19 対決 その1-1
19 対峙 その1―1
翌朝は、雲一つない快晴だった。
秋色に染まる朝ぼらけは、至って長閑だ。
まだ空が濃い藍色の帳に沈んでいる頃から起き出して縁側に立ち、姿の移り変わり様を見詰めていた真は、奥床しくも凛々しい相反する美しさを有する輝きに、感嘆の溜息を知らぬうちに漏らしていた。
小鳥の囀りゆくままに薄紅を纏った天女が陽の光りを棚引かせるように、徐々に明けゆく大空の色の美しさは何処にいても普遍のものだ、と思い直ぐに頭を振る。
「……いえ」
――……この祭国のみが抱く大空、なのかも、しれませんね……。
明けゆく大空に飛ぶ鳥を眸を細めなつつ見上げながら、真は思った。
禍国の大空は、斯様に澄んでも麗でも妙なるものでもない。
薄く濁った灰霞がかかり、群青にも深紅にも染められない。
――この祭国を、いつの間に、こうまで愛してしまっていたのだろう……。
「……いいえ……」
――私は、禍国を、真の祖国として。
心の奥底から愛した事が、果たしてあるのでしょうか?
細めた視界の先で徐々に増えていく鳥たちの姿が、まるで祭国に集いだした自分たちの姿に重なり、真は微かに口元を緩める。
「我が君? いやだ、我が君、もう起きていたの?」
慌てた声が、ぱたぱたと背後から走り寄ってくる。
が、声の主に腕を掴まれて驚くまで、真は大空に心を奪われていた。
★★★
何時ものように薔姫の手を借りて、真は着替え、手水、朝餉をとっていった。
世話をしてくれる幼い妻の、くるくると小気味よく動いてくれる姿も、暫く見納めとなる。
昨夜は、真の母である好と妹の娃だけでなく、家で世話をしてくれている蔦の一座の者、虚海と那谷・福たちや施薬院に勤める者、騒ぎを聞きつけた克と珊、克を見送りたいと称した彼の部下で参加出来る者まで加わった為、仕舞いには宴会のような規模の騒ぎとなってしまった。何故か克の顔面が真っ赤に膨れ上がっていたので、克の部下や蔦の一座の者たちが一斉に囃したてたので、場は一層の盛り上がりを見せた。
別れの盃を交わせないのであれば、せめて楽しく、という薔姫の心遣いに癒されながらも、毎回、独り残して行くことになる孤独感を彼女がどうしているのだろうかと気になってしまう。
「姫、それでは行って来ますよ」
「……うん」
殊更に笑顔を頬に張り付かせている幼い妻の姿が、いじらしい。
真は腰を下ろして同じ目線の高さになると、懐を探った。懐から出た左手には、文鎮用の座布が握られていた。
「仕人の子へのこの贈り物ですが……」
「……うん」
「本人に手渡せなくとも、御実家に伺うなりして必ず届けますから」
「……うん、有難う」
さらさらと流れる薔姫の前髪を撫で、真は笑った。
「そんな顔を、しないで下さい。私に作って下さった雀の刺繍入りのお手玉も、ちゃんと持って行きますから」
「……うん」
何故か吹き出しそうな顔付きになる薔姫を訝しみつつ、真は、さて、と立ち上がった。
「姫」
「……え?」
「戰様の処まで、一緒に行きましょうか」
「――うん!」
差し出された真の手に、薔姫はむしゃぶりついた。
★★★
妃である椿姫に、腕枕にして共寝をしたのは実に久方ぶりの事になる。
――椿が隣に居てくれる、というのは、こうも気持ちが安らぐものだったのか。
改めて、運命の廻り合せにてこの美貌の少女を己のものとした幸せを、存分に噛み締める。
勿論、間には二人の間の愛情の結実たる我が子が、でんと我が物顔で入り込んでいる。しかし此れも恋人だけいられぬ間柄に――夫婦になったのだと実感でき、戰には嬉しい事だった。
白い椿の妖精と讃えられる麗しい妃の寝顔を飽きることなく見詰めていると、長い睫毛が、ふる……と揺れた。ん、と軽く呻いて目覚めた椿姫は、直ぐに意識を覚醒させて、にっこりと微笑んできた。
「戰……いやね、見ていたの?」
「ああ」
「……ずっと?」
「……ああ」
また、暫く見られなくなってしまうからね、と言いかけて慌てて飲み込む。椿姫こそ口にしたくて堪らぬであろうに、堪えていてくれているのだ。其れを自分が破ってどうする、と辛うじて耐えていると、間で、星が戰の腕に縋って、うやうやと言葉にならぬ言葉を発して愚図りだした。
「どうしたんだ?」
「気持ちよく目が覚めなくて、気分が悪いのね、きっと」
寝乱れた髪を手櫛で軽く整えながら身体を起こすと、椿姫は星を抱き上げた。
ゆっくり、ゆっくり、ゆら、ゆら、と心音に合わせて揺らしてやっている。と、腕の中の星の星の苛立った顔付きが、瞬く間に、ほわ……と温かく和らぎ、ぽか、と目蓋が空いた。
ぱっちりした、大きな、団栗のようなくりくりとした星の瞳が、戰と合う。
すると、にこ、と口元を緩めてきた。
お!? と戰が勢い込んで起き上り、被さるようにして星の笑顔を貪り見る。
「しゅ、星が、わ、私に向かって、わ、わらった、ぞっ!?」
思わず吶る戰に、椿姫が微笑みを向ける。
「そうね。もう、少しづつ、笑顔が出初めておかしく頃ですもの。きっと、戰が自分のお父様、と分かるのね」
「そ、そう、か……。私が、父親だと……分かって、くれている、んだな、そうか……」
奪うように、椿姫の腕から星を抱き上げる。
同じように揺らしてみると、我が子は、ん、ん、と何か言いたげに髪に手を伸ばしてきた。おっ!? と見詰めている目の前で、やっと手が届いた髪を、小さな拳で握り締める。
そして、真剣な表情で引っ張ってきた。
――ああっ……!
私が父親だと、解って呉れているのだ……!
其れは、魂ごと揺さぶられる大きな衝撃、そして怒涛のように襲い来る感動の嵐だった。
我が子に父と認めらる感動が此れ程のものだとは、身悶えする程の悦びであろうとは!
知らず、頬ずりをしていると、先がぷくりと膨れた口を大きく開けた息子は、あ、あ、と物欲しそうにし始めた。
「お、おぉ……? な、何だ、どうしたのだ、星?」
「決まっているでしょう? おっぱいが欲しくなって来たのよ」
あ、あぁ、そうか、と慌てて戰は、椿姫の腕に息子を返す。
と、途端に息子は乳を求めて、べそ、と一気に顔を皺くちゃにした。
はいはい、と椿姫が歌うように楽しげに胸元を開けると、星は頭突きをせんばかりの勢いでむしゃぶりついてきた。目を閉じ、恍惚の表情で美味しそうに乳を口に含む星は、正に文字通り一心不乱だ。
息子を間に挟んだ若い夫婦は、自然と笑い合う。
「……帰ってくる頃には」
「……え?」
「もっと、大きくなっているな」
「……ええ。ええ、きっと……そう、ね……」
生命を繋ぐ為に、雑念を捨て去り乳にむしゃぶりついている我が子の懸命さに、戰は改めて心を打たれた。
星の横顔を、そ、と撫でながら、戰は決意を新たにする。
――そうだ。
生きるのだ。
この子の為にも。
生まれたばかりの祭国の為にも。
未来の予言は、確かなものとしてこそ予言として成り立つのだから。
「帰ってくる頃には、人見知りをされてしまうだろうか……?」
「そんな心配をする前に、帰ってきてくれれば、良いだけの話よ……?」
そうだな、と笑う戰に、そうよ、と椿姫は微笑み返した。
★★★
着替えを済ませた戰は、再び星を抱いた椿姫を抱きしめた。
「陛下、御出立の刻限に御座いまする」
「分かった」
蔦に促されて産屋を出た戰の前には、真と、克、そして芙が待ち構えていた。
見送りには、皇子・星を抱いた椿姫、薔姫、そして学と苑、蔦と珊、那谷と福、など関わりの深い者が勢揃いしている。
幾らか離れた位置で、囚獄である徹が、拘囚人である右丞・鷹を従えている。
囚われた檻の中で鷹は、羨望、嫉妬、呪詛といった、ありとあらゆる負の感情をのたのたと口からまき散らしながら、戰の傍に従う真、そして星を抱いた椿姫を睨み据えていた。じろり、と徹に凝望されているとも気が付かずに。
「真、皆も。待たせたね」
「いいえ、戰様」
さあ、参りましょう! と意気込む克は、何やら顔面に数箇所ほど赤い痕が消えずにみえる。笑
いだしそうになるのを堪えつつ、芙が千段の手綱を引いてやって来た。
「学、後を頼む」
「はい」
戰は、苑に肩を抱かれた学に、手を伸ばす。
見上げる学は、きり、と唇を結んで頷いた。
背後で見守る苑は、我が子の成長を誇らしげに見守っている。
固く握手を交わし合う二人の前で、千段が前足を高く持ち上げ鋭い嘶きを発した。姿勢を戻した千段の背に、ひらりと飛び乗った戰が、蔦から差し出された鞭をとる。
「此れより禍国へ向かう!」
戰の宣言が、澄み渡る大空に谺した。
★★★
土蜘蛛は、ぴくり、と耳を欹てた。
静寂を破る脚音を捉えたのだ。
近付いて来る脚音は慣れ親しんだもの、待ち焦がれていた人物のものだ。
聞き違う事など有り得ない。
――大保様。
土蜘蛛は額が付くまで深々と頭を垂れて平伏する。
平素であれば覆面をする処であるが、此度の土蜘蛛の装いは下女並に整えてある。髪にも櫛をいれ、肌も埃を拭ってあり、衿に垢染みのない衣服は、幾ら卑賤の身分と云えども、高官の家に雇われている者らしさを醸し出していた。
覆面を外した土蜘蛛の顔ばせは、印象が、というよりも特徴が薄い。
人の目に記憶に残ってはいけないのであるから当然と云えば当然であるのだが……強いて言うのならば、薄い眉と短い睫毛をのせた目尻の鋭く切れ上がった一重の瞳、だろうか? 意志の強さをひけらかしてはならぬ身である為、鎧を纏うが如くに心を抑えつけている彼女であるが、いっそ初心なまでの主一途さをその眼力が誇示してしまうのだ。
来訪を告げる伴の者なく、待たせた、とも男は自らも口にする事もなく、慣れた様子で大保は部屋に入った。
と、言う事は、この対面は秘密の内に行われているものであり、訪ねる側の男――大保・受は迎える立場の土蜘蛛など、事次第によっては意のままに蹴散らす含みがあるのだと分かる。
しかし、跪坐低頭で、土蜘蛛は脚音の主を部屋に迎え入れた。
やはり無言のまま、大保は空気のように土蜘蛛の前を過ぎ、当然のように主人の立場にある者のみが座る事が許される座に腰を下ろした。
受に向かい、土蜘蛛は口上を述べようとする。
が、折角覆面を外して素顔を晒している顔ばせが一瞬、醜く歪んだ。受の後に続いて、しゃらり、と香気を漂わせた衣擦れの音が部屋に入って来たからだ。
「お勤め、ご苦労さんどしたなあぁ」
口から漏れる吐息までが桃色の甘さを感じさせる。
「……」
無言をもって返答とする土蜘蛛に、ふふ、と香気の主は含み笑いを零す。
「此方はんがおらしゃらんで、うち、えろう寂しゅう御座りましたわあ」
「……其れはどうも」
甘い桃色の息を吐く女と違い、土蜘蛛の口からはまるで霜柱のような凍てた尖りが撒き散らされる。
受が無言で座の前に設けてある酒膳から盃を手に取り、女に差し出した。ちりちりと小鈴が舞うような笑みを零して、あい、と女は瓶子を傾ける。
女は慎ましやかに、盃の半分程にまでしか、酒を注がない。それを、受は一気にぐ、と飲み干した。
……ほぅ? と辛口の酒の息を吐くと、受は口を噤んだ。
直様、盃を女の胸元に押し付けるように差し出してくる。女は、少々色の濃い肌を隠しもせず腕を伸ばして、受の盃に酒を満たした。今度は、ちびり、と一言分の酒を口に含む。ころころと、空気を口内で転がすようにして酒の味を楽しんだ後、漸く受は喉を上下させた。
上気した目元が、満足そうに女に向く。
「良い酒だ。舌を包み込むような円やかな味も、喉を通り過ぎる時までくっきりと残る感触も、香りの芳醇さも、何もかもが良い。私の好みが判ってきたようだな、白」
「あら、嬉しいわあ。滅多に人をお褒めにならへん大保さんに、そないに褒めて貰て」
女は些か誇らしげに男に答える。
咽るような烟るような、えも言われぬ香気がうねうねと蛇のようにのたうちながら、男――大保に絡んで行くのが見えるようで土蜘蛛は落ち着かない。
思わず、ひり、と頬を動かし腰を落ち着かせなくすると、ちら、と土蜘蛛に投げた視線が、明け透けな優越感を示している。
平伏しながらも土蜘蛛は、肌が焼けるような悋気の暗い炎を背後に揺らめかせる。
「土蜘蛛、表をあげよ」
「……」
「私がよい、と言っているのだ。眸を此方に、私に向けるがいい」
戦戦恐恐とした様で、土蜘蛛はそろそろと顔を上げていく。
――大保様にこの顔を晒して面と向かい合い座るなど……!
己の心のままに動けるならば、感涙に濡れそぼちながら叫びたい処である。が、隣に座る女の冷え冷えとした視線を感じ、逆に頭がすっと冴えていった。
――この女が傍に居らねば良いものを。
ぐ、と喜びを噛み殺しつつ、受と正面から向かい合う。
背筋を伸ばし胸を張る土蜘蛛を、何処か満足げに受は頭の先から細微に至るまで舐めるように見渡した。隣に座る白が、ぎりぎりと音を立てんばかりに歯を食いしばっているのに気が付いた土蜘蛛は、ふん、と態とらしく鼻で笑ってやった。
「では、祭国においての仔細を聞かせよ」
女たちの間に飛び散っている火花に気が付いておらぬのか。
其れとも、知っておりながら知らずを通しているだけなのか。
白に盃を差し出しながら、受は、至って冷静に土蜘蛛に命を下した。
★★★
祭国に到着してからの顛末を、土蜘蛛は要領良く要所を摘んで大保・受に申し伝える。
赤斑瘡の発生。
そして流行から終焉までの動き。
その間に起きた、河川の氾濫と、鎮静せんが為に彼らがとった方法。
同時に、郡王・戰の嫡男である皇子・星が誕生。
右丞・鷹の重なる失態及び西宮の主人である後主・順の愚挙。
そして、鴻臚館の大火。
――までを土蜘蛛は淡々と報告した。
特に、自分が命じてはいない鴻臚館の大火の様子には、受も心を駆り立てられるものがあるのだろうか。
豪快に酒を煽る、という訳ではないが、受は結構な早さでぐいぐいと杯を重ねていく。土蜘蛛の言葉に乗せられている、という方が正しいのかもしれない。
だが、乱れる様子もみせずに返って眼光は鋭く、そして強く爛々とした輝きを放っていく。
「青よ」
「……」
「どうした? この名で呼ばれるのは馴染まぬか? 其れとも、受け入れがたいか?」
いえ……其のような、と本名を覚えていて貰えた歓びに言葉を吃らせている土蜘蛛を、受は楽しげに見詰める。
そんな大保をちらり、と横目で流し見た白は顔を僅かに背けると、桃色の溜息をそ、と落とした。
「どうした?」
「いえ……土蜘蛛はんにしたったら、ようやってはると思うとりますわ、なれど……」
ならば黙っていろ、と言いたげに、土蜘蛛の肩で髪が揺れた。
「何か、気になるのか?」
盃を差し出した大保にしな垂れかかる様に躰ごと傾けて、あい、と白は答える。
「彼方さんには……えらい頭の鋭い方がおらしゃります。青はんの自分勝手な判断が、裏目に出んと宜しいのやけど」
明白に棘を含ませた白の口調に、ふむ、と愉しげに大保は目を細めた。
「いや寧ろ、青はよくやった。そろそろ、私の存在に気が付いてもらわねばならぬ頃合だ」
大保・受の言葉に、思わず喜色を浮かべて土蜘蛛は表を上げた。
潤みかける瞳とぐずぐずと鳴りかける鼻先を堪えるなど、一体いつ以来であろうか?
いやそもそも草として、土蜘蛛と蔑まれながら生きてきて、此処まで胸が魂が脈動する感激に直面した事が、この生涯であっただろうか?
――ああっ……大保様……!
感動のまま叫びだしたい気持ちを堪えると、本当に身体は震えるのだと土蜘蛛が実感していると、横合いから、あらまあ、と白がころころと囃したてるように笑い声をあげた。
「瓢箪から駒、どすかぁ? やけど、揚げ足取られへんかったら宜しいなあ」
口内に含んでいた蜜の甘い香りが同じように弾けて転がり零れていくのを、土蜘蛛は苦々しい面持ちを隠そうともせずに睨み付けている。
「ああ、白は兵部尚書の息子と旧知だったな」
あい、と含み笑いをしつつ白は答える。
「どのような人物に育ったと見ている?」
「さあ……? うちが存じ上げております真さんは、初心な子供さんの皮が剥けかけた時分どした。どんな風に様変わりされても、そら納得するしかあらしまへんですやろ」
大保様にむけて何という口のきき方を、と土蜘蛛がぎりぎりと奥歯を噛んで睨みつけてくるのを、愉しげに眺めながら白は続ける。
「そやけど、御主御長姉様のお店に厄介になっとります奴ぉの耳にも、ご活躍はよお耳に入りましてん。それなりの御人、にお育ちにならはりやったんと違いますのん?」
揶揄するような口調を隠しもせず、ほろほろと零す白の笑い声は金粉のように輝き響く。
ほほぅ? と片眉を持ち上げつつ、受は残っていた酒を飲み干した。
「何れにせよ、鴻臚館の動きが駄目押しとなって郡王陛下が御成になるのは必定となった。今はこの予期を楽しませて貰うとしよう」
差し出されてきた盃に、もうありまへん、すんまへんなあ、と白は涼やかに答えた。
★★★
「土蜘蛛はん」
土蜘蛛が大保の前から下がると、もし、背後から声をかけられた。
振り向くと、艶やかな髪とぷっくりとした唇を殊更に誇らしげに見せびらかしてくる女が一人、佇んでいた。
べったりとした白粉臭さが追ってきていると、白であると土蜘蛛は気が付いていた。が、無視をしていたのだ。
「……何か?」
「ああ、もしかしたら、女子同士の時は、青はんと呼ばわらな気に入らんかったんやろか?」
暗に、大保・受に名を呼ばれた時の反応を揶揄されて、土蜘蛛は頬に血が集まるのを感じた。
が、必死で冷静さを保つ。
身体に空いた穴の売り買いしか脳のない女如きに、死線を掻い潜って役に立っている自分の方が、万倍も大保様の得になっているという自負と矜持がそうさせた。
「……いや」
「そう? 構しまへんの? ほんなら、土蜘蛛はんでええ?」
「……好きにしろ」
「なあ、そんな邪険にせんとって? 土蜘蛛はん、大保さんとのお話が済みやったら、是非ともうちの店にお出でんなって待っとってぇ? 女子同士、うちらも仲ようしとかんと、なあ」
ほほ、と笑い声を零す口元を袖で隠しつつも紅を引いた唇を完全に見えなくすることはしない。
芸妓としての、白の手管である。
が、女である土蜘蛛の前でそれをしてみせたのは、彼女と己の姿の差異を思い知らせる為のものだと分かる。
「……どうも」
土蜘蛛は、覆面かわりに愛想なく抑揚のない声で答える。
「あら、お愛想でも嬉しいわあ。土蜘蛛はん、うちは本心から是非にと思うとりますのんえ? 何とか暇を見繕うて、本当、お出でんなって?」
「……どうも」
「あぁ、そうそう、今夜はもう少しせんとうちは帰られへんで。なんやったら酒でも召し上がったって。うちの名前出したらよろし」
「……どうも」
流した白の視線と、土蜘蛛の見上げた視線が絡む。
無言のまま、土蜘蛛は白に背中を見せて歩き去った。
身に纏っている着物は下女のものだ。
だから見窄らしいものでも当然だ。そもそも、草として働き、その果に死ぬ事が確定している己が、並みの女ばりの装いなぞを、と思って構うことなど眼中になかった。
しかし。
妓楼勤めの女がこれみよがしにがちゃがちゃと宝石細工で此れでもかと着飾り、香りまで振りまかれては気持ちが毛羽立つ。
――ぬけぬけと、大保様のお傍に侍る事を誇るのか……。
たかが春を鬻ぐ娼妓風情が偉そうに。
何様だと思っている。
綺麗に着飾った処で性根と股の間の穢は隠せまいに。
ふん、と鼻先で嘲笑い、土蜘蛛は胸に渦巻くどす黒い思いを封じ込めた。
表情一つ変えずに立ち去った土蜘蛛が忌々しく、白は心の奥底で唾を吐き捨てる。
大保と向かい合って話をし、よくやった、と声を掛けられて浮き足立っていた。女らしい感情を零した土蜘蛛が、憎らしくて堪らなかったのだ。
常に添える自分との差を思い知らせるべく、態々媚態を尽くして大保様のお傍に侍っていたというのに、一言声を与えられただけで嬉々として浮かれるから、思い知らせてやったのだ。
常に土に紛れて這いずりまわり、死んだ処で気にもされぬ草っころと自分の違いを。
――ふん、下賤の者は此れやから可愛げがない云うのや……。
土埃に紛れた婢如きが。
汚い面と見窄らしいなり晒してのこのこ表にようも現れよったもんや。
うちとの差、覚えときぃ。
土蜘蛛が廊下の角を曲がって姿を消すまで、苦々しい面持ちでその背中を見送っていたが、見えなくなると、ふふん、と嘲りの声を残して白は踵を返した。
連れてきた下男が、御職様、とやって来たのだ。
「整いまして」
「あい」
白は廊下の向こうをもう一度ちらり見て、満足気に笑う。
「大保様、うちとおしげり、しなんしょう」
殊更に声を張り上げて、白は宣した。
※ 注意 ※
今話には、差別用語及び特定の業種に対する蔑視的な表現が含まれておりますが、揶揄するものでも増長するものでもありません
あくまでも、表現上のものとご理解賜りますようお願い申し上げます




