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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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18 渦 その6

18 渦 その6



「姫様?」

 ふらふらと歩いている処を、背後から呼び止められて薔姫は振り向いた。

 視線の先には、あいを抱いたこうがいた。


「真の出立が近いと蔦様から伺ったので、荷物を届けがてら娃を会わせに来たのですけれど……」

「……お義理母上ははうえ様……」

 好は、薔姫のただならぬ様子を見ても、何かあったのですか? とは決して尋ねようとはしない。

 ただ、穏やかに笑み、額にかかる髪に触れてくる。好の指と一緒に娃の温かい指も頬に触れた途端、薔姫の大きな瞳から、ぶわ、と一気に大粒の涙が溢れ出た。

 わっ! と声を上げて薔姫は好に抱き付き、泣きじゃくった。



 順序立てて話すのは難しい事だった。

 泣き吃逆と共に一方的に捲し立てているうちに、感情が高ぶってきているのだ。先ずもって文章として成り立っているのかも怪しいのは、当然と言えば当然だ。

 しかし、好は眉一つひそめもせず、ただ、静かに微笑んで薔姫の奔流のような告白に聞き入っている。膝の上においてある薔姫の小さな拳は、固く握り締めすぎて血の気を失い真っ白だ。その手の甲を、そっ……と羽毛の先を往復させるように何度も何度も撫でる。

「……わ、分かっ、て、いる、の……、み、みんっ……みんな、わ、わた……し、のこと、し、しんっ……ぱ、い、し、てくれて、いる、の……」

 肩で息も吸えない程、強く泣き吃逆をしすぎて、薔姫は咳き込んだ。背中をさすりながら、やはり好は微笑んでいる。

「……わがき……み、だっ……て、だか……ら、だまっ……て、たっ……て……、わ、わ、わかっ……てっ……る、……で、で、でもっ……、……でもぉっ……!」

 わぁ、と声を張り上げて、再び好の胸にすがりつく。

 何時もの薔姫なら慌てて身を引く処だろうが、娃に気を使えない程、嘆きは深く切羽詰っているのだろう。濡れた頬が額に付くのが気分が悪く嫌なのだろう、うとうとしかけていた娃が、ううん、と妙な声を出してむずがっても、一向にやめようとしない。


「そうですわね、姫様、でも、と言いたくなりますわよね。ですが殿方とは皆、多かれ少なかれ、そうした、どうしようもない処をお持ちなのです」

「……わ、わがきみ、もっ……?」

「真は……真も旦那様の子、その血をひいてますから」

 涙に濡れた瞳の薔姫に、矢張親子ですのね、仕方が無い子になってしまったようですわね……、と好は笑いかける。その笑みが何か含みがあるように思えて、薔姫は小首を傾げた。


「私も……。恐れながら、姫様と同じ思いを何度もしてまいりました」

「……お義理母上様、も……?」

 ええ、と好は頷く。

「旦那様は沢山の御方をお屋敷に招いては、楽しい時を過ごされておりました。初冠役をしたご縁で親しくさせて頂いていた御子息君や、初陣祝いをお膳立て差し上げた御方々。多くの方に慕われておいででしたわ」

 確かに、優は連日に近い宴会を催す事で有名だった。

 何も人気取りだけではない。彼を中心に自然と人が集まるのだ。

 宴の采配を振るう能力が壊滅的にない正室の妙に変わり、日々忙しく、部屋の調度の入れ替えや飾りの意匠を凝らす処から始まって、膳の馳走を整え楽団を呼びこむまでを、好が仕切っていた禍国での暮らしを思い出す。


「でも……いつの間にか、一人、二人、と、宴にいらっしゃらなくなって」

「……」

「暫くお姿をお見せになられませぬあの御方はどうなさりましたか、とお尋ねすると、いつも無口な旦那様が、この時だけは身振り手振りを加えられて云うのです。あいつは故郷に錦を飾り郷里で一廉の漢として称えられているのだとか、いい婿入り先を見つけて上手くやっているのだとか、出世して遠方の邑令になった大抜擢だだとか……張り切り過ぎて此方を思い出す余裕もないのだろう、もう会えぬ訳ではない、寂しいが元気にやっているはずだから心配するな、と」

 ひっく、うっく、と吃逆を繰り返しながら、薔姫は、静かな語りを紡ぐ好の口元を見詰めた。


「なれど、幾ら世事に疎い側室の私でも、違う事くらい、戦で生命を落とされたのだという事くらい……解ります」

「……でも、どうして、それならどうしてお義理母上様は、お義理父上様の云う事に頷いて差し上げていたの?」

 どうして嘘をついていたのだと責めなかったのだろう? それ以前に悲しくならなかったのだろう? 辛いのは、お義理父上様だって同じ事なのに。

 嘘をつかなくても良いのですよ、と言って差し上げれば良かったのに、と不思議がる薔姫に好は、ええたまに其れも良いかもしれませんね、と笑う。


「ですが、騙されていて欲しいと願って嘘を云う良人おっとの言葉通りに、欺かれていて差し上げているのがさいたる者の最大の務めの一つだからですよ」

 吃逆をするのも忘れて、薔姫はきょとんとした。くす、と声を立てて笑い、好は晒で薔姫の濡れた頬を拭ってやる。


「殿方は元来、手前勝手な生き物に御座います。縁を結んで良人おっととなると、困った事に更にひねくれて勝手な生き物になるものですわ。自分の正義の中で庇い包まれていてこそ、女は健やかに笑って生きていけるか弱いものと本気で思っているのですわ。だからこそおとこたるものが強くあり守ってやらねばと、信じて疑わぬ困った生き物ものなのですよ」

「……」

「ですから騙されていてあげるのも、良妻のひとつの形、なのですわ」

「……でも……」

 やっぱり其れはおかしい。

 自分だったら、辛い思いはやっぱりして欲しくない。嘘を付いてまで庇って欲しくない。

 大切にするというなら、一緒に喜びも愉しみも悲しみも憂いも分ち解りあいたいのに、と思うのは夫婦和合の上ではならぬ考え、甘い考え方なのだろうか?

 薔姫の迷いを感じ取ったのか、好がまた、短く笑みを零す。


「姫様。もしも逆のお立場となられました時、姫様は私の息子に同じように嘘をつかないと言い切れますか?」

 一瞬の迷いもなく、薔姫は首を左右に振った。

 でしょう、と好は笑う。

「それでしたら、姫様にも私の息子の気持ちが分かって下される筈ですわ。出来れば永遠に騙されていて欲しいと願っているあの子の気持ちが分かって下される筈ですわ」


 笑っていて欲しいのです。

 幸せの中にだけ、いて欲しいのです。

 自分が何れ程傷ついたとしても、相手の幸せを思えば傷の痛みなど吹き飛んでしまう。

 勝手と思われようが卑怯と詰られようが、この満足感こそが殿方の矜持、拠り所なのです。


「……そんな」

「旦那様も息子もですけれど、殿方はどうしようもない勘違いの塊のような生き物。四方八方滅多矢鱈に動くもの。其れが妻や子の為と信じて疑わぬ愚かしいものなのです。ですが、だからこそさい良人おっとの嘘は可愛いもの、と包んで差し上げねば」

「……それが、妻たるものの心得、ですか?」


 はい、と珍しく好は快活に笑う。

 境地に至っているとも取れる眩しい笑顔に、薔姫は思わず俯いてしまった。

 武人である兵部尚書は、その出世の数だけ激しい戦場を駆け抜けている。

 当然、失った仲間や部下の数も多い。

 だが、その消えていった部下の生命を儚んで好に泣いて欲しくない、何れ泣くのであるしても、気持ちを落ち着かせて受け入れる事が出来る、涙が少しでも減る先々に知って欲しいと思っているからこそ、直ぐに露見する嘘と知りつつも優は嘘をつき続けたのだ。

 そして、好も。

 優の独り善がりで不器用な愛情表現だと知っていたからこそ、騙されていたのだ。胸の痛みを見せぬまま、優の愛に応える為に笑みを浮かべ続けていたのだ。

 同時に、正室の、たえを思い出した。

 何時も、きゃんきゃんと文句ばかりを叫び続ける人だった。

 優の部下が儚くなったと知れば、此れが息子たちであれば当責任を取るつもりなのかと、いつまでもねちねちと言い立て離さないだろう。だからと黙っていたらいたで、何も言わぬとは正室を何だと思っているのかとぎゃあぎゃあと言い立てる。嘘をついたらついたで、此処まで育て上げた恩義を忘れて何という人で無しかと悪し様に怒鳴り散らす。

 常に喚いてばかりの、顳に青筋の走った妙の般若面を思い出し、怖気にぶる、と震えながらも何故か、薔姫は笑いがこみ上げてきた。


「御正室様みたいな、あんな風には、なりたく、ないわ……」

 くすくす笑っていると、今度は吐く息が擽ったいのか、娃はもじもじと身体を揺する。

 そんな薔姫に好は淑やかに微笑みかけて、また、額に手を伸ばしてきた。

 前髪をさらさらと撫でられて、あ……となる。

 ――我が君と、一緒……。

 手の動かし方や、笑いかけ方、瞳の覗き込み方。

 離れて暮らして居たはずなのに、矢張、真と好は親子だ。

 ――そうよね……我が君だって、辛かった筈だもの。

 ……それなのに……。

 私が傷つかない事を一番に考えて、くれたんだもの……。

 それを、素直に、喜んでいれば……いいのよ、ね……?


「……お義理母上様……」

「はい」


「……私、ちゃんと我が君の妻でいます……妻で、いて、あげたい……」

「はい」


「でも……だから……我が君の前じゃない時は、薔姫でいて……いい……?」

 はい、と好は微笑んだまま、まだ涙を滲ませてきた薔姫の目元を晒で拭ってやった。



 ★★★



 不意に、風鎮のぜつが、かた、かた、かた、と違う音を鳴らし始めた。

 いや、違う。

 風鎮の音ではなく、脚音だった。

 聴き慣れた脚音であったが、今の真にはなかなか聞き取れない。

 背後近くにまで迫って、やっと気がつき、振り向いた。


「あ、あれ? ひ、姫、いつの間に?」

「今の間によ」

 驚きのまま目を丸くする真の前で、菓子器と湯の入った薬缶と器を乗せた盆を手にした薔姫が、にこにこと笑っている。目敏く菓子器に視線を走らせる真に、うふ、と薔姫は肩を窄めた。

「おや、それは?」

「着替えを持ってきて下さりがてら、お義理母上様が娃ちゃんを会わせに来て下さってるの。一緒に、おやつの時間にしましょう」

「娃が、ですか? それは嬉しいですねえ。おやつはなんですか?」

「月餅よ。我が君は、あと乳餅にゅうへいも。お義理母上様と娃ちゃんには、お芋のお饅頭も」

「いいですねえ」

 背中に当てていた布団を手際よく片付けて、場の佇まいを整えている薔姫をじっと見詰めていた真だったが、幼い妻がぱたぱたとした脚音をとめて座ったのを機会に、姫、と声をかけた。


「なあに?」

「……禍国への出立、の話ですが。もしかして戰様から、聞いていらっしゃいますか?」

「……うん」

 では、もう一度私の口から言わせて頂きます、と真は膝を揃えて薔姫に向き直る。


「明朝。夜明けと共に禍国に向け出立する事になりました」

「はい」

「準備を、お願いできますか?」

「大変、それじゃあ今日はご馳走を用意しなくちゃ」

「おや、いいのですか? 嬉しいですね」


 後は、にがーいお薬湯もたっぷり用意させなくちゃ、と薔姫は明るく笑った。



 ★★★



 芙が産屋に顔を出すと、待っていましたとばかりに珊が飛んできた。

 ちょっとこっち来てよ、と芙の返事など聞かかずに、ぐい、と腕を絡ませて引っ張っていく。人気のない処など狭い産屋にはないのだが、それでも、珊は何とか隙間を見つけて珊は其処に芙を閉じ込めた。


「どうした?」

「うん……あの、あのさ」

「……禍国行きの話か?」

 うん……、と珊は言葉を濁しつつも、はっきりと頷いて見せた。

 先に戻った蔦の口から、椿姫と共に聞いたのだろう。心配げにゆらゆらと揺れる大きな瞳が、見上げてきた。

「……芙も……真たちと一緒に、行くんだよね?」

「ああ」

 なら、ならさ! と叫び、珊は芙の手を取った。

 ぎゅ、と思いがけない力で手首を握り締められて、珊? と芙は顔を顰める。


「あの、ば……か……!」

「……か?」

「ばか、つ、の事、頼みたい、んだよう」

 其処は繋げて言ってやるな、と思い芙は苦笑する。

「頼んで、いい? 彼奴ってば本当ホント、馬鹿だからさあ。誰か傍で見ててやんないといけないだよ。直ぐ、へにゃへにゃになっちゃってさ、誰かが背中引っぱたいて喝入れてやんないとさ。もう兎に角さ、本当ほんっとてんで駄目な奴なんだよ、だからさぁ、芙、お願いだよぅ、見ててやってよ。あのおたんちんの世話焼いてやってよ」

 喋り出すと止まらなくなったのか、珊は芙の衿を掴んで、ぐいぐいと迫る。

 苦笑しつつ両手を挙げて、分かった、分かった、と芙が答えると、本当ホントに!? と珊はを輝かせた。


本当ホント!? 本当ホンットに!?」

「ああ」

「ありがと、芙!」

 叫びざま、今度は首っ丈に縋り付いてくる。少しは娘らしくなったかとおもったのに、矢張、珊は珊だ、と思わせる子供っぽい開けっぴろげな感情表現に、おいおい、と芙は苦笑が止まらない。

 止まらない中で幼い時分の彼女をあやす時よくそうしたように、ぽんぽん、と背中を叩く。

 仲間の娘の背中をあやして叩きながら、ああそうか、と突然、芙は理解した。

 何故、主人あるじである蔦が、克ではなく琢の方へと珊の視線が向くようにしていたのかを。


 ――主様は、珊を、只の娘にしてやりたいんだな。

 市井の者と違わぬ、そう、福たちのような。

 琢は大工だ。庸に取られたり、兵役に駆り出されれば、成る程、戦に赴かねばならなくなる。しかし、武人である克と比べれば、危険度はぐっと下がるだろう。

 それに琢のようなお調子者は不思議と憎まれる事もなく、返って人々の笑いの輪の中心にいたりもする。

 珊自身のすっきりとした気持ちの良い性格もあるし、きっと琢の仕事仲間や周囲からも大切にして貰えるだろう。

 だが、克は違う。

 この先、戰は己の生命を守る為に禍国皇帝の座に就けば、更なる戦の渦中へと身を投じるのは必定だ。

 毎回、戦の度に気持ちを尖らせているのをひた隠して送り出し、心を磨り減らして待ち侘びている椿姫や薔姫の姿を見ているからこそ、余計に珊には、普通の、他愛もない家庭を持って欲しいのだろう。


 今、珊は自覚がなくともその気持ちははっきりと克の方へと向いている。

 だが、克と結ばれれば珊も、身を切り裂かれ、魂を握り締められる日々を送らねばならなくなる。

 ――しかし、主様、人の気持ちに、いや、珊の気持ちに封は出来ません。

 封印など施そうものなら、彼女の事だ。

 内側から体当たりを喰らわせて脱走を試み、暴走するだろう。

 ならば、仲間が幸せになる為に周旋奔走しようではないか。

 ――俺の二つ名、早足に恥じぬ働きをしてやろう。

 それを成すには、たまたま、郡王陛下や学陛下の御為に尽くすが最善だというだけの事だ。


 小難しい事が解らない訳ではない。

 理想を掲げて戦う戰や真たちは、眩しく映るのはその思想に自分も少なからず共鳴する部分があるからだ。

 が、そんなに力んで理想を声高にしつつ、自分は戦えない。

 所詮は目の前の大切な者の為にしか戦えないのだったら、思いに忠実に準じても咎め立てなど誰にも出来まい。

 幸せを願う心に、優劣も大小も付けられないのだと、戦働きの最中に教えてくれたのは彼ら、戰と真なのだから。


「頼むよ、芙! 本当の本当に頼んだからね!」

「ああ」

 満面の笑みで、芙の手を握って上下に激しく揺らす珊に釣られて笑う。

「じゃ、あたい、此れから克の馬鹿んとこ行ってくるよ」

「ん? 陛下たちは……どうする気だ?」

「あん、主様が居てくれるよう。それに今、あたいたちが顔出ししたって、お邪魔虫なだけだよぅ」

 それはそうか、と苦笑しつつも同意せざるを得ない。


「で、あたいは、どうせ克の馬鹿たれは碌なもん食べちゃいないだろうから、弁当を渡してきてやる、といった処か?」

「そういう事! やっぱ、芙は察しがいいね、じゃっ!」


 忙しなく飛び出していく妹分の背中に手を振りながら、芙は、こんな決意の仕方も悪くない、と思い始めていた。



 ★★★



 縮れ雲が、隙間から紅色に染まり出してきた。

 徐々に、夜が更けてきた証拠である。


 克は明日の出立に備えて、部屋にある湯殿で湯浴みをしていた。

 同時に残り湯で洗濯物も済ませてしまうのは、断じて物臭ではない、と信じている。

 普段の克は湯を浴びた後、洗濯をして部屋に乾しておき、そのままぶら下げたまま城に出仕している。衣服は、乾いたと思しきものから順々にまた身に着けていく生活だ。たまに悪天候が続いて、乾きが悪く生乾きの黴臭い嫌な臭いがしていても、男の体温は高いから着ているうちに乾く、それにどうせまた稽古で汗をかいて臭くなるから分からなくなる、と気にしない恐ろしい生活だ。


 しかし。

 筋骨隆々の大のおとこが、ふんふんと鼻歌を歌いながら素っ裸で、半衿や褌やらを小さな手桶に突っ込んで指先で手揉み洗いを、しかも風呂場でしている姿は、絵図ら的にどうにも情けなく郷愁を誘う。

 ――湯を無駄にせずにいるのだ、余程賢いだろう。

 と云うのが克の言い分なのだが、誰がどう見ても貧乏臭いものは貧乏臭い。

 だがまあ、克がこう言い張るのは当然だった。同じ長屋住まいの仲間たちも、多くは似たり寄ったりだからだ。

 一応、大浴場的なものも用意されているが、出向くのが先ず面倒臭くて敵わない。夏ともなれば井戸端に立って汲んだばかりの水を頭から被っておしまい、というとんでもない奴も出没する。濡れた衣服はその場で脱いで肩にかけおき、身体はといえば、当然、水を滴らせながら身一つで宛てがわれた部屋に帰っていくのである。

 朱に交われば赤くなる、と言うがこの場合は何方がで此方がか、定めるのは野暮だろう。

 まあ、克自身もそんな近しい生活なのだ。

 俺はちゃんと家で湯をとっている! 一緒にするな! と断じて認めてはいないが。


 しかし、今日は湯から上がれば、冷えた飯を漬物で喉の奥に通すだけの食事が待っている。

 明日の朝に出立し、いつ戻るかも知れぬのに、態々飯を作ろうなどと言う殊勝な気など起こらない。何時ものように、施薬院で働く者の食事に転がり込むのも話題に出された時に気が引けるしで、残り物を片付ける食事でいい、という処に落ち着いたのである。


 ――しかし、腹が減ってきたなあ……。

 ちびちびと洗濯をしつつ、ぐう、と泣く腹を感じる。

 ――未だに傷が完治しておらぬ杢殿は今頃、手当の関係上、蔦殿を始めとした王城使えの者たちと温かい食事にありついているのだろうな……。

 蔦は、珊に料理の何たるかを仕込んだだけの事もあり、其方の腕も格別なのだ。だんだんと、どんよりとした気持ちになり肩が下がっていく。

 ――ハッ! い、いかん、いかん!

 ぱん! と両手で挟むようにして頬をはたく。

 ――飯が恋しくて怪我人である杢殿を羨んでどうする!

 五体満足だからこそ、俺は禍国への随従を許されているんだぞ!

 流石にどうにもこうにも、何やら己の生態がさもしく(・・・・)感じられてきた。飯に首根っこを押さえつけられてどうする、と克は更に気合を入れてバンバンと顔に張り手をかませる。


 頬を赤くして肩まで湯に飛び込む。身体のまで温まると、ざぱ! と音をたてて湯から出る。狭い長屋の事なので、洗い場で適当に身体を拭いていく。

 水滴がまだ残っていても、裸でいればそのうち乾く、という論法が通じるのが男独り身の恐ろしい処だ。面倒臭くなった処がやめ時、なのだが明日からの禍国行きの強行軍に備えて早めに着替えの用意をせねばならない。禍国行きはほぼ決定していたのだから早めに用意しておけば良いようなものであるのに、切羽詰らないと動かないのも口にして大丈夫かと尋ねてくれる人がいない独り身故だろう。

 ――ああ、腹が減ったな。

 勢い、更にいい加減な拭き方になる。


「さて、出るか」

 独りごちつつ晒を紐に引っ掛けると、うひゃあ!? という娘の叫び声が上がった。

「何だぁ!? どうしたぁ!?」

 思わずそのまま走り出して声の方へと走る。

 がら! と戸を開けると、顔に掛かった襦袢を取ろうと四苦八苦してもがいている珊の姿があった。


「おわ!? さ、珊!?」

「おわ、じゃないよう! あんた、何を部屋ん中で乾かしてんのさ!?」

「そ、そんなの、お、お、俺の勝手だろう!? と、言うよりも、さ、珊、お前こそ何だって此処に!?」

「何だよぅ! あんたの事だから、用意もなにもしてないだろうから、手伝いに来てやってるのに!」

「えっ……そ、そうか、そりゃ悪かったな……」

「悪いと思ってんなら、早くこれ、取ってよ! もじゃもじゃ櫛に引っ掛かっちゃって、取れやしないんだよ」

「お、おぅっ……」

 顔に掛かった襦袢を取ろうと七転八倒している珊の姿に、ぷっ、と思わず吹き出しながら、克は櫛から布を外してやる。


「ほら、取れたぞ」

「あ、うん……」

 ありがと……と言いかけた珊が、ちょっと……と睨んでくる。


「何だ? まだ何かあるのか?」

「あるよ、何見せてんの?」

「はあ?」

「だから、見て欲しいの? 見せたいの? 見せびらかしたいの? どっちさ」

「お?」


 珊に指さされて今度は克が、うおおおおおお! と悲鳴、いや怒号を上げた。

 珊の悲鳴にすっ飛んできた克は、風呂から出たままの素裸だった。




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