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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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18 渦 その3




18 渦 その3



 薔姫が厨から熱い葛湯を作って戻ってくると、部屋には横になっている真しか居なかった。

「あら……克? 芙? 居ないの?」


 首を左右に振って伺ってみるが、既に部屋を去ってから随分経っているのだろう。気配は、鼻につく焦臭さしか残っていない。

 仕方なく、御盆を手にして横になっている真の傍らに膝を揃えて座った。左の肩に触れながら、耳鳴りに触らぬようそっと呟く。

「我が君、ねえ起きて?」

 う~ん……と眉を寄せて、真はごろりと上向きになる。思わぬ暗がりに目をしょぼしょぼさせながら、のっそりと目を覚ました。右腕を使って上体を起こしかけると、耳鳴りからくる目眩のせいだろか、真の身体が不自然に傾ぐ。薔姫は慌てて、真の背中に丸めた布団を寄せた。赤斑瘡あかもがさに羅患した時、真がしてくれた真似だ。


「はい、我が君の好きな葛湯を作ったの。林檎と蜂蜜と生姜の。今日は一日、食事もまともにとれていないのでしょう?」

「……あぁ、姫……有難う御座います……」

 薔姫の行き届いた心使いに、すいません、と真が正気のない声で小さくなりながら礼を言うと、うふ、と幼い妻は肩を窄めた。

 薔姫の作る林檎入りの葛湯は摩り下ろすだけでなく、皮ごと角切りにして蜂蜜味で柔らかく煮たものも別に作ったうえで、生姜味で整えた葛湯に加えるものだ。だから口に優しいうえに、満腹感も得られる。

 土鍋から小さめの椀に葛湯を掬い取りられた葛湯を、真は受け取ろうと腕を伸ばした。気持ちが途切れた分、目眩は自分で思っている以上に酷いのか、腕は真っ直ぐに伸びない。目を細めながら、ゆっくりと椀を目指す。

 ところが、やっと椀に指先が触れようというかというあたりで、ふい、と引っ込められてしまった。え? と目を丸くする真の前で小さな匙が動き、椀の中の葛湯を掬う。


 明るい声と共に、林檎の角煮が乗った葛湯の匙が差し出された。

「はい」

「……えっ?」

 もう一度腕を伸ばしかける真に向かい、だーめ、と矢張明るい声と共に、ぐい、と目の前に小匙が突き出される。

「えぇと、あの、姫……? 大丈夫……ですよ? 流石に自分で、食べられますから……」

「だーめ」

 眉間辺りに差し出された匙には、ほかほかとした湯気が上がった葛湯がのっており、程よく甘い香りを誘うように漂わせている。匙の上の葛湯を見、薔姫を見、を何度も繰り返す。が、幼い妻は真の泣き縋るような視線も意に介さず、にこにことしたままだ。

 仕方なく、というか観念した真が、あ、と口を開ける。

 薔姫は勝ち誇った様子で、うふ、と笑いながら小匙を真の舌の上に乗せてきた。口を閉じると、滑るように林檎は真の口の中に転がっていく。林檎が動いたのを指先で感じ取ったのか、薔姫はゆっくりと小匙を引き抜いた。


「美味しい?」

「……」

 美味しい。

 文句無しに美味しいのは美味しい。

 美味しくない訳が無い。

 だが流石に、食べ方に大いに問題がありすぎて味が楽しめないし、薔姫のように全く動けない訳でもないのに完全な病人扱いをされるのは気恥ずかしさが先に立ち、素直に喜びを表現できない。


 返事を濁して押し黙っていると、なあにそれ? と薔姫は頬をぷくり、と膨らませて睨んできた。

「美味しくないの? 要らないの? 食べたくないの?」

「い、いえ、美味しい、です、し……その、欲しい……というか、食べたい……です、が……」

「じゃあ、黙って食べて?」

 はい、と新たに林檎が掬われて、差し出される。

 自分で食べられます、と言いかける真を、ぎろ、と薔姫は睨んで封じ込める。

 そして、はい、と更に小匙を突き出してきた。

 寄り目になりつつ、匙の上の林檎の角煮を見据え、そしてちろり、と薔姫を上目遣いに見やる。実際、山のような熱気の壁の前で叫びまくっていたのだから、喉は痛みに痛む。真だけでなく大火に関わった皆もそうなのだが、食事もとっていなかった。

 だから、一口食べてしまった今、猛烈な空腹、摂取欲に襲われている。

 とは言うものの、耳鳴りから来る気分の悪さは残っているので、何時ものような食事も摂りたくはない。

 薔姫の心配りの行き届いた葛湯は、真の気持ち以上に甘い匂いと優しい味わいは身体の方が強く求めていて、実に抗い難い。


 ――……ぐう。

 腹の虫が鳴くに及び、真はあっさりと屈服して口を開けた。

 うふ、と何処か勝ち誇って薔姫は肩を窄めて小匙を真の口に差し入れた。

 滋味のある素直な温かい味が胃の腑に染み渡る。

「美味しい?」

「……はい、美味しいです……」

 そう、良かった、と薔姫はにこやかに笑う。

 掬っては匙を運ぶ。

 椀の仲の葛湯を全て真の口に入れてしまうと、薔姫は椀を盆の上に戻した。



 ★★★



「有難う御座います」

「……うん……」

 今度は、薔姫の方が指を一本床に擦りつけて、もじもじとしている。

 暫く、不自然な沈黙が二人の間に流れた。明らかに薔姫は、真の方から話題を振って(・・・)欲しがっている。ぷっ、と小さく吹き出すように笑うと、真は薔姫に声をかけた。


「どうしたのですか?」

「……うん、あの……あのね、あの……あの子、ね……」

「はい?」

「……あの、仕人の子……」

 俯いて、指の動きを追うふり(・・)をしながら薔姫はこっそりと、ああ……、と呟く真の顔を伺っている。

「はい、あの最初に赤斑瘡あかもがさに感染した子ですね?」

「うん、その仕人の子だけれど……この火事だったから……心配で……」

 薔姫の言い分は最もだった。

 自ら発症する前にこの施薬院で世話になっている間でも、あの少年の事を気に掛けていた位なのだ。この大火で怪我なく無事息災でいるのかどうかと、気にせぬ方がどうかしている。


「大丈夫、だったのかしら……? 我が君……知らない……?」

「……姫」


 語尾が、期待に満ちて上がっている。

 真は、自分の頬が強張ってはいないか、不自然な顔付きになってはいまいかと内心で慄きながら、笑顔を作った。

「申し訳ないです……流石に、私も、そこまで詳しくは」

「そう……そう、そうよね、分からない、わよね。我が君だって、お義理兄上あにうえ様だって、みんな大変だったんだもの、そうよね」

 御免なさい、と薔姫は小さくなる。

 慌てて、真は薔姫の手を取って此方を向かせた。

「ただ、戰様と克殿が救出の指揮をとっておられたのですから。きっと、無事ですよ」

「そう……かしら?」

「はい、きっと」

「それなら、会える? あの子に、会える?」

 真の答えに、おずおずと、そして期待感を込めて、薔姫はじっと見上げてくる。それは、と真は一瞬言葉を飲んだ。


「いえ、ですがこの騒ぎですし……。例え無事であったとしても、会いに行くのは……」

「……」

「この大災大火があったとしても、戰様は一刻も早く禍国に戻らねばなりません。猶予はないのです。立て直しを図り動ける者だけを率いての帰国となりますが、早急に動かねばなりません」

 ……姫の気持ちは分かりますが……、と言葉を濁す真の前で、薔姫はやだ! と小さく頭を振って叫んだ。

「それじゃ……それじゃあ、会えないままなの? このまま、禍国に帰っちゃうの!? そんなの、やだぁ!」

「……姫」

「ねえ、我が君、ねえ、どうしても、駄目……? 」

 僅かな期待と望みを込めて薔姫は粘る。

 諦めない大きなは、真を真っ直ぐに見詰めて来る。

 済みません、と項垂れる真に、涙目になりなりながら薔姫はしょんぼりと肩を落とした。



 お互いの間に、気不味い沈黙が流れる。

 しかし。

 ――申し訳ありません。

 姫には、姫にだけは、真実を知らせる訳にも悟られる訳にもいかないのです。


 弁明するにしても何をいえば良いのか。

 落ち込んだ彼女を力付けるにしても何をすれば良いのかも判らない。

 だが、小さな胸を痛めて友人となった少年の安否を案じている幼いさいを、このまま放っておく事も、真には出来ない。

「姫……」

 声を掛けた真の目の前に、小さな両の手の平が差し出された。

 何かと良く見てみれば、文鎮用の座布だった。臙脂色の絹を亜沙葡萄色の糸で飾り縫いして、四方の隅には浅葱色の房を付けて仕上げてある。

「姫……?」

「あの子にあげようと思って、縫ったの」

 お友達になった証に、と薔姫は笑う。


「我が君なら、禍国に帰ってからでも会いに行けるでしょう? ……渡して、くれる?」

「……」

 言葉を無くしている真の前に、座布が、ぐ、と迫る。

 はい、という身近な返事をやっと搾り出して、真は座布を受け取った。

「必ず、折を見て渡しますよ」

「うん」

 屈託ない笑顔を取り戻している薔姫は、栗の身に不幸など起きよう筈はない、と頭から信じきっている。

 その澄んだ瞳に、真は居た堪れなくなった。

 次の瞬間、知らぬ間に、薔姫が胸の中で不思議そうな声を上げていた。

 思わず、腕をとって抱きしめていたのだ。

 顔を見ずに済ませるには、こうするしか他なかったからだ。


「――我が君?」

「……必ず、渡しますから」

「うん」

 ぎゅ、と抱き締めてくる真の背中に、薔姫も腕を回してくる。

「心配しなくても、我が君の分も作ってあるのよ?」

「……」

「お手玉。あいちゃんの分と一緒に作ったの」


 真の腕の中で息苦しそうにしながら、何とか袂を探ってお手玉を差し出してくる。浅葱色と萌黄色で出来たお手玉が、小さな手の平の上に乗せられて出てきた。

 お手玉の中身が、しゃら・しゃらり、と鳴る。

 お手玉の音は破邪の音として尊ばれている。娃の成長に合わせて作られたお手玉と共に自分の分を作ってくれたのは、禍国に赴く身を案じて故にだ。

「嬉しい?」

 何処か自慢げに、そして無邪気に薔姫は聞いてくる。

 ……はい、有難う御座います、と真はお手玉を受け取るのがやっとだった。


「我が君、まだお熱があるわ。手が熱いもの。さ、早く葛湯を食べて、横になって?」

「……はい」


 懸命に涙を堪えつつ、真は薔姫が差し出してくる匙を口に含んだ。



 ★★★



 大火の後の2~3日間。

 戰や克、蔦、珊や那谷が入れ替わり立ち代りやって来ては、真の様子を見にやってきた。話が出来る僅かな時間を惜しんで、戰と真は、事後処理の状況、互いの持ち合わせていた情報などのやり取りをしあう。


「……そうか、真も聞いていたのか」

「……はい」


 椿姫が耳にした呪わしい言葉。

 真の兄である右丞・鷹が口にした悍ましい言葉。


 その事実から、今大令・兆、そしてせんの大令・中、大司徒・充の敵対し利用し合う関係がますます濃厚なものとなった。

「後は……お師匠と、例の御仁との関係性だね」

「はい」

「真は、自分の見立てをどう思う?」

「かなり高い確率で正答あると思っております。が」

「が?」

「何故、かの御方が此処まで用意周到に動かれているのか。其れが分からないのです」

 真の戸惑いに、うん……と戰も言葉を濁らせる。


 確かに。


 ――戰を皇帝の座に、と本気で考えているのか?


 そう言われればそうなのかもしれない。


 だが、何故?

 何故、戰でなくてはならない?

 彼の立場であれば、何事もなければ仕えていた皇太子・天が皇帝に就く筈だったのだ。

 栄耀栄華、殷賑を極める事など座して待っていれば良いだけの事であるのに。

 寧ろ逆に、彼の立場であれば戰こそが最大の障害となろうものを。


 なのに何故?

 何年も、何年も、それこそ10年以上も前から一体何故こうも、じわりじわりと時間をかけて、目立たぬように悟られぬように、根回しに根回しを重ねてきたのか?


 ――解らない。


 戰と真だけでなく、若者たちの間では堂々巡りが続けられていた。

 やがて、深い嘆息と共に戰がこの不毛な話し合いを打ち切る提案をしてきた。


「此処で、私たちだけで話し合っていても、埒は明かないよ」

「ですね。明日、直接、虚海様にお伺い致しましょう」


 そうしよう、と戰が決定するのと同時に、その日、真の元にやって来ていた戰と克と芙は、我が君がお薬の時間を誤魔化しちゃうからもう帰って! と薔姫に可愛い鉄拳を喰らって追い出された。



 ★★★



 翌日。

 陽が高く温かく昼間の、そして真の体調が良い頃合を見計らって、戰が蔦と芙、そして杢が連れてだってやって来た。


「姫、申し訳ありませんが、少しの間だけで良いですから、呼ぶまで座を外していて貰えませんか?」

 文句を云う事なく、薔姫は、うん、と小さく頷いて座を立った。

 普段なら心配して喰ってかかる彼女も、この数日の義理兄あに良人おっとのただならぬ様子に、引き下がり時というものを心得えていたようだった。

小さな背中を見送った戰が、感慨深げに零す。

「……薔も、随分と妻らしく、聞き分けが良くなったものだね」

「おや、姫は随分前から聞き分けも態度も良いさいであってくれておりますが?」

 間髪入れず答える真に、おや、珍しく惚気かい? と戰が笑っていると、克に背負われて虚海がやって来た。


「ほっ、かっさんの背中はでかい(・・・)おぶさり(・・・・)やすいわ」

 のほっのほっ、と虚海が笑う。

 しかし、戰をはじめとして、若者たちは笑えない。

 決まり悪そうに互いの顔を見比べていたが、やがて真の隣に用意された敷布団の上に横になると、どら、と瓢箪型の徳利を傾けた。


「さて、話ちゅうのはなんや?」

 肩肘をついて横になる虚海は、姿勢とは裏腹に声音はひどく固く厳しい。

 取り囲む若者たちからの追求がある、と身構えている。と言うよりも、される事を望んでいるのだ。

 だが、まだ迷いがある。

 虚海からは常日頃から、切切偲偲し合う若い彼らに自らが混ざり込んで良いのか、老害にはならぬか、と密かに思い悩む様子が感じられていた。

 だが今日のは、何時ものそれとはまた違うものだ。

 戰と真は目配せし合うと、軽く頷きあった。


「虚海様」

「何やな、真さん」

「虚海様にお聞きしたい事があるのです」

 ほうか、と言いつつ、虚海は瓢箪型の徳利を引き寄せて飲み口に唇をつけた。


「……虚海様は、一体何方の推挙により戰様のお師匠様となられたのですか?」

 真の質問に、上下していた喉仏が止まる。


「お師匠、答えて下さい」

「……」


 しかし、虚海は答えない。

 長い沈黙が、皆を包む。打ち破ったのは、唐突な真の一言だった。


「それは、大保・受様ですね?」


 虚海が目玉がこぼれ落ちるのでは、と思われるほど大きく目を見開いて真の方を見上げた。



 ★★★



「……なんで大保さんや、て、分かったんや、真さん」

「考えてみれば、至極簡単な事だったのです」

 あっさりと認めた虚海に、真は小さく息を吐き出しつつ答える。


 11年前。

 那国と組んで河国とのみ戦うべきか。

 其れとも、送り込まれた亜藍あらん国の使節団の言葉にのり、蒙国の新皇帝となった雷皇帝とも新たな戦端をも開くべきなのか。

 時の皇帝・景は大いに悩んだ。

 そして、皇子様方をお呼び出しになられ意見を述べるようにと命じるに至った。

 その際の戰の奏上に皇帝・景は怒り狂い、虚海に腐刑を与えて王城より放逐したのだ。


 だが。

 戰はその事実を全く知らなかった。

 当時の戰の立場は、真と出会った頃と比べものにならぬほど、皇帝に愛されているものだった。

 当然、嫉妬やその他諸々の悪感情を頂く者がこれみよがしに吹聴しても何らおかしくはない。

 しかし、戰は知らなかった、知らされなかったのだ。

 虚海放逐の事実を戰の耳に全く入らぬように手を回した者が、その荒技をやってのけた者が居たのだ。

 が、王宮内においてそれは殆ど不可能に近い。

 余程の高官でなければそんな事は臨もうとも、先ずすまい。


「……」

「その後、戰様が5年前に此処、祭国侵攻をもって初陣とせよと命じられた時。戰様は虚海様をお手元に呼び戻そうとお探しになられましたが、叶いませんでした」

 しかし、虚海は遠く雛の地におられたのではなく王都に住んでいた。

 なのに、見つけ出す事が出来なかった。

 何故なのか?

 そもそも、宮刑を与えられた虚海が王都に住まえる事が不可思議と云わざるをえない。

 腐刑を与えられた身と判明すれば再び刑罰を与えられ、遠くこん山脈の彼方へと放逐されても文句は言えない。

 が、虚海は無事どころか薬坊を開き、那谷を始め多くの後進を育ててすらいた。

 何故、そのような事が可能だったのか?

 薬坊を開くには多額の資金が必要となる。

 那谷のように童子として薬坊入りし、働きながら住まいを得ていたのではない。

 皇帝自らが裁いた罪人に、そんな資金や土地の提供をする度胸ある愚か者が此の世にいるか?

 居たとするならば、それは皇帝に何か一念を深く抱き、尚且つそれだけの地位が必要となってくる。


「何故、虚海様はご無事だったのです? 腐刑を与えられれば、死ぬ方がましという恐ろしい苦しみを味わいつつ儚くなるもの、と相場が決まっております。ですが虚海様は、こうして生きていらっしゃいます」

 何故ですか? と真が挑むように迫ると、虚海は、は~ん、と鼻を鳴らした。

「……なんでやろうなあ?」

「それはつまり、王城に入られる前も、そして刑を受け放逐された後も。虚海様を庇護される御方が居られたからです。その方こそ、虚海様を戰様の師の一員となさしめた御方ですね」

「……それが、大保さんや、言うんやな?」

 はい、と真は頷く。


「そうでなければ、10年以上も前に王城から去っていた虚海様が殿上内の世事、代帝陛下の為人などに詳しいのに合点がいきません」

「……」

「大保様より定期的に情報を頂いておられたのですね? ……句国との戦いの時に気が付いているべきでした」

「せやけどな、皇子さん、真さん。言うとくけどな、皇子さんの処に来てからは、大保さんとは一度も連絡取っとらへんで?」

 信じてえな? な? な? と涙を浮かべて懇願しかけてくる虚海に、分かっております、と戰が苦く答える。

「もしも繋がりがあれば、我が祭国の政策を真似た新法が禍国に発布される事を、お師匠は真っ先に案じられたでしょうから」

「……ほうか」

「はい。其れに、大保様が奏上された新法ですが、この祭国の政策を取り入れたと言うよりも、同じ師匠を持つ者同士が自然と答えが似たのだとした方が自然かもしれませんね」


 ……そう言って貰えると助かるわ、と虚海は、まだ酒の臭いが移っていない息を盛大に吐き出した。



 ★★★



「ほうや。儂は、大保さんの依頼を受けて、皇子さんの処へ行ったんや」

「それは、どういう接点で?」

「恐らく、きつです」

 吃? と克が首を捻り、真さんには本当ほんま敵わんで、と虚海はうそぶくように唇を尖らせた。


「真さんの言う通りや。儂はな、大保さんの吃りを治す為に雇われたんや」

 薬師としても医師としても世間に名を売っていた虚海は、ある日、密かに呼び出された。呼び出しを受けた先は大豪邸であり、奥まった一室に通され1時辰じしん以上も水も出されず待たされた。いい加減、頭に血が上りきった処、勿体ぶって尊大な態度の初老の男と、顔色の悪い目の細い少年がやってきた。

「この子の人物を視てやって欲しい」

 それが、まだ少年の頃の受との初めての交わりだった。

 世に出るを由とせぬ生活を続けていた虚海は、こうして、受の吃音を治す為に当時の絶対権力者であった大司空の手に拐かされるようにして、邸宅内の秘密の離れにて診察と治療にあたった。


「大保さんはな、無口で陰気なお子やったわ」

 吃音であるのだから、喋りたくなくなるのは当然だろう。

 だが長男でありながら酷い吃音の為に雲上が叶う年になってもまだ、彼を家門の恥とする大司徒の手により家の奥深くに閉ざされた生活を強いられていた。

 業を煮やした大司空が、孫長子である受の医師を探すまで、それは続けられていたのだ。

 陰気になるな、と云う方がどうかしている。

 だが虚海を呼び寄せた大司空とて、受の為とも言い難い。大司空は一門に穢を背負った片端者かたわものが居る事実が許せなかった。

 それだけだ。

 受の未来の為などと考えもせずに、大司空は虚栄心と自己満足の為にのみ、虚海を選び出し呼び寄せた。もしも天帝の奇跡が働いているのであれば、この事実こそがそうとも言える。


 ともあれ、精神鬱怏とする世界を己の住処としていた受少年が、陰気で根暗で年に合わぬものうげな性質たちに育ったとしても責められまい。

 一旦は、こんな金に物を言わせた彼ら一門の子供なぞ、と鼻糞をほじって放棄しかけた虚海だった。が、受の子供らしからぬ陰鬱な表情にほだされた。何よりも、医師として文化人の本能の方が優ってしまった。多少の会話から垣間見える受少年の、凄まじいまでの文才とそして政治的な判断力を虚海は見抜いてしまったのだ。


どもりを直したって、雲上人にしたったらな、受さんが持ってはる本来の持てる力を余すとこのう、発揮できるようにしたったらな、そら面白い。そう思ってまったんや」

 ともあれ、虚海は受の医療面でも勉学面でも短いながらも師匠となった。

 吃音を治すには受の性格上、知識欲を満たしてやる事が最も手っ取り早いと見抜いたからであり、虚海の見立ては正しかった。

 しかし完治までに1年を要すると見立てた虚海の予想は大きく裏切られた。おおよそ三分の一の速さで、受は吃りを克服したのだ。努力と、知識欲の賜物と言って良かった。


 やがて受の口が清音を取り戻すと共に、虚海は汚物を捨てるが如くに屋敷より追い払われ、再び野に帰る事になった。

 そしてまた、静かな元の生活に戻った。

 自分を知る者が殆どおらぬ生活は静謐な空気を喰らうが如く、と虚海は秩序と節度を守った安寧の生活に日を過ごす。

 平穏な日々に満足しつつも、だが何処か物足りぬ、と訳も分からぬ郷愁めいた憶いに胸を悩ましくさせていた虚海の元に、突如、来訪を告げる声がかかった。


「お久しゅう御座います」

 受が、訪ねてきたのである。

 懐かしさに破顔しつつ虚海が家に招き入れると、受は首を横に振り、そして玄関先で静かに命じた。


「貴方の力を必要とされている皇子が居られる。貴方には、今より直ちにその方の師となって頂く」


 目の前に立つ受は、嘗ての患者であり愛弟子であった少年ではなかった。

 政治の荒波を生き抜いている者のみがもつ、有無を言わせぬ気をまとった漢がいた。

 

 受の治療の為に大司徒宅に拐かされるように入ったのと同じく、虚海は攫われるが如くに王城に入った。

 そして、受の宣言通りに、戰の師匠の一人となった。


「その先は、知っての通りや」


 戰と見えた虚海は、彼の中にも稀有な天賦の才を見出した。

 師匠として戰を指導する楽しさに満ち足りた時を過ごしていた。


 そう、あの使節団がやって来るまでは。



※ 注意 ※


今話には、障害をもっておられる方への差別的表現と名称が使われておりますが、あくまでも作品内の時代設定的に即した表現としてしようしており、これを増長し、かつまた障害をもっておられる方を侮蔑するものではありません。ご理解賜りますようお願い申し上げます

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