言われて諦められるくらいやったら、本気で好いとる訳やあらへん。どないしょ・こないしよ、云うてうろうろするのは、本物の好きやない証拠や、って」
「は~ん……そうやなあ、そういや、ほんな事も云うた事あったかいなあ」
「そうそう! 思い出してくれた!?」
虚海が何時もの調子を取り戻してきた事に珊は小躍りし、良かった! と叫びつつ激突寸前の勢いで頬を摺り寄せ抱きついた。
うきうきとした喜びに跳ねる珊の背後から、余計な事をと言いたげに、じと、蔦は虚海を睨む。
「珊、今のあんたさんみたいな半端者にうろうろされて迷惑されるのは、皇子様や真様方や。どうあっても許しゃりまへんで?」
ぎろ、と蔦が凄んでも珊は肩を竦めて意に介さない。何時もの珊なら竦み上がるというのに、と蔦が内心でたじろぐと、更に珊は何時もと変わらぬ笑顔を見せてくる。眩しさに、蔦は思わず視線を逸らしかけた。
「あん、主様、そんな怖い顔しないでよ」
「呆れておりゃぁすのや。好きでこないな難しげな顔しとる訳やあらしゃらりまへん」
「御免ね、主様。実はさ、この気持ち、本当の好きであってるのか、あたいにもまだ分かんないんだ」
「そんないい加減なお気持ちなら、尚の事や、よう許しゃりまへん」
そ! だからだよ! と珊はまた、蔦の手を握る。眩しい笑顔のまま、珊は蔦を見つめてくる。
「だから主様、お爺ちゃん、あたい、確かめに行きたいんだよぅ」
「何を……確かめたい言わしゃるのや?」
ぱあ、と珊の顔ばせが花開く。
「決まってんじゃない! あたいのこの気持ちが本当かどうか、だよ! あいつの顔見たら、きっと分かるよ!」
「珊……」
「だからあたい、行きたいんだよ! うぅん、行くって決めちゃったの! あいつの事ぶん殴ってやって、その先の事なんて知らない! 分かんない! あいつの顔みたらまた考えるよ! あいつほどじゃないけど、あたいも頭悪いから予定通りに行動なんてできないもん!」
屈託なく笑う珊の眩しさに蔦は脱力し、へなへなとその場に頽れかける。慌てて、芙の部下が支えると、蔦は胸を押さえて天を仰いだ。
珊と蔦のやりとりを聞いていた虚海が、やれやれやなあ、と真の口調を真似て嘆息した。
しかし、声音は何処か楽しげで、明るい。ぱん、と膝を打ちながら、虚海が叫ぶ。
「よっしゃ! 分かったわ! 儂の方こそ、阿呆やったわ! 嬢ちゃん! 禍国の使節団が帰るのに紛れて行ってまえ! 克さん所行って、思う存分、確かめてきたったらええ!」
「うん!」
お爺ちゃん、大好き! と叫びつつ、珊は虚海の首に抱きついた。
★★★
色恋沙汰には滅法疎すぎる杢と、そういう感情に触れた事のない初心な学は、珊の独壇場の一人芝居を、ぽかん、と見守るしかなかった。
だが杢は、珊の甲高い燥ぎ声の合間に部屋の外に人の気配が揺れるのを感じとった。ぎろり、と戸口を睨む。芙が寄越した男も同様にかんじているのだろう、視線が同じ方向を向いている。
二人で視線を絡ませると芙の部下が、そろり、と戸口に近付いた。
そして、勢いよく扉を開け放つ。
すると、人が岩のようにごろごろと途端に雪崩を打って部屋に転がり込んできた。
「――お前たちは」
呆れ声の杢の前には人の形をした岩山が出来上がっており、其れは克の部下の顔をしていた。
「何? あんたたち、聞いてたの?」
「よ、よう、珊……」
「ま、まぁその……」
「あぁ、えぇと、その、なんだ」
「うんまあ……そう言う事だ」
言葉を濁しつつ、床に石塊のように転がっている男たちの顔付きはどれも、ばつが悪そうな、決まりが悪そうな、それでいて悪びれるつもりもないらしい。怒られてもいいから今は興味が優っている、という面持ちだ。
「……虚海殿」
「何やいな、杢さん」
「陛下が決定されたように使節団を送り返すのであれば、護衛をつけましょう」
「は~ん?」
「禍国側が、また何を難癖つけてくるやもしれません。何しろ大令・兆殿は陛下の御婚礼の儀式の後、妃殿下を捉えんと衛尉寺の儀仗兵を引っ張り出してきております。此度も何も手出しをせぬ、とは言い切れません」
「……そやな、杢さんの言う通りやな」
衛尉寺は九寺に属し、礼部と仕事が重複し合っている。
此れまで幾度となく触れてきたが、彼らは主導権争いの衝突を幾度も繰り返してきていた。大司徒・充は上手く彼らの隙間に便乗し、己の利に働くよう衛尉寺を含めた九寺を抱き込む事に成功した。結果、礼部は更に反発を強める一因となっていく。付け加える事に今思えば、左僕射であった当時の兆の要請を衛尉寺が受け入れた誼を通じた事実も、礼部が大司徒一門を見限る背を向け、先大令・中へと傾倒していく決定的な案件となったのかもしれない。
ともあれ。
使節団が人質と成りうる理由も其処にある。
御使を用いた此度の使節は、玉体自体が祭国に下ったに等しい。つまり、使節団が人質となるということは、代帝・安が質となったのだと禍国の雲上内に知らしめる事になるのだ。
王城に在る者にとり、此れ以上の恥はない。
実行した場合、無論、情報は秘されるであろうが六部と九寺がお互いに足を引っ張り合っている今、何方が此れを利用し、内部での政治抗争がより高まることだろう。特に今大令・兆は衛尉寺を、自在にとはいかなくとも『寄りの構え』を見せるまでには手懐けている。だとすれば、此度もまた利用しないとも限らない。
いや、大令・兆の性格上せずにはいられぬだろう。
使節団を質に、と虚海が言い出したのは彼独自の理由、この独断により戰より除外されたいという目論見もあるが、何よりも王都で待ち受ける彼らの性質を見抜いての上で、王城内での共倒れを狙ったものだったのだ。
だが此れは、諸刃の剣でもある。
お互いに容赦のない潰し合いをした結果、瀕死の状態になった敵が、窮鼠猫を噛む体となり予想外の行動に出られる恐れがある。
それが恐ろしい。
此方が使節団を利用しようとせねば、彼方も利用はできない。今は、想定外の敵を此れ以上作る場面ではない、と真はしたのだ。
最も、戰も真も、頭から使節団を質に、など思いもしなかったのも此れもまた、性格的なものもある。本質的に戰も真も、人質、という手段を好まない上に、はなから考えもしない。
「祭国の兵は、祭禮に関わる者に対して無条件で敬意を払う傾向があります。此処は、彼らに、克殿の部下に任せた方が良いと私は思うのですが」
杢の言葉に虚海は、は~ん? と鼻を鳴らしつつ眉をあげてにやり、と口角を持ち上げた。
使節団に護衛を付けるのは彼らの身の安全の為もあるが、何よりも禍国側から同じ手段を使われないようにする為だ、と杢の策はしている。つまり、帰国した使節団から疫病を齎されたの何だと難癖を付けさせない為だ。
祭国の民では、宗主国である禍国側に異議申し立てが出来るなど到底思われない。ならば、此処は腹を据えた胆力のある頼もしい、頼り甲斐のある人物らに頼むのが上等の策だろう、と杢は言う。
だが今回に限って言えば、先ず、そんな事は有り得ない。人質とする、と此方が宣言した上でなくては、彼方には使節団など利用価値がないからであり、今、使節団程度に人員を割く余裕は王都側にもないだろう。
有り得ないのに杢が言い出した真意を見抜いた虚海は、肩肘をついて腕枕にし、のんびりと鼻糞を穿りながら頷いた。
「そうやなぁ。ま、そうしたるんが、一番ええわな。みんな、嬢ちゃんを禍国に連れてったりぃ」
火を灯したばかりの燭台のように、ぴか、と珊の瞳が輝いた。
「じゃ、じゃあ、あたい、みんなと一緒に行けるの!?」
「喜ぶ所やあらしゃりません」
やれやれ虚海様ばかりか杢様まで小無ない娘の味方をしゃっしゃる、と蔦は嘆息するが、珊は小躍りするばかりである。
ひとしきり、嬉しさを顕に飛び跳ねていた珊だったが、急にぴたり、と動きを止めた。
そして、くる、と振り向くと真っ直ぐに薔姫の処にやってきた。
「姫様もさ、一緒に行こ!」
「……えっ」
矢張、余りの急な展開に戸惑い、二の句がつげない薔姫の腕をとって、ぶんぶん振り回しながら珊は燥いだ声をあげる。
「いいじゃない! 姫様だってさ、真の所に行きたいんでしょ? だったら一緒に行こうよ! いつもいつも我慢ばっかしてたら禿げるよ!」
「……私……」
「あたい用意してくるから! 姫様も荷物かためて用意して来なよ!」
仔鹿のように飛び跳ねて部屋を飛び出していく珊を見送りながら、克の仲間たちは早速、隊長が珊にあったらまず何をするか、頭が真っ白になって固まる、今直ぐ帰れと騒ぐ、興奮して勢い余って押し倒す、で賭けを始めていた。
★★★
薔姫は、自分でも気が付かないうちに学の部屋を出ていた。
――姫様も一緒に行こうよ!
自分をそう誘ってくれた珊は、真夏に咲き誇る花のように眩しい爛漫の笑顔で飛び出していった。
――本当の好き。
珊の一言が、ちく、と薔姫の小さな胸を刺す。
「好き……」
呟いてみるが、何だか実感が伴わない。
皆の事は、大好きだ。
実の母である蓮才人。
義理兄上である戰、兄嫁である椿姫。
舅である優、義理母である好、義妹の娃、一緒に暮らしている芙を始めとした蔦の一座の仲間も、珊も。
禍国から一緒にやってきた、通、類、克、杢、時……新たに仲間になった、吉次、琢、那谷、虚海。
大切な人ばかり、皆、みんな大好きだ。
勿論――良人となった、真の事だって。
だがその大好きと、珊の云う大好きとは違うような気がしてならない。
その違いも大きいのか、小さいのか。
全くかけ離れているものなか、多少なりとも掠っているのか、それとも僅かな違いでしかないのか。
それすらも曖昧なのだが――違う、ような気がする。
ふと、鼻を擽る風に爪先ばかりを見詰めていた視線を上げた。
目の前には、小さな素焼きの鉢植えが幾つもあった。鴻臚館の周辺に植えられていた木々も、鎮火作業の為に随分刈られてしまい、物悲しい状態となっていた。その穴を埋める新たな垣根や庭を造る為に、山から苗木が持ち込まれているのだ。
様々な木がある。
沈丁花、梔子など花と香りが同時に楽しめるもの、満天星躑躅のように春には花が秋には紅葉た楽しめるもの、茱萸のように花と実が楽しめるもの、槇のように枝を刈り込んで葉の形の可笑しみを楽しむもの、様々に用意してある。
小さな苗木の頂点は、どれも薔姫の腰から胸の辺りになっていた。
薔姫は小さな林の中に入り、一つ一つに指を伸ばして、葉を摘んだり枝を撫でたりする。分厚かったり、つるりとしていたり、同じものは一つもない。
しかしこの苗木たちに共通して言えるのは、彼らは中には『生きたい』というはち切れんばかりの欲求が詰まっている、と言う事だ。
これから先、季節はどんどんと厳しくなっていく事を思えば、このままでは、鴻臚館の跡地は更に寂しさと侘しさが募る事だろう。だが若木の生命力が溢れる幹と葉は、そんな鬱屈した気配を吹き飛ばす生命力に漲っている。
苗木の渦の中を歩いていた薔姫は、とある一本の若木の前で立ち止まった。
驚きに、大きく目を見開く。
次いで、思わず溜息とも笑みとも取れる息を吐いていた。
――綺麗……。
薔姫の目の前にあったのは、桜の苗木だった。
彼女の手首よりも細い枝周りの若木は、然し乍ら、微かに薄桃色が匂う白い花を、未だ旺盛な青葉の影に、ぽつりぽつりと咲かせていたのだ。一つの花弁の数は10枚、いや20枚近くある八重咲きで縮れた花弁がよりぷっくりとした印象を抱かせる。
手の平に包み込むようにして、花に触れる。
すると、ふるり、と手の平の中で八重咲きの小珠のような桜が不満げに揺れた。まるで、大空を自由に駆ける風と、風を包み込む太陽の温もりに溶け込んでいたいから邪魔をしないで、と言わんばかりに。
慌てて手を引っ込めた薔姫だったが、今度はしゃがんで、見上げる形をとって手を伸ばした。三階草のように手の平を広げて、花の下にそっと宛てがう。
太陽の光を受けて白く輝く小さな花弁は、ふわ、ふわ、ふわ、と風に揺れた。空に浮かぶ小さな雲が千切れて降りてきたかのようにも、見える。
その時、すぅっ、と影が肩にかかるのを感じた薔姫は、思わず笑顔になって、隣を仰ぐように振り返った。しかし、直ぐにその笑顔は落胆の為に窄んでしまう。肩に差した影は、鳥が通り過ぎたせいだったのだ。
空を見上げてみれば、悠々と舞う影の主はいつだったか施薬院で栗と共に見た事がある鳥だった。
――鵟……。
立ち上がった薔姫は、きゅ、唇を固く噛み締めた。
青空の中、番であろうか、2羽の鵟が高く、低く、影を折り重ねるようにして、飛んでいる。時折、片方が甘えるような鳴き声を発すると、もう片方は羽の動きを緩やかにして、そ、と寄り添うような素振りを見せる。
一頻り、空での散歩を楽しんで満足したのだろうか。
鵟の番はやがて、大空に滲んで溶け込むように何処かへと姿を消してしまった。
鵟たちの羽撃きの舞を見守っていた薔姫の中で、いつだったか真と約束した言葉が、幾重にも重なり合って谺していた。
――今度の春は、一緒にこの並木を歩きましょう。
雫型の四枚の葉を花弁のように広げた馬肥草を手渡して呉れながら、言ってくれた。
今度の春、と言ってくれた。
何時もの、優しい笑顔で言ってくれた。
手を繋いで言ってくれたのだ。
だから。
――あれだけ約束をしたんだもの。
きっと、うぅん、絶対。
絶対に……約束、守ってくれる……筈……よ、ね?
ふと、風に踊った花弁が、薔姫の小さな手の平を撫でていった。
擽ったさに、思わず肩を窄めつつ、白い花が踊る様を改めて見詰める。
「……こんどの、はる……」
この2年間。
本当は、ずっと、ずっと我慢してきた。
あれもしたい、これもしたい。
我が君といたい、離れたくない、と我が儘放題に言いたかったのを、ずっと我慢してきた。
――でも。
「……今度の春まで待つなんて、もう、やだっ……!」
だって、もう桜は咲いているんだもの。
こんなに綺麗に咲いているんだもの。
だから。
一緒に見たい。
我が君と一緒に桜の花を見たい。
歩けなくてもいい。
手を繋げなくてもいい。
珊が克の顔を見られればそれでいい、と言ったように。
二人で一緒に、この桜を前に、大空と、風と、太陽を身体一杯に感じあえれば。
それで――
それだけでいい。
それだけでいいから。
一緒に、いたい……!
「我が君ぃっ!」
次の瞬間、薔姫は、桜の花の苗木を植えてある鉢ごと持ち上げて走り出していた。
※ 三階草 = 仏の座




