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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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18 渦 その2

18 渦 その2



「どういう事なんだ、真殿」

「私たちは西宮での騒ぎに目を奪われ過ぎていたのです。先に起こった大きな禍があります。今述べましたが」

赤斑瘡あかもがさ、か」

 芙の答えに、はい、と真は矢尻を手にして頷く。


 あの赤斑瘡あかもがさを持ち込んだのは真の兄である右丞。

 背後で糸を引いているのは大令・兆。

 今大令を利用して、せんの大令・中と大司徒・充が暗躍していた。


「そう思っておりました。が、果たしてそうでしょうか?」

「と、言うと?」

「もしも本当に戰様に仇なさんとするのであれば疫病であれば、疱瘡ほうそう熱咳逆ねつがいぎゃく虚労きょろうに瘴気からくるおこり傷寒しょうかんうんでも大頭瘟だいずおんでも何でも良いのです。戰様こそが羅患しお倒れになる確率がより高い疫を選ぶべきでしょう」

 あっ!? と克が叫ぶ。

 言われてみれば、それこそ至極簡単な事だった。

 禍国の王城にはそれこそ、戰の羅患履歴が生まれ落ちた日から記載されている。此れはどんな皇子、王子、皇女、王女であろうと変わりない。戰を倒すのが目的なのであれば、その羅患歴を調べ、そして彼が感染していない病魔を持ち込めば確実に倒れてくれる。


「確かにそうだ。陛下がお倒れになった方が向こうには都合がいい……筈、だ、よ……な?」

 な? と自信なさげに、克は芙に同意の相槌を求める。片方の眉を戸惑いながら上げながらも、しかし小さく芙は頷いてみせた。

「ですが、相手は赤斑瘡あかもがさを選びました。それは、戰様に倒れられては、儚くなられては困るからです。赤斑瘡が戰様が羅患する事がない確実な疫病であると相手は知っていた。からこそ、安心して赤斑瘡を広められたのです」

「……な、なんっ……」

 言葉がでない克を前に、真は畳み掛ける。

「虚海様も仰られていましたが、あの赤斑瘡は我々の知るものよりかなり強く病状が出る酷いものでした。此度の病状が11年前の流行時のものと同様のものでも相手が平気だったのは、戰様が羅患した折に診察をされ、かつ其れにより病魔の対応策を身につけておられる虚海様もこの祭国に居る、と知っていたからです」

 普段、表情を変えない芙の頬が、ぴり、と動いた。


「赤斑瘡を流行せしめん、と最終的に命令を下したのは大令だったのかもしれません。しかし、赤斑瘡を勧めた人物が他に居るのです」

「なん……だとう!? という事は、だ。騒ぎに乗じて更に別の思惑が被さっていた。つまり、この西宮での騒ぎを別の方向に利用しよう、と目論んでいたんだな、敵は? そうだな、真殿」

「そうです。全てを利用する為に。そして西宮でのあの騒ぎですが」

「あれは飽くまでも大司徒・充とせんの大令・中の思惑がぶつかったものだった。しかしそれすらを利用する輩が居る、それは大令を裏で糸引いている人物と同じ、ということだな」

「では、鴻臚館に火を放ち、井戸を潰し、この矢尻を沈めたのも矢張?」

「はい。鴻臚館の一連の騒動こそは、西宮の騒ぎを利用せんとした者の目眩めくらましの所業でしょう」

 被せるように、真は続ける。


「仕人の少年がどかん(・・・)を炸裂させたのは、向こうも想定外の事だったのでしょう」

「しかしあのどかん(・・・)の炸裂で火災が起こった。これ幸いと騒ぎに紛れ、先大令なり大司徒なりの斥候うかみが動けば、折角の矢尻が発見されぬままとなってしまうかもしれない。其れならば、と確実性に富む方を選択した」

「それが――逆に油を放って火を更に起こし、井戸に矢尻を沈める事、何だな? そうなんだな!?」


「真殿、西宮での騒動だが、後付け的な目的が生じたと言っていたが、それは?」

「後主・順殿は戰様の命令にて密かに誅されたとし、その際に手を下したのは医師である虚海様であると本土で暴きたてんとする思惑が働いての事だったのです。それすらも、今大令・兆、先大令・中、大司徒・充の所業とし、最終的にはこのお三方をも誅するつもりなのだと思います」



 ★★★



 ぐぬ、と克が呻いた。

 全く分からないよりは幾分まし(・・)、程度なのだろうが、一応、無理矢理納得したものらしい。

「……では、それは、4人目の敵は――誰だ?」

 克の言葉が、重く響く。


「11年前の流行を知る得ており更には虚海様の技を熟知し、且つ祭国に居られる事をも承知の上、そして先のお三方と繋がりのある方、となればごく限られております」

 私もまだはっきりとは断定できませんが、と前置いて、真は自身の左手の平にある人物の名を記した。

 げっ!? と克が目を剥く。

 流石の芙も、息を止めた。

「いやしかし、だ。この方は既に表舞台に立てぬ立場で……」

 言いかけた克に、しっ、と真が鋭く咎める。

 芙が周囲を探り、無言のまま危機はない、と目配せすると自分の迂闊さに克は小さくなった。三人は額を付き合わせる形でボソボソと話し合う。


「だが……俺には俄かに信じられんよ、真殿」

「俺もだ。どう繋がるというのだ?」

「戰様がお倒れになられては困る立場の方では、成る程、ありません。虚海様とも何処でどのような接点があるのかも、推察の域を出ませんので其処は確かめてからでないと私も確たるとは」

「……う、ぬ……」

「ですが、一番考え易く。この御方の立場に即してみてはどうでしょうか?」

「と、言うと?」

「この御方は、本来あるべき立場も何もかもを己の意図に反して手放さねばならなかった。だからこそ戰様に、己の手の及ばざる定めたる処からの不遇と鬱憤鬱積を、晴らして欲しいと願っておられるのだと」

「それは、つまり――」


「そうつまり。戰様にたって頂きたいのでしょう。禍国の皇帝として頂点に立ち、皇太子殿下と二位の君を追い落として欲しいと願っておられる」


 真の指摘に、克も芙も、言葉がでない。

 長い沈黙が、三人を包んだ。


「だが、証明する手立てがない」

「はい。ですから、全ては禍国に戻ってからとなります。勿論、私の見たて違いも有り得ます。ですが、戰様を取り巻く状況はより深く厳しいものとなったのだ、という事を肝に銘じていて頂きたいのです」


 早馬を禍国に送り、ときに命じて、先んじて探っておくように頼まねばなりません、という真の言葉を克は何処か上の空の顔つきで聞いていた。


 

 ★★★



 真の答えに腕を組んだ克は長く沈黙していたが、白目になりながらやっと、うぬぬ、と呻いた。

「……真殿。正直な話、俺はどうしたらよい?」

「正直に申し上げれば、この大火があったとて禍国への帰国を遅らせる訳には参りません。いえ、相手の出鼻を挫く為にも逆に早めねばならないでしょう。克殿には、是非とも戰様と共に禍国に戻って頂きたいのです」

「……わかった。俺も皆も、傷の手当てをするのが先決、という事だな」

 やっと笑顔を作ると、克は立ち上がった。

 外から、明るい娘の声がする。

 珊のものだ。


「俺も、皆も、出来るだけ万全の体調で乗り込まんとな」

 頬の一番高い位置に笑い笑窪を作りながら、手当を受けてくる、と克は下がっていく。

 俺は、と言いたげに、じ、と見据えてくる芙に、真は小さく頭を下げる。


「私はこんな身体ですので、動こうにも思うに任せません。芙にも同じく禍国に行って貰いたいたいのですが、差し当たっては戰様と学様、そして蔦と杢殿にこの動きを伝えて欲しいのです」

「……分かった」


 夜の帳が降り始めた外気に紛れて、芙は姿を消していた。



 ★★★



 克が診察室に入ると、珊がいっそ喧しく感じる程、元気に動き回っていた。

「あ、克ぅ! いい処に来たよ。こっちこっち! あんたも診てあげるから、早くこっちに来な!」

「……あんた(・・・)って、お前なあ……」

「何よ? あんただってあたいの事、お前(・・)なんて呼んでるじゃない? おあいこ(・・・・)だよぅ~・だ!」

 相変わらず、どころか何時もよりも開けっぴろげな物言いに鼻白む克に向けて、珊は、い~! と白い歯を見せてくる。其処彼処で、威勢の良い珊に味方し克を揶揄する野次が飛ぶ。

「畜生、全くお前ら、俺をなんだと思ってやがるんだ」

「え? そりゃ隊長と思ってるに決まってますって」

「だな、俺らの立派な隊長殿」

「そうそう、そうっす! よっ! 隊長様!」

「……お前らなあ」

 にやにやしてくる仲間たちにまだぶつぶつ言いながらも、ほら、こっち来て! と珊に腕を組んでぐ、と引っ張らられば、こんな時だというのにドギマギとしてしまう。

 肘の先に、まるでつきたての餅のように柔らかな感触を感じてしまったからだ。


 ――全く、危機感というか、恥ずかしいとか云う気持ちってもんがないのか……。

 呆れながらも、肘に感じるぷにぷにとした柔らかな弾力の魅力は、実に抗い難い。

 ぐいぐいと引っ張られるままに連れて行かれ、肩を掴まれたかと思うと、どすん、と座らされた。

「さ、傷の手当てするから、じっとしててよ?」

「お、おぅ、頼む……」

 わあ、きったないの! と大袈裟に騒ぎながら、珊は克の頭に巻かれていた包帯を外しにかかった。実際、相当に汚い。水を被った上に構わず散々に暴れ回ったせいで、煤だの土埃だの砂利だのがこびり着いて真っ黒になっている。


「あぁ、あぁ、本当ほんっとにもう……」

 ぶつぶつ言いながら、珊は汚れた包帯を手際よく外していく。手伝って呉れている仲間の娘に汚れ物を渡すと、予め用意してあったたらいの湯に晒を浸した。

「滲みて痛んでも、我慢しなよ?」

「お、おぅ……」

 珊は慣れた手つきで、適度に絞った晒で、傷口付近の黒ずんだ汚れを拭いとっていく。

 温かい湯で柔らかく湿らせてはいるものの、瘡蓋になりかけた傷口には相当に滲みる。しかも、痛みを堪える為に、胡坐をかいて膝の上に手を置いて前のめり気味の姿勢で仏頂面をしている克に、仲間の容赦ないひそひそとした声と笑い声が降り注ぐ。


 ――畜生! こいつら! 治療が終わったら覚えてやがれ!

 しかし、今の克は、痛みよりも堪えているものがあった。

 西宮での治療の際には正面から対してだった為、珊の豊かな双丘が目の前ふるふると上下左右に揺れる様を見せつけられて大いに楽しんで……いや目のやり場に困ったものだが。


 ――さ、さん、珊! た、頼む! 頼むからもう少し気を使ってくれ!

 今度は背中側から伸し掛るように珊は治療してくるのだ。

「ちょっと、背筋伸ばしなよう。痛いからって逃げの姿勢とられたら治療できないでしょ?」

「お、おぉぅ……」

 情けない返事しないの、と呆れ口調で更に珊は身体を密着させてくる。


 ――いや、この姿勢をとらせるお前が悪い!

 と叫べたらどんなに気が楽だろうか。

 眠ってしまって張りのない身体であった時のそれとは違い、真面にぶつかってくる珊の丸く温かな双丘が遠慮会釈なくぐいぐいと押し付けられてくるのだ。男として、興奮して股間が反応せぬ方がどうかしているというものだが、今ここで其れを披露する訳にはいかない。この2年、千騎の仲間を引っ張ってきた自分の沽券に関わる、負けるものか、と克は歯を食いしばって耐える。


 ――断じてならん!

 必死で自分の中の『』が覚醒せぬようにと、ぎりぎりの孤軍奮闘の攻防戦を続ける克の目の前で、部下たちはワイワイと『いつ隊長の我慢の限界が来るか』という賭け(・・)に興じ始めていた。



 ★★★



 戰がやっと産屋に戻ると、賑やかな声が周囲に満ちていた。

 此れは、と目を見張る。


 産屋の前には篝火が焚かれており、其処では泉から戻ってきた者たちに食事が振舞われていたのだ。

 しかも。

 兵仗も、殿侍も、舎人も。

 禰宜ねぎほうりも、おかんなぎめかんなぎ

 流石に酒が振舞われるまではいかなかったが、身分に関係なくあつものと握飯を手に笑い合っているではないか。

 間で走り回る女童めのわらわがお代わりが欲しい方はいらっしゃいませんか? と高い声で嬉しげに叫んでいる。


「陛下」

 戰に気が付いた杢が、蔦と共に寄って来た。

 一斉に、全ての顔が戰の方に振り返る。

「お疲れ様に御座いました。よくぞ、この艱難をものともせず、乗り越えられました」

 蔦が最礼拝を捧げる。珍しく、涙声だ。そんな震える蔦の肩に戰は、笑顔を作りながら手を置いた。

「私だけの力ではないよ、蔦」

「陛下……」

 蔦の隣で矢張最礼拝を捧げるの広い背中も微かに震えている。戰が杢の背中を一撫ですると、びくり、と跳ねた。

「杢も、怪我を押してよくやってくれた。身体は、大事ないか?」

「はい……はい、陛下」

 お気遣い勿体無く、と言いかける杢の手を取ると、戰は胸を張った。

 そして、堂々と宣言する。


「杢も蔦も、皆も。ご苦労だった。よく、務め上げて呉れた。無事に火を消し止める事が出来たのは、皆のお陰だ。改めて、礼を言わせて欲しい。皆、有難う」


 戰の言葉に、歓声が上がる。

 どの顔にも疲労の色がありありと浮かんでいる。 

 しかしそれ以上に、充足感と達成感に満ちている。

 そして、祭国と禍国からの入植組であった彼らの間にあった見えぬ垣根が、崩されていた。


 確かに、伝統ある鴻臚館も王城の一部、庭園すら大火は奪っていった。

 ――だが炎は、私たちから奪うばかりではなかった。

 うん、と嬉しそうに頷きつつ、戰は椿姫と我が子の姿を探し求めた。

「妃殿下と皇子様は、お部屋にてお待ちで御座いまする」

 蔦がやんわりと伝えつつ、歓呼の中、戰を産屋へと導き入れる。確かにこのまま放っておいたら、彼らに応え続けねばならず、いつまでたっても産屋に入れないだろう。


 ふと、産屋の戸口に手をかけた戰が後ろを振り返った。

 散々、仕来りがどうだこうだと喧しく啄いて来ていた禰宜が殿侍たちと、羹が胃に沁みる、美味い美味い、と笑い声を上げていた。



 ★★★



 部屋に入ると、しゅんを抱いて椿姫が子守唄を歌っていた。

 ゆら、ゆら、と身体を揺らして母親のかいなの内であやされている我が子は、どうだ、と言わんばかりに満足気に頬をつやつやと照からせて寝入っている。

 思わず、こいつめ、と笑みと共に小さく零すと椿姫が振り返った。


「戰、お帰りなさい」

「……ああ、椿、帰ったよ……」

 何方からともなく寝台に腰を降ろすと、戰は星ごと椿姫を抱き寄せた。

 お疲れ様、と続けられ、矢張、ああ、と答える。

「椿も……疲れたろう?」

「……」


 椿姫は目蓋を閉じて、戰の広い胸に額を預けてくる。

 疲れないはずがなかった。

 あのような形で父を失い、そして自国の拠り所である王城内での災厄。

 これら全ては、たった一日のうちに起こったのだ。

 男の自分でさえ、強い疲労を感じている。

 子を産んでまだ1ヶ月の彼女は身も心も困憊こんばいしきって当然だった。

 それなのに、自分の腕の中の彼女は国王の長姉あねとしての責務を果たしたばかりか、妃として微笑み母として我が子を慈しんでくれている。


「星は私がみていよう。少し、横になるといい」

「……そうね」

 戰の勧めに、遠慮がちに微笑みを返すと椿姫は機嫌よく愛想のいい息子を良人おっとの手に託す。戰がゆっくりと横たえさせると、有難う、と目を細め、腕に抱く星の頬を啄いては声を出して笑う。

 ――男は、母となった女人には、到底敵わないのだな……。

 殆ど命と引き換えに近い出産であったのに、どうしてこうも穏やかに赤子を見詰めて微笑んでいられるのか。


 生命と引き換え。

 自分がこの世に出てこられたのは、まさに母親である麗美人の生命を踏み台とし、喰らったからこそだ。

 ――母も、こんなふうに私をみて笑ってくれたのだろう。

 以前は疑問符だったが、今なら、確信を持って言える。

 母も、椿姫と同じく自分を慈しみので愛でて微笑んでくれた筈だ。

 どんな苦難にも子を想う母親というものは、途中打ち拉がれて儚くなりかけようとも、その度に心を強くし立ち向かい、乗り越えていくものだと、まだ少女の身の上の妃は教えてくれた。

 

 ――誰にも愛されぬ生命せいなどあるものか。

 強い愛なくして、人はこの世に出てこられぬ。


 うつらうつらしかけた息子は、本格的に寝入る前なのだろう。腕に抱いて星を間にし、戰も椿姫と共に横になる。

「……椿」

「なあに?」

「星が乳を欲しがって泣くまでの間、私が抱いてみている。少し、ちゃんと眠るといい」

 くす、と小さく揶揄する笑い声が漏れる。

 以前、見ているといいながら先に寝入ってしまった前例があるのに? と問いかけた椿姫の蕾のような唇が、汗と埃で汚れた戰の無骨なそれが禦ぐ。


「今度は大丈夫だ。椿と、星の寝顔を見ていたいからね」

「……そう?」

 言いながら、息子の体温の高さに椿も眠気を誘われ始めているのか、声がか細いものになっていく。緩やかな睡魔に襲われつつも、椿姫は、星を抱く戰の手に指を絡ませた。


「……ねえ、戰……」

「何だい?」

「あなたに……話したいことが……いいえ…………話さなくてはいけないことが……ある……の……」

「そうか」

「とても……とても大切な、ことなの……だから……」

「……そうか」


 でも、今はお休み、椿……、と戰が椿の目蓋を撫でると、そのまま、吸い込まれるように母子おやこは眠りの淵へと誘われて行った。



 ★★★



 ぼそぼそと誰かが必死で頼み事をしている声で、椿姫は目が覚めた。

 そ、っと目蓋を開けてみる。視線の先には、ぐずっている星をあやそうとあれこれ試みている戰の不器用な後ろ姿があった。


「……戰」

 小声で声を掛けると、振り向いた戰は明白あからさまにほっと安堵の色を濃くしている。

「星、起きたのね」

「ああ、ちょっと前にね」

 嘘なのはこれまた明白だった。

 戰は鼻の頭に光の粒を幾つも浮かせているし、星も全身がしっとりと汗ばんでいる。やっと気持ちよく寝入った椿姫を、少しでも休ませてやろう、と戰が慣れないながらも大きな身体を小さな我が子に振り回されつつ孤軍奮戦していたのかと思うと、可笑しくて仕方が無い。


 腕を差し伸べると、父親も息子も、両方とも別の意味合いでほっとした顔つきになった。尖らせた唇の先に泡を飛ばして父親の不器用さを訴えながら、星は母親の胸に戻ってきた。

「お腹すいたのね……はい……」

 衿を寛げると、星は頭突きをせんとばかりに胸に顔を埋めて来た。

 涙を浮かべてむしゃぶりついている我が子に、やれやれ、と戰は肩を落とす。

「どうにも……矢張、父親がどんなに必死になったとしても、母親の足元にも及ばないのだな」

 しょんぼりと小さくなる戰の背中を、椿姫は笑いながら撫でた。

「そんな事ないわ。今に首が据わって腰が落ち着いて、動いて遊べるようになれば、父親こそ必要になるのよ? そんなの、あっという間よ?」

「……そうだろうか?」

 戰の言葉を全く無視して、椿姫に抱かれて幸せの骨頂を味わっている息子を見ると、とてもそうは思われない。

 もう、拗ねないで、と笑う椿姫に、うむ、と戰は神妙な顔つきで頷いた。


 生きる為の作業に、実に実直に勤勉に取り組む息子の様子を、暫し二人で見詰める。やがて満足がいってしまうと、ふむふむ、と大儀そうに鼻息をつく。そして星はあっさりと眠りについた。

「飲んで寝て、飲んで寝て、だな」

「仕方が無いわ。今日はこの騒ぎで星も落ち着いていられなかったのですもの」

「……そうかい?」

 話に聞く星は、椿姫の腕のなかで大物ぶって抱かれていたというが、と疑う戰を椿姫は笑う。

「そうね。でも赤ちゃんでそんなに大物だったら、貴方を追い抜くなんてきっと直ぐね」

「――そうだと嬉しいが」

 柔らかい前髪に守られた我が子の額を、戰は撫でた。

 今しがた満腹になったばかりの息子は、自分そっくりな寝顔をしている。


 ――この子が、自分よりも大きくなる瞬間とはどんなものなのだろうか?

 笑いがこみ上げてくる。

 父親とは、こんな頑是無い嬰児にまで、何と何処まで貪欲に子に希望と夢を託すのか。愚かしいと思いつつも、真の父・兵部尚書である優が、娃の誕生の後に壊れたような様を見せて右往左往していたのを思い出せば、納得せざるを得ない。


 自らの手の上に椿姫の白い指先がかかるのを見て、やっと戰は息子に夢中になっていた自分に気がついた。

 苦笑しつつ、なんだい? と椿姫に視線を向ける。

 だが、其処には、予想に反して笑顔でなく悲痛な決意に満ちた愛しい妃の青白い顔ばせがあった。


「戰、聞いて欲しい事があるの」

 途中で嘴を挟まれでもしたらその決意が折れてしまうと思っているのだろう。

 戰にしな垂れかかるようにして耳元に手を当てがい唇を寄せた椿姫は、一息吸い込むと全てを話した。


 ――星の胤は、戰のものではない、と父王は誰かの入れ知恵により疑っていたのだ、と――

 一言、一言。


 口にする度に慷慨さが増していく椿姫と比例して、戰の顔ばせは忿怒の表情が濃くなっていく。


「……話せないで、いて……ごめん……なさい……」

 全て話終えた椿姫が、はらはらと涙を流していなければ戰は西宮に眠る義父の遺体にすら剣の一閃を与えていたかもしれない。

 戰は肩から腕を回して、ぐ、と力を込めて椿姫を抱きしめた。

「もう泣くな、椿。お前が悪いわけではない」

 義父、後主・順が悪いわけではない、とは言えない戰だったが、椿姫にはそれで充分救いになったらしい。

 わっ、と声を上げて戰の胸にしがみつく。


「御免なさい、御免なさい、戰……」

「いいさ。誰だって、己の家族は最早、伴侶とその子だ、目の前の幸せを与えてくれた父母は家族ではない、父と母、それだけだ、と言われて納得しておけるものではないよ」

「……でも……」

 涙に濡れた頬を両の手で包むようにしながら、戰は椿姫の顔を上向かせた。

「私は、そんな迷い多い、気持ちの豊かな椿こそが、好きなんだ」

「……戰……」


 やっと胸の内のつかえを吐露しきった椿姫は、戰の肩に額を押し付けるようにして泣きじゃくった。



 ――椿。

 お前の耳にこんな悍ましい言葉を吹き込んと糸を引く輩は、何処の何奴だ?


 赤子のように泣きに泣く椿姫をあやす(・・・)ように抱きながら、戰は視線を遥か禍国へと向けていた。




※ 傷病名は以下の通りに 


疱瘡ほうそう = 天然痘

熱咳逆ねつがいぎゃく = 咳逆とも インフルエンザ 

虚労きょろう = 労咳とも 肺結核

おこり = 三日熱とも マラリアであるとも言われますが熱病的に捉えてください

傷寒しょうかん = 疫癘えきれい時疫じえきとも 腸チフス

うん = 温疫とも 猩紅熱などの発疹性熱病全般

大頭瘟だいずおん = おたふく風邪


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