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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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19 対決 その1-3

19 対決その1-3



 屋敷の奥で知らせを受け取ったさきの大令・ちゅうは、手にしていた自慢の花器を危うく取り落とす処だった。


「ほ、本当か……!?」

「……」

「ほ、本当に明日にも郡王が祭国より戻るのだな!?」


 興奮が誘うままに上擦った声をかけてしまった後で、相手の身分を思えばしてはならぬ所業であったと直様自戒し、ちゅうは誤魔化すべく態とらしく痰の絡んだ咳を一つ落とす。身体を小さくして跪いて控える下女は、無言・無表情を貫いている。

 くるりと背を向けて、生ける為に用意されていた花の束の中から、柊の枝を掬うように選び取る。不摂生を続けたが故に柊特有の棘のある葉と紛うささくれ(・・・・)が目立つ指で摘まみ上げる。ちくり、と葉の棘が指を痛めつけているにも関わらず、中は肩を揺らして、くつくつと陰に篭った笑い声を漏らし始めた。ゆさゆさと枝葉がゆれ、はらり、と小鳥の羽のように白い小さな花弁が落ちていくが、中は構わない。

 遂に、腹を揺すって笑い転げだした。握り締めた枝が、吹き荒ぶ大風に当てられたかのように揺れに揺れ、白い可憐な花は哀れにも全て散ってしまった。しかし、花を散らし終えてなお、中は笑う。


 ――郡王が帰ってくる! とうとう……!

 先に聞いた時には、懐疑的に横目で見ていた。

 しかし、此処まで一度も読みが外れていない。

 ――何と云う事だ……!

 だとすれば王城では今、兄である大司徒と養子である兆が密談を行っている頃合か?

 中の背筋を、ぞくりぞわり、とまるで這い蟲が這いずるような感覚が走る。

 慄きではない。

 深い歓喜のせいだ。


 ――呼び出された折は戯言を抜かす田分けめが、と小煩く思っていたのだが。

 そもそも、吃という劣り、穢れた身、しかも皇女を娶り若隠居に近しい分際で何を、と。

 しかしどうだ。

 齎される一報一報が、確実に、そして着々とあの男の言葉の波に乗っているではないか。

 ――あの男、意外と出来る奴だったのか?

 いや其れとも、悠々と語りくさったように、怨恨を晴らさずにはおられぬ立場故に読みが鋭くなったのか?


「……まあ、この際、何だろうが構わん」

 何方にしろ、好都合というものだ。

 ――兄者。

 今に見ておられよ。

 この恨み。

 貴方の身体をもって償って貰わねばならぬからな。

 楽しみに待っておられるが良い。

 勢い込んで笑い続けたせいで、無理にでも息継ぎせねば胸が苦しくなる程だった。が、中はこのまま息が切れて昏倒してもかまわぬとばかりに笑い続ける。


 代帝・安の全くの気まぐれ。

 詰まらぬ一言で、此れまで築き上げてきた地位も名誉も富すらも何もかもを、養子に押し付けられた左僕射・兆に奪われた後、隠遁に近い生活を中は余儀なくされた。

 甥子である乱を二位の君と呼ばれるまでに押し上げたのは、己の才覚、己の後ろ盾が在ればこそ。

 であるのに、句国戦の失態にて皇太子・天が使い物にならぬと痴れ者と露見するやいなや長兄あにである大司徒・充は、何十年もかかって築き上げてきた根幹と誇りに等しい作品・・である乱を取り上げ、自分を撫で斬りにし、塵芥ちりあくたのように王城より追い払った。


 禍国開闢以来の名門。

 ――英雄として名を馳せた一門の祖の血を正しく引き継いでおるのは、兄よ、貴方のみではない。

「この私も、父の正統な血筋であるのだよ」

 だが、兄・充が死に体と化した時の予備・・として生きる事、幾年であったか。

 最早数える気にもなれぬ。

 不当な扱いと立場に耐えに耐え、そして栄華をこの手にする寸前に謂われなく破滅に追いやられたこの身に、正統な威信と実権とを取り戻してやるだけだ。

 ――思い出させてやる。

 思い出させてやるからな、待っておれ兄者。



「王城へ参る」

「……」

 無言で控える下女は無表情だ。

 ああ、と片眉を跳ね上げて、中はくつくつと笑った。


「行き先を告げるのを忘れていたな。皇太子殿下の元に参る」

 下女はこうべを軽く下げ、静かに下がっていった。

 少し前に勧めに従い雇い入れたのであるが、一を聞いて十を知り百の用意を先んじて行う女だった。

 以前の中であれば、一々、馬を引かせよ、貢物を持て、然るべき着替えを用意せよと命じねばならなかった。いや、人に指図する事により自尊心を満足させていた中は、それにより己の欲求をも大いに満たしてもいた。が、王城を追われて立場と権勢を無くしてからは、例えそれが奴婢であろうとも口を開くのも面倒になった。


 しかし、紹介されたあの下女は違う。

 ――よい拾い物だ。

 くつくつと笑っていると、下女が再び現れた。

 着替えの前の湯の用意が整った旨を静かに伝え、そして下がっていく。

 満足を隠そうともせず、中は頷く。何も言わずとも己の望み通りに事が運んでゆく。

 同じ傅かれるにしても、無条件で尽くす者が侍っている。

 この事実は中を爽快な気分に、そして倨傲きょごうな態度に走らせるに充分すぎる存在だった。


 ――何れ、全ての人間が、あの下女同様、私の前に平伏すのだ。

 そう、兄者、貴方も例外でない。

 積年のこの恨み、必ず晴らさせて貰いますぞ、兄者。


 嗤う先大令・中の身体が、花器に触れた。

 悲鳴のような、けたたましい(・・・・・・)耳を劈く高い音が、只の陶器の欠片となった花器と共に空に散らばっていく。

 中の嗤い声が不協和音となり、室内をねっとりと満たしていく。

 その様子を、去った筈の下女がいつの間に戻り、物陰から冷ややかな瞳で、じ……と睨めるけるように見据えていた。



 ★★★



 中が王城内に、そして皇太子である天の住まう一角に足を踏み入れても、誰も咎める事がなかった。

 其れだけ、この一角には人の出入りというものに気を配られなくなったのであろう。


 ふふん、と鼻で笑いながら、中は胸を反らせて堂々と歩いた。

 今、彼は先大令としてではなく、皇太子・天の一門、皇子の叔父として訊ねて来ているのだ。

 ――そうだ、私は負け犬として追い出され、そして餌を求めて徘徊する野良犬としてたまたま紛れ込んだ訳ではないのだ。

 俯き、人の目を気にする必要はない。


 案内する舎人が皇太子・天の私室の扉前へと中を案内したが、申し訳なさそうな眼付きをし、一歩下がる。

 此処の処の、天の人気と権勢の凋落ぶりは眼を覆うばかりだ。

 彼が皇帝の座に就いた折には、その筆頭の臣となるべき大保・受は代帝・安腹の皇女・染を娶ったばかりに、権力を持つ資格を失った。

 何の為に吃音を直したのか知れたものではない、と当初蔑み嘲笑の的としていた人々も、彼の絶対的な後見者である大司徒・充までもが二位の君・乱へとあっさりと鞍替えする姿を目の当たりにして、須く口を噤み表情を改めた。そして、雪崩を打つように、皆、二位の君へと馬首を巡らせた。

 それまで、皇太子様に永劫の栄耀を、七世先の生まれ変わりの魂までをも禍国の皇帝となるべき天皇子様に捧げまする、とおべっかを使っていた者たちは、その舌が紡ぐ賛辞の名を天から乱に差し替えて唱えている。

 と、同時に、天は穴熊のように逼塞した生活に没入し始めた。

 それまで飽きるという言葉など知らぬとばかりに繰り返し繰り返し行われていた、乱痴気騒ぎもすっかり息を潜めた。権勢を誇るが為の朝貢品の品比べや、其れらの逸品を皇帝に成り代わり下賜を行ったりと賑わいを見せていた天の住まいは、今や、蜘蛛が巣を張る為の糸紡ぎの音すら聞こえようかという静けさだ。


 ――落ちぶれたものだな。

 だが、お陰で都合が良い。

 中の背後では、まるで存在を感じさせることなく、下女が従って来ていた。彼女と共に従う下男は、紫紐で飾り結びを施された清楚な桐箱を掲げている。



 言われるままに控の間で静かに待っていると、やがて作法通りに皇太子の許しが降りたと舎人が伝えに来た。

 立ち上がり、静かに天の私室に入る。

 陰惨な、そして陰鬱な空気が澱んだ部屋だ。

 どんよりと濁った、そして天の鬱屈した気がそのまま空気となったものが、べたべたと纏わり付いてくるようで、中は思わず舌打ちをしたくなる。

 何とか堪えつつ、ちらりと視線を巡らせると、部屋の奥でぶつぶつと何か呪詛の言葉を吐きながら小さくなっている天の背を、母親である徳妃・寧が撫で擦りながらやはり何か大仰に捲し立てている。


 ――似た者親子め。

 侮蔑の言葉を腹の奥で吐きつつ最礼拝を捧げる。

 中に気が付いた寧が、ふん、と蔑んだ眼付きで鼻息も荒くまくし立てた。

「何をしに来やったのじゃ! 己の娘の腹出の皇子が皇帝の座に近くなったと自慢でもしに来よったのか!」

 怒りも顕に怒鳴り散らし、徳妃・寧は己の胸に天を掻き抱く。


 そう。

 先大令である中の娘である貴妃・めいの腹から生まれしが二位の君である乱だ。

 今でこそ、代帝・安がのさばっているが、それも後、何れ程もつものか。


 次代の皇帝が二位の君と定められれば、中は外祖父だ。

 幾ら代帝により失脚させられたとて、乱がそのままとしておく訳が無いと寧が考えるのは当然だった。

 何となれば、乱が『二位の君』としての権力を勢力を得たのは、偏に大令である中の後ろ盾が在ればこそだという、此れまでの政争から身に染みている。

 中が再び政治の中枢に瞬く身となるのは必定、返り咲いての栄達が約束されたも同然である、と寧は見ており、噛み付いたのである。


 しかし中は、ふ、とものうげに目を反らす。

 ――馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、此処まで馬鹿であるとは……。

 だが、扱い易い事この上ない。

 中の表情の変化に、寧の眉の間にちかり、と怒りが光った。

 眉を跳ね上げつつ、何という顔付きをしやるのじゃ、馬鹿にするのも大概にするがよいわ! と寧は怒鳴り散らした。

 耳元で母親に喚かれても、しかし天は反応しない。

 動じない、というよりも、凡そ活力精力というものを感じさせないのだ。まるで死人のような暗く鬱々とした面体のまま、ぶつぶつと口内で何事かを唱え続けている。

 其れは、大司徒・充と代帝・安、そして異腹弟おとうとである乱を呪う言葉が螺旋のように絡まりあう、祟りを呼ばんとするものであった。


「徳妃様におかれましては、斯様に御心乱されておられようとは。この中、無念遣る方も無く、また己の無能さに落胆悄然とするばかりに御座います」

 痛罵せんと唾でぬめる唇を開きかけた寧は、中の苦楚に満ちた表情に目を眇めた。演技ではない、真実の悲憤慷慨を感じ取ったからである。

「……何用で参ったのじゃ」

 幾らか声を落とし、逆に天を抱く腕には力を込める。

 用心しつつも、中の出方が気になって仕方が無いのだろう。


「徳妃様、そして皇太子殿下」

「……」

 丁寧な物腰と物言いに、寧は僅かに身体を仰け反らせる。

 実父である大司徒・充に見限らたと見るや、『名ばかり皇太子』として凋落覆滅の敗残者の烙印を押された天に、今や『殿下』と尊称を使い敬いを見せる者すら稀である。

 まして、今、目の前にいる中は、此れまでその天と玉座を巡って争い、今やほぼ手中に収めたと目されている『今を時めく二位の君』の叔父なのだ。

 そんな男に下手に出られて、警戒せぬ方がおかしいというものだ。

 皺の溜まり場となった涙袋をひくひくと痙攣させている徳妃・寧に、中は大仰に手を広げて見せた。


「警戒召されるな。もとより我らは同門、実の叔父と姪御の間柄ではないか」

「何を今更! うからを強調しよるのか! 我が父と同腹弟おとうとが、其方の娘が産みやった皇子の味方についたが斯様に誇らしいのか!」

 堪らず寧が叫ぶと、幾重にも折り重なった首の皺がぶるぶると淫らに上下に震える。

 姪である寧の言葉を、此れは誣言しいごとを、と中は軽くなす。

 中が控える下女に顎を刳る。静かに歩み寄った下女から紫紐で括られた桐箱を受け取ると、中は自ら天に向かって捧げた。


「まだ、お分かりになられぬのですか?」

「……何をじゃ」

「徳妃様におかれましては実の御父上、皇太子様におかれましては叔父と慕う御方である大司徒・充に、お二方は裏切られましたな」

 一気に逆上して狂った叫び声を上げかけた寧だったが、す、と桐箱を差し出しつつ囁いた中の言葉に、動きをぴたり、と止めた。


「私も、お二方と同じなのです」

 何が、と寧が言いかける前に、天が母親の腕の中で身動ぎした。

 ちゅうは満足気に、にやり、と口角を持ち上げつつ続ける。

「どういう……意味じゃ……?」

 寧の語尾が上がる。

 同時に、天の双眸が、徐々に此方に向いてくる事を確かめ、中は大きく息を吸い込んだ。


「私は、実の娘である貴妃となりし明と叔父上と慕われた二位の君より、あっさりと見捨てられたのです。兄である大司徒・充に、二人して乗り換えたのです」

「……」

 胡乱げな寧の視線と違い、天の視線はぎらぎらとしている。己の思い通りに事が運んでいる満足感を覚えながら、中は続ける。


「どうです、皇太子殿下、徳妃様、身内に裏切られし者同士、手を握り合いませぬか……?」

「……」

「此れは、その証として、笑納して頂きたく……」


 しゅるり、と紫紐が解かれる。砕けるように四方に広がった箱の中で燦然と輝く青磁の壺だった。

 青磁釉薬は二度掛けしてあり、より深く静かな硝子の透明感を有する逸品だ。

 型は天鶏壺てんけいこと呼ばれるもの。

 注ぎ口が刻を告げる天鶏の姿を、持ち手は昇龍を象っている。

 天鶏とは星辰の脈動を告げる聖なる鳥、即ち天帝により皇帝と定められる瞬間を指し、昇龍はそのものずばり、瑞祥を知らせる天昇る竜を表している。


 此れだけの品だ。

 国庫に納められていてもおかしくはない。

 事実、此れは那国よりの献上品の一つであった。

 中が大令であった折、礼部に収められた品なのだ。礼部が取り仕切る祭典でも使用されたことがある、其れだけに、此れ程の品を手に皇太子に謁見を願う中の意図は実に見え透いていた。


「……此方」

 かさかさと割れてひびの入った天の唇が、動いた。

 は、と中は跪く。

 その頭上に、此方、と再び天の声が注がれる。


「私に、何を望む」

 中は、床に額を打ち付けんばかりの勢いで平伏してみせた。



 ★★★



 受が屋敷に戻ると、女童めのわらわが何事か、必死に詫びを入れている悲痛な声が四方八方に響き渡っていた。執り成すように、年嵩の下女が庇う言葉を連ねているのも聞こえる。

 しかし其れらを打ち消す、まるで猪豚の吠のような叱責の声が上がる。

 女主人あるじが、何時ものように己の内に溜まりに溜まった鬱憤を、女童に対して理不尽にぶつけているのだろう。


「……お止めになられませぬので?」

 幾らか期待感を寄せているのだろう、資人しじんが顔を覗き込んでくる。

「何をだ?」

 胡乱げに視線を流してくる主人から手綱を受け取りつつ、資人は小さくなる。

 しかし、一応騒ぎは気にはしているようで男は、ふむ、と耳を欹てた。

 どうやら彼の正室である妻が、盛大に癇癪玉を爆発させたらしい。雑言悪言を重ねている内にますます感情が昂ぶってきてしまったのだろう。

「……易変えきへんたちであるとは思っていたがこうまでとはな……」

 行かずとも目を吊り上げつばきを飛ばしている妻の姿が見えるようだな、と無表情のまま冷静に呟かれてしまい、資人の方が戸惑いの表情を見せる。

 そのまま、自室に向かいかけた男の背中に、酸鼻な悲鳴が届いた。

 女童のものに女たちの嘆声たんせいが絡み、其れを払う勢いで女主人の鼻息荒い声が渦巻いている。

 男は大きな嘆息を落とすと、仕方の無い奴だ、と呟きつつ騒ぎの方へと向き直った。



 男が部屋に入ると、女童が裸に剥かれて背中を打たれていた。

 いや、正確には柱に腕を括りつけられて背中を見せた格好を取らされていたのだ。まだ女性特有の丸みなど微塵もない細い背中を、女が常日頃愛用している扇で散々に打たれているのだ。故に、衣服は千切れて襤褸布と化し、裸体寸前になっていたのである。

 無論、其処まで激しく打たれているのであるから、既に背中の皮膚は裂け、ささくれ毛羽立ち、明々と輝く肉片を覗かせている。扇は緋扇かと見紛う程、赤い。

 びち! と女童の背中で音があがる。

 錆びた鉄粉のような臭いを撒きながら、血と小さな肉片が周辺に散る。

 一際高い絶叫をあげた女童は、遂に、かく……、と首を折った。力と張りを失った小さな身体が、ずるずると柱を滑りながら床に向かって崩折れていく。


「誰が気を失ってよいと云うたか! 此れ! 早う水を掛けて眼を覚まさせるのじゃ!」

「何事だ」

 動じる色もみせずに部屋に男が入ると、主人の登場で事態が好転すると期待したのであろう、侍女たちが一斉に、そして明白に縋る眼付きをしてみせた。益々気に入らぬのか、女主人は大きく振り被るように腕を上げて鞭のようにしならせる。

「やめよ」

 止める男の声など聞こえぬとばかりに、女は脂肪に塗れた太い腕を唸らせた。ぶるん、と二の腕から垂れ下がる弛んだ肉が音をたてる。

 溜息をつきつつ男は女の背後から近づき、盛り上がる程肥えているため段々のついた生白い手首を己の手刀で無造作に打った。女の喉から、ひぎゃあ! と甲高い悲鳴が天井目指して上がり、反対に、手にしていた扇は女童の背中を打つ寸前で、ぼとり、と足下に落ちる。

 すかさず、男は爪先で扇を蹴り飛ばした。


「何をしやるのじゃ!」

 ぎゃー! と喉を裂いて叫び声を上げて男の喉元を締め上げようと腕を伸ばしてくる女の頬を、男は無造作に、びしゃ、と打った。

 肉塊のような肥え太った女の身体が、鞠のように、しかし鞠のような軽やかさは微塵も感じさせずに、もんどり打って転がっていく。

 自分の頬が打たれたと直ぐには理解できなかった女は、身体を起こすと暫しの間、竦んだようになった。が、ジンジンとした痛みに我を取り戻し、赤くなった頬を撫でながら、ぎちゅ、と唇を噛んで男を睨めつける。

「な、な、な、何という事をしやるのか! 妾を誰を心得やるか! 妾は皇女じゃ! しかも、今上帝腹の皇女じゃぞ!」

「何をしている、娘を助けよ」

 またそれか、と言いたげに男は喚きたてる女を完全に無視して命じる。

 命令に、泣きながら侍女たちは従う。

 一斉に女童に群がると、血の通った色をなくすまで締め上げられた手首の縄を解き、しかし剥き出しの肉が見える背中には恐怖心からか、手が出ない様子だった。


 溜息と共に、男の上衣が女童の背中にふわり、と掛けられるに及び、漸く、薬を、着替えを、とぎこちないながらも動き出した。

「この娘が何をした」

「何を、じゃと?」

 ほほほほほ! と二重顎を震わせて女は笑い飛ばした。

「まだおそそ(・・・)に毛も生えぬようなわらしの癖に、化粧けわい臭くしをつくって男どもを誘っておった故、女主人あるじとしてをしてやったまでじゃ」

「……何?」

「大方、主や客人を漁り側室に収まるのが目的だったのじゃろうが。女主人として、侍女の本懐を忘れよった、腐りきった阿婆擦根性を入れ替えてやったまでじゃ!」

 何が悪いのじゃ! と息巻く女を無視して、ちら、と男が女童を取り囲む侍女の一人に視線を投げ掛ける。慌てて女は、首を左右に振る。其れこそ、飛んでもない言い掛かりだった。化粧もなにも、彼女は下女たちには必要なきぬや飾りすら与えようとしないではないか、と怨み辛みすら視線に込めている。

 しかし、女は侍女たちの視線など微風そよかぜ程にも感じていないのか、まるで無視して立ち上がり、男の襟首を締め上げる勢いで詰め寄る。


「此方こそ、妾を屋敷に閉じ込めておきながら何をしておった。其れこそ、化粧臭うて鼻がもげ落ちそうじゃ」

 嫌味の成分で出来上がった女の声音に、男は理解した。

 自分が芸妓と共に過ごしていると何処からか耳にし、納まりきらぬ憤怒を抵抗できぬ哀れな幼子に向けて爆発させたのだ。

 男は目を軽くとじ、呆れ返るとは此の事だ、と軽く頭を振る。

「可愛げのない室を抱く気も起こらぬのは何処の男も同じ事。よって、可愛げのある女を楽しんできただけだ」

「何じゃとぉ!?」

 しかし、沸騰しり蒸発寸前まで熱せられた女の掠れ声とは対照的に、男は飽く迄も冷ややかに応える。

 何じゃ!? と更にいきり立つ女を無視して、男は己の上衣ごと女童を抱き上げた。


「何をする気じゃ!?」

「この様な傷を付けられては、この娘、一生残る痕を背負って生きてゆかねばなるまい。さすれば嫁に望む男も出ず、娘に良縁を取らせる為に我が家式に行儀作法と執成し期待して送り出した親は悲しむだろう。何よりも、主としての私の名折れとなる。ならば、主として責任を取ってやらねばなるまい」

「な、な、何じゃと!?」


「東北の対屋が空いていたな。この娘に与える。連れて行き、然るべき世話をせよ」

 仕人を呼び、気を失った女童を渡す。

 周囲に群がる侍女や下男たちは、驚きに目を丸くしつつ互いの顔を見合わせ、次いで女童に向けて礼拝を捧げた。

 この瞬間、少女は男の『承衣の君』、つまり側室として認められたのである。


 許さぬ! 断じて許さぬわっ! と地団駄を踏みながら喚き怒鳴り立てる女に向かって、男は氷のような視線を放つ。

「染」

「下郎! 妾を誰じゃと心得ておる! 呼び捨てるか、無礼者めが!」

「この屋敷の主人はこの私だ。元は皇女であろうが何であろうが、其方は今やこの大保の、ただの室に過ぎぬ」

「……なっ、なっ、なんとっ……!?」

「悋気に狂った室の言い分に耳を傾ける愚かな良人おっとなどおらぬと一つ学べたか」

 すらりと言い放ち、男は自室へと爪先を向ける。


「待ちや!」

「命令される謂れはない。今、王城に何が起ころうとしておるのか、其方は知らぬであろうが」


「……な……んじゃ、と……?」

「郡王・戰が明日にも王城入りする。我らが主上であらせられる代帝陛下におかれても心穏やかではおられぬであろうと、其方娶ったが故に力を失った私とても安穏としておられぬと動いておるというのに」


 暢気な事だ、此れだから女は気楽で良い、とぼやきつつ男は女を置いて部屋に消えていった。






【 易変えきへんの質 】


 いわゆる、ヒステリー体質のことです



『 叔父、甥御という表現について 』


 ここまでの作中、天や乱が実際には祖父にあたる充や中を『叔父』と表現する場面があります

 基本的に天や乱は皇子という身分ですので、いくら充や中の外孫にあたるとしても二人の方が立場は()になるわけです

 当然、天と乱は、彼らを『お祖父様』と呼べません

 そこで、同族の年上の男性、という意味で『叔父上』と一応の敬意を見せているわけです

 本来なら『小父』とするべきなのでしょうが、それですと年上の男性全般になってしまうので、勝手なこじ付けで『叔父』と書いております



 ちなみに、自身の親の兄姉にあたる方は伯父・伯母、親の弟妹にあたる方が叔父・叔母となります

 天や乱があえて「叔父」としてるのは、皇帝の妃となりいずれ国母となる立場の母親よりも身分が下、という意味あり「叔父」をとっているわけです

 同様の理由で、独白で中は乱の事を『甥御』としているのですね



 (そんなにあいつら頭イーのかよ、そこまで考えてんのかよ(・ω・`)というツッコミはなしでおねがいします)

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